フィレンツェだより番外篇
2013年3月22日



 




アッピア街道(アッピウス街道)
ローマ



§ローマ再訪 - その1 ティツィアーノ展 

3月11日は,東日本大震災で亡くなった両親の命日だし,故郷,陸前高田でも重要な行事があったであろう.父母の3回忌法要を2月24日に菩提寺で行い,気持ちに,完全にはつくはずもない区切りを一応はつけたので,当初の予定通り,この日,ローマに向けて旅立った.


 授業が終わっても,校務が怒濤のように押し寄せて来て,体調を崩し,スロープや階段を登るのに何度もへたり込む程であったが,家族の配慮と医者の助言で,出発の日には完調ではないが,まずまずの状態に戻っていた.

 父は未だに行方不明のままだし,友人,知人でも遺体,遺骨が発見されていないケースが少なくない.家郷の町は復興には程遠く,仮設住宅暮らしの親族もいる.心が痛み,途方に暮れずにはいられない状況ではあるが,一方で,今,現在を,職業人として(これは,実に幸運なことだが)忙しく暮らす自分と,手を取り合って懸命に生きる家族には,やはり,休息と生きる喜びが必要だ.

 3月11日を意図して選んだわけではなく,この期間しか,まとまった休みを取ることができず,その起点が偶然にも3・11であった.



 これも,全く予期しなかったことだが,ローマ教皇(法王)ベネディクト16世が退位し,新教皇を選ぶコンクラーヴェが12日から始まった.宿のTVで見ただけだが,13日の7時6分にシスティーナ礼拝堂の屋根の煙突から白煙が上がるの見,その後,新教皇フランチェスコ1世の挨拶も聞くと言う同時体験をした.

 新教皇を紹介する枢機卿は,「アベムス・パパム・フランチェスコ」(私たちは教皇としてフランチェスコを戴いている)とラテン語で告げた.古典ラテン語の原則に固執すれば,「ハベームス・パパム・フランキスクム」となるはずだが,ラテン語のフランキスクスではなく,イタリア語のフランチェスコという呼称を使い,当然ながら格変化のない固有名詞にしたのは,12世紀末から13世紀初頭を生き,清貧を重んじたイタリアの聖人アッシジのフランチェスコへの,新教皇の強い思い入れがあったからだろう.

 ホルヘ・マリオ・ベルゴリオというスペイン語名を持つアルゼンチン人なので,フランシスコというスペイン語式発音でも良いわけだが,新教皇の挨拶も「フラテッリ・エ・ソレッリ,ブォナ・セーラ」(兄弟,姉妹の皆さん,こんばんわ)と言うイタリア語で始まった.

 父がイタリアからの移民,母もイタリア系移民の子だからではなく,教皇は同時にローマ司教と言うイタリア人を司牧する立場にあり,目の前にいる群衆の多くは,イタリア人だからだろう.ドイツ人である前教皇も,ポーランド人である前々教皇も挨拶はイタリア語だった(と記憶するが,確認していない).

 この後,スペイン語訛りのラテン語で宣誓をし,イタリア語で主の祈りとアヴェ・マリアを群衆と共に唱えた,と私は理解したが,思い込みかも知れない.選出当日は英語ウィキペディアが詳しい情報を提供してくれたが,今は日本語ウィキペディア(「フランチェスコ1世」)が,なぜ「フランシスコ」と表記するかも含めて,大変詳しい情報を提供してくれている.



 今回も旅行会社が企画したツァーのお世話になった.旅程は以下の通りであった.

 11日 成田発 ローマ着 
 12日 サン・コジマート広場→サンタ・チェチーリア・イン・トラステヴェレ聖堂→サンタ・マリーア・イン・トラステヴェレ聖堂→国立コルシーニ宮殿美術館→スパーダ宮殿
 13日 パラティーノの丘→アウグストゥスの家(雨で危険なので見学中止)→(その代わりに)パラティーノ博物館→カラカラ浴場→ドミネ・クォ・ヴァディス教会→アッピア街道
 14日 自由行動
 15日 サンタンドレーア・アル・クィリナーレ教会→チェンティーニ・トーニ宮殿(外観のみ)→サン・カルロ・アッレ・クァットロ・フォンターネ教会→マッシモ宮殿国立考古学博物館→カジーノ・ルドヴィージ→・サンタ・トリニタ・デイ・モンティ教会
 16日 コロンナ宮殿→ドーリア・パンフィーリ宮殿→サンティニャツィオ聖堂→郊外の音楽ホールでサンタ・チェチーリア管弦楽団のコンサート
 17日  ローマ発 18日成田着


 12日も最後に自由時間が少しあり,行きたいところもあったが,体力の回復が十分ではなかったので自重した.13日も同様で,この日は夕食もとらずに宿に帰って寝た.

 14日の自由行動の日は,ピンチアーナ門の近くの宿から,城壁沿いに歩いて,ミケランジェロの意匠によるというピア門を見学し,門をくぐって,さらに地下鉄B線のカストロ・プレトリオ駅まで歩き,ボローニャ駅で枝分かれする新線のコンカ・ドーロ行きに乗った(このルートの地下鉄部分は若い友人のF氏の教示による).

 サンタニェーゼ・アンニバリアーノ駅で地下鉄を降りて,後陣モザイクとカタコンベのあるサンタニェーゼ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂,古代末期のモザイク装飾が素晴らしいコスタンツァ霊廟(宗教行事や結婚式が行われ,祭壇があるのでサンタ・コスタンツァ教会と通称されることもある)を拝観した.

 それから,地下鉄でテルミニ駅まで戻り,共和国広場近くのローマ三越に寄ってから,クィリナーレ宮殿(大統領官邸)の広場を挟んだ向かい側にある旧「馬小屋」で開催されている「ティツィアーノ展」を見学し,コルソ通りに出て,同名の広場にあるサン・ロレンツォ・イン・ルチーナ教会,コルソ通りに戻って,サンティ・アンブロージョ・エ・カルロ・アル・コルソ教会を拝観,テヴェレ川に向って,アウグストゥス霊廟を横目に,川沿いの「平和の祭壇」博物館を見学し,リペッタ通りを挟んだ向かい側のサン・ロッコ教会を拝観して,キージ・ルォーゴのバス停からバスに乗って宿に戻った.

 15日は,宿に帰る前の自由時間に,スパーニャ駅からフラミニオ駅まで地下鉄で行き,サンタ・マリーア・デル・ポポロ聖堂の3度目の拝観を果たした.

 16日の観光と音楽会の間の自由時間に,バルベリーニ駅からテルミニ駅まで地下鉄で行って,「ディオクレティアヌス浴場跡」国立考古学博物館を見学したが,隣のサンタ・マリーア・デリ・アンジェリ教会の再訪は時間が足りず,果たせなかった.



 ツァーに含まれる見学と,自由時間に行った観光を総合して見ると,今回の旅行のテーマとしては,次のように整理されるかも知れない.

 1.古代遺跡と,その出土品を展示した博物館
 2.教皇や枢機卿を輩出した貴族の宮殿とその美術コレクション
 3.古代と中世のモザイク
 4.絵画と建築を中心とするバロック芸術

 いずれも相互に重なる部分があるので,別の整理の仕方があるかも知れないが,これらの主題を意識しながら,宮殿・美術館篇,教会篇,古代遺跡・博物館篇の3本立てで報告をまとめたい.

 今回,行く前に予習に使った本は,主として,

 『地球の歩き方 '12〜'13』(改訂第18版第1刷)ダイヤモンド・ビッグ社,2012(以下,単に『地球の歩き方』)
 『望遠郷9 ローマ』京都:同朋社,1995(以下,『望遠郷』)

の2冊である.前者が観光中心の案内書で,情報が新しく便利であるのに対して,後者は古い本だが,フランスのガリマール社から出たガイドブックの,日本風にアレンジを加えた翻訳で,情報はマニアックで大変有益だ.親本の各国語版は改訂新版が出続けているけれども,日本語版はもはや新刊では入手できない本(私もインターネットの「日本の古本屋」で買った)だが,今後とも,日本語で古代から現代まで鳥瞰したローマ案内書として意味を持ち続けると思う.

 『望遠郷』は重いので持って行かなかったが,『地球の歩き方』は携行した.


ティツィアーノ展
 宮殿・美術館篇に先立って,「ティツィアーノ展」の感想を述べるところから,今回の羊頭狗肉「フィレンツェだより」を始めたい.

 そもそも,「ティツィアーノ展」が私たちのローマ滞在と同時期に開催されることを知ったのは,日本で旅に備えて情報を集め始めた時だった.ところが,その後,自宅の引っ越し,研究室の引っ越し,急遽引き受けざるを得なかった新しい校務,さらに,授業,成績,入試,翻訳等の出版の仕事など,職業人として当たり前のことではあるが,様々な仕事で多忙な時を過ごしている間に,ウェブ上に残っていた過去情報を見て,同じ会場で昨年行われた「ティントレット展」が見られるものと勘違いしてしまった.

 ティントレットの予習はある程度できたところで,出発直前に「ティツィアーノ展」であることにようやく気付いたが,時間に余裕がなく,ティツィアーノの予習は断念した.ただ,前以て特別展のHPだけは見ていたので,展示される主要作品だけは確認していた.その中で,最も興味があったのが,アドリア海沿岸のマルケ州の港町アンコーナの市立博物・美術館所蔵の2点の祭壇画だ.

 「栄光の聖母子と聖人たちと寄進者」(聖人はフランチェスコとブラシウス)(1520年)
 「キリスト磔刑」(1157-58年)

である.特別展の例にならって,今回写真は撮れなかったが,図録,

 Giovanni Carlo Federico Villa, ed., Tiziano, CiniselloBalsamo, Milano: Silvana Eiditoriale, 2013

を定価34ユーロのところ,特別展価格29ユーロで購入できたので,掲載写真で絵柄などは思い起こせる.ただし,展示されていなかった参考作品もカラー写真が掲載され,番号が付されているので,あるいはその場では見なかった作品も見たように思ってしまう危険はあるので注意が必要だ(もっとも,非展示作品は現所蔵先が示されるのみで,出所や参考文献は示されていないので,よく見れば区別がつく).

 前者はかつてアンコーナのサン・フランチェスコ・アド・アルト教会にあったもので,寄進者はアルヴィーゼ・ゴッツィとあるので,アルヴィーゼという名はヴェネツィア人に多い名前であろうから,あるいはアンコーナがアドリア海を制覇したヴェネツィアの影響下にあったことを示しているかも知れない.構図は違うが,華やかな色彩の祭壇画と言う意味では同じフランチェスコ会の教会である,ヴェネツィアのサンタ・マリーア・グローリオーサ・デイ・フラーリ教会の「ペーザロ家の祭壇画」を連想させる.

ティツィアーノ
「ペーザロ家の祭壇画」
サンタ・マリーア・グローリオーサ
・デイ・フラーリ聖堂,ヴェネツィア
(2008年1月堂内で撮影)


 後者は聖ドメニコが柱にしがみついていることからも推測されるように,アンコーナのサン・ドメニコ教会の中央祭壇画であったようだ.聖母が老婆のようであり,華奢な美青年に描かれることが多いように思われる福音史家ヨハネが,髭を生やした中年のたくましい男性のようで目を引く.あるいはギリシア哲学者のようにも見え,いずれにせよ個性的だ.

 現地では見た記憶がないエル・エスコリアル所蔵の「キリスト磔刑」(1555-57年)も来ていたが,世界の広い地域に君臨したフェリペ2世から多額の謝礼をもらったであろうエル・エスコリアルの作品と比べてみても,それぞれに個性があって,地方の中規模都市の修道会教会の祭壇画も決して見劣りしない.天才の矜持なのか,誠意の現れなのかはともかく,ティツィアーノという画家の性格の一端が垣間見えるような気がした.

 アンコーナの2つの絵は,30数年の製作年代差があり,画家が1490年に生まれて,1576年に亡くなったのだとすれば,前者は30歳頃で伸び盛り,後者は晩年と言うほどではなくても,60代後半の老成した時期の作品ということになる.

 2008年にヴェネツィアのアカデミア美術館で一度「ティツィアーノ展」を見ており,その際,もともとアカデミア美術館所蔵の,最晩年の未完作品「ピエタ」を鑑賞できたので,華やかな色彩の初期から中期の作品に対して,晩年に近いほど,黒っぽいモワモワした絵が多いような印象を持っているが,アンコーナの2つの作品を比べて,そのイメージが確認されたように思われる.



 入場してすぐの部屋に展示してあった,巨大な祭壇画「聖ラウレンティウスの殉教」は見事な作品だった.ヴェネツィアのイエズス会の教会であるサンタ・マリーア・アッスンタ教会(通称イ・ジェズイーティ)のロレンツォ・ペッツァーナ礼拝堂にあるそうだ.寄進者の守護聖人だから描かれたのだろうか.この教会には伊語版ウィキペディアに拠れば,ティントレットの「聖母被昇天」(1555年)もあるらしいので,いつか拝観の栄に浴したい.

 「聖ラウレンティウスの殉教」は図録に拠れば,1547年から59年,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートに拠れば1557年から59年の間に描かれたとあるが,前者は随分幅のある年代設定で,後者の方が絵柄から見ても素人目には説得力があるように思える.しかし,私が立ち入ることのできる問題ではない.あくまでも,やはり,晩年に近い後期の作品ではないかとの印象があるだけである.

 ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートには,もうひとつ大きな「聖ラウレンティウスの殉教」(1567年)の写真がある.エル・エスコリアル所蔵の作品で,この宮殿はサン・ロレンソ修道院でもあるから,やはりラウレンティウスが描かれるにふさわしい場所ということになる.この絵も見事だと思うが,四角の柱に支えられたアーチを持つ古代建築物の前で聖人が火に炙られるエル・エスコリアルの絵よりも,コリント式の柱頭を持つ柱に支えられた神殿の前で殉教するイ・ジェズイーティの祭壇画の方が,実物を見て,その大きさを実感したので,今の所,良い絵のように思われる.

 エル・エスコリアルでは「スペインのティツィアーノ」ナバレーテの絵は複数見たが,ティツィアーノの絵を見た記憶がなく残念だ.



 数多い宗教画の中で,他に印象に残ったのが,

 「キリスト復活」(1542-44年)
 「キリストと良き盗人の磔刑」(1560-70年)

である.前者はウルビーノのマルケ州国立絵画館,後者はボローニャの国立絵画館の所蔵なので,どちらも現地で見ているはずだが,前者は明確に3度見た記憶がある(その時はいずれも,罰当たりなことにティツィアーノにしては頓狂な絵だなと思った)ものの,後者は見た記憶がない.「フィレンツェだより」の過去のページ(2008.1.13)を確認すると,ボローニャに行った時は,どこかの特別展に出張中だったようだ.図録で確認すると,ヴェネツィアの特別展では見ているようなので,その前のウィーンの特別展に巡回中だったのだろう.

 いずれにしても,どちらも,この特別展でじっくり見ることができて,傑作だと理解できたような気がする.中期と晩年の作品で,死ぬまで天才,巨匠であり続けた画家の凄味を感じさせる.

 2点の「受胎告知」も観られて良かった.ティントレットの絵で有名なヴェネツィアのサン・ロッコ同心会は1535年の作品で端正で美しく,ヴェネツィアのサン・サルヴァドル教会は後期から晩年の特徴を反映した作品に思われ,やはりティツィアーノと言う画家の人生を垣間見ることができるように思われた.

 他にも印象に残る作品もあり,今回は真価を理解できなかった作品もあるが,とてもティツィアーノの宗教画に関して,この特別展の展示作品に限っても,語り尽くすことはできないので,このくらいにする.



 宗教画だけではなく,肖像画,神話画も注目すべき作品が少なくない.ドーリア・パンフィーリ宮殿所蔵の「サロメ」(もしくはユディト),フィレンツェのパラティーナ美術館所蔵の「マグダラのマリア」は宗教画ではあるが,個性溢れる美しい女性を描いており,ヴェネツィアのアカデミア美術館所蔵の「洗礼者ヨハネ」も実在の人物のように見える.

 本当の肖像画では,ティツィアーノ自画像が2点,「画家ジュリオ・ロマーノの肖像」,少年を描いた「ラヌッチョ・ファルネーゼの肖像」,ティツィアーノの下絵を職人がモザイクにした「人文主義者ピエトロ・ベンボの肖像」は忘れられないし,男性,女性とも,どの肖像画も生き生きと個性的に描かれていて,服装もこれ以上ないほど精密に描かれているように思われる.

 最も忘れ難いのは「教皇パウルス3世の肖像」だ.同じ画家の「パウルス3世とその孫たち」に描かれた意地悪なくらい,老いた猿のように写実的に描かれた教皇よりも,少し若く,威厳を失っておらず,何よりも野心と活力に満ちた姿は,イエズス会を認可し,トリエント公会議を召集して,対抗宗教改革を進めた,ファルネーゼ家出身の教皇にふさわしい.

 この教皇の子孫(愛人が生んだ実子の子孫たち)がパルマ公爵となり,その家系出身の女性がスペイン王家に嫁ぎ,後にスペイン国王になるナポリ王が生まれたことから,このどちらの絵もナポリのカポディモンテ美術館に現在は所蔵されている.

 この2つの絵は,どちらも1545年,46年頃描かれており,この表情の違いは何なのか,図録の解説と,書架で眠っている

 ロベルト・ザッペリ,吉川登(訳)『ティツィアーノ【パウルス3世とその孫たち】 閥族主義と国家肖像画』三元社,1996

をよく読んで勉強してみよう.

 こじつければ,イエズス会出身の新教皇フランチェスコ1世も,パウルス3世が同会を認可しなければ生まれなかったことになり,フランシスコ・ザビエルも日本に来なかったかも知れない.宗教組織の構造で不思議に思うのは,イエズス会やオラトリオ会のように厳格な修道会が生まれ,それらを教皇が認可して,対抗宗教改革に利用しながら,一方で,教皇は係累を枢機卿や封建君主にして,その一族が今もローマに残る宮殿を建てるほど繁栄することだ.

 これは新教皇が貧しい人たちのことを忘れないようにと,清貧の聖者の名を自分の教皇名に選んだ精神と全く相反するように思われる.とは言え,過ぎ去った歴史のことであるから,事実は事実として受け止めなければいけないし,パウルス3世(アレッサンドロ・ファルネーゼ)が有能な人物であったこともまた事実であろう.

 神話画では,ナポリのカポディモンテ美術館の「黄金の雨を浴びるダナエ」が来ていた.よく似た絵がプラド美術館とエルミタージュ美術館にあり,後2者では傍にいるのが年老いた侍女であるのに,展示作品は傍らにいるのはエロス(キューピッド)であり,制作年代も他のものより10年早いので,これが「元々の作品」と言うことになるのだろうか.

 いずれにしても,神話を紹介する素材としては有名画家が描いた作品だから,魅力的だが,心打たれるかどうかは宗教画には遠く及ばない気がする.なお,似た絵はウィーン美術史美術館にもあり,カポディモンテの作品とともにヴェネツィアの特別展で見ていたようだ.

 ティツィアーノ「最後の完成作」として,「皮を剥がれるマルシュアス」が最後の部屋の最後のコーナーに展示されていた.この作品もヴェネツィアの特別展で見ていたようだ.

 Sylvia Ferino-Pagden, ed., Late Titian and the Sensuality of Painting, Venezia: Marsilio Edizione, 2007

は,ヴェネツィアの特別展の図録の英訳版で,会場では迷った末に日本に送る手間を考えて買わなかったが,後にアメリカのアマゾンの古本で買った.北本の茅屋に送ってもらったので,津波では流されなかった.

 それを見ると,今回の特別展と,後期,晩年の作品に関しては複数が重複している.しかし,ヴェネツィアで印象に残ったのは,ひたすら,未完の「ピエタ」だった.

ティツィアーノ
「荊冠のキリスト」
ルーヴル美術館
(2011年3月,美術館で撮影)


 そもそも,私はティツィアーノに,もっと言えばヴェネツィア派の画家たちにあまり魅力を感じていなかった.今までにイタリアその他で撮った膨大な写真をほぼ全て確認したが,写真を撮っていたティツィアーノの作品は,上掲の2点を含めわずか8点だった.

 しかし,私たちが,ヴェネツィア派が苦手というだけでは,ビッグネームの画家の写真を撮らなかった理由には不足だ.要するに,「王侯の画家,画家の王侯」であったティツィアーノの作品は,写真を撮らせてもらえるような美術館,宮殿,教会にはないということかも知れない.

 今回の特別展で,アンコーナの祭壇画その他を見たことによって,画家の王侯は地方教会の仕事でも,手を抜かなかったことが分かり,相性が悪いと思っていた巨匠に好感を抱いた.

 今まで,ティツィアーノ作品で,印象深かったのは,ヴェネツィアのサンタ・マリーア・グローリオーサ・デイ・フラーリ聖堂の「聖母被昇天」と,同じくヴェネツィアのアカデミア美術館の「ピエタ」だけだったが,今後は,この画家の作品を鑑賞するたびに,評価を深めていく可能性がある.

 プラド美術館所蔵の「キリスト埋葬」(1559年)はヴェネツィアの特別展でも,今回の特別展でも見ることができた.最後の作品「ピエタ」に比べて,青と赤の対比が鮮やかだが,場面の中に万感の思いと,無限の悲しみが込められていると言う意味で,両者には主題の連続が見られるように思える.

 「埋葬」では石棺の浮彫によって,「ピエタ」では神像と壁龕によって古代的な情景が形成され,神話画ではまだしっくり来ていないと少なくとも私には思われる,人文主義的古代憧憬が,後期から晩年の宗教画では見事に活かされているように感じられた.

 今回の特別展を見たことは,私にとっては大きな意味があったように思う.



 これで,5度目のローマ行だが,過去4回のうち3回,地下鉄でスリ被害に遭い,負け惜しみと照れ隠しと自戒を込めて「1勝3敗」と称していた.今回,慎重を期しながら敢えて地下鉄を複数回利用し,今のところ被害を確認していないので,「2勝3敗」と少し巻き返したものと信じている.

ツァーでご一緒させていただいた方のお一人が,フィウミチーノ空港で出国審査の後,「2勝3敗ですね」と言って下さった.


 軽いタイプのマックPCを購入したので,携行した.宿のwi-fiに簡単につながり,インターネットができて,その場でかなりの情報が得られるようになった.これは,生まれたときからインターネット文化の中にいる若い人たちとは違い,私には一つの成功体験であった.

 一方,結局は,短期に海外にいる場合でも,常に校務の一部を課され,ある程度は仕事をしなければいけなくなったということでもある.






海外で wi-fi を初体験
ホテル ヴィクトリア ローマ