§ローマ再訪 - その2 パラッツォ(1)
ザッペリ『ティツィアーノ【パウルス3世とその孫たち】 閥族主義と国家肖像画』(以下,ザッペリ)には,ティツィアーノがパウルス3世の肖像画をはじめ,ファルネーゼ家のために複数の絵を描いた経緯の記録上の根拠と,著者の推論が祖述されている. |
今回の特別展では見られなかった「パウルス3世とその孫たち」に描かれた2人の孫は,教皇と同名の枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼとパルマ公爵を継承したオッターヴィオであるが,特に前者がファルネーゼ家の威信を高めるために,ヴェネツィア共和国の「公認画家」であり,皇帝カール5世をも顧客としながら,時には依頼を断ることもあるほどの大物画家であるティツィアーノに,彼らの権勢と野心を示す「国家肖像画」(イル・リトラット・デル・スタート)を描いてもらおうと画策したらしい.
ティツィアーノがその将来を心配した息子のために大修道院に付随する聖職禄(ラテン語でベネフィキウムと言われ,宗教施設の財産や収入から一定割合の取り分を貰うことで,必ずしも聖職者でなくても,その権利が認められることがあった)の空手形を餌に,アレッサンドロ枢機卿は大芸術家を翻弄して複数の作品をファルネーゼ家のために描かせた.
その様子見のための手始めが,今回観ることできた「ラヌッチョ・ファルネーゼの肖像」だったし,カポディモンテ所蔵の「黄金の雨を浴びるダナエ」のような神話画も,枢機卿がリクエストしたものらしい.
ティツィアーノほどの大芸術家が不誠実な策士とその一族に翻弄され,失望と挫折感を味わった事実を知るのは悲しいことだが,それでも,少なくとも「パウルス3世の肖像」と「ラヌッチョ・ファルネーゼの肖像」は傑作だし,こうした芸術作品を産み出した歴史的背景は,事実として受け止めるべきであろう.今回,見ていない「パウルス3世とその孫たち」をめぐる人間ドラマと「国家肖像画」の意味については,是非,ザッペリの著書を熟読すべきだろう.
パラッツォと言うイタリア語は,パラティウムという名のローマの「七つの丘」の一つを語源としている.この名詞形容詞形がパラティーヌスで,モンス・パラティーヌスが「パラティウムの丘」を意味するラテン語であり,現在,日本語で「パラティーノの丘」と言われたりするのは,ラテン語の形容詞形のイタリア語読みである.
このパラティーノの丘に,古代ローマの有力者や皇帝たちが居館を建てて住んだことが,「宮殿」を意味する理由となる.フランス語のパレも,英語のパラス(パレス)も同語源である. |
フィレンツェでパラッツォと言う名称を持つ建物で,何らかの理由で入ることができたのでは,ヴェッキオ宮殿,ウフィッツィ(ウッフィーツィ)宮殿,ピッティ宮殿,ストロッツィ宮殿,メディチ・リッカルディ宮殿,ホーン宮殿,バルディーニ宮殿,ダヴァンツァーティ宮殿などで,多くの場合,美術館や博物館になっている.
この他に,建築史上,その他の点でユニークで見るべきものとされる幾つかのパラッツォを外観だけだが,見た.美術コレクションでも有名な,アルノ川沿いのコルシーニ宮殿も外から見ただけだ.フィレンツェのパラッツォは,確かにピッティ宮殿のような「宮殿」と言う訳語にふさわしいものもあるが,一般に「邸宅」と言う方がぴったり来るほど,絢爛豪華なイメージからは遠い.
最初にローマに行ったとき,日本で入手した日本語表記のローマ市街図を見たとき,「宮殿」が多いことに驚いたが,この時も,実際に町を歩いて実物を目にすると,「宮殿」というよりは,「邸宅」という訳語がふさわしいように思われた.
しかし,今回訪ねることができたパラッツォの中には,その豪華さから言っても,背負っている歴史や由来から言っても,「宮殿」としか言いようのないものもあった. |
少なくとも,コロンナ宮殿と再訪したドーリア・パンフィーリ宮殿がそうだ.今回は傍を通って,外観と庭を見ただけのバルベリーニ宮殿もそうであろう.これらの宮殿は有名な映画にも使われる程,豪華絢爛な部屋もあり,フィレンツェの多くのパラッツォとは一線を画している.
こうした豪華な「宮殿」の多くは,ルネサンス以降,教皇や枢機卿を輩出して,富と権力を手にした地方出身の家門のものだったものが多い.例外はオルシーニ家と並んで,中世以後のローマに名門として存在し続けたコロンナ家のコロンナ宮殿くらいであろう.コロンナ家とコロンナ宮殿に関しては,次回,言及する.
チェンティーニ・トーニ宮殿
1527年の「ローマ劫略」(サッコ・ディ・ローマ)で壊滅的打撃を蒙ったローマには,意外にルネサンス以前の建築は少ない.もちろん,近代に発掘されたり,中世にも教会として利用され続けた古代建築もあり,中世に栄えた教会,修道院の中庭付き回廊も少なくなく,わずかながらルネサンス建築(システィーナ礼拝堂など)もある.
現存する権門貴顕の豪邸はバロック以降のものが多く,その中にあって,やや地味な存在だが,今回外観だけを見学したチェンティーニ・トーニ宮殿はローマには残り少ないルネサンス風の建築として重要な意味を持っていると聞いた.
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写真:
チェンティーニ・トーニ宮殿
通りに面した壁面の装飾 |
この宮殿の情報は,今の所.英語版,伊語版のウィキペディアに見当たらず(たどって行くと,伊語版には以前はあったようだが,現在は著作権条項にひっかかるのか削除されたようだ),ウェブページの「モヌメンティ・ローマ」の1ページに写真付きの紹介があるのみだ.
これを見ると,この建物は1720年代にフランチェスコ・ローザの設計によってできたとあるので,とすれば,ルネサンス風であったとしても,年代的に「ルネサンス建築」ではあり得ない.
フィレンツェで見られるルネサンスの邸宅は一見すると簡素で,華美な装飾を排し,多くの場合,古代風の人柱(じんちゅう)装飾も見られない.三角屋根のついた窓の並ぶ階と,円の上方部の形をした屋根のついた窓の並ぶ階が混在する,幾何学的な均整のとれた建物が「ルネサンス建築」とのイメージが強い.その意味では,このチェンティーニ・トーニは装飾過剰な感じがするが,確かに均整は取れている.あるいは,バロックへの反動からのルネサンス憧憬の結果であろうか.
ここで設計者とされているフランチェスコ・ローザに関しては,同名のジェノヴァ出身の画家に関する情報はあるが,1680年代に亡くなっているので同一人物ではありえない.また,このページには注文主はトンマーゾ・マッテイとある.
マッテイ家と言えば,NHKの番組「極上 美の饗宴」で,カラヴァッジョの「キリスト捕縛」がダブリンで発見された時,かつてそれを所有していたチリアーコ・マッテイが属していた有力な家系として名前が登場していた.英語版ウィキペディアを参照すると,16世紀から19世紀までの300年近くの間に6人の枢機卿を輩出した家門である.ローマには,マッテイ宮殿という,カルロ・マデルノ設計によるバロック建築のパラッツォも現存する.
その系図の主たるメンバーの中にはトンマーゾという人物は見当たらないが.英語版のウィキペディアで同名の人物がヒットし,そこには,17世紀の建築家でカルロ・フォンターナ(伊語版ウィキペディアに作品リスト)の弟子とある.
カルロ・フォンターナは,教皇シクストゥス5世の信任を得て,バロック都市ローマを現出した有名なドメニコ・フォンターナとは同族の可能性のある(英語版ウィキペディア)別人で,ベルニーニが設計を手がけた,現在はイタリア共和国の下院議事堂として機能しているモンテチトーリオ宮殿を完成させ,コルソ通りのドーリア・パンフィーリ宮殿の向かい側にあるので,何度もその外観を見ているが,未拝観のサン・マルチェッロ・アル・コルソ教会などが代表作品とされる.
上記のページに出て来る,建築家の名前には情報がなく,注文主とされる人物と時代的に重なる建築家がいると言うことは,あるいはこの情報は逆である可能性が考えられるが,これ以上は立ち入らない.いずれにせよ,現地で説明された「ルネサンス建築」は場合によっては,「ルネサンス風」である可能性も否定できないが,正確ではなかったことになる.
内部見学した宮殿
今回,その美術コレクションなどを見るために,内部まで見学した「宮殿」は,
コルシーニ・アッラ・ルンガーラ宮殿(国立絵画館)(以下,コルシーニ宮)
スパーダ宮殿(美術館)(以下,スパーダ宮)
コロンナ宮殿(コロンナ美術館)(以下,コロンナ宮)
ドーリア・パンフィーリ宮殿(美術館)(以下,ドーリア・パンフィーリ宮)
で,例によって「絵画館」はピナコテーカ,「美術館」はガレリア(ガッレリーア)の訳語として用いている.このうち,内部と所蔵作品の写真を撮らせてもらえたのはコロンナ宮殿のみで,後は外観,中庭,通路の古代彫刻以外の写真撮影は厳禁であった.
もう一つ,「宮殿」ではないが,今回このために,このツァーに参加したと言っても過言でない,
カジーノ・ルドヴィージ(カジーノをカズィーノと表記すると,ルドヴィーズィと書かなければならなくなり,何か大人げないので,以下は思い切って日本風に「カジノ」と表記する)
を見学することができた.
フィレンツェで,ミケランジェロが買った邸宅は立派な建物で,パラッツォと称しても良いはずだが,カーザ・ブオナッローティと呼称され,現在は美術・博物館になっている.カーザは「家」と言う意味だが,カジノ(カズィーノ)はその縮小語で,小学館の『伊和中辞典』には「集会所,クラブ,遊戯室」とあり,こちらが日本で一般に知られているカジノの意味に近いが,2番目の項目に「(主に貴族の造った瀟洒な)狩猟小屋,釣り小屋」とあり,この場合,こちらの意味が近いだろう.
有名なボルゲーゼ美術館も,もとは別荘で,ボルゲーゼ宮殿は街中に別に存在する.
ルドヴィージ家からはグレゴリウス15世(ボローニャ出身のアレッサンドロ・ルドヴィージ,1621年就位),コルシーニ家からはクレメンス12世(フィレンツェ出身のロレンツォ・コルシーニ,1730年就位),コロンナ家からはマルティヌス5世(ローマの名門貴族出身のオッドーネ・コロンナ,1417年就位),パンフィーリ家からはイノケンティウス10世(グッビオ出身の家系にローマで出生したジョヴァンニ・バッティスタ・パンフィーリ,1644年に就位)と言う教皇が輩出し,スパーダ家はベルナルディーノ・スパーダを嚆矢として,計3人の枢機卿を出した.
どの家も,教皇や枢機卿を輩出しながら,家門が栄え,そこで得られた富と権力を用いて,邸宅を豪奢な宮殿とし,美術コレクションを形成した.これにフィレンツェ出身のメディチ家とバルベリーニ家,シエナ出身のキージ家,ボルゲーゼ家を加えると,ローマに現存する宮殿を残した家系としては,コロンナ家を例外として,地方出身で,教会を足がかりとして,ローマの名門貴族になっていったことがわかる.
スパーダ宮
スパーダ宮殿は,フランチェスコ・ボッロミーニの設計になる,だまし絵的な構築物「遠近法の間」(『地球の歩き方』の訳語)が有名で,これは今回の再訪で初めて見ることができた.
直接には写真撮影禁止だが,図書館のガラス越しには撮って良いと言うことなので,撮って来たが,これ自体への感動は少なかった.だまし絵的な構築物なら.サンタ・マリーア・プレッソ・サン・サティロ教会(ミラノ)の,ブラマンテが設計した遠近法的な錯覚を利用した後陣の方が魅力的に思えた.
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写真:
ボッロミーニ設計
「遠近法の間」
図書館のガラス越しに
撮影 |
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一方,2度目の美術館の方は,相変わらず充実したコレクションだと思った.その中でジェンティレスキ親娘の作品に再び心魅かれ,今回他でも,複数の作品が見られたグイド・レーニの「枢機卿ベルナルディーノ・スパーダの肖像」は,グエルチーノの同名作品と比べながら,個性の違いを感じることができた.両者とも見事な作品だが,レーニに方により魅力を感じた.
スパーダ家はラヴェンナ,ルドヴィージ家はボローニャ出身で,どちらもエミリア・ロマーニャの出身なので,この時代のローマ芸術は,レーニ,グエルチーノの他に,先達のカッラッチ一族,ジョヴァンニ・ランフランコ,ドメニキーノなど,ボローニャ周辺出身の画家たちが支えた.そのことには今後も言及せざるを得ないが,スパーダ家の繁栄を確かならしめた枢機卿の肖像画を描いたのがグイド・レーニとグエルチーノであったことは強調され,記憶されて良いだろう.
スパーダ美術館で,前回の見学と違った点は,ペルージャの画家フィオレンツォ・ディ・ロレンツォの作品だと思っていた「聖セバスティアヌスの殉教」が別の画家の作品としてフォーカスされていたこと(好きでなければ,それほどの作品とも思えないのに,これほどフォーカスされているのは新研究の成果なのであろう)と,あとは,前回見学した後に注目するようになった画家マッティア・プレーティの作品2点を確認できたことだ.
ただ.個人的には,同じマッティアの作品であれば,ドーリア・パンフィーリで見られる作品の方が見事だったように思えた.
ドーリア・パンフィーリ宮
ドーリア・パンフィーリ宮には,古代コレクションにも見事なものがある.特に石棺の浮彫には面白い物が見られたが,石棺の置かれている同じ大きな部屋(アルドブランディーニの間)に,前回来たときは別の部屋にあったカラヴァッジョの傑作「エジプト逃避行」と「洗礼者ヨハネ」が展示されていた.
後者に関しては,カピトリーニ美術・博物館の絵画館にある方が真作で,こちらはコピーとする説が有力だが,コピーなら,これほど優れたコピーを誰が描いたのだろうと思う.私はどちらにも感動し,これらがこの美術館の呼び物であるのは間違いないだろうと思った.
もう一つのカラヴァッジョ作品,「悔悟するマグダラのマリア」は修復中であったが,額を外して修復している姿をガラス越しに遠くから見せてくれていた.さらにその奥には,これも修復中のヴァザーリの「キリスト降架」があって,前回はそれほど感じなかったこの画家の力量を見直すこととなった.
アルドブランディーニの間には,フセペ・デ・リベーラの「聖ヒエロニュモス」,グエルチーノの「眠るエンデュミオン」もあり,それぞれ見事だった.
この宮殿の室内回廊部分に展示された多くの作品の中には,グエルチーノの作品が幾つもあり,アンニーバレ・カッラッチの作品(さすがに傑作)もあったように,やはり,ボローニャ周辺出身の画家の作品が多かった.さらにパルミジャニーノ(パルマ),ガロファロ(フェッラーラ)などエミリア・ロマーニャ出身の画家の高水準の作品も見られた.
パンフィーリ家出身の教皇イノケンティウス10世の,ベラスケスが描いた肖像画も見事だったが,同じ人物の,ベルニーニの大理石胸像は,見惚れるほど素晴らしい作品だった.ベラスケスの写実性にも理想化が施されているが,モデルの個性を超えた理想化を具現したベルニーニの作品は,真に傑作の名に値する.
カジノ・ルドヴィージ
コルシーニ宮での体験は次回,コロンナ宮と一緒に報告するが,ここでもカラヴァッジョの作品「洗礼者ヨハネ」が見られた.しかし,今回何と言っても,カラヴァッジョ鑑賞において,最大の成果はカジノ・ルドヴィージの天井壁画を見ることができたことだ.
私が探した限り,『地球の歩き方』にも『望遠郷』にも情報がないが,
宮下規久朗『カラヴァッジョ巡礼』新潮社,2010
「カジノ・ボンコンパーニ・ルドヴィージ」と言う表記で,この「別荘」に2ページを充て,紹介している(pp.40-41).そこには,見学には「要予約」とある.
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写真: カジノ・ルドヴィージ
外観 |
私は気がつかなかったが,「撮影禁止」の表示があったらしいのだが,ガイドさんが係員に確認したところ,「フラッシュなし」なら良いということだったので,私たちのツァー・メンバーだけでなく,イタリア人の観光客たちも交えて,大写真撮影会となった.したがって,この「別荘」に関しては,写真を外観,内部ともに紹介する.
宮下も言うように,カラヴァッジョ唯一の壁画でありながら,宮下に拠ればカラヴァッジョはフレスコ画を描けなかった(上掲書,p.29)ので,この絵は油彩で描かれている.
写真で見ると,天才が自己の画風の形成期に描いた駄作のように見えたが,さすがに,当時この「別荘」の所有者だった最初に保護者であるデル・モンテ枢機卿じきじきの依頼で描かれた作品だ.いかに本領ではないとは言え,実際に見せてもらうと,天才の迫力を見せつけられる作品のように思えた.
真の意味で神話画かどうかはともかく,カラヴァッジョにも神話画はあり,バッカスとかエロスを描いている.どちらも私は実物を見たことがあるが,それらにくらべれば,この壁画は数段優れているように思われた.
もし,サン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会の「聖マタイの殉教」で覗き込むように小さく描かれた男の顔がカラヴァッジョ自身の顔とすれば,少なくとも私には,ネプトゥヌス(ギリシア語ではポセイドン,イタリア語ではネットゥーノ)(トップの写真の左)の顔が,画家自身の顔に見える.
だから,画家が本気だったと言うのは乱暴な言いかただろうが,自分の才能を評価し,保護者になってくれた枢機卿の依頼で,天才が描いた絵だ.傑作でないはずはない.確かに,キアーロスクーロ(明暗対照)の,私たちがよく知っているカラヴァッジョ風の絵ではないが,まぎれもなく傑作だと私は信じる.
多くの人が,この天井画のある狭い部屋を離れ難かったようだ.私もいつまでもそこにいたかった.これからの人生,他にも見たいものがたくさんあるので,この天井画を見るのは,多分最初で最後だろうと思う.しかし,一度実物を長時間,鑑賞できたのだ.これからは,画集で見ても,決して駄作と思うことはないだろう.
3人の男がいかにも,天空にいるように描かれているが,それぞれアトリビュートの鷲,馬,ケルベロス(地獄の番犬)によって,ゼウス(ユピテル),ポセイドン(ネプトゥーヌス),ハデス(プルートーもしくはディース)と,ギリシア神話で世界を3分割した神でありことがわかる.彼らの支配領域は,天空(と地上),海,地下にある死者の世界であるから,それぞれが,大気,水,土の3元素を象徴しているとも言える.
間に黄道十二宮が描かれた天球があり,それにゼウスが手を掛けているので,下から天井を見上げると全てが天空の上にあるように見え,それでも,オリュンポス神族であるから,神々の宮殿に参集していると解釈できるが,あるいは,ゼウスのいる方が天で,他の2神がいる方が地であるかも知れない.
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写真:
両足の間から
手を伸ばすゼウス |
顔が半分覗いているだけで,随分無理な姿勢に見える角度のゼウスよりも,他の2神の方が顔がよくわかり,存在感がある.海と地下の神だから,「地に足がついている」というわけではないだろうが.
ただ,宮下に拠れば,やはりこの絵は「下から見上げた仰視法」で描かれ,マントヴァのテ宮殿(宮下はパラッツォ・デル・テと言っており,そのように言われることも少なくないが,パラッツォ・テが正しいと断言する人もいる)のジュリオ・ロマーノ(ラファエロの弟子)の天井画を研究した可能性を指摘している.
カラヴァッジョの絵は,日本風に言うと2階の小さな部屋にあるが,宮下が「最高傑作」と称賛するグエルチーノの天井壁画「アウロラ」が1階の広間(天井画と同じ「アウロラの間」と呼ばれている)にある.
アウロラ(アウローラ)はラテン語で「曙光」を意味し,「暁(曙)の女神」とされ,ギリシア神話のエーオースに対応する.ホメロスの叙事詩には「バラ色の指をした暁の女神」(ロドダクテュロス・エーオース)という枕詞的な形容詞(ギリシア語でエピテトン,英語でエピセットepithet)を付されて頻出する.「葡萄(酒)色の海」と並んで印象に残る句だ.
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写真:
アウロラ(部分)
グエルチーノ |
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グエルチーノの絵は端整でひたすら美しい.馬車を駆って天を行く女神の姿を中心に,はやり仰視法で描かれていることが,特に周囲の「建築的枠組」(宮下)の描き込みによってわかる.宮下に拠れば,この部分を担当したのは,アゴスティーノ・タッシ(1574-1644)で,彼はペルージャで生まれローマで死んだ画家である.
タッシと言う名前には聞き覚えがあった,天才女性画家アルテミジア・ジェンティレスキに乱暴を働いたとして裁判に訴えられた(訴えたのはアルテミジアの父で,タッシの師匠筋のオラツィオ)人物だ(若桑みどり『女性画家列伝』岩波新書,1985,pp.13-14).彼自身は否認したらしいが,他にもスキャンダルがあり,問題人物だったようだ.クロード・ロランの師に擬する人もあり,遠近法と騙し絵的室内装飾画の大家として知られ,当時は相当に評価された実力派能才画家だったのは間違いないようだ.
この「別荘」の2階部分のカラヴァッジョの天井画のある小部屋に通じる広間の天井に,ラッパを吹きながら浮遊して,まるで神々の到来を告げているような有翼の女性(長音を敢えて保持すると,ラテン語でウィクトーリア,ギリシア語でニーケーと言う名の「勝利の女神」だろうか)を中心にした美しい神話画が描かれていた.係員の方に作者を尋ねると「アゴスティーノ・タッシ」と言う返答であった.本当にタッシの作品かどうかはきちんと確認していないが,もしそうだとすると,後に殺人者となる天才画家が独創に満ちた男性の神々の装飾画を描き,レイピストの烙印が後世に伝わる能才画家が美しい女神を,近い空間に描いたことになる.この「別荘」は何度も見なくても良いと思うが,間違いなく一見の価値がある.
(後日:エルミタージュで観た特別展「グエルチーノからカラヴァッジョまで」の関連で,グエルチーノについて調べていて,別の特別展の図録,
Rossella Vodret / Fausto Gozzi, eds., Guercino 1591-1666: Capolavori da
Cento e da Roma, Firenze: Giunti, 2011
を参照した.2011年にローマのバルベリーニ宮殿で開かれた特別展だ.もちろん天井画なので,展示はされていないと思うが,この絵の写真が掲載(p.160)され,グエルチーノ作「名誉の神と美徳の女神を伴った名声の女神」(La
Fama con l' Onore e la Virtu・・アクセント記号省略)とされている.寓意されている神々については議論があるようだ(「美徳」の女神は鎧をまとっているが,英語と同様,ラテン語でも,イタリア語でも「美徳」は同時に「武勇」,「勇気」を意味する)し,「アウロラ」同様,「建築的枠組み」はタッシが担当したそうだが,いずれにせよ,神々の絵はグエルチーノの作品のようだ.2013.9.15)
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写真:
天井の神話画(有翼のエロスが男女の前で「冠」を持っているので,「ディオニュソス(バッカス)とアリアドネの凱旋行進」の主人公たちとその前触れであろうか)
→(訂正)「名誉の神と美徳の女神を伴った名声の女神」
作者はアゴスティーノ・タッシ?→(訂正)グエルチーノ |
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1階「アウロラの間」の傍らにある,庭が見える部屋には,古代彫刻の浮彫が置かれていて,目を魅かれるが,天上を見上げると,エロスかプット―の群舞を中心に,小さな風景画も周囲に描かれている天井画がある.この風景部分の作者にはドメニキーノもいるという情報がある.宮下はこの部屋を「風景の間」と呼び,天上画の作者としてグエルチーノ,ドメニキーノ,パウル・ブリルの名前を挙げている.
建物も庭も興味深く,庭のあちこちにギリシア語やラテン語が刻まれた石碑や古代彫刻が置かれている.カジノ・ルドヴィージを見られたことは本当に稀有の体験だった.このツァーに参加して,本当に良かった.
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頭上近く 天空の神々を仰ぎ見る カジノ・ルドヴィージ
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