フィレンツェだより |
エルベ広場 ヴェローナ |
§ヴェローナ篇(その1)
ヴェローナはローマ共和制末期の抒情詩人カトゥルスの故郷であり,マントヴァは黄金時代のローマ文学最大の詩人ウェルギリウスが生まれた村アンデス近傍の都会で,ダンテはこの先人を「マントヴァの白鳥」と讃えている. 最初,ヴェローナに1泊,マントヴァに1泊するつもりだったが,マントヴァの宿が取れず,ヴェローナの同じホテルに2泊し,2日目にヴェローナから日帰りでマントヴァに行き,またヴェローナに戻ることになった. これは結果的には良かった.マントヴァで見るべきものを幾つか断念したが,もともとヴェローナの方が大きな街で見るものも多く,より多くの時間をヴェローナにさくことができたのは「怪我の功名」だったと思う.
![]() 彼は,狭い座席で長い脚をもてあましているようだった.私は脚はもてあまさなかったが,こちらの座席は概して日本人には少し高めなので,膝から腿の裏側がどうしても痛くなる.フィレンツェからヴェローナまで3時間の道のりは決して楽ではなかった.それでも,通常フィレンツェからヴェローナへはボローニャで乗り換えとなるが,直行便が取れたのは面倒が無くて良かった. ボローニャはエミリア・ロマーニャ州,マントヴァはロンバルディア州,ヴェローナはヴェネト州なので,随分と遠出のようにも思える. 特にエミリア・ロマーニャ州を過ぎてポー川を越えると,ローマ時代にトランスパダナ地方(パドゥス川=ポー川の向こう)は,イタリアではなく属州ガリア・キサルビーナ(アルプスのこちら側のガリア.現在のフランスは「アルプスの向こう側のガリア」ガリア・トランスアルピーナ)である. ガリア・キサルビーナは,ローマの支配下となってローマ人が入植する前にはケルト人が多く住んだ地域だ.ケルト人が来る前にはエトルリア人が優勢だったし,別系統のウェネティー族(彼らの居住地域がウェネティアで,現在のヴェネツィアの語源となった)も北東部を中心に蟠居していた.
ヴェネト州の街であるヴェローナは,ウェネティー族,エトルリア人,ケルト人が作った基層をローマ人がまとめあげ,ゲルマン人が侵入し,中世の長い時代を経て,自治都市国家としての栄光を享受し,ヴェネツィア共和国領となり,オーストリアの支配を受け,統一イタリアに組み込まれるという,細部に違いがあるにしても多くの北イタリアの都市がたどった複雑な歴史を経て,現在に至っている. ヴェローナ・カード ヴェローナは人口約25万人の大きな街だ.駅も大きかった. 駅前から観光スポットの多く残る旧市街まで歩いても大した距離ではないが,街の中心部まではバスを利用することにした.というのも,『地球の歩き方 イタリア 2007〜2008年版』(以下,『地球の歩き方』)にも紹介されている「ヴェローナ・カード」を買ったからだ. このカードには幾つかの教会,美術館,遺跡などの拝観料,入場料が含まれている上に,市内バスは乗り放題になる.1日券と3日券があるが,途中マントヴァに行くとは言え,私たちは2泊するので,3日券を駅のタバッキで購入した.1人12ユーロ.1日券は8ユーロだ. ヴェローナで観光するなら,この券は駅で即座に買った方が良い.バスは必ずしも使い勝手が良いわけではないが,乗り放題だから,ともかくどこかの時点ではきっと役に立つ.通常のバス券は60分1ユーロだし,教会や美術館の拝観料,入場料は1箇所,3ユーロから5ユーロくらいなので,もとはすぐとれる.
アーディジェ川 車窓からも見えていたが,駅に降りてあらためてアルプスの山々を遠くに仰ぎ見ると,ここは北イタリアだなあと思う.市内を流れるアーディジェ川は,流れの速いきれいな川で,そのほとりに栄えたヴェローナは本当に美しい街だ. アーディジェ川はラテン語ではアテシス川で,ウェルギリウスの『アエネイス』9巻では,武将たちの兜の羽飾りが風に揺れる様を描写する叙事詩的比喩に使われている.「心地良きアテシス川」という句に,この詩人の北イタリアへの愛情を感じることができるかも知れない. アルプスから湧き出て,ポー川と平行してアドリア海に流れ込むアーディジェ川こそヴェローナの母なる川であろう.
アレーナ(野外劇場) ブラ広場でバスを下車した.ここにはヴェローナを象徴する通称「アレーナ」と呼ばれる古代ローマ時代の円形闘技場(アンフィテアートロ)がある.宿もその近くのローマ通りにあるホテルを予約していた. アレーナは,もともとは城壁の外側に位置したらしいが,現在は街中で,旧市街の中心地エルベ広場,シニョーリ広場からもそれほど遠くはない.ローマのコロッセオに次ぐ世界第2位の規模を誇る堂々たる円形闘技場だ.
バスを降りてまずアレーナに向かったのは正解だった.野外劇場としてオペラが上演されることで知られるアレーナ音楽祭のシーズンが終わったばかりで,その舞台設備の撤去のためか,翌日と翌々日は「閉鎖」になるという掲示があった. ![]() Renzo Chiarelli, Verona: New Practical Guide, Firenze: Bebocchi Edizioni "Il Turismo", 2006 初版が何年かの情報はないけれど,毎年改版される,ごくありふれたガイドブックだと思うが,有益で良い本だった.訳者の情報もないがイタリア語からの英訳本であろう.後で,もっと大きな版型の複数のガイドブックの日本語版があるのを見つけたが,この本は持ちやすい大きさなので便利だ. この本の冒頭でヴェローナを紹介して,ヴェローナの説明的同格で何の断りも無くラテン語が使われていた.「ウルプス・ノービリッシマ」(最も高貴な町)というのは何か出典があるのだろうか.少なくともカトゥルスには出てこないようだ. エルベ広場周辺 その後,マッッツィーニ通りで1本に結ばれている旧市街の中心部エルベ広場に向かった.ブランド・ショップなどが立ち並ぶマッツィーニ通りは,この街一の繁華街のようだ. 長身・金髪の観光客が多いように思えたのはシーズンだけではなく,北ヨーロッパが近い地理的位置関係もあるだろう.ヴェローナは,アルプスを越えてやって来た人々には古来「イタリアへの入口」であった. エルベ広場で露店の土産物屋を覗きながら,周囲の建物を眺めた.壁面がフレスコ画や彫刻で飾られている建物が多い.これ自体はやはりイタリアでよく見られる風景だと思うが,「ヴェローナのマドンナ」と言われる像のある噴水の奥にある,羽の生えたライオンの彫像が目をひいた.16世紀に作られたという,この「サン・マルコのライオン」はヴェネツィアに支配されていた印なのか,それ以前のものなのか,写真を紹介しているキアレッリ本にも書いていなかった. ランベルティの塔 さまざまな由緒の邸宅(パラッツォ)や塔(トッレ)があるが,この広場から見えるランベルティの塔はヴェローナで一番高い建物とのことなので,とりあえずこれに登って見ることにした. 塔は,1172年に作られ始め,完成したのが1464年とのことなので,ヴェローナの支配者として有名なスカーラ家の統治が始まる1263年から,アントーニオ・デッラ・スカーラが亡命して,スカーラ家の支配が終わる1387年を跨いでいることになる. そう考えると,この塔に登り,現在のヴェローナの街並みを鳥瞰し,その歴史を考えてみるのも良いのではないかと思えた.
この塔の入口は,すぐ近くのシニョーリ広場に面した建物の中にある.エレベーターもあったが,いつものように階段で登った.これが後で災いしたかも知れない.その夜,右足がつり,翌日は膝が曲がらなくなった.登っているときに息はあがらなかったので,つい油断したかも知れない.尊敬する先輩から「50近いと色々ガタがきてるので,無理しないように」との忠告を受けていたが,まさにその通りだった. 塔の最上部にはぐるりと網が張ってあったので,眺めは今ひとつだったが,それよりも少し低いところにある展望用の場所には網はなく,大人の首の高さくらいまでの鉄柵があるだけなので,写真はそちらの方が撮りやすい. 日頃頼りにしている『地球の歩き方』に教会は1つ(サン・ゼーノ・マッジョーレ教会)しか紹介されておらず,地図や文中で名前を挙げている教会も少ないが,塔から眺めるヴェローナの街には立派な鐘楼が多く,見るべき教会も多いのではないかと予想された. アレーナやローマ劇場など古代の遺跡は白っぽいので,晴れた日には少し見つけにくいが,どうにか確認することができた.上から見てもアーディジェ川は美しかった. 『ロミオとジュリエット』 この後,アーディジェ川を渡って,川向こうのローマ劇場と付属の考古学博物館に行った.フィレンツェではアルノ川沿いの通りをルンガルノと言うが,ヴェローナではアーディジェ川沿いの通りをルンガーディジェと言うようだ. ポンテ・ヌオーヴォ(新橋)を渡り,ルンガーディジェ・レ・テオドーリコ(東ゴート王テオドリック通り)を歩き,途中,ローマ劇場を見学し,その後,きれいに修復されてはいるが古い風情を残すポンテ・ピエトラ(石橋)を渡って,再びアーディジェ川を越え,ドゥオーモを拝観した.ドゥオーモなどの教会については,稿を改めて報告したい. ドゥオーモの後,サンタナスタージア教会に向かったが,夕方のお祈りの時間で,ビリエッテリアの係の人たちも撤収して,信者のための時間になってしまったようなので遠慮して,その代りに同じ広場に面した,キアレッリ本にも情報がないので,正式には何と言うのかわからないが,「殉教者ペテロのための礼拝堂」(と一応しておく.この場合の礼拝堂はオラトリオを想定しているが,オラトリオであると確認したわけではない)を拝観した. ここは拝観料はかからないが,いかにもガイドブックに載っていなさそうな興味深いフレスコ画が残っていたので,可否を確認して写真を撮らせてもらい,一番魅かれた絵柄の絵葉書を購入した.「閉ざされた庭(ホルトゥス・コンクルースス)の受胎告知」だった.
![]() 看板には通称「ロミオの家」とあり,プレートには英語原文とイタリア語訳が引用されていた.
シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』だ. ヴェローナはこの大詩人の有名な悲劇の舞台であり,「ジュリエットの家」は観光名所になっていて,『地球の歩き方』などのガイドブックにも詳しい紹介があるが,「ロミオの家」は言及があってもどこにあるかはわからなかった.全くの偶然でこの家の前を通りかかったことになる.
後でキアレッリ本で確認したところ,ここは傷みが激しく公開されていないとのことだ. キアレッリ本でもイタリア語でモンテッキ家,英語でモンタギュー家と書いてあったが,市が建てた看板には「カニョート・ノガロータ,通称ロミオの家 14世紀」とあった.シェイクスピアの原作となったと思われる作品は日本語訳もあるほどなので,それを読めばわかるかも知れないが,今は確認できない.きっと同僚で親友のシェイクスピア学者,冬木ひろみさんがメールでこっそり教えてくれるだろう.
![]() サンタナスタージア教会のある広場から,エルベ広場までもどって,カッペッロ通りに出るとすぐ近くに「ジュリエットの家」がある.ヴェローナの中で一番観光客で賑わっていると言っても過言ではない.
本当にカプレッティ家もしくはキャピュレット家であるかは別にして,中世末期からルネサンス期の邸宅で,現在は博物館として公開されている.当時の広間が再現されていて,剥離フレスコ画が飾ってあったり,当時の家具も置いてあったりするほか,ゼッフィレッリ監督の映画「ロミオとジュリエット」で使われたベッドも展示してあるなど,古いものから新しいものまで,きちんと整理してあるのは好感が持てた. 訳すのも恥ずかしいから,記憶している原文を記すので間違っているかも知れないが,
とジュリエットが呟いたかも知れないバルコニーもあって,そこにも立った. 「ジュリエットの家」にはちょっと危惧していたような俗悪な感じは全くなく,観光にも配慮しつつ,それなりに虚構と史実を整理しながら,何よりも明るく爽やかな空間だったことに好感が持てた.
![]() 地下祭室(クリプタ)に空の石の柩があり,これが「ジュリエットの墓」と言われているようだ.もちろんそう言い伝えてきた人たちもいる,という程度のことだと思うが,それなりに観光客を集めている. この旧修道院は「フレスコ画博物館」になっており,展示してある剥離フレスコ画などはそれほどものはないが,板絵やカンヴァス画に見るべきものがあった.
![]() 初めて英語上演の「ロミオとジュリエット」を見たのは,大学生のときで,BBC監修のシェイクスピア作品をNHKが放映したときだ.当時テレビを持っていなかったので,東京にいた母方の叔父の家で見せてもらった. 60年も前の話で恐縮だが,母は旧制女学校の生徒だった時,学芸会で翻訳劇「ロミオとジュリエット」でジュリエットを演じることになっていたが,「英語の発音が良いから」とおだてられて,英語劇「浦島太郎」の主役にまわり,ジュリエット役はボーイフレンドが見に来るという同級生に譲ったと言っていた. そういえば今,思い出したが,中学2年生の時,故郷の今はなき高田公友館でゼッフィレッリ監督,レナード・ホワイティング,オリヴィア・ハシー主演の映画「ロミオとジュリエット」を見た.これももう35年も前の話だ.岩手県の片隅で育った私でも「ロミオとジュリエット」を知る機会はあったのである. ![]() |
ヴェローナの町 ランベルティの塔から |
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