フィレンツェだより
2007年8月17日



 




サントロンツォ広場
レッチェ



§南イタリアの旅(その6)−レッチェ篇

8月11日,フィレンツェに帰る日がきた.


 12時14分発の電車の時間まで,レッチェの市内観光をしようということになり,朝8時過ぎにミネルヴィーノを出発し,レッチェ市内まで車で送っていただいた.

 スーパー・ストラーダに沿いに,フィレンツェでは盛りが過ぎた夾竹桃が花盛りだった.

 レッチェの市街に入る直前に考古学地域が見えた.エンニウスの故郷ルディアエの遺跡であろう.私にとって関心のある詩人の一人がこのあたりで生まれ育ったのかと思うと感慨深いものがあった.



 市内に入って,神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)の建てた「城」を横目に,市の中心部にあるサントロンツォ広場を目指した.サントロンツォは町の守護聖人ということで,高く聳える円柱の上に像が立っている.

 このサントロンツォ広場に,紀元後2世紀のハドリアヌス帝時代のものとされる円形闘技場(アンフィテアトロ・ロマーノ)の跡がある.当時,首都ローマだけでなく,地方都市でも人々が「パンとサーカス」を求めていたことがわかる.今も現役のようで,何かイベントの舞台設営が行なわれている最中だった.

写真:
円形闘技場
後方にサントロンツォの像


 円形闘技場からヴィットリオ・エマヌエレ2世広場に出るとサンタ・キアーラ教会がある.このファサードを眺めながら,アンミラーティ通りを行くと,円形闘技場と同じ時代にできた「ローマ劇場」(テアトロ・ロマーノ)と称される円形劇場に着く.

 併設の博物館に入ると細部も見られたかも知れないが,あいにく開館時間前だった.建物の隙間から眺めながら,ここで古典演劇の再上演や様々な出し物が行われたことを思って往時をしのんだ.

 円形闘技場と円形劇場はいずれも見事な遺跡で,それだけでもローマ帝政期のレッチェがいかに栄えた町であったかがわかる.

写真:
「ローマ劇場」



南イタリアで出会った「最後の晩餐」
 アンミラーティ通りを左に曲がってペトロネッリ通りを行くとヴィットリオ・エマヌエレ2世通りに合流する.これを左に曲がって,少し行くと左側にドゥオーモ広場が見える.

 ドゥオーモ広場は場合によっては,「イタリアで最も見事な広場の一つ」と言われることもあるらしい.それは褒め過ぎにしても,広々とした空間に,鐘楼,ドゥオーモ,司教館,神学校が立っているのは壮観である.

 現在のドゥオーモの建物を設計したのは,ジュゼッペ・ズィンバロという,この地方を代表する17世紀の建築家で,サントロンツォ広場にあった守護聖人の像と円柱も彼の作とのことだ.ファサードだけでなく,広場に入るとすぐに見える側壁にも,守護聖人をはじめとする彫像で飾られた立派な入口をつけたところに独創性があるのかもしれない.

写真:
ドゥオーモ広場


 ドゥオーモには,これから行われる結婚式の参列者が着飾って続々と集まってきていた.長時間の拝観は遠慮することにして,少しのあいだ腰を下ろして全体の雰囲気を味わうことにした.

 ふと見上げたら,中央祭壇の前の高い天井に興味を引く絵を見つけた.「最後の晩餐」(ウルティマ・チェーナ)である.誰が描いたかは今のところまったくわからない.他の教会の天井画を紹介しているガイドブックにもこの絵のことはなかった.何せ高いところにあるので,慎重に撮影して,さらにそれを明るく加工するとようやく下の写真のように見えるが,現場ではかろうじて「最後の晩餐」とわかるだけなので,絵としての水準も判然としない.

 (後日:レッチェのサンタ・クローチェ聖堂の前の土産物屋で,フィオレッラ・コンジェード作のイタリア語版の充実したレッチェ案内を買い,このページを書くに際しても参考にしているが,帰国後,岩手の実家に置いていて,2011年の津波で亡失した.このページを書いていた時は気づかなかったが,後にアメリカのアマゾン経由でオクラホマ・シティーの古本屋から入手した英訳版を見て,ジュゼッペ・ダ・ブリンディジの作品とされていることがわかった.伊語版ウィキペディア「レッチェ大聖堂」にも同じ情報がある.それに拠れば1685年の作品らしいが,作者に関するこれ以上の情報は今の所ない.17世紀後半の人物なのに「ブリンディジ出身のジュゼッペ」では固有名詞とは言えないかも知れないが,作者らしい人物に関するとっかかりができたように思え,少し胸のつかえがおりた)

写真:
 ドゥオーモ天井の
「最後の晩餐」


 実はオトラントのサン・ピエトロ教会のフレスコ画にも「最後の晩餐」が描かれていたことを後でガイドブック(Grazio Gianfreda, Basilica Bizantina di S. Pietro in Otranto: Storia e Arte, Lecce: Edizioni del Grifo, 2005, pp.59-63)で知った.それに拠ればギリシア語で「最後の晩餐」と題目までついているとのことだった.

 ガイドブックの写真で目を皿のようにして確認すると,確かに「ホ・ディープノス・ホ・ミュスティコス」(秘跡の食事)と読みにくい大文字が分かち書きなしで連ねてある.古典期のギリシア語なら「ト・デイプノン・ト・ミュスティコン」と中性名詞になるだろうが,ともかく学校で習う古典ギリシア語の知識のちょっとした応用で読める範囲だ.

 この絵ではキリストが向かって左端,その隣にいる多分若いヨハネは師の胸に顔を埋めてはおらず,明らかにキリストに何か問いかけている.ヨハネを先頭に後輪のついた11人の使徒が同じ側に座り,ユダは小さくその反対側にいて,皿に手を伸ばしている.

 食卓にはキリスト教を象徴する「魚」(ギリシア語のイクテュスを分解すると「イエス・キリスト・神の・子・救世主」のそれぞれの頭文字になるのは,高校時代に読んだ辻邦夫『背教者ユリアヌス』で知った)が皿に盛られている.稚拙な感じがするが,臨場感が漂う,多分今まで見た絵の中でも「ヨハネ伝」の記述に近い「最後の晩餐」ではなかろうか.

 せっかく足を運んでいながら見逃したのは返す返すも惜しいことをした.次に行くカテドラーレの閉まる時間が迫っていて,気が急いていたのでやむを得なかったが,もっとも,もう少しゆっくりしていても気づかなかったかも知れない.

 ガイドブックには10世紀末から12世紀初頭の間にイタリアの不詳の画家によって描かれたとある.フレスコ画の歴史をよく知らないので,そんなに古い時代(ジョットは13世紀後半の生まれなので,ジョットからミケランジェロまでが「フレスコ画」と定義されるなら,これはフレスコ画ではないことになるが)にフレスコ画が描かれたのかどうかもわからないが,見ることができればそれなりに感銘は受けたと思う.

 見た数は少ないけれど,レッチェ県,ターラント県で見たフレスコ画は,どれもフィレンツェで見るフレスコ画のように洗練された大傑作とは思えない古拙なものが多かった.しかし,芸術的価値とは別の感銘を宗教画は与えてくれると思う.

 レッチェのドゥオーモではかろうじて「最後の晩餐」を写真に収めることができた(収めたのは妻だが).使徒たちは食卓を囲んでいる.若いヨハネはキリストにもたれかかっている.ユダはキリストの反対側で動揺しているのがわかる.


「牝狼とトキワガシ」
 ドゥオーモを後にして,ヴィットリオ・エマヌエレ2世通りをサントロンツォ広場の方に戻ると途中サンティレーネ教会がある.ここで目を引くのはファサードだ.

 下の写真には写っていないが,この右側にはラテン語で「レッチェの人々の守護者である女性に」,左側には「乙女である殉教者であるイレーネに」とあり,聖イレーネが,かつては守護聖人であったことがわかる.

 それよりもラテン語の「レッチェの人々の」(ルピエンシウム)という語と,写真上方の狼の像に注目したい.ルピエンシウムはルピエンセースの属格(所有格)でルピアエという都市名から作られた形容詞の複数形で,その地の住民を意味する.形容詞の複数形が民族,国民を意味するのは英語と同じだ.

写真:
サンティレーネ教会のファサード
中央下方に聖イレーネ
上方に狼の像


 写真では分りにくいが,牝狼の後ろに樹木のようなものが見える.「トキワガシ」という木らしい.この像を「ルーパ・コル・レッチョ」というらしい(Fiorella Congedo, Guida di Lecce, Congedo Editori, 2000, p.55).これはレッチェのシンボルということだ.

 レッチェはもともとメッサーピ人の都市だったのが,かつてはライヴァルだったターラントに組してローマに対抗したため滅ぼされ,ローマ人の植民都市となった.その際にルピアエという名前になり,これが現在のレッチェの名のもとと言われている.

リケア(リチェーア)もしくはリティウムという語形変化を経てレッチェになったそうだが,変化の過程はともかく,もとがルピアエであれば,ルプス(狼)もしくはルパ(牝狼)と関係があるだろうことはラテン語を学んだ人間ならすぐに気づくだろう.


 もちろん先住民族の地名の転用も考えられるが,シンボルが牝狼であれば,少なくともこの地に住んだ人々は「牝狼」に地名の由来を見たのは間違いないだろう.トキワガシ(レッチョ)はレッチェと音が似ているからだろうか,それとも「牝狼とトキワガシ」にまつわる伝説があるのだろうか,それは今のところ私にはわからない.


「黄金の石」のように
 サンティレーネ教会からサントロンツォ広場にもどり,ウンベルト1世通りに出ると,レッチェ観光の最大の呼び物であるサンタ・クローチェ教会が見える.

 ドゥオーモ,サンティレーネ教会の写真と一緒に見てもらえばその共通点に気づくと思うが,ともかくどれも白い外観である.これはその他の教会やパラッツォ(邸宅,宮殿)にも共通する.材料が「レッチェの石」(ピエトラ・レッチェーゼ)なのである.

写真:
サンタ・クローチェ教会


 フィレンツェでもサンタ・トリニタ教会やオンニサンティ教会のファサードがバロック時代のもので,そう言われればレッチェの教会のファサードは白い外観と細密な装飾彫刻を除くと,サンタ・トリニタやオンニサンティのファサードと良く似ている.レッチェが「バロックのフィレンツェ」と言われる所以であろう.

 バロック建築が有名な都市と言えばローマが挙げられる.もちろんローマはルネサンス期にも栄えたが,メディチ家出身の教皇レオ10世の時に宗教改革が起こり,彼の従弟ジュリオ・デ・メディチすなわちクレメンス7世の時(1527年)に「ローマの劫略」(サッコ・ディ・ローマ)に襲われる.外交戦略を誤った教皇に対して皇帝カール5世が怒り,彼自身は熱烈なカトリックだが,プロテスタントのドイツ人を主力とする軍隊をさしむけ,ルネサンス都市としてのローマは徹底的な破壊を蒙った.

 劫略後のローマ再建に尽くしたのがミケランジェロで,ルネサンスの最後の花を咲かせるが,1564年に亡くなる.現在のローマの建築物はその後に建てられたものが多いので,ローマの由緒ある建築物はバロック風であることが多いとされる.

 ローマのバロック芸術は大理石や宝石など高価な材料が使われ,レッチェのバロック(イル・バロッコ・レッチェーゼ)は「レッチェの石」に特徴があると言われるようだ.あえてフィレンツェやローマと比較しなくても,レッチェはレッチェとしてすばらしいだろう.

 サンタ・クローチェ教会に向かう途中,「レッチェの石」を加工して売っている店に立ち寄った.オトラントでも,私たちと「レッチェの石」の出会いの記念に何か買おうと思って物色したのだが,このときは時間の都合も有り,これというものにも出会わなかったので何も買わなかった.

 最後の日に,レッチェで,欲しいと思うものをショーウィンドーに見つけた.店の名前はラテン語で「黄金の石」(ペトラ・アウレア)だった.「レッチェの石」は南国の光を浴びて金色に輝く,と言うことだろう.



 12時14分レッチェ発のユーロスターでローマに向かい,19時30分にローマを出るナポリ発のユーロスターに乗り換え,21時6分の定刻どおりにフィレンツェ・サンタ・マリーア・ノヴェッラ駅に無事帰着した.

 かくも豊かな体験をさせてくださった,大家さんのご一家には感謝の言葉もないほどだ.全身で感謝と喜びの感情を表現するイタリア人ではない自分がもどかしい.ありがとうございました.





ペトラ・アウレアで購入した
ピエトラ・レッチェーゼ