フィレンツェだより
2007年8月16日



 




カストロの「城」(カステッロ)



§南イタリアの旅(その5)−アエネイス篇

プーリア州はイタリアの南東部にあり,「長靴」の「踵」とその上の部分で「ふくらはぎ」の下くらいまでの広い地域だ.「踵」にあたる部分がサレンティーナ半島で,サレント地方とも言われ,レッチェ県はここにある.


 比較的北に位置する県都レッチェ市から,スーパー・ストラーダ(ハイウェイ)を南にくだると,サレント地方の中心に位置するマーリエに出る.ここから東へ向かい,アドリア海の沿岸に出ると,昨日紹介したオトラントに至る.

 ミネルヴィーノは,マーリエからは南東,オトラントからは南西の少し内陸に入ったところにあり,私たちはミネルヴィーノの畑の中にある大家さんの別荘に滞在させてもらっていた.

  サレンティーナ半島
(サレント地方)概略図




 オトラントからアドリア海岸を南に下がったところにポルト・バディスコという小さな入り江がある.ミネルヴィーノからは真東の方角にあたる.

 ポルト・バディスコには,ローマ建国伝説の英雄で,ギリシア人に滅ぼされた小アジアのトロイアの王族アエネアスが最初にイタリアに上陸した地であるとの言い伝えがある.アエネアスはローマを建国したロムルスの遠祖にあたるとされる.ユリウス・カエサルの祖先もアエネアスと言い伝えられていた.

写真:
夕闇のポルト・バディスコ


 そもそもアエネアス伝説自体が真偽の確かめようがないことはしばらく措くとして,多くのアエネアス伝説を集大成した,紀元前1世紀後半の大詩人ウェルギリウスの叙事詩『アエネイス』(アエネアスの歌)の詩句をヒントに考えると,この言い伝えには根拠がないとはいえない.


 今や,星々は消え去って,赤々と曙光がさし始め,
 その時,まだ薄暗い丘陵と,低く広がる大地が見えた.
 イタリアだ.最初にアカテスが「イタリアだ」と叫んだ.
 仲間たちが大きな声で「イタリアだ」と歓声を上げた.
 その時,父アンキセスは大きな鉢を花輪で飾り,
 生の葡萄酒で満たして,高く聳える船尾に立ち,
 神々に呼びかけた.
 「海と大地と天候を支配する神々よ,
 順風が吹いて,安全に行くことができますように」,と.
 待ち望んだ風が吹き,入り江が開けて
 そこに近づくと,ミネルウァの丘に神殿が見えた.
 仲間たちが帆を巻き上げ,船首を岸辺へと向けた.
 入り江は,東から寄せる波に抉られて湾曲していた.
 潮のしぶきで泡立つ岩礁が行く手をさえぎり,
 入り江はその奥にある.聳え立つ断崖が両側に壁のように
 腕を伸ばしており,神殿は海岸から離れたところにあった.
                    (『アエネイス』第3巻521-536行)



 この後,一行はイタリアで最初の「神の意志を示す予兆」(オーメン)として4頭の白馬が草地にいるのを見る.そこに「戦争」(ベッルム)と「平和への希望」(スペース・パーキス)の両方の予兆を読み取ったアンキセスは,女神ミネルウァ(パラス・アテナ)に祈りを捧げ,予言者ヘレヌス(ヘレノス)の忠告を守って,彼らに敵対する女神ユノー(ヘラ)にも犠牲を捧げた後,自分たちを滅ぼしたギリシア人が植民しているとされるこの土地を後にして,タレントゥム(ターラント)湾を経由して,シチリア島に向かう.



 ポルト・バディスコのすぐ北に位置するオトラントを紹介する本には,必ずといって良いほど,そこから見える対岸のアルバニアの山並みの写真が紹介してある.私たちが行った時は天候の関係でアルバニアは見えなかったが,アドリア海を越えてイタリアにやってくるのは潮の流れから言っても容易なことのようだ.実際に現代でも,共産政権末期のアルバニアから多くの難民がイタリアに来た.

 トロイア落城後,トラキア,デロス島,クレタ島と渡り歩き,「イタリアを目指す」目標ができたアエネアスの一行が,イタリアに渡る前に立ち寄った所は,ギリシア北部エピルス(エペイロス)地方のブトロトゥム(ブトロートゥム)という町で,現在はアルバニア領になっているが,そこには別のトロイア人の一団が定住していた.

 ブトロトゥムの指導者は,殺されたトロイア王プリアモスの息子ヘレヌスで,彼は兄である英雄ヘクトルの妃だったアンドロマケと再婚していた.ヘレヌスは予言者としても有名でアエネアスに多くの有益な助言を与える.ヘレヌスは,


 だが,これらの地方,イタリアの海岸のこちら側の岸辺を
 避けよ,我らの海の波が打ち寄せる最も近い岸辺を.
 この地方の町々を支配しているのは邪悪なギリシア人だ.
                    (『アエネイス』第3巻396-398行)




と忠告しており,イタリアで建国する際,アドリア海岸にはトロイア人の敵ギリシア人が植民しているからやめたほうが良いと言っている.「サレント地方の平原」(サレンティーノース・カンポース)を軍事力で支配しているのはクレタから来たイドメネウスだから,と言って「サレント」という言葉もすでに登場する.

 ヘレヌスの助言に従って,アエネアスはミネルウァの神殿のあるサレント地方の入り江を後にして,シチリアに向かい,そこからイタリア西岸を目指すことになる.



 神殿のある場所を「ミネルウァの丘」と訳したが,「丘」にあたる原語はアルクスで,この語は「砦」を意味するが,町の小高い丘アクロポリスを指すこともある.これが「丘」なのか「砦」なのかは実は重要だ.

 ポルト・バディスコの北に位置するオトラントに,地元の人たちが古くから「ミネルヴァ(ミネルウァ)の丘」(コッレ・ディ・ミネルヴァ)と言っている場所がある.1480年のトルコ軍の侵略で800人が殉教したとされる場所でもあるので,現在は「殉教者たちの丘」とも言われている.

 ここに古代のミネルウァ神殿があったと推測する人々もおり,そう書いているガイドブックも複数ある.

 ミネルヴィーノの名は多分この「ミネルヴァの丘」に由来すると推測されるが,ここを故郷とする私たちの大家さんもこの説を支持するひとりだ.しかし,このアルクス・ミネルウァエを「ミネルウァの砦」(カストルム・ミネルウァエ)と考えると,異説も出てくる.

 古代ローマ時代にカストルム・ミネルウァエという町があり,ここのミネルウァ神殿がアドリア海を航行する船のランドマークになっていたとの記録がある.このカストルム・ミネルウァエを,多くの学者が現在のカストロであると考えている.

 その名もカストロ(ラテン語のカストルム)という町は,ポルト・バディスコをさらに南に下った所にあり,現在はアドリア海沿岸の港町で,海水浴場になっている.

 丘の上には,中世に起源を持ち,オスマン・トルコの侵入に備えてアラゴン王家が再建した「城」(カステッロ)が聳え立っている.ただし城壁や塔を壊して一般の住居が建てられていて,「城」として残っているのはその一部である.

写真:
丘の上の城から
カストロの町を見下ろす


 右下の写真に見られるように,メッサーピ人,ローマ人など,ここで興亡した多くの人々が要塞を築いたことが,城壁の石積みからも想像できる.現代人が積み上げたブロック塀まで写ってしまうのがこの町らしい.

写真:
城壁の石積みが
異なる時代に築かれた
ことを物語る


 書名を失念してしまったが,大家さんの別荘で見せてもらったプーリア州の考古学的遺跡を案内した本に大歴史学者テオドア・モムゼンの本からの引用として挙げてあった地図にもカストルム・ミネルウァエはカストロにしてあったし,私が参照している『アエネイス』のテクストを校訂したフェアクラフも,注釈書を書いたウィリアムズもカストロ説だ.


ウェルギリウスと同じ夢を見て
 フィレンツェでお世話になっている柳川さんが,以前イタリアの新聞「レプッブリカ」に掲載された記事を日本語に訳してメールで教えてくださった.

 それには,レッチェ大学の考古学者たちが,カストロでミネルウァ神殿の跡を発見し,これによってカストロはアエネアスの上陸地として名乗りを上げているライヴァル(ポルト・バディスコなど)の中から一躍主役に踊り出た,とある.これで,アエネアスの最初のイタリア上陸地として,学問的にはカストロが圧倒的に優勢になったかに見える.

 しかし,新聞に書かれているように,「ハリカルナッソスのディオニュシオスが,アエネアスの上陸地はカストルム・ミネルウァエと言っている」,「この地方の出身の偉大な詩人エンニウスをウェルギリウスは尊敬していた」ということを根拠とし,『アエネイス』のミネルウァ神殿の位置の描写が裏付けであると言って,カストロ説を主張するなら,もしディオニュシオスの言うカストルム・ミネルウァエがオトラントの「ミネルヴァの丘」で,そこから神殿の跡が出てくればポルト・バディスコ説でも良いことになるのではないだろうか.オトラントもポルト・バディスコもカストロと同じくエンニウスの出身地サレント地方にあるのだから.

 この議論には,もともと不毛な要素がある.本当にアエネアスというトロイアの王族が海を越えてイタリアにやって来て,ローマ人の祖先になったかどうかは永遠に証明できない.

 私たちがある程度真実に近づけるのは,『アエネイス』の作者であるウェルギリウスが,アルクス・ミネルウァエをどこと考えたかという問題だろう.

 であれば,おそらく有利なのはカストロだと私も思う.

 ただ,15世紀の城郭が聳え立ち,現在は賑やかな海水浴場になっているカストロと,小さなひっそりとした入り江であるポルト・バディスコをこの目で見比べて,同じく伝説に夢を見るなら,私はポルト・バディスコにアエネアスの一行が立ち寄った様子を想像したい.



 しかし,さすがにカストロは要衝の地で,この地方の交通の拠点でもあったと思われる.ブリンディジとその地位を競ったオトラントには及ばないが,この地方を支配しようとした人々にとって重要な拠点の一つであったことは間違いない.

写真:
サンティッシマ・
アヌンツィアータ教会


上の写真は,「城」が聳える丘にある街のサンティッシマ・アヌンツィアータ教会である.堂内は新しく改装されたらしいが,鐘楼の左下の部分に10世紀のビザンティン風地下祭室(クリプタ)の跡がある.ここは一時はこの地方のカテドラーレ(司教座教会)であったらしい.その風格を十分に備えた教会だと思った.

丘を降りて,アエネアス
一行が漂着したかも
知れない入り江に行くと,
そこは海水浴客で一杯
だった.


 ここには先史時代の壁画のある洞窟(グロッタ)もあり,その点でもポルト・バディスコと共通している.古代どころか先史時代から海の交通の要衝として様々な人々が行き交い,多くの文化が興亡したのであろう.


遥か以前の住人たち
 『アエネイス』で,ヘレヌスの助言にあった,この地方が「邪悪なギリシア人」が支配しているというのは,作者の意図的な時代錯誤(アナクロニズム)であり,ギリシア人がこの地に来るのは,早くても前8世紀であろうから,トロイア戦争があったと思われる紀元前1200年前後のだいぶ後のことである.

 したがって,アエネアスがこの地に来たかも知れない時代には,まだギリシア人は住んでいなかったであろう.

 一方,後にはギリシア人がこの地方に移住し,植民都市を作ったことは,垣間見られる地名からも想像がつく.ミネルウァがギリシアのアテナにあたる女神のラテン語名であるから,ミネルヴィーノはラテン語系の地名だし,カストロも当然ラテン語が語源だが,オトラントはギリシア語の「水」(ヒュドール)が語源だし,サレント地方でもイオニア海に面した港町ガリポリは「美しい街」(カレー・ポリス)というギリシア語に由来するだろう.地図を見るとカリメーラという町もある.現代ギリシア語で「こんにちわ」はカリメーラで,古代語で言えば「カレーン・ヘーメラーン」(「良い日を」)だろう.

 他にもレウカ,ガラティナ,ガラトーネはギリシア語起源の地名と思われる.もっとも,中世ギリシア語を話すビザンティン帝国の影響下に置かれた時代もあったわけだから,全てが古代ギリシアの植民市に由来するわけではないかも知れない.




 この地方に多くの民族や文化が興亡し,混交して,現代サレント地方の文化の基層を作ったであろうことを想像させるものをミネルヴィーノで見た.ドルメンである.オリーヴ畑の中に当たり前のように違和感なく鎮座している.

写真:
オリーヴ畑の中のドルメン


 巨石を積み上げたドルメンや,オベリスクの原形のような石の塔メンヒルが,この地方には数多く見られるそうだ.メッサーピ人をはじめ文献からも知ることができる「先住民族」は相当に新しい人々で,そのはるか以前の先史時代から,この地方には様々な人々がいて,様々な文化があったことになる.

 洞窟の壁画,ドルメン,メンヒルに比べれば,アエネアスのイタリア渡来などはつい先日のことなのかも知れない.





ミネルヴィーノの野に実る木苺