フィレンツェだより |
オトラントの「城」 |
§南イタリアの旅(その4)−オトラント篇
![]() ウォルポールは,メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』でその頂点に達し,草創期のアメリカ文学にも大きな影響を与えた一連のゴシック・ロマンスの最初の作品『オトラント城奇譚』(複数の邦訳有り)の作者で,1764年に発表されたこの作品の原題は,The Castle of Otrantoである. キャッスルという英語の語源はラテン語のカストルムだが,これは戦争の際に設営される「陣営」を意味しており,通常は複数形のカストラがよく使われる. カストラという響きは日本語のカステラに似ており,おそらく語源を同じくしているが,カステラになるまでには少し道のりが必要だ. カストルム,カストラにはr(アール)は出てくるが,l(エル)の文字は出てこない.縮小語尾がついてcastrum, castraが,castellumになって初めてlが出てきて,英語のキャッスルやフランス語のシャトーの語源になる.イタリア語でもカステッロcastelloが「城」を意味する語だ. 現在のスペインにはかつてローマの属州があり,カストラ,カステッルムがあった地方がカスティーリア地方で,ずっと後世ここから長崎に伝わった菓子がカステラなのではないかと想像している. 『広辞苑』を引くと,伝えたのはスペイン人ではなく,ポルトガル人とされているが,「もとカスティリアで製出したからという」とも書いてあるので,それほど頓珍漢な推測でもないだろう. イギリスの地名でも〜カスター(〜キャスター),〜チェスターという地名は,今のイギリスにあたるブリタニアを支配した古代ローマの「陣営」があった所だというのは良く言われる.ドイツ語の「城」(ブルク)と同語源の〜ベリーや〜ビーとなる町はアングロ・サクソンなどゲルマン人の子孫が築いたのだろう. サレント地方のアドリア海岸にもカストロという地名があり,明らかにラテン語のカストルムが語源だ.昨日語ったようにここも訪問しているが,これについては明日報告することにしよう.
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南ヨーロッパは7世紀以降にアラブ人によるイスラムの脅威に一度曝されている.スペインには15世紀までイスラム王朝があったし,シチリア島もイスラム教徒に支配された時代があった.そのアラブ人に代わって,今度はトルコ人がヨーロッパにとってのイスラムの脅威の主役となった. 1453年にコンスタンティノポリスは陥落し,東ローマ帝国は名実共に滅亡する.そのトルコの脅威が南イタリアを襲った.1480年にオトラントはオスマン・トルコ軍に占領され,改宗を拒否した800人の住民が斬首されたと言い伝えられている. オトラントのカテドラーレには「殉教者たちの礼拝堂」がある.その壁面は殉教者たちの遺骨で埋め尽くされていて,祭壇には彼らを斬首する際の台として用いられた石が保存されている.そばにプレートがあって,ラテン語で「この石でオトラントの市民たちが,喉を斬られた.キリストへの信仰を棄てることに抗したためだ.1480年のことである」とあった.
なるほど,オトラントの地名の語源はギリシア語だったのだ.そう言えばこの港に注ぐ川はイドロ川で,明らかにギリシア語の「水」(ヒュドール)を語源としている. 後でレッチェで購入したサレント地方のガイドブック(伊英対訳), Salento: Guida del Territorio Salentino, Polignano a Mare: Aliante Edizioni, 2006(以下,『サレント地方』) と,ターラントで入手した英語版ガイドブック『プーリア州』に拠れば,メッサーピ人が住んでいた地域にギリシア人が入植し,後にローマ人がギリシア語に基づいてラテン語名をつけたようだ. ![]() もともとホーエンシュタウフェン家のフリートリッヒ2世の命で築かれた要塞があったようだが,「オトラントの城」の築城が15世紀末ということになると,怪異物語が展開する古城とは随分イメージが違ってくる. 実際に行って見るまで,オトラントに関しては,無人の岬に荒れ果てた中世の古城が聳えている所を想像していた.事前に調べればわかることだったが,現在はリゾートと観光の街で,ギリシアのコルフ島への定期船も出る港町であり,周辺地域から若者が集う賑やかな地方都市だ.ツーリストの群の中を歩きながら,「思い込みはこわいな」と感じた.
ピエトラ・レッチェーゼ 古色蒼然とした「城」へのイメージは雲散霧消してしまったが,雄弁な学芸員のガイド(グィーダ)はおもしろかったし,立ち寄った2つの教会でも興味深いものが見られた. ![]() 何と言っても私たちの大家さんが見せたかったのはカテドラーレである.この地を征服したノルマン人ロベルト・グィスカルド(ロベール・ギスカール)の命で造られた地下祭室(クリプタ)や,ダンテが見たかもしれないという床の「生命の木」などのモザイクも見事なものだった. しかし,本当の主役は,この真っ白なファサードを見れば分かるように,建物を作り上げた石材「レッチェの石」(ピエトラ・レッチェーゼ)だ.このピエトラ・レッチェーゼが今回のレッチェ行の2つ目の大きな学習項目となった.
![]() しかし,それは違った.レッチェの語源は明日か明後日に語るつもりだが,ラテン語名のルピアエで,「白い」というギリシア語とは無関係だ.さらにサレンティーナ半島の南端には「レウカ」という街が現存する.レッチェの語源かも知れないという期待は外れたが,渡来したギリシア人がこの地方に「白い」イメージを抱いたことは確かだろう. いずれにせよ,大家さんがピエトラ・レッチェーゼのことを語るときは鬼神が乗り移ったようで,故郷への深い思いが伝わってきて感動的だ.
![]() 本来はサン・ピエトロ教会がカテドラーレで,司教(正教の時代は主教)のいる地域の中央教会だったそうだが,ビザンティンの勢力をこの地から駆逐したノルマン人ロベルトが新しい司教座教会を建て,それが現在のカテドラーレということのようだ. ピエトラ・レッチェーゼでできていて,美しいバラ窓(ロゾーネ)のあるロマネスク様式のファサードには,17世紀バロック時代の彫刻を施した入口がついている.これだけも十分多様だが,内陣にはビザンティン様式の影響が見られるうえ,地下祭室は,様々な様式(イオニア風,コリント風,エジプト風,ビザンティン風,イスラム風など)の柱頭を持つ42本の大理石の柱が支えるアーチがあってイスラム建築のように見える.ここにはジョット以前の様式の12世紀のフレスコ画もあり,大変興味深かった.
![]() オトラントとサンタ・チェザレア・テルメの間にポルト・バディスコという小さな入り江があり,岬に狼煙台に使われた塔が残っていて,その遠景は大変美しい.そこにある洞窟からは先史時代の壁画も見つかっていることはオトラント城でも聞いた. このポルト・バディスコには興味深い伝説がある.ローマ建国伝説の英雄アエネアスが漂着した地だということだ.これに関しては,また話が長くなるので,明日に「続く」ということにしたい. |
夕暮れに城の上から ギリシアに出港する船を見送る |
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