フィレンツェだより
2007年8月14日



 




サトゥロ考古学公園
レポラーノ



§南イタリアの旅(その3)−考古学エリア篇

8月8日のターラント行は実り多い旅だった.カフェテリア「ミュートス」で,「ハンニバルの城壁」を足元に見ながら軽く食事をして,帰路についたが,途中2つの「考古学エリア」に寄っていただいた.


 ターラントから少し東に行ったところにレポラーノという海沿いの町がある.ここに「考古学公園」(パルコ・アルケオロジコ)があった.イオニア海に突き出た岬の東側はポルト・ペローネという小さな漁港で,海水浴場としても賑わっているようだ.

 西側の海岸にはポルト・サトゥロ(サトゥーロ)という入り江があるが,その名の由来はギリシア名のサテュリオンということなので,半獣半人の姿の醜く滑稽な姿で現される放縦で好色な半神で,ディオニュソス(バッカス)の従者サテュロスからつけられた地名であろう.

 このサトゥロの名を冠した考古学公園には,先史時代の住居跡,古代の祭祀に使われたと推測される小高い土地,ローマ時代の別荘や浴場の遺跡が発掘,保存されている.

 考古学の専門家が見ればおもしろいものがたくさんあったのだろうが,予備知識がないので,とりあえずしっかり見ることに集中し,後日フィレンツェに帰ってから,ターラントのツーリストインフォメーションでもらったパンフレットで,少し勉強した.

南イタリアの灼熱の太陽に照らされながら,じっくり,この遺跡を鑑賞させてもらった.


 先史時代,先住民族,ギリシア人,ローマ人と古代の様々な変遷と民族の興亡を想像する契機となる貴重な場所であるが,岬という場所柄か.第二次世界大戦の時に設置されたトーチカなどの軍事設備の廃墟もあった.

古代建築の石積みや礎石を見て,細かい特徴をチェックしながら往時をしのぶような専門知識を持っていないので,古代の祭祀を想像しながら,神秘の風に吹かれて感慨に浸るのみだったが,良いものを見たと思う.


 岬から,ひたすら青いイオニア海を,眺めながら左手に目をやると,遠くに海水浴客で賑わうポルト・ペローネの入り江が見える.気のせいか,水浴びに興ずる声が風に乗って聞こえたような気がした.


「キュクロプスの城壁」
 サトゥロの考古学公園を後にして,行きとは別の,幹線道路ではない地方道を通ってレッチェに向かった.

 まだターラント県ではあるが,レッチェ県に近づいたところにサヴァとマンドゥーリアの町がある.このマンドゥーリアは葡萄の名産地でワインが有名らしく,ミネルヴィーノのパン屋(フォルナイオ)でご馳走になったアルコール度18パーセントのワインもマンドゥーリア産と聞いた.

 町から少し離れたところを走行中,大きな教会が見えた.カップチーニ教会というらしい.この白い教会を訪ねることはしなかったが,この傍に「考古学地域」があった.

 発掘された遺跡が金網に囲われて保存され,周囲の道路から見えるようになっている.この周囲を車でぐるりとゆっくり回っていただいたが,広さといい,城壁らしい石積みの見事さといい相当の考古学的価値を有する遺跡と思われた.

写真:
「考古学地区」
向こうに白い教会が見える


 ターラントのツーリストインフォメーションで英語版のプーリア州観光案内を入手した.

 Francesco Carofiglio, Apulia: A Touris's Guide to the Culture of Apulia, Bari: Mario Adda, 2006

である.英語の発音をカタカナ表記するとアピューリアに近いかと思うが,ラテン語ではこの綴りのままアプーリアと発音する.アクセントのあるプの部分が強く発音されて語頭のアが落ちたのだろうか,イタリア語ではこれがプーリアとなり,綴りもPugliaとなる.

 現在のイタリアの州名は古代ローマ時代の地名に基づいていることが少なくないが,必ずしも厳密に対応しない場合がある.古代も長いし,南イタリアはローマに支配されなかった時代,支配された時代があり,後者でも共和政時代,帝政時代と,ともかく紀元前8世紀くらいから紀元後6世紀くらいまでを歴史上の「古代」と考えたとき,1400年という長い時間なので,時期によって地方名称が異なるのも当然であろう.

 イタリアにはカラブリア州があり,日本の有名な選手が所属したことがあるサッカー・チームがあることで知られるレッジョ・ディ・カラブリアもこの州にある.「長靴」の「爪先」から「甲」とその裏側にあたる部分がカラブリア州だ.しかし,古代では現在のプーリア州もカラブリアと称されたことがあり,現在のプーリア州にある都市名を古代語の辞書で引くと「カラブリアの町」と説明してあったりする.

 一方,プーリア州の地名のもとになっているアプーリアも,時代によっては使用されており,ホラティウスが生まれたウェヌシアを辞書や事典でひくと「ルーカーニアとの境にあったアプーリアの町」と説明してあったりする.それに由来する地名がまだあるので,ルーカーニアは現在のバジリカータ州にあたるであろうから,ホラティウスもまたプーリア出身の詩人ということになる(その後,ウェヌシアの後身ヴェノーザは現在バジリカータ州にあることがわかった).

 いずれにせよ,現代イタリア語よりも英語の方が,少なくとも綴りの上ではラテン語の原形をとどめていることもあるが,原則として地名は現代のイタリア語名を優先する.

 前置きが長くなったが,この英語版ガイドブック『プーリア州』に拠れば,「キュクロプスの城壁」と称されるこの遺跡はメッサーピ人(メッサーピー族)の時代に遡る,と説明されている.「キュクロプスの城壁」は,古代ギリシアの遺跡にも使われている用語で,キュクロプスという,神話に出てくる巨人族が積み上げたと想像されるような,巨石城壁をこのように言うと理解して良いだろう.

キュクロプスはギリシア神話に出てくる一つ目巨人なので,この名称はもちろんオリジナルではなく,後世の通称のはずだ.


 遺跡全体の外側にあるこの大きな城壁跡の内部に,紀元前5世紀以降に造られたより小さな城壁もあるとのことなので,「キュクロプスの城壁」は相当の昔に積み上げられたものと想像される.ただし,現存するのはあくまでも発掘された遺構であり,巨人族が積み上げたと思われるような高さを目で見ることはできない.

 ここに出てくる「メッサーピ人」というのは,今回のレッチェ行での新たな学習項目である.


エンニウスと「メッサーピ人」
 古典文学を勉強して,ウェルギリウスの『アエネイス』を読んだことのある人は,「メッサーピ人」と聞いて,主人公アエネアスにとっては敵側の勇将であるメッサプス(メッサープス)の名を思い起こすことだろう.

 『アエネイス』のメッサプスに南イタリアを思わせるものを見出すことは難しいが,第7巻でアエネアスのライヴァルであるトゥルヌスがラテン人の連合軍を勢ぞろいさせた時,メッサプスは「馬を良く御す者であり,ネプトゥヌスの子孫」と紹介されており,海の神ネプトゥヌス(ポセイドン)の血を引くとされるところに,海を越えてイタリアにやってきた南イタリア的背景を見出すことができるかもしれない.

 ウェルギリウスにとってラテン叙事詩の偉大な先達である「ラテン文学の父」エンニウスは,自らの祖先はメッサプスであり,遠祖は海を越えてギリシアのボイオティアから来たと言っていたらしい.ウェルギリウスの作品に注解を施した紀元後4世紀後半の文法家セルウィウスが報告している.

 エンニウスの作品は不幸なことに完全な形で現存するものはないが,彼が書いた叙事詩や悲劇の一節をキケロなど後世の作家が引用している.キケロやウェルギリウスにとっては彼は偉大な先人であった.

 『アエネイス』第7巻でメッサプスが率いる部隊は,規則正しく行進し,歌で自分たちの王メッサプスを称えると言われており,ウェルギリウスがこのように描いたのは,メッサプスを祖先と仰いだ先人エンニウスに敬意を表している可能性を指摘する学者もいる.

 エンニウスは,実は「レッチェの出身」である.今はレッチェ市の中に考古学地域として遺跡が残るのみだが,現在のレッチェ市の市街地の近傍にルディアエという古代都市があり,ここがエンニウスの出身地だ.

彼は当時の文化的先進地であった南イタリアに生まれながら,ギリシア人ではなく,メッサーピ人の血筋を誇りにしていたことになる.


 レッチェを中心とする「長靴」の「踵」にあたる半島部(サレンティーナ半島)をサレント地方と言うようだが,このサレント地方にギリシア人たちにとっての先住民族として蟠居していたのがメッサーピ人だった.

後から来たギリシア人の影響で,彼らはギリシア文字を使うようになるが,その言語はもちろんギリシア語ではない.


 南イタリアのギリシア人にとって彼らは「先住民族」だったが,メッサーピ人もまたアドリア海を越えて,現在のギリシア,アルバニア,旧ユーゴスラヴィアのいずれかにあたる地域からやって来たと言われている.

 鉄器時代にメッサーピ人が残した石の文化の遺跡を見せられると,彼らがサレント地方の今の文化につながる基層を築いたのだと思わないではいられない.イタリアの他の地域やギリシアの大理石とは異なるサレント地方の石の文化については,明日以降に感想を述べることにする.

 マンドゥーリアはサレント地方のレッチェ県ではなく,ターラント県に属しているが,レッチェ県に隣接しており,広い意味でサレント地方のメッサーピ人の文化圏に属していたのだろう.


ヴァステの考古学博物館
 メッサーピ人の遺跡には翌々日の8月10日にも出会うことになる.その理由は明日語ることにするが,お願いしてミネルヴィーノからアドリア海沿岸に出て南に行ったところにあるカストロに連れて行っていただき,その帰りに,カストロから北西に少し内陸に入ったヴァステの考古学博物館にも寄って下さった.

 この時点では,メッサーピ人についての私の知識は漠然と「先住民族」らしいくらいのものでしかなかったので,興味を覚えたのはギリシア神話を題材にした壺絵などで,他の展示はついでに見ていただけだった.

写真:
赤絵式の壺
ヴァステの考古学博物館


 メッサーピ人のネクロポリスの出土品を展示したコーナーに,ギリシア文字が刻まれた石の発掘品が置かれていた.その意味を訊ねられて,読もうとしたが,文字ははっきり読めるのに意味が全く分らない.

もともと殆どない自信と権威を完全に失いかけたとき,もしかしたらこれは,エトルリア語がそうであるように(厳密にはエトルリア文字はギリシア文字の影響を受けた別の文字体系で,ギリシア文字と同じではないが),全く違う言語をギリシア文字で表記しているのではないかと気がついた.この時,メッサーピ人に対して本格的に興味を持ちはじめた.


 実際に,ギリシア人が後から来てからメッサーピ人が全く駆逐されてしまったわけではなく,長く共存して相互に影響しあった期間があったことは容易に想像がつく.少なくとも,先住民族であるメッサーピ人がギリシア文字を使ったのは確かなようだし,後には文化的な影響も受けたらしい.

 この後,ヴァステと隣接するポッジャルド(ヴァステはポッジャルドと言うコムーネの一地域)にフレスコ画がある地下祭室(クリプタ)博物館があるということで連れて行って下さったが,閉まっていたので,もう一度ヴァステに戻って「考古学地域」を案内していただいた.この地域にあるサント・ステファノ教会にフレスコ画があり,それを見せてくださるお考えだったようだが,ここも閉まっていた.

この教会はとても小さいし,まわりには人家もない.一体どういう教会なのか,なぜこんなところに建っているのかと訝しく思った.


 大家さんの話では,今のように各人が自動車を持っていなかった時代,人々は村から遠く離れた畑に泊り込みで農作業に来たので,長期に村を離れて働く農民たちのために,このような教会が作られ,人々がここでお祈りをしたとのことだった.

 広大な農地の間に点在する作業小屋や,ところどころで廃墟になっている教会のような建物にはそのような意味があったのかと得心した.

車窓から見た「考古学
地域」の石積みは,メッ
サーピ人の集落や砦の
跡だ.


 これらを飽かず眺めることは,ラテン文学やローマ文化を知る上でも,地中海世界に興亡した様々な民族について学ぶ上でも,もちろん現代のヨーロッパや広く世界を考えるに際しても,得がたい体験であるのは間違いない.

 私たちが「先住民族」と一括してしまう人々も実は多様で,それらについて普段考えることは殆どない.帰宅後,数少ない参考書を紐解くと,少なくともメッサーピ人やその周辺の「先住民族」に関しては,ラテン語やギリシア語の文献にも言及はあるらしいので,考古学的な知見に関しては少しずつ学んでいくしかないが,少なくとも古典文献だけはフォローして行きたい.

 次回は,サレンティーナ半島の二つの「城」とアエネアスのイタリア漂着について報告する.





ヴァステの広場
右の建物が考古学博物館