フィレンツェだより
2007年8月13日



 




ターラントのアラゴン城
(現在は海軍の施設)



§南イタリアの旅(その2)−ターラント篇

ローマの作家の中でもホラティウスは,どちらかといえば苦手だ.


 「今日の果実を摘め」とか「征服されたギリシアは猛々しきローマを手なずけた」とか「祖国のため死するは麗しくも甘美なるかな」とか,「大山鳴動して鼠一匹」とか,警句的なフレーズは知られているものの,辛辣な諷刺家であり,耽美的な抒情詩人である彼の全貌を理解することは難しい.

 叙事詩や悲劇には粗筋があるが,抒情詩は言葉の持つ美しさと配列の妙と音楽性を理解できないと本当の良さはわからないだろう.そう考えると,自分のラテン語力と相談して,ホラティウスのテクストに挑戦することを躊躇してしまう.

それでも,時々出会う彼の詩の美しさが,全く理解できないわけではない.


 韻律の規則性や音楽的な響きに注意を奪われながらも,その詩想に共鳴するような出会いが,ごく稀にはある.何と言っても古代ローマ文学の黄金時代を代表する大詩人だ.敬して遠ざけながらも,これからもたまには果敢に挑んで,その度に挫折感を味わうことを繰り返すことになるだろう.



 8月8日,ターラントに連れて行っていただいて,古代遺跡(右下の写真)のそばで彼の詩の一節のイタリア語訳を刻んだ碑に出会った.フィレンツェ帰宅後,『歌集』第2巻を紐解き,第6歌の読解に挑戦した.


 セプティミウスよ,ガデスでも,ローマの軛を肯んじない
 カンタブリアでも,君は私と一緒に行ってくれるだろう.
 北アフリカの波が寄せては返す,未開の
 シュルテスの岸辺にも.

 アルゴスからの植民者が建設したティブルの町が
 私の老年の住まいとなりますように!
 航海に,陸路の旅に,行軍に疲れた私の
 終の住処として.

 無慈悲にも運命の女神たちがそれを許さなければ,
 羊が革衣で守られているガラエスス川の麗しい
 流れと,スパルタから来たパラントスに治められた
 土地に,私は行きたい.

 そこは,どこより,私に微笑んでくれる所だ.
 蜂蜜の甘さはヒュメットス山に劣らず,
 緑濃いウェナフルムに負けない
 オリーヴを産み出す.

 そこでは,ユピテル様が長い春と,温い
 冬を与えて下さった.バッコスの友である
 アウロン山は,豊かに葡萄が実るので,
 ファレルヌムを羨むこともない.

 さあ,その地が,あの聳え立つ幸せな町が,
 君と私を呼んでいる.そこで,君は,
 詩人であり,友である私の,火葬の後の熱い
 骨灰に涙を注ぐのだ.





 カタカナの固有名詞が分りにくいと思う.ガデスは現在のスペイン南西部のカディスにあたる町,カンタブリアはカンタブリー族の住む土地で,スペイン西北部,ピレネー山脈の麓の地方だ.いずれも大西洋に面しており,当時のローマ帝国の西の果ての土地だ.そこまで一緒に行ってくれるほど深い仲の友人だということの説明になっている.年若の,おそらくは同性愛の友人に第1スタンザ(連)は呼びかけている.

 ティブル(ティーブル)は現在のティヴォリで,ローマの北東にある近郊都市で,富豪や権力者の別荘があったことで知られようになる.

 「アルゴス人」はギリシア人を意味していて,ギリシア人が町を建設したという伝説を持っていた.ホラティウスの「終の住処」の第1希望がこのティブルである.

 第2希望として挙げられているのがタレントゥム,現在のターラントだが,直接その名前は挙げられていない.ガラエスス川(ガレーゾ川)はタレントゥムの近傍を流れており,ウェルギリウスの『農耕詩』にも名を挙げられている有名な川である.また,パラントス(パーラントス/ファーラントス)がラケダイモン(スパルタ)人を率いてタレントゥム(ギリシア名タラス)を建設したという伝説は良く知られていたので,ガラエススとパラントスの名を挙げることで,彼の「終の住処」第2希望がターラントであったことが分る.

 当時は,良質な毛が取れる羊の体には革の衣を巻いて保護したらしいことも,ガラエスス川のほとりが,高級な羊毛の産地だったこともこの連に垣間見える.

 ヒュメットスはアテネのあるアッティカ地方の山で,蜂蜜の産出で知られていたし,カンパーニャ地方の町ウェナフルム(ウェナーフルム)はオリーヴで有名だった.ターラントはそれらに負けない良質の蜂蜜とオリーヴの産地だった.ターラントで見た碑に刻まれていたのは,この連の冒頭のイタリア語訳だった.

 ユピテルがギリシアのゼウスにあたるローマの最高神,バッコスはラテン語形バックスを英語読みするとバッカスになるので,葡萄酒の神であることは言うまでもないだろう.アウロン(アウローン)がターラント近傍の山,カンパーニャのファレルヌム地方がその名で呼ばれるワインで知られるほど,良質の葡萄が採れたことがわかれば,詩人が,ターラントはワインがうまい所だと称えていることがわかる.

 最終連は,そのすばらしい町に暮らして,愛する友人に看取られながら死にたいと言っているわけだが,一種の修辞的な言い方で,要するに「さあ,愛しいセプティミウスよ,蜂蜜とオリーヴとワインが豊かなターラントに行って,一緒に楽しく暮らそう」ということだろうか.



 前置きが長くなったが,「どこか見たいところはありませんか」と言われて,思いつく所は色々あったが,古代にギリシア人の植民都市(本国に従属するのではなく,移住者たちよって建設され,完全に独立したポリス)として,「大ギリシア」(マグナ・グラエキア/マーニャ・グレーチア)と称される南イタリアで最も栄えた街の一つだったタレントゥム(ギリシア名タラス)があったターラントに行きたいと答えた.

 これはかなりのご負担を強いるものであったので,今考えると冷や汗が出る.私たちにとっては同じく南イタリアの同じくプーリア州に属する都市であっても,ターラント県の県都であるこの街は,レッチェからは随分遠い所にあった.そもそもミネルヴィーノからレッチェまでが,それほど近くない.

 道路は整備されているのだが,分りやすい幹線道路で行こうとすると,レッチェからは,まずブリンディジまで北上し,そこからひたすら西進することになる.レッチェの街から西進しても着くはずなのに,道路標示は常に「ブリンディジ,ターラント」と並記されていた.

 予想外に長距離の行程になってしまったのですっかり恐縮してしまったが,車を飛ばして2時間弱でターラントに到着した.途中,幹線道路から外れた道で,車が羊の群に囲まれるという稀有の体験をした.

写真:
車は,あっという間に
羊の群に呑み込まれた



ターラントの旧市街
 イタリアを「長靴」にたとえると,「土踏まず」の部分が,イオニア海が陸地に入り込んだターラント湾で,この大きな湾の北東の更に入り江になったところにターラントはある.その中に更に小さな入り江があって,岬と岬の間には島があり,これがターラントの旧市街だ.

 島は両方の岬と橋でつながっており,海から見て左の岬には鉄道の駅が,右の岬には大きな新市街がある.旧市街のある島の外側が外海に向かう「大海」(マーレ・グランデ)で,内側が「小海」(マーレ・ピッコロ)である.現在のターラントは南イタリア屈指の工業都市で,港には大きな船が何艘も停泊し,岸壁には鉄工所や造船所が並ぶ.

 旧市街と新市街を結ぶジレヴォーレ橋(跳ね橋)の歩道の金網には,恋愛の永続を願って,男女の名前を書いた幾つもの鍵がかけられていた.間違いなく今も生きている街だ.

 「ドーリス神殿」(テンピオ・ドーリコ)と称されている古代神殿跡は,この旧市街にある.柱の巨大さにまず目を見張ったが,その傍らにホラティウスの詩碑はあった.

 その西側には市庁舎があり,東側には大きな古城(トップの写真)がある.「アラゴン城」と言われており,ナポリ王国を支配したスペインのアラゴン王家が作ったものだ.1480年にオスマン・トルコが同じプーリア州のオートラントを占領して,イスラムの脅威が再び南イタリアに迫ったとき,フェルディナンド王によって1481年に築城が命じられ,翌年完成したものだそうだ.

 この城を建築したフランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニの名は,翌日行ったオートラントの城でも何度か耳にすることになる.


「ハンニバルの城壁」
 豊かな収蔵品で知られるターラントの国立考古学博物館は新市街の方にあるのだが,ツーリストインフォメーションで確認したところ,現在修復工事中で閉鎖されているとことで,代りに旧市街の方に収蔵品の一部を見せてくれる臨時の展示会場があることを教えてもらった.

 その際に「ハンニバルの城壁」が存在することを知った.

 城壁は,現在の地表よりも低いところに部分的に残っている.新市街のカフェテリア「ミュートス」(古代ギリシア語で「神話」)のテラスの前に,地中が見えるように地面をガラスで覆った所があり,まず,そこに「城壁」を見ることができた.

写真:
地下に残る「ハンニバルの城壁」
カフェ「ミュートス」のテラスから


 また,橋を渡って旧市街に戻り,海沿いのヴィットリオ・エマヌエレ2世通りを歩くと,そこにも「城壁」の跡が見られるはずだったが,地表のガラス越しに見えるのは茫々の草だけだった.



 ターラントの名は,海神ポセイドンの息子タラスにちなんでつけられており,ギリシア人が築いた植民都市だ.「植民市」も近代帝国主義時代の「植民地」も英語ではコロニーで,ラテン語のコロニア(コローニア)を語源にしている.住んで耕すという動詞がコロー,住んで耕す人がコローヌス,住んで耕す場所がコローニアとなる.

 定住して畑(アゲル)を耕す(コレレ)農耕(アグリクルトゥーラ)が行われると文化(クルトゥーラ)が生まれるというのは乱暴な言い方だが,英語の農業(アグリカルチャー)と文化(カルチャー)もこの一連のラテン語を語源としている.ドイツの町ケルンもラテン語名はコロニアで,香水のオーデコロン(オー・ド・コローニュ)も「コロニアの水」という語形成になっている.

どうしても帝国主義時代の「植民地」を連想しがちだが,古代地中海は領域国家よりも都市国家の世界であり,母市から分かれても「植民市」は原則として独立した都市国家である.


 シチリアで栄えたシュラクサイ(シュラークーサイ/シラクーザ)も,現在のイスタンブールにあたるビュザンティオン(ビューザンティオン)も植民市として出発した.古代のターラントもスパルタを中心とするラコニア地方から来たドーリス系ギリシア人によって築かれた植民市だが,スパルタの支配を受けていたわけではなく,独立した都市国家として繁栄した.

 南イタリアは多くの先住民族とギリシア人の世界だったが,中部イタリアでローマが台頭して来ると状況は変わる.

 しかし,ローマも何の障害も無くイタリアに覇を唱え,やがて地中海世界を支配したわけではなく,様々な変遷があった.その歴史の波の中でターラントも翻弄される.

 ギリシア北方のエピルス(エピールス/エペイロス)の王ピュルス(ピュッルス/ピュッロス)はアレクサンドロス大王の母方の又従兄弟にあたり,大王や後のハンニバルと並び称される古代の名将だが,彼をギリシアから招いて,ターラントは他の南イタリアのギリシア人都市とともにローマに対抗しようとする.紀元前280年のことだ.ピュルスはローマ軍を破ったが,軍事的勝利のみに終わり,ターラントはローマの優勢を覆すことができず,ローマに従属することとなった.

 ハンニバルが活躍する第2次ポエニ戦争(前218-202年)に際して,ターラントは最初圧倒的に優勢だったカルタゴの側についたが,ハンニバルを消耗させ,スキピオによる最終的な勝利(ザマの戦い)の素地をつくったファビウス・マクシムスに占領され,南イタリアの中心都市としての地位を永遠に失った.

 ターラントの栄光は前3世紀で終わったことになる.

 その後のターラントは,ローマ支配下の一地方都市となり,ローマ帝国崩壊後は,東ゴート族,イスラム教徒の侵略を受け,10世紀に東ローマ帝国(ビザンティン)によって再建された.その後はノルマン人,ホーエンシュタウフェン家,アラゴン家,ブルボン家と支配者を変え,19世紀後半のイタリア統一を迎える.

 ホーエンシュタウフェン家の神聖ローマ皇帝フリートリッヒ(フェデリーコ)2世がシチリアと南イタリアを支配していた時代に作られた要塞の上に建てられたのが,現在のサン・ドメニコ教会である.

写真:
サン・ドメニコ教会
ターラント


 アラゴン家の王がナポリに君臨した時代にオスマン・トルコの侵略に対抗して作られたのがアラゴン城であるのは上述した.


考古学博物館と旧市街の教会
 海沿いに旧市街の西端に至ると,そこに現在修復中の考古学博物館の収蔵品を一部展示しているパラッツォ・パンタレオーネがあった.

 さすがに,「大ギリシア」一の大都市として栄えたターラントだけのことはあり,壺絵,皿絵などにおもしろいものがあったが,購入したカタログに掲載されている大理石やブロンズの像はごく一部しか見られず残念だった.

写真:
臨時の展示会場
パラッツォ・パンタレオーネ


 そこからドゥオーモ通りに入ってすぐのところに前述のサン・ドメニコ教会がある.教会は閉まっていたが,モストラ(特別展)をやっていて,旧修道院のキオストロ(回廊)を見ることができた.そこではフレスコ画の痕跡や古代の建物の跡を見ることができた.

 回廊の地下部分にある古代建築は前6世紀のギリシア神殿とのことだ.くわしく見ればなかなかのものだったと思う.もらったパンフレットが勉強になった.

 ドゥオーモ通りをさらに進むと,11世紀に創建されたドゥオーモ(サン・カタルド教会)があるが,現在の建物はバロック時代のものだ.ここも閉まっていたので拝観はできなかったが,周辺の旧市街が,まだ見ぬパレルモやイスタンブールを思わせる味わいがあった.(続く)





カフェ「ミュートス」で
足元には「ハンニバルの城壁」