フィレンツェだより
2007年8月12日



 




ミネルヴィーノ・ディ・レッチェ
田園風景



§南イタリアの旅(その1)−ミネルヴィーノ篇

大家さんの故郷であるレッチェにご招待いただいた.4泊5日間で色々なところを案内していただき,南イタリアのヴァカンス(ヴァカンツァ)を満喫した.


 南イタリアにレッチェという都市があることは知っていたが,どうやってそこまで行くのか,どんなところなのか,よく理解していないまま,ともかくフィレンツェ中央駅に行き,クレジットカードが使えて,英語表示を選択できる自動券売機で電車の座席を予約したのは出発の数日前だった.

 8月7日,フィレンツェを11時31分にたつ,ミラノ発のユーロスターに乗り込んだ.この電車は13時8分にローマ・テルミニ駅に到着する.そこで13時38分発レッチェ行きのユーロスターに乗り換えて,レッチェに到着するのが19時48分である.これだけ連絡の良い電車は一日に何本もあるわけではないだろう.

左の地図は簡略図で,
分りやすいように,4都市
の名前だけを挙げてある.


 これで見ると,直線距離はさほどでもないように見えるかも知れないが,実際にはナポリの手前のカゼルタで東に方向を変え,アペニン山脈を越えてアドリア海(つい日本海と言ってしまいそうになる)側に出なくてはならない.

 ちなみに,イタリアは大雑把には地中海に面した国と言って間違いではないが,北は陸地でアルプス,東はアドリア海,南はイオニア海,西はティレニア海に囲まれていて,背骨のようにアペニン山脈が南北に走っていることを理解しておくと便利だろう.

 フィレンツェ・ローマ間はノンストップで,ローマからカゼルタまでもどこにも止まらなかったが,カゼルタの次に,アペニン山脈を越える前にベネヴェントという駅に止まる.山脈を越えて最初に止まる駅はもうアドリア海に面した街フォッジャだ.フォッジャからプーリア州になる.

 日本では市町村のよりも大きな地方自治体としては都道府県があるだけだが,イタリアでは県(プロヴィンチャ)の上位の自治体として州(レジョーネ)がある.フィレンツェはトスカーナ州,ペルージャはウンブリア州,ローマはラツィオ州,ナポリはカンパーニャ州である.レッチェはプーリア州なので,フォッジャから先は,いわゆる「長靴」の「踵」にあたる地域にあるレッチェまで後はすべてプーリア州である.

 しかし,フォッジャからプーリアの大都市を挙げるだけでも,州都バーリ,ギリシアへの渡航地として古代から有名なブリンディジなどがあり,レッチェはまだ先である.

 バーリで降りると,世界遺産で有名なアルベロベッロに行けるが,今回は予定に入れなかった.カゼルタにも世界遺産があるらしく,そこで降りる旅行者も少なくなかった.

意外だったのは,バーリやブリンディジでかなりの人が降りたものの,終点のレッチェまで行く人もけっこう多かったことだ.レッチェが故郷の人,レッチェに魅力を感じて諸地方からヴァカンスに来る人が多いことは後で納得した.


車窓での「学習」
 ヴァカンスで楽しめば良いのだからだから,何も学ばなくても構わないのだが,根が貧乏性なので,ついつい「あれは有益だった」とか「これは勉強になった」と自分に言い聞かせてしまう.

そういう意味では,車窓から見える風景も「大いに勉強になって,大変有益だった」.


 ローマまでのトスカーナ州,ウンブリア州の山がちな風景も,同じように見えて微妙に違うように思えたし,ラツィオ州,カンパーニャ州で車窓から見える作物は,基本的にはトスカーナと同じく,オリーヴ,葡萄,ひまわりなのだが,カンパーニャでこれに加えてトマトの畑が見え始める.トスカーナではあまり目に付かなかった広い小麦畑がラツィオ,カンパーニャの平原には広がっている.

 「平原」と書いたが,ラツィオ州では鉄道の西側から海まで平地になっているが,東側には山が迫っている.こちらだけ見ていると,岩がちでところどころで石灰石が採取されている不毛な山にオリーヴが植えられている風景しか見えず,意外にラツィオは作物の貧しい地域だったのかと思ってしまうが,実際には西側に豊かな平地が広がっている.

 トスカーナやウンブリアでも丘の上の都市はめずらしくないが,ローマからカゼルタまでの鉄道の東側に見える山の中腹や,峰々にある大きな町はまるで空中都市のようだった.

もっと驚いたのは,アペニン山脈を越えるときである.


 全てトンネルではなかったので,多分,山の間の低くなったところを選んで鉄道を敷設したのだと思うが,それにしても山間であることに変わりはないのに,鉄道の両側に刈り取りの終わった小麦畑とおぼしき空き地が広がっていたことである.

 集落から離れたところに大規模な農地がある.これは後で教わることになるプーリア州の農業とも似ているところがあるように思う.

 フォッジャからレッチェまでは距離があるので,良く見ると車窓風景も少しずつ変わってくるのだが,基本的にオリーヴ畑と葡萄畑が交互に延々と広がっていて,所々に大きな街がある,という印象を受けた.

また,驚くべきことにフォッジャまで出て,レッチェまでの海沿いを旅している限り,プーリア州では山がほとんど見えない.「全く見えない」と言っても過言ではない.南北に走るアペニン山脈は「長靴」の「爪先」にあたるカラブリア州の方に行ってしまうからのようだ.


 トスカーナのオリーヴ畑が大体小ぶりの木であるの対し,プーリアのオリーヴは,古木の風格をたたえた巨樹が少なくない.丈は松や糸杉,プラタナスほどには高くならないが,その捩れた太い幹の様は年輪を重ねたバオバブの木のようなたくましさを感じさせた.

 ともかくレッチェの駅に着くまでに「イタリアは広くて,多様だ」ということを実感した.

 幸いなことに,フィレンツェでもローマでも出発時間は遅れたが,到着時間は正確だった.どこかで調整したのだろうが,いずれも終点で降りる私たちにとっては幸運だった.


滞在地,ミネルヴィーノ
 大家さんがレッチェ駅まで迎えに来てくださって,実家のあるミネルヴィーノ・ディ・レッチェまで自動車で連れて行っていただいた.

 今まで単に「レッチェ」と称してきたが,「レッチェ」にはレッチェ県(プロヴィンチャ)と県庁所在地であるレッチェ市(コムーネ)があり,ミネルヴィーノ・ディ・レッチェという時の「レッチェ」は「県」のほうである.つまり県庁所在地の大きな駅に着いて,滞在させていただく県内の小さなコムーネであるミネルヴィーノまで車で連れて行っていただいたということだ.

 大家さんはミネルヴィーノのことを日本語で「村」とおっしゃっており,人口が3500人くらいということなので,確かにその規模で言えば,日本で言えば「村」,もしくは大きな「村」の「大字」くらいかも知れないが,商店街こそないものの,スーパーや必要な小売店があり,教会も郵便局も必要なものは揃っている.私のイメージで言う「村」というよりも,家と店が集まる「街」と周辺の農地によって完結している一つの世界のように思われた.

 実際には自動車が足となって,整備された道路によって近隣の自治体や大都市と結ばれているので,もちろん閉ざされた世界ではない.

 大家さんの実家も「街」にあるが,ご実家の畑にある作業小屋を改造して,夏のヴァカンスをそこで過ごしておられる.私たちはその一室に泊めていただいた.

 そんな「水入らず」でくつろいでいるところに4泊もするのは,お邪魔になるし,ご面倒もおかけるするのではないかと思われたので,最初は1泊させていただいて,ともかく南イタリアを体験してこようという風に考えていた.しかし,5日間の心づくしのご歓待を通じて,お客を招いて楽しんでもらうことは,様々な負担を越えて,自分たちの楽しみにもつながるという考え方があることを,おぼろげながら理解することができたように思う.

 もちろん,こうした考えは個人差はあるが,日本にもあるし,日本でも先輩や友人の自宅や別荘で歓待してもらったことは何度もあるが,そのスケールが大きいというか,ともかく4泊もさせてもらって,毎日色々なところに連れて行ってもらい,様々なご馳走を振舞っていただいたのは,単に私たちが厚かましいというだけではないように思われた.



 1泊が4泊になった理由の一つに,8月10日と11日がミネルヴィーノのお祭りなので,少なくとも10日に泊まると,夜店や出し物など,その雰囲気を味わえるからと「説得」していただいたことがある.南イタリアで体験した様々なことは明日以後順番に書いていくことにして,半分しか見ていないし,そもそも何のお祭りだったのかも良く理解していないのだが,まずお祭りの様子を紹介したい.

 神戸や東京のルミナリエはイタリアにモデルがあるそうだが,サン・ロレンツォの祝祭日である8月10日,ミネルヴィーノの教会の前の広場は電飾で輝いていた.大変美しいもので,決してちゃちな規模のものではない.近隣の村が日替わりでお祭りになるので,この設備は交代で使うらしく,大きな負担なしでこんなに華やかな演出ができるとは大変合理的だ.

写真:
電飾の煌めく特設ステージ


 電飾の煌く通りには夜店が並び,教会前の広場にはステージが作られ,ブラスバンドが一晩中オペラの音楽を演奏する.アリアの部分はトランペットやトロンボーンなど独奏楽器の聞かせどころである.

 その夜,私たちが聞いたのは,ヴェルディの「リゴレット」だったが,なかなかの水準の演奏で,専門的訓練を受けた,少なくともセミプロくらいのレヴェルの技術を持った人たちでなければできないものだ.

 「音楽の原点」というには洗練されすぎているが,「楽しむ」という側面においては,喝采している男女を見ていると,やはりオペラは,その出発点は貴族やインテリのものでも,最盛期にはイタリアの庶民が支えて来たのだなあと実感する.


ミネルヴィーノの豊かな味
 今回の旅行で,様々なご馳走を振舞っていただいた.大家さんが小学校に一緒に通ったという主人が焼くパンはうまかった.大家さんに連れられて,そのパン屋さんを見学させていただき,今,90歳を越えている,もしかしたら最後の名人かも知れない職人が手で積み上げた石釜も見せてもらった.

 日本からも見学に来るシェフがいるほど有名な店らしく,店舗部分は小さいが工場(私の母の実家が菓子屋で,店の裏にやはり工場があるので,私は「こうば」という読み方が好きだ)は大きく,近代的な設備も取り入れて,近隣地域のニーズに応えているようだった.

 名人が積み上げた昔ながらの焼き釜も2つとも立派に稼働しており,そばには釜の中を掃除するための月桂樹の枝が置かれている.

 この主人は快活な方で,私たちを相手に能弁に説明して下さり,アルコール度数18パーセントの特製ワイン,焼きたてのパン,自家製のチーズなどを振舞ってくださった.彼が焼き釜の中の「火」(フオーコ)を指して,ギリシア語で「ピール」と言うのだと教えてくれた.わざわざそう言ったのは,私がギリシア語も教える教師であることを知っていたからではなく,この地方で使われているパン焼きの用語としての説明だったのだと思う.

 古代ギリシア語で火のことを「ピュール」という.たとえば普段私たちが絶対に使わないが英語で「熱分解」という意味の語にpyrolysisがある.「分解」,「分析」という語に-lysisが使われるのは比較的おなじみだと思うので,pyro-の部分が「火」から「熱」という意味で使われていることは容易に想像がつくかも知れない.より一般的(?)な語としては火葬用の薪を英語でパイアー(pyre)というが,これもギリシア語の「火」が語源だ.

 この地域の地名にはギリシア語語源のものが時々出てくる.大家さんの話では昔はギリシア語を話す集落もあったそうだ.が,その話はまた明日以降に回す.

パン屋の店先にご老母が椅子を出して涼んでおられた.ご挨拶すると,「何と言う名前か」というご下問があり,「トクヤ」と答えたら,「サルヴァトーレ」,「サルヴァトーレ・デル・モンド」,「ディーオ」と畳み掛けるようにおっしゃった.


 帰り道,何で私が「世界の救世主」や「神」になるのかと考えた.

 サルヴァトーレという名前の人は,以前ワールドカップで得点王になり,ジュビロ磐田にもいたスキラッチもそうだが,「トト」というあだ名になるから,「トクヤ」が「トト」に聞こえたのだろう,という自説を披露したら,トトは「トゥリッドゥ」にもなるらしく,そっちの方が音が近いという説も出た.「カヴァレリア・ルスティカーナ」の世界だろうか.

 そう言えばミネルヴィーノにはこのオペラの原作の作者の名を冠したヴェルガ通りがあった.農道がヴェルガ通りになる方が,私の名前が「救世主」や「色男」になってしまうよりは説得力があると思う.



 何せ畑の中の作業小屋を改築した別荘に泊めてもらっているので,まわりになっている葡萄,桃,唐辛子が大変にうまい.赤ワインもオリーヴ・オイルも自家製だった.地元産のこだわりの小麦粉(セモリナ)でできた手打ちパスタも食べさせてもらった.豊かな作物に満ちた「南イタリア」を満喫した.

 畑になっているものは自由に食べて良いと言っていただいたので,フィレンツェの中央市場で買い損ねたまま姿を見なくなって残念に思っていた緑のイチジクをもいで食べた.

写真:
外皮の緑と熟した果肉
の赤のコントラストが鮮
やかな小ぶりなイチジク


 料理に唐辛子(ペペロンチーノ)をナイフで細かく切って入れるのがうまかった.お土産にと言ってくださったので,畑から直接頂戴して来た.

 知り合いの漁師さんが水揚げしたという獲りたての海産物もご馳走になった.海が近いのだ.

 私たちも2度ほど海水浴を楽しませていただいた.サンタ・チェザレア・テルメという温泉のある町の岩場の海水浴場と,ラーギ・アッリミニという2つの海水湖が近くにある広い砂浜海岸で,「泳いだ」.妻は達者だが,私は泳げない.2人とも,30年ぶりの海水浴で,実際のところ水浴びに近かった.

 それでもローマ建国伝説の英雄アエネアスが渡ってきたアドリア海の紺碧の水に入ることができたのだ.稀有の体験をさせてもらった.

海が青く,広い.





地元産小麦による
手打ちパスタ