フィレンツェだより |
大型ツアーバスで日帰り旅行 ヴァッロンブローザにて |
§「ヴァルダルノのルネサンス」バス・ツアー
下の簡略化した地図(妻の労作)で見てもわかるように,すべてフィレンツェとアレッツォの間のヴァルダルノ(アルノ川渓谷)地方にあり,うち3つは鉄道の駅があるが,最初の2つは鉄道,幹線道路からはずれたところにある.
1人わずか5ユーロの共通入場券を買っただけで,申し込んで予約がとれれば,7月と9月の毎日曜日に,無料のバス観光サーヴィスをしてくれるとは驚きだ.車を運転できない私たちにとっては渡りに船の企画で,喜んで参加させてもらった.もしかしたら空いているかもしれないと思ったが,実際には満員だった. 避暑地ヴァッロンブローザ ギルランダイオの「聖母子と聖人たち」の板絵があるヴァッロンブローザは,もし今回の企画がなければ絶対に行かなかったところだろう.標高は1,000メートルで,行ってみれば避暑地ともなっている開けたところなのだが,行くまでがすごい山道だった. バスは,見通しの悪いカーブではクラクションを鳴らしながら,対向車があった場合の警戒をする.岩手県出身の私はそういえば,こんな風景をどこかでみたような気がする. 立派に舗装してあるが,なにしろ狭いので,対向車とのすれ違いが大変である.しかも避暑地なので,かなりの人が自動車で来ている.どうもバス路線もあるようで,路線バスとすれ違うときなど,本当にドキドキした.難所を切り抜けたときには,乗客から運転手さんにブラボー(ブラーヴォ)の歓声と拍手が起こった.
![]() 右下の写真が大修道院長(アバーテ)を長とするヴァッロンブローザの大修道院(アバッツィア)で,ここはフィレンツェの街中の旧修道院などとは異なり,「祈れ,そして働け」のモットーが生きている現役の修道院であるようだ.
ヴァッロンブローザ大修道院宗教美術館 付属の美術館は,ほとんどギルランダイオが一枚看板と言っても良いくらいの小さなものだったが,来て良かったと思った.フィレンツェのサンタ・トリニタ教会サッセッティ礼拝堂から持ってきているギルランダイオの「牧人礼拝」を明るい光の中でしっかりと鑑賞することができた. この絵には,幼子イエスを聖母と牧人たちが礼拝している場面の背後に,牧人へのお告げの場面や三王礼拝の行列も描き込まれており,1枚の絵に少なくとも3つの場面があることになる.眠っている姿に描かれることが多いヨセフ(サン・ジュゼッペ)がきょとんとして中空をみている姿が印象に残る.これらの一見不統一に見える様々な要素には寓意的な意味が込められているのではないかと思わせるところが,やはりギルランダイオはルネサンスの画家なのだろう. 来年3月まではフィレンツェにいるのだから,この絵がサンタ・トリニタ教会に戻ってくる12月以降は簡単に見られるわけだが,サンタ・トリニタの暗い礼拝堂で,50チェンティの喜捨をして数分間明かりのついている間に,何場面もある「聖フランシスの生涯」のフレスコ画とこの板絵の両方をじっくり鑑賞するのは難しいし,こんなに近くでは見られないので,今回の体験は本当に稀有なものだった. ![]() どちらかといえばフレスコ画の方に実力を発揮する画家のような印象を持っていたので,胸がドキドキするほどは期待していなかったのだが,この作品も大変すばらしく,早起きのせいで残っていた眠気が一気に吹き飛んだ.美形とはいえない聖母子が上品に描かれており,聖人たちの表情に力が入っていた. 4人の聖人の組み合わせも珍しかった.聖母子の,私たちから見て右側に,大修道院長聖アントニウス,聖ベネディクト,左側に聖ビアージョ,聖ジョヴァンニ・グァルベルトがいる.ベネディクトはモンテ・カッシノ修道院を開いた人物であろうから,既知の聖人だ. アントニウスは,聖アントニウス(サンタントーニオ),大修道院長聖アントニウス(アントーニオ・アバーテ)とサン・マルコ修道院長でフィレンツェ大司教だった聖アントニヌス(サンタントニーノ)の3人が頻出するため,私たちも混同しがちで,そのうちきちんと整理しなければと思っているが,いずれにしてもフィレンツェおよびその周辺で見られる絵にはよく出てくる人物といえよう. 聖ビアージョ(聖ブラシウス)についても学習が必要(Blaiseでリーダーズ英和辞典を引くとある程度知識が得られる.パスカルのファーストネームはこの人から来ていることになる)だが,この人も絵に描かれているのを何度か見ている.アトリビュート(紙漉きの道具)があるので,この聖人の特定は難しくない. 4人目の聖人は,サン・ジョヴァンニ・グァルベルトだ.解説の若い女性は繰り返しこう言っていたので,この言い方が一般的なのだろう.ラテン語式にヨハネス・グァルベルトゥスとは言わないことにする. サン・ジョヴァンニ・グァルベルト 10世紀末のフィレンツェ周辺に生まれた貴族で,十字架を示して命乞いをした仇を赦して,サン・ミニアート・アル・モンテ教会の修道院で修道士となった.しかし,修道院長の聖職売買を批判して,ヴァッロンブローザの山に仲間とともに分け入って修道した. ヴァッロンブローザ修道院の開祖と仰がれている彼は,1074年にパッシニャーノ(地名)の修道院で亡くなり,死後120年経った1193年に教皇ケレスティヌス3世によって列聖されたとのことだ. ![]() さらに,地上階の身廊奥にある大理石のタベルナコロ「十字架上のキリストの礼拝堂」の中にあるアーニョロ・ガッディ作の祭壇画の中央に描かれているのも聖グァルベルトと聖ミニアスである.
![]() 何でサンタ・トリニタでグァルベルト,ヴァッロンブローザだろうと思って,イタリア語版ウィキペディアのサンタ・トリニタのページを見てみると,「11世紀半ばにヴァッロンブローザの修道士たちによって創建された」と書いてあった.これが正しければ,1074年に没したグァルベルト存命中の可能性もあるが,いずれにせよサンタ・トリニタ教会は創建からヴァッロンブローザ修道院と関係が深かったことになる.
そう考えると,「牧人礼拝」がサンタ・トリニタから出張してきて,ヴァッロンブローザで「聖母子と聖人たち」と並べられて,じっくり鑑賞できるのも,サン・ジョヴァンニ・グァルベルトのご利益ということだろう.修道院に通じている道もヴィーア・ディ・サン・ジョヴァンニ・グァルベルトだった.
![]() 購入に際してはブックショップの中年男性が親切に助言してくれた.さっきまで解説してくれていた若い女性館員もブックショップにいて,「どうもありがとうございました」ときれいな日本語で言った.とまどって私は「どういたしまして」と言ってしまったが,「こちらこそありがとうございました」と言えば,彼女の熱心な説明と日本語を使ってくれたホスピタリティへの感謝になったのにと悔やまれる. カッシャ・マザッチョ宗教美術館 山を降りて麓のレッジェッロでまたすごいものを見た.マザッチョのトリプティック「聖母子と聖人たち」である.この町の教会ピエーヴェ・ディ・サン・ピエトロ・ア・カッシャにあるマザッチョの名前を冠した美術館にそれは鎮座していた.
ウフィッツィ美術館から出張してきた小さな板絵の「聖母子」も展示されていた.この絵は「ヴァルダルノのルネサンス」の広告に使われていることでもわかるように,きれいな絵だ.美しい聖母に顎の下を触れられながら,両手で母の腕を持つバンビーノがよく描かれている.聖母の憂鬱にも見える横顔は,子供の将来を察知しているかのようにも見える.1432年に枢機卿になったカッシーニの家紋が裏に描いてあるので「カッシーニの聖母」というそうだ. しかし,今回の最大の収穫は,やはりトリプティックだった.こちらは美形とは言えない厳しい顔をしたマドンナの左の掌の上に立ったバンビーノが2本の指をしゃぶっているように見える.
義弟のマリオット・ディ・クリストファノは野生的ではないきれいな顔を描くが,目の描き方には共通の特徴を持っており,身内に影響を与えた偉大な「お兄さん」としてのマザッチョの一面が見られたような気がした. 中央の板に聖母子と天使たち,両側の板には2人ずつ聖人が配置されていて,向かって左側は聖バルトロマイ,聖ビアージョ(聖ブラシウス),右側は聖ジョヴェナーレ(聖ユウェナリス),大修道院長アントニウスである.この組み合わせも珍しいが,聖ジョヴェナーレ(サン・ジョヴェナーレ)という(私たちには)耳慣れない聖人が描かれているのは,このトリプティクが,もともとはこの町のサン・ジョヴェナーレ教会のために描かれたかららしい. しかし,解説の女性館員が熱弁をふるっていたように,この絵に見られるマザッチョ的特徴の重要性はそれにとどまらない.聖母子のいる床と聖人たちのいる床には複数の直線が描かれているが,聖人たちのいる板の線はそれぞれ中央に向かって伸びていて,聖母子の両側にいる後ろ向きの天使たちと共に,真ん中1点への方向性を示していることになる.そういう用語で良いかどうか私にはわからないが,いわゆる「遠近法」というものだろう.ヴァザーリがマザッチョの革新性を強調するのも,こうした技法を導入したことによるのだろう.若くして亡くなり(1401-1428年),作品数の少ない彼の作品が見られるのは貴重な機会だ. マザッチョの作品は,これまでサンタ・マリーア・ノヴェッラ教会でフレスコ画「三位一体」,ウフィッツィ美術館で,先輩のマゾリーノと共作の板絵「聖母子と聖アンナ」を見ている.サンタ・マリーア・カルミネ教会のブランカッチ礼拝堂に描かれたフレスコ画は遠景でしかみていないが,ホーン美術館にある小さな板絵「聖ユリアヌスの物語」は見ており,2度行ったウフッツィで見られなかった「聖母子」も今回見られて,フィレンツェ周辺で見られる彼の絵はほぼ鑑賞できたことになる.ブランカッチ礼拝堂をじっくり見せてもらうのが楽しみだ. 無名の画家の受胎告知 ギルランダイオやマザッチョなど大天才の作品を見せてもらうのがもちろん主目的だが,関係する修道院や教会に立ち寄って,(私たちには)無名の作家たちが描いた作品を見るのもまた楽しみのひとつだ. ![]() (Angelo Tartuferi, ed., Arte a Figline: Dal Maestro della Maddalena a Masaccio, Firenze: Edizioni Polistampa, 2011に拠って,この「受胎告知」はサン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノの出身で,フィレンツェで活動し,同郷のマザッチョ,スケッジャ兄弟の異父妹と結婚したマリオット・ディ・クリストーファノの作と考えられていることが分かった.2012年1月8日)
そういえば,マザッチョ美術館には「ブロンズィーノ」がフィレンツェのサンティッシマ・アヌンツィアータ教会に伝わる有名な,無名氏による「受胎告知」をコピーした絵があった.この「ブロンズィーノ」は師匠である彼の養子となったアレッサンドロ・アッローリとのことだ.美しい絵だった. ![]()
その教会があるのが,マルシリオ・フィチーノ広場だ. どうしてフィレンツェ・ルネサンスを代表する思想家の名前を冠しているのかわからず,フィチーノ自身はメディチ家の侍医の子としてフィレンツェで生まれたはずだと思っていたら,購入した美術館のガイドブックに,「偉大な哲学者マルシリオ・フィチーノは1433年にこの地で生まれた」と書いてあった.今日の旅でもささやかながら人文主義の痕跡を見つけたことになる.
聖堂参事会(コッレジャータ)宗教美術館 フィリーネ・ヴァルダルノの聖堂参事会(コッレジャータ)宗教美術館(ムゼーオ・ダルテ・サクラ)で,先日サンタンブロージョ教会で見た「聖オノフリオの物語」を描いたとされる「フィリーネの親方」の大きな板絵「聖母子と天使たちと聖人たち」を見ることができた. この「聖人たち」はハンガリーの聖エリザベトとトゥールーズの聖ルイという珍しいものだった.特に聖ルイがフランシスコ会修道士の恰好をしているのは背景のあることらしい. この板絵と比較するためにフィレンツェの旧サント・ステファノ・アル・ポンテ教会の美術館から出張して来ているのが,若きジョットの描いた「聖母子」の板絵だ.しかし,どちらがどう影響したのか,あるいは相互に影響関係はないのか,語学力の壁もあって,雄弁な若い男性学芸員の説明を聞いてもよく分らなかった. ただ,それぞれに「聖母子」として独創的な特徴はあるようだ.今日見ることができたマザッチョのトリプティク「聖母子」のバンビーノは指をしゃぶっているように見えたが,実は左手に一房の葡萄を持っており,であれば,しゃぶっている指で葡萄を食べたのか,あるいはその後,葡萄の汁がついた指をなめて甘さのなごりを味わっていることになる.これはかなりリアルに子供らしい特徴をとらえたことになるかも知れない.小さな板絵の聖母子ではキリストは両手でマドンナの腕を握っていた. 木片(スケッジャ)のように見えるものを持っているバンビーノは他に例があるのかどうかわからないが,少なくともこのジョットの作品はそうであるように見える.鶸であろう鳥や石榴ではなく,木片とはどういう意味があるのか今のところ私にはわからない.ウフィッツィにある板絵の「玉座の聖母子」(マエスタ)は文字の書かれた紙を持っているようだ.もしかしたら他の作品で見た「私は真理への道である」(エゴー・スム・ウィア・ウェーリターティス)かも知れないが,拡大写真がないのでなんと書いてあるかわわからない. また,やはりウフィッツィにあるバディアのポリプティクの中央の聖母子では聖母が左手でイエスの尻の所を抱え,イエスは右手は聖母の胸元に手を伸ばし,左手は聖母の右手を握ろうとしている.その意味では前者の,何かを持って,聖母に抱かれながらも威厳のある姿をしているイエスは,サント・ステファノの「聖母子」に近いだろう.ウフィッツィのガイドブックでその他の作家のマエスタの写真を見てみると,チマブーエの作品では巻いた紙片をもっており,ドゥッチョ・ディ・ブォニンセーニャでは何も持っていない. 板絵の「聖母子」の写真が少し出ているアカデミア美術館のカタログを見ても,鳥は何例かあるが,「木片」はない.「フィリーネの親方」の聖母子では何も持っていないように見えるが,もしかしたら「木片」が描かれていた痕跡があるように思えるのは考えすぎか.「フィリーネの親方」の作品では,上方にいる2人の天使の顔が出色だった.ジョットの描く天使にも独創性があるらしいのだが,これはもう考えているときりがない. この美術館では,その他の作品としてはチーゴリの「聖ラウレンティウスの殉教」があり,これは見応えのある作品だった. その後,サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノの聖堂付属美術館とサン・ロレンツォ教会でフラ・アンジェリコの板絵の「受胎告知」や,マザッチョの弟と義弟であるスケッジャ,マリオット・ディ・クリストファノの作品その他に再会したが,前回報告したので,今回は言及しない. モンテヴァルキの聖堂参事会宗教美術館 最後にモンテヴァルキの聖堂参事会宗教美術館に行った.この美術館には実は少し期待していた.プロモーション・ビデオで見る限り,バルジェッロ美術館ほどではないにしても,ロッビア一族の彩釉テラコッタ作品を系統的に集めたコンセプトのある美術館に見えたからだ. しかし,行ってみて分かったことだが,実際にはロッビア一族の作品を系統的に集めた美術館というわけではなかった. ![]()
もう一つの作品は,サン・ロレンツォ教会のファサードを飾っていた「聖なる母乳をシャルル・ダンジューから受け取る伯爵グイード・グエッラ」で,紋章のパネルとともに彼が創った.
「聖なる母乳」とはいかなるものか要領を得ない(小さな柔らかい白い石だそうだ)が,この聖遺物はグイードが,1266年のベネヴェントの戦いにおける彼の功績に感謝した,フランス王ルイ9世の弟シャルル・ダンジューからもらったもので,さらにそれをグイードがサン・ロレンツォの修道院長に授与した故事に基づくらしい. この聖堂参事会宗教美術館は,これらのロッビアの作品とともに,他の宗教的な作品や聖堂の宝物を展示するためのものだった.古い剥離フレスコ画や,13世紀の浮き彫り彫刻「聖ラウレンティウスの殉教」もあるなど,他にもおもしろいものもあった. 隣のサン・ロレンツォ教会を覗いたら,ミサに参加している会衆で一杯だったので,驚いてすぐ辞去した.教会の外では,これから行われるオペラ「椿姫」の舞台設営が急ピッチで進んでいた. 「ヴァルダルノのルネサンス」 会場となった5つの美術館は,サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノの聖堂付属美術館を除いては,どこも大傑作を一つだけ持っている小さな美術館だ.それだけでは集客力に乏しいので,フィレンツェから関連する作品を借り受けてきて,協力しあって「ヴァルダルノのルネサンス」という統一テーマで特別展を開催し,できれば共通券を購入してもらって,5つの町の美術館それぞれに足を運んでもらい,フィレンツェ周辺の小さな町にもすばらしい美術作品があることをプロモーションしようという企画だろう. フリー・コーチ・サービスに参加した人たちは,ほとんどの人が美術に関心があり,かなりの造詣を持った人もいたようで,高齢の男女が,勉強してきたウェブページのコピーにマーカーで印をつけながらメモを取ったり,学芸員の説明を録音したり,時には説明中でもどんどん質問したり,口角泡を飛ばして議論したりしていた.その姿を見て,私たちはまだまだ愛好者の駆け出しに過ぎないと実感した. 一部の例外を除いては,撮影禁止の美術館では誰も写真を撮らず,撮影可の教会で静かにカメラを操作していただけで,私たちもそうしていたが,最後のモンテヴァルキで写真OKということになったら,みんな一斉に持参の小さなデジカメを出して,大撮影会が始まった.これは中々迫力のある光景だった.
![]() フィレンツェのタベルナコロにも「聖母子」が多い.この日のまとめとしては,やはりイタリアの芸術は「マドンナ・コル・バンビーノ」と「受胎告知」だな,といつもの結論になるところだったが,通りの名前をみて目を見張った.「ポッジョ・ブラッチョリーニ通り」とある.1380年に生まれ1459年に没したフィレンツェの人文主義者で,ヨーロッパ各地の修道院で古典の写本を発掘した大古典学者だ. 彼はフィレンツェで行政職も勤めているが,モンテヴァルキとどういう関係かは今のところ,わからない.途中にあった旧修道院が「ヴァルダルノ・ポッジョ・アカデミー」という施設と博物館になっていたので,あるいは所縁の地かも知れない.
最後に別れるとき,本当にちょっと知り合っただけの人たちが,それぞれ名残惜しそうに「トゥッティ,アッリヴェデルチ!」(皆さん,また会いましょう)と言って別れるのは,なかなか感動的だった. |
ポッジョ・ブラッチョリーニ通りの タベルナコロ モンテヴァルキ |
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