フィレンツェだより
2007年7月21日



 




うまい「葡萄」



§暑さに耐える

さすがに連日の暑さで少しへばっている.それでも野菜,果物がうまく,生活力のある配偶者が調理してくれるので,何とか生きている.


 こちらはエアコンが一般的ではなく,網戸もないので,蚊取り線香を焚きながら,高い天井についている大きな音をたてる古風な扇風機を短時間廻して寝る.これもイタリアだからこそできる体験のように思う.

 幸いなことに朝方は涼しいので,蓄積した内臓と筋肉の疲労をその時とっている.落馬したジャンヌ・ダルクが後出しジャンケンで正義の拳をふりまわしている悪夢を見てうなされる.ユダに自己投影するくらいだから,白馬の騎士になぎ倒される側にすぐなってしまうんだな,きっと.

 良いこともある.ともかく桃と葡萄がうまい.果肉がしっかりしていて,香りがあり,甘さ控えめの大人の味で,飽きが来ない.


知識は後から
 見たときに分からなかったものが後で分かることもあり,分かったと思ったものが実は違っていたり,様々なケースがある.

 サンタンブロージョ教会で見た「最後の晩餐」のフレスコ画は,ルイージ・アデモッロという画家のものであるとイタリア語版のウィキペディアにあった.1830年代の作品なので,まだ180年も経っていないが,反対側にある「ヘロデ王の嬰児虐殺」の方は,もうほとんど絵柄が確認できない.

 もし中央祭壇の両側にあったフレスコ画が「聖アンブロシウスの物語」なら,こちらはきれいに残っていたので,次回行った時に確かめたい.

 中央祭壇の左,ミーノのタベルナコロがある「奇跡の礼拝堂」のコジモ・ロッセッリのフレスコ画「聖杯の奇跡」は15世紀末のものなのに,保存状態が良かった.あるいは本格的な修復が行われたのかも知れない.

 アデモッロのフレスコ画は,実は今までも見ていたようだ.サンタンブロージョのアデモッロ情報もイタリア語版ウィキペディアに拠っているが,サンティッシマ・アヌンツィアータ教会に関する同ウェブページは内容充実で,あの教会にこんなにも色々なものがあったのかと驚かされる.そこに,ペルジーノの「聖母被昇天と聖人たち」の板絵がある礼拝堂(アヌンツィアータ「被昇天の聖母」礼拝堂)の両壁の,比較的新しく見える(1828年)フレスコ画「ダヴィデとゴリアテ」と「聖なる柩」は,アデモッロ作であるとあった.

 同ページに拠れば,この教会のファサードのひさしの下にあるリュネットの「受胎告知」はダヴィデ・ギルランダイオ作のモザイクだそうだ.

 ドゥオーモの北側の壁の扉の上にあるリュネットにも,ドメニコが構想し,ダヴィデが完成させたギルランダイオ兄弟作のモザイクの「受胎告知」があることは先日参考書(Alta Macadam, Florence: Where to Find, Firenze, 2001,p.145)で知った.

 ドメニコは絵画だけでなく,モザイクについてもバルドヴィネッティから教わっているとヴァザーリは言っているが,その伝統はドゥオーモとサンティッシマ・アヌンツィアータの「受胎告知」によって継承されていることが分かる.参考にした本とウェブページとヴァザーリの英語訳の情報が正しければ,という留保はつくが.

 この受胎告知は今まで何度も見ていたが,力はあるが(私たちにとっては)無名の作者の手になるものだろうと思っていた.しかし,その人について知りたかったダヴィデ・ギルランダイオの作品ということを知ったので,今後は行くたびに鑑賞させてもらおう.

写真:
ダヴィデ・ギルランダイオ作
モザイク画「受胎告知」
サンティッシマ・アヌンツィアータ教会



「ノーリー・メー・タンゲレ」
 マグダラのマリアが復活したイエスに駆け寄った時に,イエスが発した言葉は「我に触れるな」(ラテン語の「ノーリー・メー・タンゲレ」がよく絵のタイトルになるが,ギリシア語原文では「メー・ムー・ハプトゥー」)と言うものだ.

 この絵柄を意識的に見るようになったのは,サン・サルヴィ修道院の旧「食堂」にアンドレア・デル・サルトの「最後の晩餐」を見に行き,彼自身の板絵の「我に触れるな」と,フランチャビージョの剥離フレスコの同主題作品を見たときからだ.

 特に後者が印象に残り,「鍬を担いだキリスト」を見るたびに,フランチャビージョと同じ絵柄だと思うようになった.サン・マルコ美術館でもフラ・アンジェリコの「我に触れるな」を見ていたようで,ガイドブックで絵柄を確認すると,これもキリストが鍬を担いでいた.

 鍬を担ぐのが,フランチャビージョに特徴的なのではなく,どうもこの画題の絵ではキリストは鍬を担いでいることが多いようだ.デル・サルトの作品も確かに見たのだが覚えていない.写真は撮っているはずなのだが,写りが悪くて消してしまったらしく残っていない.ウェブページにある日本語で読めるヴァーチャル美術館のサイトで確認したところ,デル・サルトの絵では鍬ではなく,白地に赤十字の旗を持っていた.これは「イエスの復活」でよく見られる旗である.

 この話も典拠は「ヨハネ伝」らしい.要約する.

安息日にマグダラのマリアがイエスの墓を詣でると,墓が明けられていて,遺体がない.そのことをペテロと,「もう一人の弟子で,イエスが愛していた者」に言いに行った.


 「愛していた」はギリシア語ではエピレイ,ラテン語ではアマーバトになっていて,それぞれ直説法・未完了過去だが,「最後の晩餐」の場面で,使われたエーガパーとディリゲーバトとは違う語が用いられている.よく言われるキリスト教的「愛」アガペーと同根の語ではなく,ギリシア的友愛「ピリア」と同根の語が使われている.ギリシア語原文はエロス的愛ではないが,ラテン語訳だとエロス的愛と区別がつかない.いずれにせよ,ここは若いヨハネで,伝統的には「福音史家」ヨハネとされている人物だろう.

 2人がそれを確かめた後,残ったマグダラのマリアが泣いていると,2人の天使が現れる.彼らが「女よ(ギュナイ),どうして嘆いているのか」と聞くと,彼女は「私の主が運ばれてしまい,どこに置かれたのかを私は知らないからです」(受身に訳したが,不特定多数の「彼ら」が主語になっている)と答え,その後振り返るとそこにイエスが立っていた.

 イエスは「女よ(ギュナイ),どうして嘆いているのか,誰を探している(ティナ・ゼーテイス)のか」と聞くが,マグダラのマリアはそれがイエスだと知らずに,「主よ(キューリエ),もしもあなたが彼を連れ去ったなら,どこに彼を置いたのか言ってください.私が彼を連れ戻します」と答える.この段階では「主」はキリストを指しておらず,単なる敬称ということになる.

 以下,直訳してみる.

イエスは彼女に言う(レゲイ・アウテー・イエースース),「マリアよ」.彼女は振り返り,彼にヘブライ語で言う(ストラペイサ・エケイネー・レゲイ・アウトー・ヘブライスティ),「ラッブーニ(「先生」ディダスカレという意味)」.イエスは彼女に言う,「私に触るな(メー・ムー・ハプトゥー).なぜなら,まだ父のもとへ昇っていないからだ(ウーポー・ガル・アナベベーカ・プロス・トン・パテラ).お前は私の兄弟たち(トゥース・アデルプース・ムー)のもとへ(プロス)行って,彼らに言え.『私は私の父であり,お前たちの父であり,私の神であり,お前たちの神である方のもとへと昇る(アナバイノー・プロス・トン・パテラ・ムー・カイ・パテラ・ヒューモーン・カイ・テオン・ムー・カイ・テオン・ヒューモーン)』,と」.マグダラのマリアがやってきて,弟子たちに告げた(エルケタイ・マリーアム・ヘー・マグダレーネー・アンゲルーサ・トイス・マテータイス).彼女は主を見(ヘオーラカ・トン・キューリオン),主は彼女に以上のことを言った(カイ・タウタ・エイペン・アウテー),ということを(ホティ).


 目を皿のようにして探したが,「鍬」の話は出てこなかった.キリストを「農夫」(「牧人」だそうだが,「鍬」なので,一応「農夫」としておく)の姿で描く伝統はいつからできたのだろうか.

 農夫といえば,野菜や果物は「周辺農家」(コンタディーノ)の方がつくったものを食べ,スーパーなどで買うのはとんでもないという考えのイタリア人も少なくないようだが,スーパーは買い物が便利だ.

 今は中央市場が近いので,コンタディーノがつくった野菜や果物かどうかはわからないが,ともかくおいしいものが食べられる.

写真:
中央市場2階にある
いつも行く青果店



久々の夜の外出
 連日,街頭の温度計は40度を越す.実際は35,6度だろうと思っていても,見ているだけで暑い.この暑さは23日くらいまでという耳寄りの情報も入り,そこまではひたすら忍耐だなと思っている.

 19日も暑かった.午前中,買い物には行かざるを得なかったが,午後はともかく外出を控えた.夜は,インターネット情報で,珍しくサン・ロレンツォ教会で無料コンサートがあると知ったので,9時の開演を目指して,8時半くらいに着くように寓居を出た.

 演奏はイギリスの団体で,見たところ聴衆もほとんど英語話者のようだったが,挨拶した指揮者はがんばってイタリア語で曲の解説をしていた

 夜にサン・ロレンツォの堂内を見られるのはめずらしいからか,この種の無料コンサートにしては超満員だった.聖堂の音響も,適切な人数の合唱と,控えめな選曲のピアノには最適だった.伴奏と独奏をしたピアニストもよかったが,アカペラのウィリアム・バード「アヴェ・ヴェルム・コルプス」が絶品だった.小さな町のアマチュアの団体でも,さすがに合唱が盛んなイギリスの人たちだ.良いひと時を過ごさせてもらった.

 身廊の前方で,ドナテッロの説教壇に囲まれたあたりに座ったので,左側の側廊の壁に描かれたブロンズィーノの「聖ラウレンティウスの殉教」のフレスコ画が見えた.ドナテッロが邪魔をしてブロンズィーノが良く見えないという贅沢な環境だったが,それでもラウレンティウスの顔はよく見えた.合唱団の足元には共和国時代のメディチ家の最盛期を築いた「祖国の父」老コジモの墓があった.ミケランジェロの葬儀が行われた聖堂でもある.


暑さを乗り切るには,まず食べること
 中央市場のワイン屋の日本人店長がショートパスタで冷製パスタを作るとうまいと教えてくれたので,たっぷりの野菜と一緒に食べた.一番下の写真はその時のものだが,若い日本人版画家がアレッツォの農家を手伝ってもらったという自家製ワインも一緒に試した.清潔でさわやかな味だった.

 下の写真のチーズは,やはり中央市場のよく行くチーズ屋で「うまい」と言われて買った買ったやぎ乳のチーズだ.


ラヴェルに「カゼイフィーチョ」
という語があった.「チーズ
製造所」という意味だ.


 チーズはイタリア語ではフォルマッジョと言い,フランス語のフロマージュと同語源だが,ラテン語ではカエスス(caesus)なので,むしろ英語のチーズやドイツ語のケーゼに近い.イタリア語では「チーズ製造所」という言葉にその痕跡が残っていたか,と感慨深い.

 このチーズは食べやすかったが,こちらの人には「ブォニッシモ」でも,私にはあわない場合もある.普段食べているのはブリー・チーズ(下の写真)で,フランス語が書いてあるのでフランス製だろう.「ウン・ポ・ディ・ブリー」(ブリーを少し)と言って買えるので,こちらでもブリーで通じるのだろう.

写真:
いつも食べている
切り売りのブリー・チーズ


 ラベルに私たちが「ドメニコ頭」と呼んでいる髪型の修道士の絵が描いてある.修道院のモットーは「祈れ,そして働け」(オーラー・エト・ラボーラー)だから,修道士もチーズも作れば,畑も耕すだろう.修道院にある「鍬を持ったキリスト」の絵もそれと関係があるのだろうか.





冷製パスタと特製ワイン