フィレンツェだより
2007年7月16日


 




サンタ・マリーア・ノヴェッラ教会
雲一つない空に鳩が飛んでいる



§サンタ・マリーア・ノヴェッラ教会再訪

ヴァザーリの『画人伝』を拾い読みすると,様々な興味深い記述に出会う.それが最近の体験と符合したりすると,また嬉しくなる.


 ギルランダイオの家名は,父トンマーゾが銀細工職人で,「花輪」の細工の発明者ではないものの,大変流行させた人なので,花輪,花冠(ギルランダ)からギルランダイオと通称されたことに基づくらしい.父が高名な職人だとすると,ギルランダイオは,4代続く芸術家の家ということになる.

 『画人伝』には,天才の名前はドメニコ・ディ・トンマーゾ・デル・ギルランダイオと記してある.ある本ではドメニコ・ディ・トンマーゾ・ビゴルディとあるので,ビゴルディがもともとの姓なのだろう.

 トンマーゾ(トーマス)という名の人はマーゾという通称になるらしく,マーゾをさらに「マーゾのやつ」みたいな言い方にしたのがマザッチョらしい,これは英訳者の注解によって補足した情報だ.

 これにはマザッチョの弟のスケッジャはどうしてそう言うのかは書いていない.男性・単数の定冠詞イルはs+他の子音で始まる語の場合はロになるので,ロ・スケッジャというからには,スケッジャは「ア」で終わっていても男性名詞ということになる.

 通称で定冠詞がつく場合,イル・ポッピ,レンポリ(母音で始まるエンポリに省略形の定冠詞),イル・チーゴリ,イル・パッシニャーノなど,ほとんどの場合出身地に拠るもののようだ.

 ダは出身地を示す前置詞なので,デジデリオ・ダ・セッティニャーノはセッティニャーノ出身のデジデリオ,ミーノ・ダ・フィエーゾレはフィエーゾレ出身のミーノということになる.もっとも先日見た墓誌によると「ダ・フィエーゾレ」は通称で,本当はポッピの出身らしい.レオナルド・ダ・ヴィンチ,ジョヴァンニ・ピエルルイージ・ダ・パレストリーナは今更言うまでもないだろう.

 『画人伝』によると,ヴェロッキオはヴェネツィアで死んだが,最も愛された弟子であるロレンツォ・ディ・クレーディがその遺品と遺体を持ち帰り,サンタンブロージョ教会の一家の墓に埋葬した,ということである.この間サンタンブロージョで見た墓は間違いなくヴェロッキオのものだった.

 もっともヴァザーリがそう言っているからと言って,必ず信用できるわけではないらしい.

 たとえば,ヴァザーリは「パオーロ・ウッチェッロは1432年に83歳で亡くなり,サンタ・マリーア・ノヴェッラ教会に葬られた」と書いているが,英訳者の注解には,「実際には1475年に亡くなり,サント・スピリト教会に葬られた」とあった.

 ドメニコ・ベッカフーミの絵はホーン美術館で2つ見ただけで,シエナに行くとたくさん見られるらしいことはガイドブック等にも書いてあるが,『画人伝』の中に伝が立てられてていることがわかった



 15日の日曜は,夕方7時を過ぎても37度という猛暑だったが,家の中は涼しく,仕事が進んだ.それでも,一日中全く外に出ないのは健康上良くないと思われたので,第3日曜に開かれるインディペンデンツァ広場の「のみの市」を冷やかすことにして,4時を過ぎてから外出した.

 しかし,やっていなかった.この猛暑では,日陰の少ない公園では倒れる人も出るだろうから,7,8月はお休みかもしれないと勝手に納得して,代りに教会に行くことにした.

 近所のバルナバ教会を訪ねてみたら,開いていたものの,すでにお祈りの時間にはいっているようなので遠慮した.

 さて,どこに行こうかと考えたが,メディチ・リッカルディ宮殿は水曜が休みで,日曜も7時まで開いている.先日購入した「ヴァルダルノのルネサンス」の共通チケットもバッグに入っていたので,ここに行ってみることにした.チケットを見せたら,確かに無料で入れてくれた.

 リッピの「聖母子」とジョルダーノが装飾した部屋,大きなタペストリーを飾った県議会議場をさらりと見て,ゴッツォリの大作フレスコ画「三王礼拝の行列」のある礼拝堂に向かった.今回は前回よりも知識を蓄えているし,ゴッツォリの他の作品も他の画家のフレスコ画も,「三王礼拝」やその行列の絵も幾つも見ているので,十分な鑑賞ができたと思う.

不思議な絵である.大傑作かと聞かれると,ジョットやフラ・アンジェリコ,ミケランジェロの作品のように心を打つような作品とは思えないが,言いがたい魅力をたたえ,謎めいた絵だと言うしかないだろう.


 地上階では「ドナテッロとルネサンスの家」という特別展をやっていて,パリのジャックマール美術館のコレクションから持ってきた,ドナテッロの小品とそれに関連した作品が展示されていた.ドナテッロの作品としてはパネルが1枚あるだけだったが,他にはヴェロッキオの小ぶりな板絵「ピュドナの戦い」と「アエミリウス・パウルスの凱旋」が見られた.

 メダルに良いものがあり,アレッツォで見たピエロ・ダ・フランチェスカの肖像画で知られるシジスモンド・マラテスタのメダル,文人のピエトロ・アレティーノのメダル,人文主義者のピエトロ・ベンボのメダルなどが見られた.

 入場料はかからなかったが,メディチ・リッカルディ宮殿のガイドブック10ユーロ,パンフレット1ユーロ,ゴッツォリの絵の解説本8ユーロ,すべて英語版を購入した.



 メディチ・リッカルディ宮殿の出口のところで,「ヴァルダルノのルネサンス」のプロモーション・ビデオが流されていて,5つの会場で見られる魅力的な作品が次々と画面に大写しになっていた.

 先日見たフラ・アンジェリコ,それとジョット,ロッビアが見られる会場は電車で行ける場所にあるが,ギルランダイオとマザッチョを見せてくれる美術館は,山の中の,電車では行けない場所にある.

 この便の悪さを補うサーヴィスとして,7,9月の毎日曜日に,この5ヶ所の美術館を1日で回るフリー・コーチ・サーヴィス(無料バスツアー)が用意されていた.申込みは電話による受付で,これが何となく面倒でずっと躊躇していたが,プロモーション・ビデオを見て,申し込まないのは大変もったいないような気がしてきた.

そして今日,ついに妻がフリー・コーチ・サーヴィスを電話で申し込んだ.時間帯によっては英語話者がいるのであろうが,その時は不在だったので,仕方なく知っている限りのイタリア単語を並べて奮闘の末,予約を確保した(多分).


 妻も偉いが,そこでにべもなく断らずに,何とか便宜を図ってくれようとする相手も偉いと思った.あくまでも私の印象だが,イタリアでは日本語はもちろん,英語もなかなか通じないことが多いが,まず私たちの下手なイタリア語に丁寧に耳を傾け,わかりやすくゆっくりと説明してくれて,場合によってはどこかでかろうじておぼえた英語を記憶の片隅からでも引き出して,一生懸命コミュニケーションしてくれ,けっして匙をなげずにつきあってくれる.

 同じラテン系でも外国人に冷たい国もあると聞くが,イタリア人はその点は大したものだと思う.日本人もどちらかといえば,金髪碧眼の外国人以外には冷たいような気がするが,英語の下手さでは平均的なイタリア人は決して平均的な日本人に劣らない.まず,コミュニケーションしようという気持ちが大事だろう.


サンタ・マリーア・ノヴェッラ教会
 今日(16日)は私たちが確認した限り,街頭の温度計で39度まで気温が上昇したようだ.あるいは40度を越したかもしれない.大変な暑さだが,家の中にいれば,かろうじてしのげる.今日はサンタ・マリーア・ノヴェッラ教会に行くことにしていたが,何とかその気力は残っていた.

「とかげ作戦」を励行しながらサンタ・マリーア・ノヴェッラに向かったが,着いたときには2匹のひ弱なとかげは青息吐息だった.


 イタリア人はもちろん,ツーリストの皆さんのたくましさには圧倒される.しかし,何と言っても教会は涼しい,サンタ・マリーア・ノヴェッラのような大きな聖堂(バジリカ)は天井が高く,日の光はステンドグラスを通って入ってくるので,なおさらである.

 今日は「あれをずっと見ていたい」と思うジョットの「磔刑像」を横目に,まず最近その作品に注目を払っている,ジョヴァンニ・バッティスタ・ナルディーニやヴァザーリ,アッローリ,サンティ・ディ・ティートの大きな板絵を見た.

 リゴッツィは他でもかろうじて幾つか作品を見ているが,コッピ(通称イル・メリオ=最上の者)は前回も見ているはずだが記憶にない.ジローラモ・マッキエッティの「聖ラウレンティウスの殉教」は,前回絵柄が印象に残り,この聖人の殉教の仕方を学んだが,画家の名前は覚えていなかった(この画家の絵は先日もサン・ロレンツォで「三王礼拝」を見たばかりだったが,それも忘れていた).

 多くは16世紀の後半の絵で,先日サンティ・アポストリ教会のパンフレットで学んだところによると,この時代に大きな板絵が書かれたのは対抗宗教改革(反宗教改革=カウンター・リフォーメイション),反・福音主義(「福音」に反対するのではなく,福音書の記述を重視するプロテスタントの「福音主義」に「反」の考え方)の影響があるらしく,フィレンツェの多くの教会で16世紀,17世紀の絵が多いのは,少なくとも出発点は宗教改革,プロテスタントの発生に影響されたものと思われるようだ.



 板絵以外には,現在修復中のファサードの扉裏側の上部のリュネットにある,ボッティチェルリの剥離フレスコ画「イエスの誕生」がまず目にとまる.嬰児のイエスを礼拝するマリアの後ろで,赤いマントを翻しながら,跳ね回るジョヴァンニーノが子供らしくて大変良い.

 さらにその上の高いところにあるステンド・グラスは「聖母戴冠」だが,この下絵を描いたのは,現在は美術館になっている修道院回廊のスペイン人の礼拝堂にフレスコ画を描いたアンドレア・ディ・ボナイウートだ.扉の向かって左側にはサンティ・ディティートの「受胎告知」があるはずだが,今回は19世紀の画家ジュゼッペ・ファットーリの「聖カテリーナ・デ・リッチの神秘の結婚」が掲げてあった.

 扉の向かって右側には初めて名前を聞くピエトロ・ミニアートのフレスコ画「受胎告知」があったが,これはもしかしたらフラ・アンジェリコの先駆けにになっているかも知れないと思わせるほど力の入った絵だった.少女のように描かれたガブリエルが美しかった.

 「受胎告知」といえば,ガイドブックには載っていなかったが,ネーリ・ディ・ビッチの板絵の「受胎告知」があった.ネーリ・ディ・ビッチの板絵の「受胎告知」はサンタ・トリニタの礼拝堂でも見ているが,作成年代に20年の隔たりがある.心なしか,サンタ・トリニタの作品の方が成熟した絵のように思えた.

写真:
「受胎告知」
ネーリ・ディ・ビッチ
サンタ・トリニタ教会


 また,これもガイドブックにはなかったが,板絵の,首に剣を刺した「聖ルキア」を見た.後で購入した絵葉書によるとダヴィデ・ギルランダイオの作品だった.

 カヴァルカンティ作の「説教壇」もしっかり鑑賞した.相当の水準の作品に思えたが,ガイドブックの写真の方が良かった.



 堂内を一通り見た後,礼拝堂を拝観するべく,中央祭壇に向かって右側の翼廊に入った.無名の彫刻家による「聖アントニウス」の胸像の近くの扉の上のリュネットに,ほとんど剥落したフレスコ画「聖母子と聖人たち」がある.この作者に擬せられているのがドゥッチョ・ディ・ブォニンセーニャだが,彼の作品は今までウフッツィで板絵の「聖母子」(マエスタ)を見ただけだ.それも以前はサンタ・マリーア・ノヴェッラにあったそうだ.

 階段を登って,ルチェッライの礼拝堂に行くと,ミケランジェロも手伝ったかも知れないといわれるブジャルディーニの板絵「聖カテリーナの殉教」がある.カテリーナの霊が天に召されていく姿が印象的だが,日当たりの関係でよく見えず,残念ながらこれはガイドブックの写真の方が良かった.

 中央の大理石による「聖母子」は,サン・ジョヴァンニ洗礼堂南門の「洗礼者ヨハネの物語」のパネルを造ったアンドレーア・ピザーノの息子ニーノ・ピザーノの作である.これは聖母の手の中にいる鶸を嬰児のイエスがねだっているようで可愛かった.ギベルティの「修道士レオナルド・ダーティの墓碑」もあった.

ここで目を見張ったのは,通称「サンタ・チェチーリアの親方」と言われる人のフレスコ画だ.


 1304年に火災にあったサンタ・チェチーリア教会の復興に際してウフィッツィ美術館にある板絵「聖チェチリアの生涯」を描いたと言われているので,このように呼び習わされているようだ.この人の作品とされるものはアカデミア美術館にもある.この礼拝堂のフレスコ画は絵柄が確認できないほど剥落しているが,衣に使われた緑色が印象に残る.「つい最近発見された」と2000年に出版された本と2004年に出版された本にあるので,今見られるのは幸運なのだと思う.



 階段をおりて,中央祭壇並びの最初の礼拝堂であるバルディ礼拝堂に行く.

 ここではヴァザーリの「ロザリオの聖母」(1570年)が祭壇画になっているが,この絵が不自然に新しく見えるほど古いフレスコ画が残っている.天井のフレスコ画はピエル・ダンディーニ作で新しいものだが,両側のリュネットにある2つのフレスコ画は,左側はドゥッチョ・ディ・ブォニンセーニャの「イエスと天使たち」,右側はドゥッチョと助手の手になる「聖グレゴリウスと杯を持つ者たち」である.剥落が進んでいるが,おぼろげながら絵柄はわかるし,色も多少は残っている.見られる機会の少ないビッグネームによる作品が見られたので良かった.

 この礼拝堂の右側の柱には14世紀の無名の作家による浮き彫り「聖グレゴリウスに跪くリッカルド・デ・バルディ」があり,これがなかなか良いと思ったが,ガイドブックには礼拝堂の一部として小さく写っているだけで,絵葉書もなかった.

 このバルディ礼拝堂は大教皇で聖人のグレゴリウス1世を記念しており,壁面のフレスコ画は20世紀になって発見された「聖グレゴリウスの物語」である.長らく埋もれていただけに剥落も大きいが,それでもそのオルカーニャの作風を思わせる峻厳な表情が大変魅力的だった.

 確か邦訳もある有名な美術史家のロベルト・ロンギが,これをダルマシオ・ディ・ヤーコポ・スカンナベッキというボローニャの画家の作品と推定したそうだが,現在では「伝ダルマシオ」ということになっている,と今日新たに買った英語版のガイドブックにあった(Stefano Orlandi, Santa Maria Novella and Its Monumental Cloisters, Firenze, 2004, p.25).

 「伝」になってしまったが,このダルマシオという作家も初めて聞く名前なので,あるいはボローニャに行ったら出会えるだろうかと新たな期待が高まる.イタリア語版ウィキペディアは「伝スピネッロ・アレティーノ」説で,心情的にはこれに組したいが,作者の画力以外の論拠が分らないので控える.



 その左隣はフィリッポ・ストロッツィ礼拝堂で,ここはフィリピーノ・リッピの「聖ピリポと福音史家ヨハネの物語」で有名である.これはガイドブックの写真ではややもすると安っぽくも見えてしまう作品だが,実物の方は圧倒的に良い.これだけ状態が良いのは修復しているからであろうが,もとの作品が良いからこそ,感銘を受けることができるのだと思う.

 通常の礼拝堂のフレスコ画と違い,細かい場面に分けずに,壁面にはそれぞれ「マルスの神殿の聖ピリポ」,「ドゥルシアナを蘇生させる聖ヨハネ」の場面を大きく描き,上のリュネット部分にはそれぞれ釜茹でになる殉教の場面が描かれている.

聖ピリポ(ギリシア語でピリッポス,イタリア語でフィリッポ,英語でフィリップ),依頼者のフィリッポ・ストロッツィ,画家のフィリピーノ・リッピ(本当はフィリッポだが同名の父親と区別するため「小フィリッポ」と呼ばれる)と3人のフィリッポがかかわった礼拝堂である.3人のマリアとか,3人のエリザベスとか西洋人は3が好きだなと思う.


 そういえば,この礼拝堂のステンドグラスもフィリピーノ・リッピの下絵によるものらしいが,その中にストロッツィ家の家紋があった.「3つの三日月」である.ストロッツィの名前を冠したワインにはこの家紋のラヴェルがついている.この礼拝堂にある「フィリッポ・ストロッツィの墓碑」はベネデット・ダ・マイアーノの作である.



 さらに左隣が中央祭壇で,別名はカペッラ・マッジョーレ,もしくはトルナブオーニ礼拝堂である.サンタ・マリーア・ノヴェッラ教会の一番の宝といえば,私にとってはジョットの「磔刑像」だが,ここにあるフレスコ画がそうだと考える人は少なくないだろう.ギルランダイオの「洗礼者ヨハネの生涯」と「聖母マリアの生涯」,さすがに大作である.

 向かって右壁面の「洗礼者ヨハネの生涯」は,下段が「ヨハネの誕生をザカリアに伝える天使」と「聖母マリアのエリザベト訪問」,中段が「ヨハネの誕生」と「ザカリアによるヨハネの命名」,上段が「ヨハネの説教」と「キリストの洗礼」,最上段のリュネットが「ヘロデの饗宴」で,そこでは皿に乗せたヨハネの首の前でサロメが踊っている.

 左壁面の「聖母マリアの生涯」は,下段が「神殿から追い出される聖ヨアヒム」と「聖母マリアの誕生」,中段が「マリアの神殿奉献」と「聖母マリアの婚約」,上段が「三王礼拝」と「ヘロデの嬰児虐殺」,最上段のリュネットが「聖母被昇天」である.

 正面の壁面にも大きなステンドグラスの部分を除くとフレスコ画が描かれている.最上段のリュネットの「聖母戴冠」が最も重要であろうが,下段に「寄進者夫妻」,中段は「荒野に出るヨハネ」と「受胎告知」,上段が「殉教者ペテロの暗殺と聖ドメニコの奇跡」になっている.やはりサンタ・マリーア・ノヴェッラが起源からドメニコ会の教会であることが上段の絵でよくわかる.

私たちには,「荒野に出るヨハネ」が嬉しそうに走っていく少年に見え,遠く反対側にあるファサード裏のボッティチェルリの「イエスの誕生」の,赤いマントを翻して走ってくるジョヴァンニーノと呼応しているように思えた.


 ギルランダイオの偉大さはよくわかるが,この絵を理解するにはかなり勉強も必要だ.長時間上を見上げる体力も必要だ.

 ギルランダイオがこの作品の中に自画像を描き込んでいるのはよく知られており,その隣には弟のダヴィデが頼りなげな優男に描かれているが,ダヴィデだけではなく,もう一人の弟ベネデット,義弟のマイナルディ,グラナッチ,ブジャルディーニ,まだ14歳だったミケランジェロがこの大作の作成に関わったとのことだ.大天才でもこれだけの規模のものは独力ではできないだろうから,工房にどれだけ優秀な助手や弟子がいて,彼らをどう差配し,作品全体を統一的に監修するかが「親方」(マエストロ)の腕の見せ所だろう.

 どれがそうかはわからないが,ヴァザーリはこの絵に描き込まれた実在の人物としてバルドヴィネッティの名を挙げており,ギルランダイオの絵とモザイク画の師匠だと言っている.彼自身もまた工房で修行し,師匠を尊敬していたということなのだろうか.

 今回思いもかけずサンタ・マリーア・ノヴェッラで弟のダヴィデの作品を見ることができた.まだ見ていないバディア・パッシニャーノにある「最後の晩餐」を兄と共作したいわれる人物だ.ドゥオーモの北側の外壁のリュネットに「受胎告知」のモザイクがあり,それはドメニコが構想し,ダヴィデが完成させたものらしい.今まで見逃していたが,これも是非確認したい.



 さらに左隣のゴンディ礼拝堂にはブルネレスキ作の木彫のキリスト磔刑像,さらに左のガッディ礼拝堂にはブロンズィーノの板絵と弟子のアレッサンドロ・アッローリのフレスコの天井画がある.また翼廊の階段を登ると,そこはマントヴァのストロッツィ礼拝堂でここはまたフレスコ画の宝庫だった.

 オルカーニャ三兄弟は,長兄がアンドレア・ディ・チョーネでこの人物が通称オルカーニャ,すぐ下の弟がナルド・ディ・チョーネ,末弟がヤコポ・ディ・チョーネであるが,この人たちの手になるとされるフレスコ画がここにある.奥の壁面が「最後の審判」(ジュディツィオ・ウニヴェルサーレ),左側が「天国」(パラディーゾ),右側が「煉獄(浄罪界)と地獄」(プルガトーリオ・エ(ド)・インフェルノ)であった.

写真:(参考)
オルカーニャ作
剥離フレスコ画「死の勝利」断片
サンタ・クローチェ教会の美術館


 剥落が進んでいて特に右側はよくわからなかったが,「最後の審判」で天国に行けない側の人たちの表情に力がこもっており,天国に居並ぶ女性たちが美しく描かれてた.天国の絵の真ん中で楽を奏する天使たちが私は好きだった.

 天国では男女が玉座に並んで座っているが,あれがマリアとキリストなら,神学的は許される絵柄なのだろうかとふと思った.トマス・アクイナスを出したドメニコ会の大教会の礼拝堂に当時の大芸術家が描いたのだから多分良いのだろう.考えても仕方がない.

 そのトマス・アクイナスはさすがにドメニコ会が生んだ大スターで,「聖ドメニコ」,「殉教者ペテロ」とともに多くの絵に他の聖人たちと並んで登場する.この礼拝堂ではジョヴァンニ・デル・ビオンドというやはりビッグネームの画家が天井画を描いているが,通常は4つの区画に4人の聖人,特に4人の福音史家が描かれることが多いが,ここでは「トマス・アクイナスと諸徳」ということで4区画ともトマスの顔が描かれていた.

 祭壇画としておかれていたのは,オルカーニャのポリュプティクで,これはすばらしかった.絵柄としても中央で天使たちに囲まれながら王者の風貌をしたキリストが,向かって右側に跪く聖ペテロ(殉教者ペテロではなく使徒ペテロ)に教会を治める印である鍵を,左側に跪く聖トマス(腰帯をもらった聖人ではなく神学者のトマス・アクイナス)に,知恵の印である本を手渡している.ペテロの介添えは洗礼者ヨハネ,トマスの介添えは聖母マリアで,聖母はトマスの肩に手をかけている.

 私たちはパリ大学教授だったこの神学者に関してイタリア人だったことすら普段は忘れているが,イタリア人とドメニコ会にとっては不世出の英雄であるようだ.

 下の写真は,サンタ・マリーア・ノヴェッラ教会の,今は美術館になっている旧修道院の「緑の回廊」から入る「修道院参事会の間」もしくは「スペイン人の礼拝堂」に描かれたボナイウートのフレスコ画「カトリック教会の教義の勝利」で,玉座にいるのはトマス・アクイナスである.

写真:
「カトリック教会の教義の勝利」
ボナイウート作


 オルカーニャのポリプティクでは,キリストが真ん中の1面で,左側にマリアとトマス,右側にヨハネとペテロで,これだと3面でトリプティクになるが,両脇にさらに1面ずつあって,計5面のポリプティクになっている.

 向かって左側には剣を持ってドラゴンを踏みつけている大天使ミカエルと,殉教者の印である棕櫚を手にして,アトリビュートの車輪を脇に置いたアレクサンドリアの聖カテリーナ,右側には外側から殉教のアトリビュートである剣を持った聖パウロと,それによって火炙りにされた鉄格子を脇に置く聖ラウレンティウスという風に,剣を持った人物が一番外側に配置されるという左右対称形の見た目の均整を重視した作品になっており,それによって「王者」キリストが際立ち,なおかつトマス・アクイナスがキリスト教史に大きな足跡を残したことが明示されている.

何と言ってもこのポリプティクに居並ぶ聖人たちは多くの宗教画で登場率が高い人たちであり,その中でトマス・アクイナスは初代教皇とされるペテロと並置され,聖母が自ら彼の肩に手をかけている.なるほどトマスはこんなに偉い人だったのかと驚いてしまう.


 この礼拝堂のステンドグラスの下絵を描いたのはナルド・ディ・チョーネということだが,上部は聖母子で,下部は,やはり聖トマス・アクイナスであった.

 礼拝堂を出て,階段を下りながら右手の方の壁面のフレスコ画に注目する.剥落が激しいが,「天使と聖人たちに囲まれた聖母戴冠」という絵柄はよくわかる.14世紀前半のフィレンツェ派の絵だそうだ.この絵に囲まれた扉が鐘楼への入口らしいが,これは入れない.

 階段の下に埋葬のための礼拝堂があり,ここの壁面には若い頃のアーニョロ・ガッディが描いたとされるフレスコ画がある.「2人のマリアと聖人たちに囲まれた死せるイエス」とのことだが,暗いし剥落が進んでいてよくわからない.



 今はブックショップになっているが,もともとは「受胎告知の礼拝堂」だったという聖具室に入る.ここで,新しい英語版のガイドブックを購入し,ガイドブックに載っていないダヴィデ・ギルランダイオの「聖ルキア」とネーリ・ディ・ビッチの「受胎告知」の絵葉書を買った.

 ガイドブックには遠景しか載っていない伝ダルマシオのフレスコ画や,「聖グレゴリウスの前に跪くリッカルド・デ・バルディ」の絵葉書があることを期待したが,なかった.サンタ・マリーア・ノヴェッラの聖堂内は撮影禁止なので是非ほしかったのだが仕方がない.残念だが,しっかりと記憶にとどめることにする.

 この部屋にもジョヴァンニ・デッラ・ロッビアが装飾した聖水盤,ヴァザーリの「聖アンセルムスの幻視に現れた磔刑のイエス」などがあり,ビッグネームではないかもしれないが,先日マッダレーナ・デ・パッツィのモストラを見たセミナリオの壁に何枚も絵がかかっていた17世紀の画家ヤーコポ・ヴィニャーリが描いた「聖フランシスと聖ドメニコ」,「聖ボナヴェントゥーラと聖トマス・アクイナス」の絵があった.この画家の作品はサン・マルコ美術館でも見ている.

 ヴィニャーリの絵の間に,16世紀マーゾ・ディ・バルトロメオの木彫の磔刑像がある.この壁に1938年から1987年まで,あの巨大なジョットの「キリスト磔刑像」が掲げられていたとのことだ.

 聖具室を出てすぐ右手に,ミケランジェロ作と言われている,人型の支柱に支えられた聖水盤がある.

 言及しなかったものもあるが,これでサンタ・マリーア・ノヴェッラ教会の聖堂(バジリカ)にある芸術作品を一通り拝観させてもらったことになる.

 もう一度オルカーニャ,ギルランダイオ,フィリピーノ・リッピ,伝ダルマシオのフレスコ画が見られる礼拝堂をめぐり,会衆席からこれらの礼拝堂の遠景を眺め,ファサードの裏側まで歩いて,ボッティチェルリとピエトロ・ミニアートのフレスコ画をしっかり鑑賞し,マザッチョの「三位一体」をじっくりと眺めて,最後はやはりジョットの「キリスト磔刑像」に別れを告げて,聖堂を辞去した.

 1人2.5ユーロ.暑いときは,この僅かな拝観料で,涼しい聖堂内で人類の宝をたくさん見せてもらえるサンタ・マリーア・ノヴェッラ教会に行くのが良いだろう.中央駅(サンタ・マリーア・ノヴェッラ駅)のまん前だし.


サンタ・マリーア・ノヴェッラのルネサンス
 中世からルネサンス,近現代とサンタ・マリーア・ノヴェッラは長い歴史を持っているが,そこにギリシア・ローマの影響を見出すのは難しい.教会だから,ヘレニズムとヘブライズムなら後者が優勢というより,後者のみでも当然と思われる.

しかし,そこはルネサンスを支えたフィレンツェ人文主義の時代を経ている教会だ.たった一つだけだが,人文主義の痕跡をみつけた.


 メディチ家の保護を受けた文人アーニョロ・ポリツィアーノは『イリアス』をラテン語に訳したり,ボッティチェルリの画風に影響を与えた文化人で,サン・マルコ教会の聖堂に思想家のピコ・デッラ・ミランドーラとともに墓所があり,サンタ・トリニタ教会のサッセッティ礼拝堂にギルランダイオが描いたフレスコ画「聖フランシスの生涯」に彼の姿を見ることができる.

写真:
「聖フランシスの生涯」(部分)
に見られるポリツィアーノの姿


写真の手前の階段の先頭の人物がポリツィアーノで,後ろに連れているのはロレンツォ豪華王の息子たちだ.彼はルネサンスを代表する人物の一人といって過言ではないだろう.

 サンタ・マリーア・ノヴェッラの堂内で,鐘楼の扉の上に描かれたフレスコ画のさらに上の壁に時計がある.この古い時計の下の部分にポリツィアーノのラテン詩が刻まれている.六歩格と五歩格の二行連句を2回重ねた四行詩で,その内容や水準はここでは問わないとしても,ギリシアから引き継がれ,ローマ時代に流行した二行連句詩形を用いた,まさにルネサンスを思わせる作品だろう.訳してみる.



 時代は秘かに流れ去り,多くの人を欺くが,
  この世にあるものは全て終わりへと至る.
 ああ,ひとたび失われた時は帰ってこない.
  ああ,無言の歩みで,死は近づいて来る.







ギルランダイオ「三王礼拝」
捨て子養育院