フィレンツェだより
2007年7月9日


 




歯医者の帰り道
車の蔭で猫が涼をとっていた



§善人たちのオラトリオ

7月8日(日曜日)の夕方は,オルサンミケーレ教会でオルガン・コンサートを聴いた.


 ピエトロ・ルッジェーリという若いオルガニストが,ブルーンスとメンデルスゾーンを1曲ずつ,バッハを3曲弾いた.

 ヨーハン・ゼバスティアン・バッハ,いわゆる大バッハは1685年の生まれで,この年にはヘンデルとドメニコ・スカルラッティも生まれているので,音楽史のイメージを思い描くときに,おぼえておくと便利な年だ.ブルーンスは1665年の生まれだからバッハより20年早く生まれた先人ということになる.バッハという大海に注ぎ込んだ流れの一つだろう.

 メンデルスゾーンのオルガン曲が意外に良かったが,最後に弾いたバッハのパッサカリアBWV582 はさすがに名曲で,多くの人の心を打ったようだった.

 オルサンミケーレは,建物は大きいが1階の教会部分は小さいし,古い教会だがオルガンは新しいので,“大聖堂に由緒あるオルガンが響き渡る”といったイメージからは程遠い.

 それでも,オルカーニャのすばらしい礼拝壇のなかにあるベルナルド・ダッディの「聖母子」の祭壇画や,有名無名の画家たちが描いたフレスコ画の聖人像に囲まれ,普段はなかなか見る余裕のない美しいステンド・グラスを眺めながら音楽に身をゆだねるのは夢のようなひと時だった.


イタリアで歯医者に行く
 日本でも私はほとんど歯医者に行かない.学生時代に盛岡の遠縁にあたる先生に診てもらって以来,20年以上もかかっていなかったが,1年国外に出るので,悪い歯を全部治療してもらうようにとの妻の厳命と,イタリア出身の方から,「イタリアでは歯医者にはかからない方が良い」というアドヴァイスもあったので,こちらに来る前に,積年の悪化を治療すべく,地元で評判の良い歯科医院に半年通った.

 だいぶ前の話になるが,6月9日にヴィアレッジョのプッチーニ・ヴィラ博物館から帰ってきて,エノテカ・ロンバルディの新店舗お披露目で,ワインとチーズをご馳走になった時,「あれ,随分固いチーズだな」と思って,ごろっとしたものを出してみると,治療したばかりの歯のかぶせ物だった.

 それから特に支障はなかったので,治療は帰国後にしようかと思っていたが,「この先生が良い」という歯医者さんを紹介してもらったので,先週,どきどきする心臓を押さえながら,予約をするべく電話の前に立ち,度胸を決めて教えていただいた番号に電話した.良くわからないところもあったが,要するに「来週9日の月曜日,9時半に来い」ということだったように思う.



 その9日が来た.歩いて30分ほどの距離の,初めて行く場所なので,7時過ぎに朝食をとって,8時半には寓居を出た.

 サンガッロ通りをリベルタ広場まで行き,エッセルンガのあるマザッチョ通りに出て,ヴァザーリ広場から跨線橋を渡って,坂を登ったところにドトーレ・フランチェスコ・ブォンチャーニ先生の診療所はあった.普通の住宅の2階で特に看板は出ていなかったが,呼び鈴のところに名前があったので,ホッとしてベルをおした.

 小柄だが,若い,聡明な顔立ちの颯爽とした先生で頼りがいがあった.おかげで,50ユーロの治療費と1回の手間で,落ちたかぶせ物をの接着とクリーニングをしてもらえた.

 イタリアにもブォンチャーニ先生のように素晴らしい歯科医がいるというべきなのか,イタリアの歯科医療は信頼に足るというべきなのかは,私程度の経験では何とも言えない.教えてくださった柳川さんという先達がおられてこそ,あと8か月のイタリア滞在をちゃんと噛める奥歯がある状態で過ごすことができる.


ブオノーミニ(善人たち)のオラトリオ
 午後は,夕方から先日見られなかったペルジーノのフレスコ画を見せてもらおうと,サンタ・マリーア・マッダレーナ・デ(−イ)・パッツィ教会に行ったが,今日は教会そのものが開いていなかった.街のほうに用事もあったので,まず,それを済ませ,代わりに,ツーリストの入場は月曜のみというバディア・フィオレンティーナ教会を再訪することにした.

 途中,意外なものを見ることができた.タヴォリーニ通りとチェルキ通りの交差するところにタベルナコロがあり,そこに祈祷堂(オラトリオ)らしいものがあるのは以前から気づいていたが,扉が開いているのを初めて見た.ブオノーミニ・ディ・サン・マルティーノ祈祷堂(オラトリオ)だ.

 タベルナコロ(写真の扉の右)の絵は「施しをするトゥールの司教聖マルティヌス」(セイント・マーティン,サン・マルタン)で,彼はフランスの守護聖人になっている.扉のリュネットにある像は聖アントニヌスで,この人は15世紀フィレンツェの大司教で,サン・マルコ修道院の院長だった人だ.

 ブオノーミニは「善人たち」を意味するイタリア語で,施しを恥じる謙虚な困窮者たちを助ける志を持った人々が作った団体らしい.

写真:
オラトリオの入口


 ちなみに上の写真の左下の自転車の後ろに見えるのが,私がいつも情報を得ている教会の説明の立て看板で,市が教会関係施設等に立てているもののだ.ピストイアでも同じような立て看板を見た.

 堂内にはヴェロッキオ作と伝えられるアントニヌス(サンタントニーノ)の胸像があり,部屋の上部にある幾つかのリュネットには「善人たちの施し」と「聖マルティヌス」を題材にしたフレスコ画があった.ギルランダイオの工房のものとのことだ.サンタ・トリニタやサンタ・マリーア・ノヴェッラのカペッラのフレスコ画や「最後の晩餐」で私たちにすっかりおなじみの画家ドメニコ・ギルランダイオの工房である.

写真:
ギルランダイオ工房による
フレスコ画


 ギルランダは英語のガーランド,「花輪」を意味する語で,本名はドメニコ・ディ・トンマーゾ・ビゴルディというらしいこの人物が,何で「花輪」を含む名前で称されるかは今のところわからないが,ドメニコの息子はリドルフォ・デル・ギルランダイオと称される.

 関係は未確認だが,さらに子供くらいの世代にミケーレ・ディ・リドルフォ・デル・ギルランダイオという画家がいて,アカデミア美術館でその作品が見られる.ドメニコの弟ダヴィデも画家で,セバスティアーノ・マイナルディが義理の兄弟になるようなので,まさに工房を抱える画家の一族だったわけだ.

 このフレスコ画はさすがに巨匠自らの手になるものではないと思われるが,保存状態も良く,思いがけず見られたので,何かしら愛着を感じさせる.昨夜,夢でギルランダイオ一族が出てくる物語をみてしまった私を神が憐れんで,まったく思わぬ形で,工房の作品とはいえ,彼の名を冠したフレスコ画を見せてくれたのだろう.

 詳しいイタリア語版の解説書と,フレスコ画の絵柄を一つ一つ説明してくれた英語訳の簡略版ガイドブックを購入した.あわせて13ユーロ.

 こうしたオラトリオなどはボランティアらしき人(たいていは年輩の方)が開館中の番をしていることが多いが,ここも品の良い高齢の女性が鈎針で小物を作りながら番をしていて,本を買ったとき,私の後ろにいた妻に「シニョーラ」と声をかけてきた.収益をチャリティーにする(多分)手作りの花を買ってくれないかということだったので,謹んで4ユーロで購入させていただいた.

左側のカーネーションが
そうだが,説明によると,
鍵などにタッセルのように
つけて使うそうだ.



バディア・フィオレンティーナ教会
 その後,バディア・フィオレンティーナに行き,ミーノ・ダ・フィエーゾレ作成の数基の墓碑,ヴァザーリの板絵,フィリピーノ・リッピの傑作,ナルド・ディ・チョーネの剥離フレスコ画を再度鑑賞した.

 今日は,先日ピストイアの市立美術館で,小さな板絵を幾つか見ることで,その実力を認識したジョヴァンニ・バッティスタ・ナルディーニの「ゴルゴタへの道」と「聖霊降臨」の板絵をじっくり見ることができた.特に前者は良い絵だと思った.

 オレンジの回廊に出て,再び「聖ベネディクトの生涯の物語」(15世紀前半)の一連のフレスコ画を見せてもらった.作者はジョヴァンニ・ディ・コンサルヴォという人らしく,ビッグネームによる作品ではないが,風雨に曝されているわりには保存状態が良いのと,ストーリーを想起させる絵柄が興味深く,サン・ミニアート・アル・モンテ教会聖具室のスピネッロ・アレティーノの同主題の連作フレスコ画(14世紀後半)との違いを比べるのもおもしろいと思われた.

 下の写真はそのひとつである.聖ベネディクトが修道会(ベネディクト会)をつくり,モンテ・カッシノに修道院を開いたのは6世紀のことだが,後に西欧のキリスト教史に大きな足跡を残す彼が生家を旅立つ場面は,凛々しい馬上の少年の姿に描かれていて,大変心を打つものがあった.





旅立つ少年ベネディクト
オレンジの回廊のフレスコ画