フィレンツェだより
2007年7月11日


  




マリーア・サンティッシマ・デッレ・グラーツィエ教会(右)
同美術館(中),サン・ロレンツォ教会(左)



§サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノ

今日も世紀の大傑作を見た.サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノにあるフラ・アンジェリコの「受胎告知」だ.


 サン・マルコ美術館のフレスコ画とはまた違う味わいの板絵の作品で,神の子を宿したことをマリアに告げる大天使ガブリエルの気品に溢れた姿と,ピンク色を濃くした赤に金糸の刺繍が施してある衣服がすばらしい.



 しばらく前からルッカに行くチャンスを狙っていたが,体調が今ひとつで,遠出には二の足を踏む状況だった.代わりに思いついたのがヴァルダルノだ.ここなら比較的近いし,アレッツォに行く途中に一度通っているから,出かけるのに心理的な壁も厚くない.

 午後から出発しても何か見られるのではないかと期待して,思い切って「だめもと」で電車に乗り,サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノに行くことにした.マザッチョの故郷だ.

右:「ヴァルダルノのルネサンス」の
  宣伝冊子(表紙はマザッチョの「聖母子」)
左:美術館のガイドブック
  (表紙はフラ・アンジェリコの「受胎告知」)


 現在,ヴァルダルノ地方の教会や美術館がトスカーナ州と協力して「ヴァルダルノ(アルノ川渓谷)におけるルネサンス」(リナシメント・イン・ヴァルダルノ)という特別展を開催しており,あちらこちらでこの宣伝を見かける.

 1人5ユーロの共通券を買うと,それらの地域にある5ヵ所の美術館とフィレンツェのメディチ・リッカルディ宮殿を何度でも見られるという大変すばらしい企画で,私たちも宣伝冊子を入手して,このすばらしい特別展に興味を持った.

 しかし,交通の便に詳しくないので,それらの小さな町の教会や美術館にどうやったら行けるものか思案に余るところだった.サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノの美術館は,その5つの会場のひとつだ.

 先日,アレッツォの帰りにサン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノ駅を通ったとき,大きな教会のクーポラが見えたので,もしやあれが,バジリカ(聖堂)付属美術館にフラ・アンジェリコの「受胎告知」があるマリーア・サンティッシマ・デッレ・グラーツィエ教会ではないかと,9割9分まで期待だけの予想をたてていた.

 結果から言うとその予想は当たっていた.ただし,サン・ジョヴァンニに着いたのが3時少し前だったので,聖堂も付属美術館も昼休みで閉まっていた.幸い美術館の隣のサン・ロレンツォ教会が開いていたので,拝観させてもらうことにした.


サン・ロレンツォ教会
 堂内には全く人気がなかったが,この誰もいない堂内に大変なものがあった.マザッチョの弟ジョヴァンニ・ディ・セル・ジョヴァンニ,通称ロ・スケッジャのフレスコ画だ.1408年にサン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノで生まれ,1484年にフィレンツェで死んでいる.夭折した兄とは対照的に長生きした人物だが,その作品を見るのは多分初めてだ.

写真:
サン・ロレンツォ教会


 剥落が進んでいたが,かろうじて「聖セバスティアヌスの殉教」,教会の名のもとである「聖ラウレンティウス」,「聖アントニウスの物語」,「聖痕を受ける聖フランシス」の絵柄を確認することができた.

 このフランシスと,反対側の側廊の壁面にある「パドヴァの聖アントニウスと聖ベルナルディーノ」は顔に大変特徴があったが,後で聖堂付属美術館で彼の板絵を見て,この作家の特徴は顔に良くでていることがわかった.地方の小さな教会にしては,この画家のフレスコ画は大変保存が良いことになるだろう.

 マザッチョ作ではないかと言われる顔が剥落した人物像や,マリオット・ディ・ナルドの「受難の象徴を伴うピエタ」というかなり大きさのフレスコ画もあった.

 しかし,この教会で一番すごかったのは,がらんとした堂内のさらに簡素な中央祭壇にさりげなく置いてあったジョヴァンニ・デル・ビオンドのポリプティクである.

 下の写真ではカットしてしまったが,中央の聖母戴冠の上の尖塔部分には磔刑のイエスの両脇で悲しむ聖母とマグダラのマリアが描かれていた.聖母戴冠の足元で楽を奏する天使たち,両脇の部分に居並ぶ聖人たちの顔が良く描かれており,画家の個性が際立つ作品に思われた.聖母が来ている衣服の模様もまたアレッツォのサンタ・マリーア・デッレ・ピエーヴェ教会で見たピエトロ・ロレンゼッティ(ロレンツェッティ)の祭壇画の聖母と同じような模様だ.

写真:
「聖母戴冠」
ジョヴァンニ・デル・ビオンド



バジリカ(聖堂)付属美術館
 ひとしきり鑑賞と拝観をさせてもらった後,教会の外に出ると,美術館の扉が開いていた.

 2階の受付で入場券を求めると,上述の1人5ユーロの共通券を勧められたので,それを購入した.さらに,内容充実の1冊15ユーロの美術館カタログと,「ヴァルダルノのルネサンス」のガイドブックを14ユーロで買い求めた.

 この美術館も良かった.マリオット・ディ・ナルドの「聖母とマグダラのマリアに囲まれた聖三位一体と聖人たち」は,キリストをイメージさせる神の顔に迫力があった.マリオット・ディ・クリストーファノの「聖母子と聖人たち」と「聖母と聖ルチアに囲まれた受難のキリスト」,ドメニコ・ディ・ミケリーノ(フィレンツェのドゥオーモに「『神曲』を示すダンテ」を描いた画家)の「玉座の聖母子と聖人たち」,ジョヴァンニ・ディ・ピアモンテという初めて知った画家の「大天使ラファエルとトビアス」が見られた.

パオーロ・スキアーヴォとスケッジャの板絵もあったが,前者は,彼もまたやさしい表情を描ける画家だということがわかって良かったし,後者に関しては,ともかくその強烈な個性,場合によっては「へたうま」とも見えてしまいそうな特徴あふれる人物像に圧倒される思いだった.


 今回の最大の収穫の一つは,これまでに見ている作品は少ない(サン・フレディアーノ教会,フィエーゾレのバンディーニ美術館)が,その実力を高く評価していたヤーコポ・デル・セッラーイオの「受胎告知」が見られたことだ.

 これはすばらしい作品だった.美少年のガブリエルとすでに成熟した女性の風格で告知を受け止めるマリアの対比が,他の「受胎告知」には見られないこの作品の特徴に思われた.華奢で控えめなガブリエルがともかく美しい.

 そして,フィレンツェのサン・マルコ美術館から出張してきている「説教する聖ペテロとその教えを書き記す聖マルコ」の小さな絵とともに,この美術館の,いや人類の宝であるフラ・アンジェリコの「受胎告知」はあった.世紀の傑作でも人を不幸にするものもあるかも知れないが,この作品は間違いなく見た人全員を幸福にしてくれるだろう.

 他にも地元出身のジョヴァンニ・マンノッツィ,通称ジョヴァンニ・ダ・サン・ジョヴァンニの剥離フレスコ画「聖母の婚約」もあり,これもすばらしい作品だった.この作家の作品は他に「洗礼者ヨハネの首を受け取るサロメ」の板絵もあった.先日ピストイアの市立美術館でも彼の剥離フレスコ画を見ている.

 しかし驚くことに,これだけの傑作を抱えるこの美術館にいたのは,最初から最後まで私たちだけだった.心ある日本の美術ファンは,今すぐ貯金をおろし,航空券を買って,この美術館を訪れ,「ヴァルダルノのルネサンス」の企画を支援すべきだ.


マリーア・サンティッシマ・デッレ・グラーツィエ教会
 美術館を出たあと,聖堂に行ったら工事中であったが,工事責任者の方が,丁寧に「大丈夫だから入れ」と言って入れてくださった.壁面にぐるりと板絵が掲げてあったが,その中でジョヴァンニ・ダ・サン・ジョヴァンニの「ヨセフとイエス」が印象に残った.

 他にも昨日フィレンツェのサン・ロレンツォで初めて作品を見たピエトロ・マルケシーニの名前がついている「聖ヨセフの死」もあったが,これは帰りの電車の中で美術館のカタログを確認したところ,最近の研究の成果によって他の作者に訂正されていたので,マルケシーニの作品ではないようだ.

 他にも作者の名前が記されていない現代作家の「イエスに大工仕事を教えるヨセフ」の絵があった.このテーマの現代絵画といえばピエトロ・アンニゴーニの作品がサン・ロレンツォにある.

 いずれにせよこの教会は聖母の名前を冠した教会だが,聖ヨセフの存在感にも光をあてているように思えた.それは,内陣に入るために登る左右の階段のそれぞれ踊り場にほとんど剥落してしまったフレスコ画があったが,一方が「聖母の婚約」であったことにも現れているように思えた.

 地階部分には「奇跡の礼拝堂」がある.これは両親を失った子供の祖母が「授乳の聖母」の功徳で,老齢にもかかわらず自分の乳で孫を育てることができたという伝説に基づくものらしい.その「授乳の聖母」と伝えられる画像が内陣の中央祭壇にあり,その向かって左側にこの奇跡を物語ったフレスコ画があった.

 そもそも「マザッチョの家」博物館は場所も確認できなかったし,他にもいくつか見たい教会もあったが,夕方になったので,駅に急ぎ,予定より1本早い各駅停車で,美しいヴァルダルノの風景を眺めながら,喧騒のフィレンツェにもどってきた.

 ここのところそれほど暑くはなかったし,今日は特に涼しかったが,40度を越す暑さが迫っているという巷の噂を聞く.杞憂であることを願うばかりだ.





マリーア・サンティッシマ・
デッレ・グラーツィエ教会前の広場で