フィレンツェだより
2007年6月18日



 




ローマ門とカルツァ教会
鐘楼右手が旧「修道院」



§最後の晩餐

フランチャビージョの「最後の晩餐」を見た.サン・ジョヴァンニ・バッティスタ・デッラ・カルツァ教会の修道院の食堂だった部屋にそれはあった.


 フィレンツェにフランチャビージョの「最後の晩餐」があることは,しばらく前に分かっていた.具体的な所在地をインターネットで調べているうちに,「フィレンツェの食堂」(チェナコリ・ディ・フィレンツェ)というサイトを発見し,さらに「フィレンツェの教会」(キエーゼ・ディ・フィレンツェ)というサイトに行きついた.

 それらによって,彼がフレスコ画を描いたサン・ジョヴァンニ・バッティスタ・デッラ・カルツァ教会と修道院は,サン・フェリーチェ教会からロマーナ通りを進み,ローマ門(ポルタ・ロマーナ)まで行ったところにあるカルツァ広場にあることを知った.

 しかし,場所は分かったものの,修道院は現役ではなく,「食堂」は現在は会議場として使われているという以上の情報は得られず,フレスコ画が公開されているどうかもわからない.ともかく行ってみようという妻の一言に励まされて寓居を出発したのは,17日の日曜の夕方のことだった.

 アルノ川を渡り,グィッチャルディーニ通り,ロマーナ通りと進み,ローマ門に到着し,無事目当ての教会と旧修道院を見つけた.
 
 受付にいた係員の人に来訪の趣旨を告げて,見せてもらえるかどうか聞いてみたら,今日は会議で使用中だからだめだが,明日の夕方なら大丈夫と言われた.とにかく見られることがわかったので安堵し,翌日出直すことにして,この日は引き上げた.



 カルツァ教会の名のもとになっているカルツァ(靴下)は,もともとは周辺にいた修道士たちの姿が「靴下」のように見えたことに由来するらしいが,現在は,教会が面している広場の名前がつけられているに過ぎないようだ.

カルツァという名前が,たまたま先日訪れた「跣足修道会」の跣足(スカルツォ)と似ているので気になった.


 スカルツォを『伊和中辞典』で引くと,複数形のスカルツィで「(素足にサンダル履きの)跣足修道士(会)」とあり,あまりなじみのない「跣足」が定訳で,もともとは「(靴下も履いていない)はだしの,素足の」という意味だったことがわかる.

 英語やラテン語で使われるディスという否定の接頭語が,イタリア語ではスになる例の一つだろう.英語のディスカウントがイタリア語ではスコントになる.響きとしてはカルツァとスカルツォで似ているし,語源的にも共通の根からでているが,教会,修道院としては相互の関係が名前に反映したものではないらしい.



 今日(18日)も4時近くになってから寓居を出発し,アルノ川を越えて,旧カルツァ修道院に向かった.

 受付にいた係の人は昨日とは別の人だったが,「フレスコ画を見たい」と言ったら,きちんと対応して下さった.鍵を取り出し,回廊のある中庭にいた同僚に「フランチャビージョを見たいという人が来たので会議室を開ける」と言って,私たちを案内してくれた.

 旧「食堂」は,今やプロジェクタまでついている本格的な会議室仕様になっていたが,奥の壁にはフランチャビージョの「最後の晩餐」が鎮座していた.

写真:
フランチャビージョ作
「最後の晩餐」


 迂闊にも日本語訳の『聖書』をイタリアに持ってこなかった.ギリシア語とラテン語の本文がパラレル・テクストになった「新約聖書」しか手元にないので,定訳で説明できないのが残念だが,その「ヨハネ伝」によれば,キリストが「この中に私を裏切るものがいる」と12使徒に向かって言うと,ペテロが「あなたがおっしゃっているのは,誰についてですか」と尋ねる.

 その次が少しわかりにくいところだ.直訳すると,


次に,イエスの胸によりかかっていたかの者が,彼(イエス)に言った.「主よ,それは誰ですか」.イエスは答えた.「私が浸した一口のパン(プソーミオン)を与えるであろう,その者がそうだ」.そして彼(イエス)はパンを浸した後,(それを)イスカリオテのシモンの子ユダに渡した.一口パンを食べた後,サタンが彼(ユダ)の中に入った.そしてイエスは彼に言った.「お前がすることを,速やかに行え」.彼(イエス)が彼(ユダ)に言ったことに関して,食卓についていた者のうち誰一人として知らなかった.ユダが財布(グローッソコモン)を持っていたので,イエスが「祭日に必要なものを買うが良い」,あるいは「貧しい者たちに何がしか与えるように」とユダに言ったのだと思った者もいた.一口のパンを受け取ると,彼(ユダ)はすぐに出て行った.夜となった.


と,なる.誤解した者たちがイエスはこう言ったと思った内容の部分が,前半は直接話法,後半は間接話法になっていて,間接話法の部分は,ギリシア語では接続詞に導かれる動詞が接続法・アオリスト,ラテン語では接続法・未完了過去になっていて,少しわかりにくい.

 ギリシア語では「パン」は全てプソーミオン(小さなひとかけら)という語が使われているが,ラテン語訳では,最初の2箇所はパニスが,後の2箇所はブッケッラ(ブッカ「頬」の縮小語)が使われいて,「パン」と訳したところも,「パン」だろうと思うだけで確信はない.ガフィオの『羅仏辞典』では「貧しいものが食べるパン」とあり,古典文学には出典がない語のようだ.

 フランチャビージョの「最後の晩餐」も劇的に描かれていた.イエスの向かって右隣にいるペテロ(絵に聖ペテロとラテン語で書いてある)は自分を指差し,ユダは図星を指されて動揺し,椅子から立ち上がろうとしているが,左手には財布を握っている.若いヨハネはキリストの胸に寄りかかっている.

写真:
ユダを描いた部分

立ち上がった拍子に,
椅子が倒れかかる


 十二使徒のヨハネは洗礼者ヨハネではなく,福音史家ヨハネなので,もし「ヨハネ伝」を本当にヨハネが書いたのなら,自分のことを言っていたことになるのかも知れないが,彼が福音書の著者であるとは現在は考えられてはいないようだ.

 しかし,ここで問題は,それぞれの時代に,キリスト教が広まっていった時代や,ずっと後世の「最後の晩餐」が描かれた時代に,どう考えられていたかであろう.



 聖書本文の「かの者」(ギリシア語「エケイノス」,ラテン語「イッレ」)がヨハネを指すという解釈はどこから来たのだろうか.

 文章の前後を見ても出てくる固有名詞はイエス,ペテロ,ユダしかない.もちろん,文脈上ペテロでもユダでもない別の人物で,根拠さえあればそれをヨハネと考えても一向に差し支えない.ウェブページで英語訳が見つかったが,「かの弟子」(that disciple)と訳してあった.

 ペテロが尋ねる直前の箇所に「彼の弟子たちの一人で(ヘイス・エク・トーン・マテートーン・アウトゥー),イエスが愛していた者(ホン・エーガパー・ホ・イエースース)が,イエスの抱擁の中に(エン・トー・コルポー・トゥー・イエースー),身を寄りかからせていた(アナケイメノス・エーン)」とあるので,それがまず「弟子」の根拠で,「イエスが愛していた者」とはヨハネを指すのであろう.「愛していた」は未完了過去なので,継続性のある行為または状態を示している.もちろん「愛する」はエロス的愛とは別の動詞が使われている.

 他の3福音書を見ても,「ヨハネ伝」ほどくわしくは語っておらず,多くの「最後の晩餐」の典拠は「ヨハネ伝」なのだと思われる.

 とすると,先日見たアンドレア・デル・サルトの絵で,ヨハネがキリストに寄りかかっていないのは,それまで寄りかかっていたのが,(頭をあげて)「主よ,それは誰ですか」と言ったことになる.

 「寄りかかっていた」はギリシア語ではアオリスト分詞,ラテン語では接続詞+接続法・過去完了だから,主動詞に対して「以前」を意味するならば,この解釈は妥当だということになる.少なくともラテン語訳の訳者(聖ヒエロニュモス)はそう考えたと思われる.

ただ,ギリシア語原文で使われているアオリスト分詞は必ずしも主動詞に対して「以前」を意味するとは限らないので,その場合はヨハネ(もしくはペテロとユダ以外の弟子の一人)がキリストの胸にもたれながら聞いたと考えても良いことになり,フランチャビージョの絵柄も「あり」ということになる.


 多くの「最後の晩餐」はデル・サルト型ではなく,フランチャビージョ型であるが,完全に食卓に伏して寝ているように見えるものもあるのは,キリストにもたれかかる絵を描くのは畏れ多いからだろうか.

 カスターニョは完全に伏しているが,寄りかかっているといえないこともない.サン・マルコのギルランダイオは食卓に伏しているが,キリストの胸の前なので,寄りかかっているようにも見える.オンニサンティのギルランダイオは寝ていた所を起こされたような寝ぼけ顔でキリストに寄りかかっているように見える.いずれも場合も,私たちから見て右側にヨハネがいる.デル・サルトはやはり右側だが,フランチャビージョは左側にいる.


ユダはどこに描かれる
 ガッディの絵では,一列になったキリストと使徒たちの向かい側に小さくユダが描かれていて,ヨハネはキリストの(私たちから見て)左側で食卓に突っ伏している.

 サン・ジミニャーノのフレスコ画はキリストの右側にヨハネがもたれかかって,明らかに眠っており,ユダは向かい側にいてパンを受け取っている.ただし,全員で食卓を囲んでいるので,向かい側にいるのはユダだけではない.

 まだ見ていないレオナルドでは若い女性のようなヨハネはキリストの左側で,半分寝ているように見えるが,伏してもいないし,キリストによりかかってもおらず,むしろ頭は反対側に傾いている.

ユダはキリストやその他の使徒たちと反対側にいる場合が多く,フランチャビージョもそれを踏襲していているが,立ち上がった勢いで椅子が倒れかかっているように見えるところに,彼の劇的表現が活かされている.


 レオナルドが初めてユダをキリストと同じ側に置いたのだとして,それが革新的だったのなら,フランチャビージョはそうしなかったが,デル・サルトはそれを取り入れたことになる.

 フィレンツェで見られると言われているものを年代順に並べ,レオナルドの作品をその中に入れてみると,少なくとも,ギルランダイオ,レオナルドと,フランチャビージョ,デル・サルトの位置関係ははっきりするだろう.

タッデーオ・ガッディ サンタ・クローチェ 1340
アンドレーア・オルカーニャ サント・スピリト 1370
アンドレーア・デル・カスターニョ アポロニア 1450頃
ドメニコ&ダヴィデ・ギルランダイオ バディア・パッシニャーノ 1476
ドメニコ・ギルランダイオ オンニサンティ 1480
ドメニコ・ギルランダイオ サン・マルコ 1482
ペルジーノと弟子たち フリーニョ 1495
  レオナルド・ダ・ヴィンチ サンタ・マリーア・デッレ・グラーツィエ,
ミラノ
1495
(非フレスコ)
フランチャビージョ カルツァ 1512
アンドレア・デル・サルト サン・サルヴィ 1519−27
10 アレッサンドロ・アッローリ サンタ・マリーア・デル・カルミネ 1582
11 アレッサンドロ・アッローリ サンタ・マリーア・ノヴェッラ 1584−92


 この中でまだ場所がわからないのは4,見られるかどうかわからないのは,2,10,11で,少なくとも1はサンタ・クローチェのムゼーオで見られるはずだし,7も場所と見られる時間は既に確かめている.



 係員の皆さんには親切にしていただいた.「この絵のことをどうやって知った.ガイドブックに書いてあったのか」と尋ねられて,「ウェブページ」(パジーナ・ウェブ)と答えるのが正解だったかも知れないが,うろたえていたので,「そうだ」と答えてしまった.アポロニア,サン・サルヴィ,オンニサンティでもらったパンフレットからも情報を得ているので,「ガイドブック」と言っても広義には間違いではないだろう.

 今日も,「入場無料」で大変なものを見た.イタリアの懐の深さに感じ入る一日だった.


道すがら見られたもの
 ローマ門の天井部分のリュネットにも「聖母子と聖人たち」のフレスコ画があった.

写真:
ローマ門のフレスコ画


 17日の往路は,グィッチャルディーニ通り,ロマーナ通りという経路だった.ロマーナ通りには幾つか教会その他があるが,これまで入ったことはない.今回サン・フェリーチェ教会から少し行ったところにあるサン・セバスティアーノ・デーイ・ビーニ祈祷堂(オラトリオ)の扉が開いていたので,入れてもらった.現在はムゼーオになっているが,ヴォランティアの人たちが記帳だけを求めるだけで,「入場無料」だった.

写真:
サン.セバスティアーノ・
デーイ・ビーニ祈祷堂


 バッチョ・ダーニョロ(1462−1543)という人が作った祭壇用衝立(アンコーナ)にロッセッロ・ディ・ヤーコポ・フランキ(1377−1456)という人が描いた「聖母子」と16世紀の別の作家(ピエール・フランチェスコ・フォスキ)の作と言われる「聖ペテロと聖ベルナルド」をはめ込んだものが祭壇に置かれていて,他にはジョヴァンニ・ビリヴェールト(1576−1644)(フランス語風の綴りなので母音無しの「ト」は発音しないかも知れない)という人の作品や,伝フィリピーノ・リッピの作品があった.喜捨をして出るとき,「グラーツィエ」と言われた.

 17日の復路と18日の往路は,城壁の内側の駐車場になっている通り(名前がついていたのだが失念した.城壁をはさんでペトラルカ大通りと並行しているが,地図には名前が出ていない)を通ったが,18日の復路もロマーナ通りを通った.

 この日はサン・ピエール・ガットリーノ教会が夕方のお祈りの時間の前で開いていた.堂内の側壁にアントーニオ・ソデリーニの「聖ヨセフの死」(1722)と,ビリヴェールトの「受胎告知」があった.



 左上の写真の右壁のマリア像の下には通路があって,横手にある礼拝堂(カペッラ)に通じているが,これが教会と同じくらいの大きさ(右上の写真で十字架のある本堂の右側の建物)で,私たちにはめずらしいものに思われた.

 ガットリーノ教会のあと,サン・フェリーチェ教会に寄った.ここはさすがに良いものがあるが,お祈りが始まりそうだったので,じっくり見せてもらうのは後日のこととした.



 17日の帰路と18日の往路に通った道で,城壁と向かい合う壁の向こうに庭園があり,その中に中世風の塔(下の写真)があった.まさか新しい時代のものではなかろうと思ったが,ガイドブックには出ていないので,由緒のあるものではないことは予想された.

 以前,購入していた,英語版の『フィレンツェの建築物』によると,1821年に建てられたゴシック・リヴァイヴァル建築の初期のものだそうだ.庭園はトッリジャーニ庭園という名で,中には「マーリンの洞窟」などがあるそうだ.

趣味が良いんだか,悪いんだか,けったいなものもたくさんある街だ.


 ロマーナ通りの方にもボーボリ庭園の向かい側にコルシ庭園とか,アンナレーナ庭園などがあり,昔は裕福な人たちが屋敷を構えたあたりなのだろう.

 今は宿になっているカーザ・アンナレーナには「ルイージ・ダッラピッコラが死ぬまでの20年以上をここで生活し仕事をした」というプレートがあった.1975年に71歳で死んだ20世紀イタリアを代表する作曲家である.映画音楽でも有名なニーノ・ロータより少しだけ上の世代の音楽家だ.ちなみにニーノ・ロータには歌劇「フィレンツェの麦わら帽子」があり,スカイパーフェクTVで放映された.

 ローマ門の近くの建物には大詩人ジョズエ・カルドゥッチが若い頃住んでいたというプレートと胸像が掲げてあった.ピサ近くのピエトラサンタ生まれでボローニャ大学で教鞭を取り,1906年のノーベル賞を受賞し,1907年にボローニャで亡くなったが,フィレンツェで勉強していたことがあるらしい.この界隈に住んでいたのだろうか.





城壁(右手の壁)と
トッリジャーニ庭園の間の長い道