フィレンツェだより
2007年6月14日


 




アンドレア・デル・サルトの
「最後の晩餐」のある「食堂」にて



§サン・サルヴィ

比較的遠くにあるうえ,1時までしか開いていないので,天気と相談しながら,長時間の歩行に耐える体力と時間がある時を見計らって,いつかは行こうと思っていたのが,サン・ミケーレ・ア・サン・サルヴィ教会とその修道院の「食堂」(チェナーコロ)だ.


 目当てはもちろんアンドレア・デル・サルトの「最後の晩餐」(ウルティマ・チェーナ)である. 昨日(13日),ついにそれを果たした.

 チェナーコロは,現在は国が管理する美術館(ムゼーオ)になっているとのことだったが,それ以外は『最新完全版ガイドブック フィレンツェ』と英語版ロンリープラネットだけが情報源で,ほとんど何の知識もないまま寓居を出発して,サン・サルヴィを目指した.

 4月27日通りからサン・マルコ広場,バッティスティ通りからサンティッシマ・アヌンツィアータ広場,コロンナ通り,ニッコリーニ通りを東進する.

 分かれ道ではマンゾーニ通りを選んだ.もう一方はレオパルディ通りだったが,それぞれ大作家,大詩人と関係があるかどうかはわからない.少なくともマンゾーニはフィレンツェに滞在したと言われているので,通りの両側の建物のどこかにプレートがないかと,目を皿のようにして探したが無かった.

 クローチェ門のあるベッカイア広場に出て,そこから長いヴィンチェンツォ・ジョベルティ通りをひたすら東進,アルベルティ広場で方向を変え,北東方面にラピーニ通りの跨線橋を渡り,エドモンド・デ・アミーチス大通りを右に曲がるとサン・サルヴィ広場に着く.

写真:
サン・サルヴィ広場


 鐘楼と教会が見えたので,開いていた扉から入ると,修道院の中庭付き回廊に出た.天井などにフレスコ画が少し残っており,今まで見た回廊より小ぶりだが,よく手入れされた中庭を見ることができた.

写真:
サン・サルヴィ教会
修道院の中庭付き回廊


 しかし「食堂」はどこにあるか分らない.一旦外に出たら,道をはさんで鐘楼の向かいにもうひとつ小さな教会があったので,そこにも入ってみたが違うようだった.

 とまどっていると,年配の紳士が「チェナーコロを探しているのか」と声をかけてくださった.このあたりはツーリストをあまり見かけず,首からカメラをぶら下げたアジア人の用事がある場所といえば,どう見ても限られるからだろうか.親切に教えていただいたおかげで,無事,目的の場所にたどり着くことができた.入口は工事中だったが,工事をしている人たちが,「プレーゴ」と言って通してくださった.


サン・サルヴィ美術館
 驚いたことに,国管理のこの「美術館」は入場無料だ.これでオンニサンティ修道院,旧アポロニア女子修道院(現在は「カスターニャ美術館」)と3つの「食堂」の「最後の晩餐」を無料で見せてもらったことになる.イタリアという国の懐の深さにただただ畏れ入ってしまう.

 「ただ」だっただけではない.この美術館の収蔵作品はすごかった.『最新完全版ガイドブック フィレンツェ』にも「R・デル・ガルボ,ポントルモ,ヴァザーリの作品も展示されている」(p.190)と書いてあったが,その作品数と水準の高さには,ただただ溜息をついて放心するばかりだった.

写真:
サン・サルヴィ美術館


 記帳用のノートがおいてあったので,私たちも名前を漢字で書かせてもらったが,そのページには私たちの前には2人しか名前がなく,当日は私たちの前に1人,もう1人は前日いらした日本人の方のようだ.これだけの展示が知られていないのは惜しいが,観光スポットになって大勢の人が押し寄せるのも考えものだし,これで良いのかも知れない.

フランチャビージョという画家が今日の新しい学習項目である.


彼は,アンドレア・デル・サルト(「仕立て屋」=サルトの息子なので,そういうそうだが,以下デル・サルト)の有名な作品を手伝ったばかりでなく,彼自身もフレスコ画を描き,カルツァ修道院「食堂」には彼自身の「最後の晩餐」があるそうだ.下の写真の作品を含む2枚の剥離フレスコ画が大変印象的だった.

写真:
フランチャビージョ
剥離フレスコ画「我に触れるな」


 リドルフォ・デル・ギルランダイオの2枚の大作も力のあるものだったが,少なくとも私たちはこれまで全く知らなかったフィレンツェ,トスカーナの画家たちの作品に見入ってしまった.


「食堂」(チェナーコロ)
 「食堂」には剥離フレスコ画「受胎告知」,板絵「我に触れるな」(ノーリー・メー・タンゲレ)などのデル・サルトの作品の他に,先日その実力に「開眼」したばかりのポントルモの剥離フレスコ画「受胎告知」,板絵「アレクサンドリアの聖カテリーナ」,「聖母子とサン・ジョヴァンニーノ」などがあり,ここはとんでもない空間だと思えた.

 これまでカスターニョの「最後の晩餐」(聖アポロニア女子修道院「食堂」),ドメニコ・ギルランダイオの2枚の「最後の晩餐」(サン・マルコ修道院「食堂」とオンニサンティ修道院「食堂」)と時代順に見てきた.最も有名なレオナルドの「最後の晩餐」(ミラノのサンタ・マリーア・デッレ・グラーツィエ教会の修道院「食堂」)はまだ見ていないが,今回,レオナルドよりも後の時代のデル・サルトの「最後の晩餐」が見られたことになる.

 レオナルドは,それまで食卓の反対側に置かれていたユダをキリストと同じ側に置いたところに構図的な独創性がある,と以前何かの本で読んだことがある.確かに,カスターニョもギルランダイオもユダを反対側に置いていた.

 デル・サルトのユダは,反対側どころか,私たちから見てキリストの左隣に位置している.

写真:
キリストの隣にいるユダ


 右隣の若いヨハネはレオナルド以前は眠っているか,恍惚としてしているように見えるかどちらかだが,デル・サルトのヨハネはキリストにはっきりと「裏切り者は誰ですか」と問いただしている.キリストが「私がこれからパンを渡す者だ」と答えて,ユダにパンを渡そうとしている場面を,一瞬のうちに凝縮させた実に見事な劇的表現だと思う.

 キリストの顔は類型的で人間くさくないかも知れないが,裏切り者であることを見透かされ,内なる後悔の念が表情にも表れはじめたユダに自己投影する人は少なくないのではなかろうか.少なくとも私はそうだ.この作品はユダがよく描けている.

 最後の晩餐に加わった人は後に殉教して聖人となる人ばかりだが,ユダだけは裏切り者の汚名を来て,悔悟の念に苛まれ首を吊って自殺してしまう.ユダの中に自分を見てしまう私と,ユダを絶対に許すことのないキリスト教の間にはやはり越えられない大きな壁があるように思える.


アンドレア・デル・サルト
 アンドレア・デル・サルトの名前を初めて知ったのは,夏目漱石の『吾輩は猫である』の中の苦沙弥先生と迷亭先生のやり取りを読んだ時である.何かありがたそうな名前に思え,京都でルネサンス絵画の展覧会があった時,少なくとも1枚は彼の作品を見たのを覚えている.

 そのときの印象は,以前聞いた名前の画家という以上のものではなかったし,ウフィッツィやパラティーナで彼の大作を見ても,まさか「仕立て屋」の息子だからではないだろうが衣の襞に特徴があり,技術はあるが,類型的で感銘を呼ばない画家に思えてしまった.

しかし,先日ポントルモに「開眼」したように,今日私はデル・サルトに「開眼」した.


 この画家はすばらしい.これからはウフィッツィでもパラティーナでも彼の作品を見たら,目を凝らし,長所を見据え,その技量と力感に心底感動することになると思う.

 彼のフレスコ画「洗礼者ヨハネの物語」があると,『最新完全版ガイドブック フィレンツェ』に書いてある「跣足修道会の回廊」も寓居の近くだ.そのうちの一部を描いたのがフランチャビージョだそうだ.これも是非見させてもらわなければ.

 また,旧フリーニョ修道院「食堂」にはペルジーノの弟子たちの「最後の晩餐」が,サンタ・マリーア・ノヴェッラ修道院にはアレッサンドロ・アッローリの「最後の晩餐」(1590年)があることがその後わかった.

 サンタ・マリーア・ノヴェッラのアッローリの「最後の晩餐」はガイドブックですでに絵柄は確認している.新しいと言っても関が原の戦いの10年前で,シェイクスピアが26歳の時の作品だが,それでも「最後の晩餐」が時代の変遷や作家の個性とともにどう変わっていくかを,アッローリの絵の中に見ることができるなら,この作品も是非見てみたい.前回サンタ・マリーア・ノヴェッラの教会と修道院に行った時には見た記憶がないので,あるいは公開されていない場所にあるのかも知れないという不安におののきながら,期待は高まるばかりだ.


途中の出あい
 ウフィッツィ美術館のガイドブックによれば,ヴェロッキオの作品でレオナルドの手も入っていることで知られる「キリスト洗礼」はサン・ミケーレ・ア・サン・サルヴィ教会にあったとのことだ.それほどすごい教会に向かう道のりが長かったので途中,色々なものが見られた.

 一番下に載せた写真はジョベルティ通りにあるサクラ・ファミリア教会だ.扉が開いていたので入れてもらったが,中は新しく,今までいろんな教会で学習した堂内の構造をわかりやすく完備していた.内部はもちろん,ゴシック風の建物全体も1903年から1930年にティンコリーニという建築家の設計で作られたとのことだ.

 帰路,マザッチョ通りで,見た目も現代風なサクロ・クォーレ教会を,外からだけだが見ることができた.マザッチョ通りのエッセルンガに行く時,通りの向こうに遠くに見えるモニュメントのようなものは何だろうといつも思っていた建物だ.

写真:
現代風な姿をした鐘楼
サクロ・クォーレ教会


 1956年から62年に建てられたとのことだ.設計した建築家はランド・バルトリ,「未来を先取りする」(アッヴェニーリスティコという形容詞の『伊和中辞典』の訳)鐘楼の建設にはピエール・ルイージ・ネルヴィという建築家が助力したと,市が建てた解説の看板に書いてあった.

 モニュメントではなく,教会の鐘楼とわかっただけでも,疑問が晴れてさわやかな気持ちで帰宅できた.『クオーレ』(心,心臓)の作者の名前がついたエドモンド・デ・アミーチス大通りを今日は少しだけ歩いたが,その帰りにサクロ・クオーレという名前の教会の存在を知ったことになる.また,サクラ・ファミリア教会でいただいた英語版のパンフレットを帰宅後読んだところ,同教会にはガリレオ・キーニ作の「最後の晩餐」(1923)があったらしい.残念ながら見逃したようだ.





聳えるファサード
サクラ・ファミリア教会