フィレンツェだより
2007年6月12日


 




サンタ・フェリチタ教会と
前を横切るヴァザーリの回廊



§2つの教会のポントルモ

昨日のことになったが,一昨日閉まっていたサンタ・フェリチタ教会に再び足を運んだ.


 教会が開く夕方のお祈りの時間を見計らって,4時になったところで寓居を出発したところ,今度は開いていた.この日もまた,大傑作を見せてもらうことになった.


サンタ・フェリチタ教会
 ヴェッキオ橋を渡ってすぐ,グィッチャルディーニ通りの入り口のところにサンタ・フェリチタ広場はある.川のこちら側から,南に向かって延々と続くヴァザーリの回廊を左上方に見ながらこの広場まで歩いて行くと,回廊の向こうにファサードが見えるのがサンタ・フェリチタ教会だ(トップの写真).

 堂内を中央祭壇の方に少し進んでから入口の方を振り返ると,教会内部を通っているヴァザーリの回廊が見える.ピッティ宮に住むトスカーナ大公一族は,この回廊を通って,一度も外を歩くことなく,このバルコニーからミサに出席できた.

写真:
ヴァザーリの回廊
(2階バルコニー部分)


 その左下,照明で明るくなっているところがカッポーニ礼拝堂で,ここに後述の大傑作はある.



 堂内の身廊や翼廊にはいくつか礼拝堂(カペッラ)があり,ここには大きな絵が飾られていることが多いが,下の写真で一番右に写っている絵は,アントーニオ・チゼーリという画家が描いた「7人のマカベア兄弟の殉教」というタイトルの19世紀の作品で,教会の名のもとになっているサンタ・フェリチタの故事に基づくものだ.

 この他にもジョルジョ・ベルティという画家の描いた「子どもたちを殉教へと励ますサンタ・フェリチタ」(1810)という絵もあり,聖女の名を冠した教会ならではということになろう.

写真:
サンタ・フェリチタ教会


 サンタ・フェリチタのフェリチタは「幸福」という意味で,同じ意味のラテン語のフェリキタス(フェーリーキタース)に由来する.英語でもフェリシティという女性の名前になっており,固有名詞になったのは,紀元後2世紀のアントニヌス・ピウス帝治下のローマで7人の子どもとともに殉教した聖女フェリキタスに由来するらしい.

 この聖女と,旧約聖書の『マカベア書』(第1と第2はカトリックでは正典,プロテスタントでは外典,第3と第4はどちらでも偽典とのことだ)にある,7人のマカベア王家の兄弟たちの母との混同が起こり,このようなテーマの絵が描かれる遠因になっているらしい.ユダヤの独立と信仰を守ろうとした紀元前2世紀のマカベア戦争の際の物語だろう.

 優勝旗授与や返還の際に流れる音楽で知られるヘンデルのオラトリオ「マカベアのユダ」はこの戦争を題材としている.

 だが,何と言ってもこの教会を訪れる人の目を奪うのは,扉を開けてすぐ右側にあるカッポーニ礼拝堂のポントルモの絵であろう.下の写真の右側のフレスコ画が「受胎告知」,左側の額装された板絵が「キリスト降架」である.これらはさすがに傑作の名に恥じないもので感銘を受けた.

「キリスト降架」は,ピンク色の美しさにこの画家の特徴があるように思われた.


 しかし,作品の色の美しさといえば,大学生の時,ウフィッツィにあるボッティチェルリの「ケンタウロスとパラス」が日本に来たのを見に行ったときのことを思い出さずにはいられない.実物が画集とあまりに色が違うので,さすがにオリジナルは違うと思った感動を,美術史を勉強して,のちに研究者になった先輩に語ったところ,「オリジナルの作品も修復されていて,色は特に怪しいのだ」と一喝された.

 なるほどそういうものかと思って今に至っているが,果たして,ポントルモの色彩はどうなのだろうか.

写真:
1ユーロで照明のつく
カッポーニ礼拝堂


 この礼拝堂は,普段は照明がついていない.暗くても作品のすばらしさはわかるが,1ユーロ投ずると明かりがつく仕組みがある.この方式はサンタ・トリニタ教会のギルランダイオのフレスコ画「聖フランチェスコの生涯」でも採用されており,トリニタでは私たちが投じた喜捨で多くの人が鑑賞したが,今回は別のツーリストグループが投じた喜捨で私たちも鑑賞させてもらった.

 サンタ・フェリチタには是非もう一度行きたいと思っているので,その時は,私たちの喜捨で他の方々にも見ていただこう.

 充実した英語版のガイドブックを7ユーロで購入,あわせて1枚80チェンティの絵葉書を4枚買った.計10.2ユーロ.

 カッポーニ礼拝堂の向かい側にあるカニジャーニ礼拝堂には,アンドレーア・ディ・マリオット・デル・ミンガの「聖母被昇天と聖人たち」(16世紀)とベルナルディーノ・ポッチェッティフレスコ画(16世紀末)がある.

 また,今日は見られなかったが,聖具室にはタッデーオ・ガッディ作とされる14世紀のポリプティック(「聖壇の背後などの4枚以上のパネルをつづり合わせた画像」,『リーダーズ英和辞典』)「聖母子と聖人たち」,ネーリ・ディ・ビッチの「サンタ・フェリチタと子どもたち」の絵などがあり,聖堂参事会室にもフレスコ画があるようだ.これらは公開されているかどうかわからないが,見られるものなら次回是非見てみたい.

 写真でもおぼろげながらわかるが,受胎告知のフレスコ画の天使と聖母の間に人物の顔のある大理石の碑がある.この人物は先日訪ねたオルサンミケーレに向かいにあるサン・カルロ教会の名のもとになっている聖カルロ・ボッロメーオとのことである.なぜこれがここにあるのかは,ガイドブックにも書いていなかった.


サン・ミケーレ・ヴィスドミニ教会
 サンタ・フェリチタに行く前に,カヴール通りを下って,サン・ジョヴァンニーノ・デーリ・スコローピ教会に寄ってみたが,開いていなかった.それで,プッチ通りを東進してセルヴィ通りに出て,サン・ミケリーノ・ヴィスドミニ教会(左下の写真)に行ってみたら,開いている上に,礼拝の儀式も行われていなかったので,他のツーリスト同様に拝観させてもらった.






 右上が堂内の写真で,デジカメの性能が良く,明るく撮れているが,実際には暗くて絵はよく見えなかった.それでもポントルモの「聖母子と聖人たち」の嬰児のイエスとサン・ジョヴァンニーノの笑顔が良かったし,他にもエンポリの「イエスの誕生」や,古いフレスコ画に見るべきものがあった.祭壇奥の後陣にオルガンがあるのが珍しかったよう思えた.

 フィリピーノ・リッピの墓は見つけられなかったが,また行かせてもらうので,後日を期す.

 ここを拝観した後,サンタ・フェリチタに向かったわけだが,サンタ・フェリチタに関してはヴァザーリの回廊との関係以外の予備知識はなかったので,今日は偶然に2つの教会でポントルモの作品に出会うことができたことになる.


サン・ジョヴァンニーノ・デーリ・スコローピ教会
 帰りはドゥオーモの前を通って,マルテッリ通り,カヴール通りを北上するいつものコースだったが,行きには開いていなかったサン・ジョヴァンニーノ・デーリ・スコローピ教会の扉が開いていたので,いつもひやかす露店の古本屋には目もくれず,すかさず入れてもらった.これもまた古い見事な教会だった.

写真:
スコローピ教会の堂内


 中に置いてあったパンフレットによると,礼拝堂を飾る絵は16世紀と17世紀のものが多いようだ.フランチェスコ・クッラーディの「フランチェスコ・サヴェーリオ」という絵があったが,フランシスコ・ザビエルのことをイタリア語ではそういうらしい.

 1617年にローマで設立された「貧しい子弟の教育にあたる修道会スクオーラ・ピーエ」のピアリスト修道会士のことをイタリア語でスコローピと言う(小学館『伊和中辞典』)らしいが,1775年にスコローピがこの教会を差配するようになる以前は,1577年以来イエズス会がこの教会を運営していたらしい.

 有名な彫刻家でこの教会の建設にも関わったアンマンナーティのラテン語の墓碑があり,実際に遺体が埋葬された墓のようだ.その墓の前の礼拝堂にはアレッサンドロ・アッローリの絵があった.

 天井画も名のある作家のものではないようだが,かなりの水準の作品に思われ,教会の持つ重厚な雰囲気とともに,また訪れてみたいと思わせるものがあった.





スコローピ教会前
おなじみの露店古本屋