フィレンツェだより |
ここで『白痴』を完成させた というプレート |
§フィレンツェに滞在した文人たち
妻が英語版のロンリー・プラネット『フローレンス』から発見して,じゃあ,その滞在先の雰囲気だけでも味わってみようかということになった.特に大作『白痴』を完成させた場所ということであればなおさらである. 昨年9月にフィレンツェに1日だけ来たとき,ガイドブック(『トラベルストーリー34 イタリア』昭文社,2006,p.139)で紹介されていた有名なマーブル紙の店に立ち寄った. 後でこのことを親友のロシア文学者に話すと,彼女もその店に行ったと言った.そのときは何気なく聞いていたのだが,ドストエフスキーが「この付近で1868年から1869年の間に『白痴』を完成させた」というプレート(トップの写真)は,1階にその店がある建物の壁面にあった.彼女が,数あるフィレンツェのマーブル紙の有名店からこの店を選んだ理由がわかったような気がした. 工房の入り口には「1856年創業」とあるので,ドストエフスキーがフィレンツェに滞在したときには,この店もしくは工房「ジュリオ・ジャンニーニ・エ・フィーリオ」は既にあったことになる.ピッティ宮殿のまん前で,賑やかな人通りの絶えない界隈である.
![]() 1867年の4月14日に再び西欧旅行に出発し,ドレスデン,ハンブルク,バーデン,ジュネーヴと辿り,その間,1868年の1月に『白痴』を発表し始め,同年の9月にミラノに到着,11月にフィレンツェに居を構え,そこで『白痴』を完成させた.そして翌1869年の7月にフィレンツェを去って,ヴェネツィア,ウィーン,プラハ,ドレスデンを経て1871年の夏に帰国した,とのことである. その間にルーレットで大負けしたり,ツルゲーネフに会ったりと色々なことがあったようだが,ともかく,この解説(エイナウディ書店刊のポケット版シリーズで,翻訳はアルフレード・ポッレドロによる古いもので,ヴィットーリオ・ストラーダの序論が付されているが,この解説は1994年に付け加えられたルイージ・ジャコーネによるもの)に拠れば,確かに彼は『白痴』をフィレンツェで完成させたらしい. グィッチャルディーニ ヴェッキオ橋からピッティ宮殿にいたるグィッチャルディーニ通りは,いつも観光客で一杯の街路だ.その名のもとになったのは往時の有力者一族グィッチャルディーニ家だが,その屋敷が通りに実際にあったらしい. なかでもフランチェスコ・グィッチャルディーニは政治家としても活躍し,メディチ家の本流が絶えたとき,ジョヴァンニ黒隊長の息子コジモ1世を担ぎ出した一人だ.結局は思惑がはずれてコジモ1世に冷遇されるが,史観と文才によって名を千載に残した. 彼の『フィレンツェ史』は日本語で読むことができるし,大作『イタリア史』も完訳に向けてかなりの巻数が翻訳刊行されている.彼の個人的な覚書は複数の日本語訳があるし,16世紀ヨーロッパを代表する文人と言って過言ではないだろう. ニッコロ・マキアヴェッリ フランチェスコを称えるプレートを横目に見ながら,ピッティ宮殿に向かってさらに進むと,別のプレートのある建物(右下の写真)が見える.ここは,フランチェスコ・グィッチャルディーニと親交があり,書簡のやり取りもし,なおかつ自らも『フィレンツェ史』を書いたニッコロ・マキアヴェッリの旧居である. 『君主論』が有名だが,実直な公務員としてフィレンツェに尽くし,サヴォナローラ処刑後のソデリーニ政権で活躍した.しかし,メディチ家復帰後に失脚,次にはメディチ家に接近してその恩顧を受け始めたときにメディチ家が再び追放され,失意のうちに世を去った. 世を去ったのは郊外の家のはずだが,彼はここにあった家からヴェッキオ宮殿の執務室に通っていたのだろう.彼は思想家,歴史家として評価されているが,『マンドラゴラ』という喜劇を書き,あたりをとった文才に満ちたルネサンス人であった.
カルロ・レーヴィ マキアヴェッリの旧居,ドストエフスキーの滞在先から少し先にある,ブラウニング夫妻が滞在し,妻エリザベスがそこで亡くなったという家を目指して進むと,その短い距離の間にも幾つものプレートがあり,この界隈に多くの有名人が住んでいたことがわかる. なかで目を引いたのが,「1943年の12月から1945年の8月までカルロ・レーヴィがここに住んだ」というプレート(下の写真の右側の扉の上)だ. 『キリストはエボリに止まりぬ』(邦訳は岩波書店刊行)という小説を書いた作家であることは私も知っていた.プレートによると「ファシズムと反ユダヤ主義の迫害」から逃れて住んでいた場所らしい.1972年まで生きた人のようなので,難を逃れることができたようだ.
ブラウニング夫妻 そこから,さらに南進するとサン・フェリーチェ広場に出る.ここには大公コジモ1世が戦勝を記念するため,アンマンナーティに命じて作らせ始めたが,未完成のまま様々な変遷を経たという大理石の柱がある. その右側の黄色い建物がカーザ・グィーディで,ここをロバートとエリザベスのブラウニング夫妻が1847年に借り,エリザベスは1861年に亡くなった.写真の右側の扉の上に見えるのが「エリザベス・バレット・ブラウニングがここで著述し,亡くなった」というプレートである. 客観的というよりは顕彰した文面に見え,夫である大詩人ロバートも住んだ話は書かれていないので,1861年に作られた,この少しくすんだプレートには,もしかしたら,1889年まで生きた6歳年下の夫の意志が反映されているかも知れない.
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広場の名前のもとになっているサン・フェリーチェ・イン・ピアッツァ教会は5月23日に訪ねている.教会の右側の通りはマッツェッタ通りというが,教会と通りを挟んで向かい合う建物(カーザ・グィーディと隣り合った建物)の通りに面した壁面には,エリザベスの詩の一節を英語とイタリア語訳で刻んだプレートがあった.
エリザベスが亡くなった1861年は統一イタリア王国が成立した年で,前年にトスカーナ大公国はなくなり,フィレンツェは統一直前のイタリア王国に併合された.彼女が詩を書いたのはリソルジメントの気分が昂揚していた時代であろう.子どもの歌にもそれが反映している.
![]() 橋を目指して歩いていたら,左手のサント・スピリト広場で「のみの市」が開催されているのが見えた.露店の古本屋で,今日滞在先や旧居を訪ねた作家たちの作品でも買えないかと思って覗いてみたが,本は掘り出し物がなかった.近代美術館でその存在を知った画家ファットーリの伝記があり,店によって10ユーロのところと5ユーロのところがあったので,後者で買おうかと思ったが,イタリア語で読みきる自信がないので,やめた. 私は気づかなかったが,アクセサリーなどに,職人技と芸術性を発揮した良いものもあったようだ.古い絵葉書やポスター,プレートなどコレクターには垂涎のものもあったかも知れない.慣れてきて,日本に送ったり,持ち帰る算段が簡単につくようになったら,私たちも買いたいものが見つかるかも知れない.ツーリストでも意欲的に買っている人もいたようだった. |
サント・スピリト広場 「のみの市」 |
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