フィレンツェだより 第2章「備忘録」
2019年11月4日



 




ピエトロ・カヴァッリーニのフレスコ画
ナポリ大聖堂



§ナポリ行 その13 教会篇 その2

ナポリ大聖堂について,前回は,元々の司教座聖堂で現在は大聖堂に組み込まれているサンタ・レスティトゥータ聖堂と,古代後期から存在した洗礼堂について報告した.今回は本堂についてまとめる.


 大聖堂の堂内は広く,暗い.そこかしこにある注目の芸術作品を限られた公開時間中に全て鑑賞することは,相当の予習をもってしても困難を伴うだろう.

 予習もそこそこに突進した私の場合は,4回も行ったのに,撮って来たピンぼけ写真と伊語版ウィキペディアなどのウェブ情報,ヨリオの案内書を頼りにこの稿を書き始めて,ようやく整理がついてきたかも知れない,という体たらくだ.

 注目すべき作品について個別に感想を述べていたら,いつ報告が終えられるか分からないので,最初に主だった作品を列挙してみる.

 古代の遺産
   ヘレニズム時代の水槽を一部とする(その他の部分はバロック時代の作)青銅の洗礼盤
 中世の遺産
  クローチェフィッソ礼拝堂
(ティーノ・ディ・カマイーノ「カラッチョーロ家の墓碑」,12世紀の木彫磔刑像)
  カパーチェ・ミヌートロ礼拝堂(墓碑,床装飾,祭壇画,フレスコ画)
  サンタスプレーノ礼拝堂(ピエトロ・カヴァッリーニのフレスコ画)
  サンタ・マリーア・マッダレーナ礼拝堂(フレスコ画)
   天蓋付き聖体用祭壇
 ルネサンスの遺産
  サンティ・ティブルツィオ・エ・スザンナ礼拝堂
 (バボッチョ作「枢機卿フランチェスコ・カルボーネの墓碑」)
  アヌンツィアータ礼拝堂(ペルジーノ「聖母被昇天」)
  サンタスプレーノ礼拝堂(フレスコ画「聖アスプレヌスの物語」)
 マニエリスム,バロック以降の遺産
  サン・テオドーロ礼拝堂(マルコ・ピーノ「聖トマスの不信」)
  ブランカッチョ礼拝堂(フィレンツェ出身のジョヴァンニ・アントーニオ・ドージオ設計,ピエトロ・ベルニーニの彫刻「聖ペテロ」と「聖パウロ」,ジローラモ・ダウーリアの浮彫「受胎告知」と「全能の神」,フランチェスコ・クーリアの祭壇画「キリストの洗礼」)
  サン・ジェンナーロの宝物国王礼拝堂
  外側のリアーリオ・スフォルツァ広場の聖ヤヌアリウスのオベリスク(建築家コジモ・ファンザーゴの設計で,聖人の銅像はトンマーゾ・モンターニ作)
  説教壇(「イエスの伝道」の浮彫が施され,アンニーバレ・カッカヴェッロに帰せられる)
  格天井と格間に嵌め込まれた絵(ジョヴァンニ・バルドゥッチ「牧人礼拝」,ジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・ダ・フォルリ「三王礼拝」,フラミニオ・アッレグリーニ「キリスト割礼」,ジローラモ・インパラート「受胎告知」と「神殿奉献」)
  身廊と側廊の仕切り壁身廊側に嵌め込まれた使徒,教会博士,ナポリの守護聖人たちの絵(ルーカ・ジョルダーノ作)
  ファサード裏の記念墓碑(ドメニコ・フォンターナ作)
  中央祭壇の彫刻「聖母被昇天」(18世紀のローマの彫刻家で,トレヴィの泉の彫刻の作者でもあるピエトロ・ブラッチ作)







初訪(2017年12月)は雨宿りだった
 教会が訪問先として魅力的に思えるのはどういう場合だろうか.私に限って言えば,注目に値する芸術作品があること,特に古代後期の遺産があれば,それが最優先の鑑賞ポイントとなる.

 しかし,古代の遺産がある教会は滅多にないので,そうなると,ロマネスクが第一,次がゴシック,せめてルネサンス,傑作絵画ならバロックもまずまず魅力的といったところに落ち着く.

 ナポリ大聖堂は,広く,暗く,とらえどころがない点ではミラノ大聖堂を彷彿させるものがあるが,ミラノが個性的なゴシックの魅力的な姿をしているのに対し,初めて見たナポリ大聖堂はありふれたネオ・ゴシックのファサードで,気落ちしないではいられなかった.

 ただ,ティーノ・ディ・カマイーノの彫刻があるポルターユが,その気持ちを引き立ててくれた.ティーノがトスカーナからナポリに来て活躍し,同地で亡くなったことは知っていたので,堂内にジョットやシモーネ・マルティーニの絵は無いにしても,墓碑彫刻などに魅力的な作品があるかも知れないと気を取り直して,入堂した.

 バロックに改装された堂内で,ティーノの作品のように見える墓碑を一つ見つけ,さらにサン・ジェンナーロの宝物国王礼拝堂の内部の絵が見えた時に,ドメニキーノとランフランコがナポリ大聖堂で仕事をしたことはおぼろげながら知っていたので,あれがそうかと思い,気持ちが高揚して来た.

 しかし,この時点で,もう昼休みか何かで退堂しなければいけない雰囲気になった.もともと雨宿りを兼ねての入堂で,気合いも入っていなかったし,サン・ジェンナーロ(聖ヤヌアリウス)という聖人についてもよく分かっていなかったので,何もかも中途半端だった.

 自分にはティーノ作に思えた墓碑や,入り口近くの礼拝堂の絵画,サン・ジェンナーロの宝物国王礼拝堂の内部を入り口のところから数枚写真を撮っただけで,大聖堂を出て,小降りになった雨の中を歩き出した.

 初訪のナポリは,とにかく考古学博物館,カポディモンテ美術館を最優先としていたし,スリ被害などもあって,心の余裕をすっかり失ってしまい,大聖堂拝観が不全感の残るものになった.


2018年1月,第2,第3回目の訪問
 2018年1月16日のナポリ再訪では,1日目に,前回行かなかったカラヴァッジョの作品のあるピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディア教会と大聖堂をまず訪ねた.この時初めて,堂内とサン・ジェンナーロの宝物国王礼拝堂をじっくり拝観した.

 3日目の18日に,エルコラーノに行く前に,午前中もう一度大聖堂を訪ね,サンタ・レスティトゥータ聖堂と洗礼堂を拝観した.

 前回報告したように,洗礼堂が衝撃的だったし,サンタ・レスティトゥータでも,古代石棺とレッロ・ダ・オルヴィエートのモザイクには高揚感を覚えた.

写真:
「枢機卿フランチェスコ・
カルボーネの墓碑」


 1回目の拝観でティーノ作と思えた「枢機卿フランチェスコ・カルボーネの墓碑」もじっくり見たが,これは,ティーノの作品ではなく,伊語版ウィキペディアに拠れば(ヨリオには情報が無い),バボッチョの作品で,1405年の制作とのことだ.

 バボッチョの作品に関する情報は多くない.ウェブ検索で,ボローニャ大学のフェデリコ・ゼーリ基金のページがヒットし,モノクロだが写真も出ているので,バボッチョの作品である,もしくは,彼の作品であることが一つの有力な説であると考えて良いのだろう.

 ナポリ大聖堂の墓碑が制作された1405年という年には,マザッチョのサンタ・マリーア・デル・カルミネ教会のブランカッチ礼拝堂のフレスコ画(1425年頃)はまだ描かれていないので,絵画のルネサンスはまだと言ってよい.

 しかし,文学や思想の世界では14世紀後半にはペトラルカ,ボッカッチョが活躍し,既にルネサンスが始まっていたし,ルネサンスの画期とされるフィレンツェ洗礼堂のブロンズ扉のパネル制作の作者を選ぶコンクールが1401年であれば,芸術に関して,時代は国際ゴシックからルネサンスに向かっていたのは確かだろう.

 マザッチョの年上の友人で,国際ゴシックの影響の色濃いマゾリーノは,フィレンツェの国際ゴシックの画家ゲラルド・スタルニーナから絵画を学んだが,彫刻家で金細工師であり,まさにフィレンツェにルネサンスを齎したという神話を持つ洗礼堂のブロンズ扉コンクールで,制作者に選ばれたロレンツォ・ギベルティの工房にいたとされる.

 彫刻にも国際ゴシックに分類される芸術家がいるのかどうか不明にして知らないが,彫刻,金細工,絵画ともに造形芸術で,高い技術の職人が支えているという共通点があり,同時代であれば,同じような制作姿勢が表れるのはあり得ることだろう.


バボッチョのいた時代
 アントーニオ・バボッチョ・ダ・ピペルノは,1351年に現在はラツィオ州のラティーナ県に属するプリヴェルノで生まれた.1435年まで生きたとすれば(伊語版ウィキペディア),没年には76歳なので,当時としては相当長命だったことになる.

 彼が亡くなった翌1436年に,ブルネレスキがクーポラを懸けたフィレンツェ大聖堂の献堂式が教皇エウゲニウス4世によって挙行され,ギョーム・デュファイ作曲の「バラの花が咲く頃」が歌われた.バボッチョは初期ルネサンスの開花期まで生きた.ルネサンスのフィレンツェ芸術の一翼を担ったロッビア工房の二代目アンドレーアがこの年に生まれている.

 彼に関しては,なぜか伊語版よりも仏語版ウィキペディアの方が情報が少し豊富だし,英語版ウィキペディアには伊語版,仏語版と違う情報が掲載されている.英語版に拠れば,彼はやはり彫刻家だった父ドメニコに連れられて,幼少期にナポリに来たとのことである.

 バボッチョは,ミラノ,ヴェネツィア,メッシーナでも仕事をし,ミラノではブルゴーニュの職人たちの,ボローニャではエミリア・ロマーニャ芸術の影響を受けたとされる.

 ミラノ大聖堂で仕事をしていた時に,1389年に枢機卿兼ナポリ大司教となるエンリーコ・ミヌトーロに招かれて,アンジュー家支配下のナポリに来たのが1407年とされる.

 エンリーコ・ミヌートロはナポリの名家出身で,教会で枢機卿の地位も得た人物であるが,当時は「教会大分裂」(1378-1417年)の時代であり,1400年までナポリ大司教を務めたが,その後の激動の時代を生き,諸方で活動しながら,1412年にボローニャで死去した.彼の遺体はナポリに運ばれ,大聖堂のカパーチェ・ミヌートロ礼拝堂に埋葬された.



 エンリーコに招かれてナポリに来たバボッチョは,ナポリの教会で,

 パッパコーダ礼拝堂のポルターユ(1414年)
 「アニェーゼ・エ・クレメンツァ・ディ・ドゥラッツォの墓碑」(サンタ・キアーラ聖堂)
 「アントーニオ・ペンナの墓碑」(同)(1414年)
 「ルドヴィーコ・アルドモリスコの墓碑」(サン・ロレンツォ・マッジョーレ聖堂)(1421年)

という仕事をした.ナポリ以外の場所でも仕事をしたようで

 メッシーナ大聖堂のポルターユ(1412年頃)
 サレルノ大聖堂「女王マルゲリータ・ディ・ドゥラッツォの墓碑」(1412年)

も彼の作品とされる.メッシーナ,サレルノは行っていないし,パッパコーダ礼拝堂も見ていないが,それ以外の作品は今回のナポリ行で全部見ることができた.

 上記の作品のうち,「アニェーゼ・エ・クレメンツァ・ディ・ドゥラッツォの墓碑」に関しては,バボッチョの作品かどうか意見が分かれるようで,「14世紀初頭の氏名不詳の彫刻家の作品」とされる場合もあるようだ.

 話は少しそれるが,ここで気になるのが,墓碑銘の「ドゥラッツォ」である.

 出身地を表す地名だが,ドゥラッツォは,現在はアルバニアに属している古代からの都市で,古代ギリシア語ではデュッラキオン(それ以前の有名な名称としてエピダムノスもあった),ラテン語ではデュッラキウムと呼ばれた.

 現代のアルバニア共和国でも人口が2番目に多い大都市で,アルバニア語を勉強したことがないので,正確にはわからないが日本語ウィキペディアには「ドゥラス」で立項され,アルバニア語では「ドルスィ」とされている.この都市のイタリア語名がドゥラッツォである.

 バボッチョが墓碑を制作したとき,ドゥラッツォを支配していたのはアンジュー家だった.



 アンジュー家は,フランス王家カペー家から別れ,フランス王ルイ8世の子,アンジュー伯シャルル(本来はシチリア王だが,通称「ナポリ王」としてはカルロ1世)がホーエンシュタウフェン家を退けて,カペー系アンジュー(アンジオ)家として,南イタリアに君臨した.

 カルロ1世の後,王統は,カルロ2世,ロベルト1世,ジョヴァンナ1世,カルロ3世,ラディスラオ,ジョヴァンナ2世と継承される.ただし,カルロ1世(シャルル・ダンジュー)からの直系相続はジョヴァンナ1世までで,しかもジョヴァンナ1世はロベルトの娘ではなく孫である.

 ジョヴァンナ1世殺害に関与し,王位を継承したカルロ3世は,祖父ジョヴァンニ(ジャン)がロベルトの弟で,初代のドゥラッツォ公爵であった.この系統をアンジュー・ドゥラッツォ家という呼称もあるようだ.

 ドゥラッツォ公ジョヴァンニはグラヴィーナ伯爵の爵位も有しており,ドゥラッツォ公爵位はカルロ,グラヴィーナ伯爵位はその弟ルイージが継承した.同じ名前が多くて錯綜するが,グラヴィーナ伯ルイージの子が,後にナポリ王カルロ3世になるカルロである.彼は高祖父(ナポリ王カルロ1世),曾祖父(ナポリ王カルロ2世),伯父(ドゥラッツォ公カルロ)と同名だったことになる.

 カルロ3世の父グラヴィーナ伯ルイージはジョヴァンナ1世に対して反乱を起こして敗れ,獄死する.

 ジョヴァンナは子であるカルロに寛大だったが,やはりアンジュー家から出ているハンガリー王ラヨシュ(ルイージ/ルイ)1世に継承する男子がいなかったことから,カルロは様々な経緯を経て,ハンガリー王の後継者に擬せられる.

 その際の条件が,カルロにとっては従妹にあたるドゥラッツォ公爵家のマルゲリータと結婚することであったが,ジョヴァンナ1世は,妹の娘にあたるマルゲリータとカルロの結婚に反対であった.

 私は子供の頃から歴史が好きだったし,固有名詞を覚えるのは比較的得意だと思ってきたが,これだけ同じ名前が続出すると,さすがにウンザリして,混乱を来たす.

 ジョヴァンナ1世の父もカルロで,彼は王であるロベルトの嫡子であったが,王位を継ぐことなく,30歳で亡くなった.二度目の妻でフランス王の王妹マリー・ド・ヴァロワとの間に5人の子を成していたが,成長したのは,祖父の後を継ぎナポリ王(女王)となったジョヴァンナと,マリアだけだった.

 彼の爵位がカラブリア公爵だったので,娘のマリアはマリア・ディ・カラブリアと呼ばれ,マリアが父の従兄弟であるドゥラッツォ公爵カルロと結婚し,その間に生まれたのがマルゲリータ・ディ・ドゥラッツォであった.

 つまり,マルゲリータにとって,後にナポリ王カルロ3世となる夫のグラヴィーナ伯カルロはいとこ(父親同士が兄弟)で,ジョヴァンナ1世は母方の伯母で,カルロ3世とジョヴァンナ1世も「またいとこ」同士ということになる.

 カルロ3世は,同族であるハンガリー王家の支援を受けて,妻の伯母であり,自身の「またいとこ」であったジョヴァンナ1世を幽閉し,その殺害に深く関与して,ナポリ王となった.まるでシェイクスピアの史劇に描かれたバラ戦争とその前後のイングランド王家のように,血で血を洗う同族同士の権力争いが,中世という時代の一つの特徴でもあったことを改めて確認することになる.



 シチリア王の称号についても少し整理しておく.

 1266年にアンジュー家のシャルルがシチリア王カルロ1世となったが,有名な「シチリアの晩禱」(1282年)事件で,シチリアを追われ,以来,ナポリが彼の本拠地となったが,正式には「シチリア王」を名乗った.

 しかし,パレルモにも,現在の国名でいうとスペインにあたる地域出身の王がいた.サラゴサを首都とするアラゴン王国の国王だが,バルセロナ伯爵が元々の家爵であったので,「バルセロナ家」と通称される王家に属していた.

 同一の人物がアラゴン王としてはペーロ3世,バレンシア王とすてはペーラ3世,バルセロナ伯としてはペーラ2世,これらの名前はスペイン語(カスティーリア語)ではペドロになり,固有名詞をイタリア語読みしてピエトロ1世と呼ばれることもある.この場合は「シチリア王」としてである.

 このバルセロナ家,後にそれ代わってアラゴン王となるトラスタマラ家出身のシチリアを実効支配しているシチリア王がいて,その王国があったので,実質上のシチリア王国(「トリナクリア王国」の別称もある)と,名目上のシチリア王国(実態としてはナポリ王国)を総称して「両シチリア」と言い,一人の君主がパレルモとナポリをそれぞれ中心とする両地域を支配した時は「両シチリア王国」という名称が使われる.

 パレルモにバルセロナ家,ナポリにアンジュー家というバランスの取れた安定があれば,あるいは平和な時代が続いたかも知れない.実際に,カルロ1世は1285年,カルロ2世は1309年,ロベルト1世は1343年までナポリを治め,ロベルトの治世の間に,ゴシック期のナポリ文化が栄えた.

 最初にピエトロ・カヴァッリーニがナポリに来たのは,まだカルロ2世の時代だったようだが,シモーネ・マルティーニ,ティーノ・ダ・カマイーノ,ジョットをナポリに招いたのはロベルトである.

 最後は「またいとこ」に殺されてしまうが,ジョヴァンナ1世の治世も39年に及ぶ.1347年に王位争いで一度フランスへの亡命を余儀なくされ,5年後ナポリに復帰した.



 バボッチョがナポリに来たのが,1407年だとすれば,1382年にナポリ王となったカルロ3世が,前年から国王に推戴されたハンガリーで1386年に暗殺され,息子のラディスラオがナポリ王となっていた時代である.ラディスラオの在位は,追放されていた10年間(1389-99年)を除き,1414年まで続く。

 当時の国際情勢の背景には教会大分裂(1378-1413年)があり,ナポリの王権争いも,それに巻き込まれている.

 ジョヴァンナ1世が後継者に指名した,ヴァロワ=アンジュー家(当時のナポリ王家を産み出したカペー=アンジュー家に代わってアンジュー伯となっていた家)のアンジュー公(彼の代に伯爵から公爵に昇格)ルイ1世,その子ルイ2世をアヴィニョンの教皇が支持し,アンジュー・ドゥラッツォ家のカルロス3世とその子ラディスラオ1世をローマの教皇が支持した.

 アンジュー公ルイ2世は,一時ナポリ王に推戴され,ルイージ2世とも言われる.それ以前にルイージというナポリ王はいなかったが,父ルイもナポリ王位獲得を主張していたからかも知れない.

 いずれにせよ,14世紀末から15世紀前半にかけてのナポリを支配したのは不安定な政権であったが,1399年にラディスラオが復位してからは,曲がりなりにも,1414年まではラディスラオが,1435年まではその姉ジョヴァンナ2世が統治し,アンジュー家のナポリ統治が続いた.

 バボッチョに関して,記録上,確認できるのかどうかは分からないが,伊語版,仏語版のウィキペディアが1435年までの生涯としており,それが正しければバボッチョは,ナポリ・アンジュー家の中でも,ドゥラッツォ公爵家系統の王が統治した時代の芸術家と言うことができる.



 ここで,バボッチョに関する英語版ウィキペディアの内容についても少し触れておく.

 まず,名前がバンボッチョになっており,没年については伊語版,仏語版とは異なり,「1421?」と示した上で,生没年に関してはヒュー・ジェイムズ・ローズが編纂した1848年の伝記事典を典拠としている.

 また,修行先として,ナポリの彫刻家マズッチョ・セゴンド,その弟子にあたるが,フィレンツェ出身のアンドレーア・チッチョーネの名を挙げている.

 マズッチョに関しては,具体的にどんな作品があったのか今のところ情報が得られていないが,チッチョーネはサン・ジョヴァンニ・ア・カルボナーラ教会(以下,カルボナーラ教会)で,「ラディスラオ1世の墓碑」などを手掛けており,これに関してはカルボナーラ教会を紹介する際に,他の作品とともに報告したい.ナポリで観ることができた芸術遺産の中でも特に印象に残るものであった.

 チッチョーネに関しては,1388年の生まれ(伊語版ウィキペディア)とされ,バボッチョの生まれが1351年(これに関しては?が付されており,英語版ウィキペディアも同じ)とされていることを考えると,バボッチョがチッチョーネの弟子というのは,絶対不可能ではないかもしれないが,まずあり得ないことだろう.

 ただ,チッチョーネがカルボナーラ教会で大きな仕事をしたのが,1432年前後で,バボッチョの没年が1435年であれば,少なくとも数年は,時間(アンジュー家支配の後期)と空間(ナポリ)を共にし,ドラッツォ公爵系アンジュー王家の周辺で仕事をしていたという共通点を持つことにはなるだろう.

 また,英語版ウィキペディアは,バボッチョが画家でもあり,画業の師匠として,コラントニオ・デル・フィオーレの名を挙げている.これが本当ならば大変興味深いが,これもコラントニオの成年が1420年くらいであれば,まずあり得ないであろう.

 英語版ウィキペディアのバボッチョに関する情報は伊語版,仏語版にはないものが含まれており興味深いが,情報が錯綜していて矛盾をはらんでおり,誤りがあると断ぜざるを得ない(2019年11月2日参照).



 しかし,バボッチョとチッチョーネがドゥラッツォ公爵系アンジュー家支配のナポリの芸術を支え,その一族と同時代の貴族たちの墓碑を複数制作したことは興味深い.

 私としては,ナポリ大聖堂という同じ場所にそれぞれ作品を遺したバボッチョとその先人であるティーノの関係をもう少し知りたいが,いつまでも終わらないので,ナポリの後期ゴシックから初期ルネサンスの芸術を考えるのに,ナポリ大聖堂本堂の拝観は欠かせないということを学んだと言うにとどめる.

 結局,ナポリ大聖堂で見られるティーノの作品は,ファサードのポルターユを支えるスティローフォロのライオン2頭,ポルターユのタンパンの聖母子,堂内右側廊ファサードから2番目のクローチェフェッシ礼拝堂に残る2基のカラッチョーロ・パスクィーツィ家の墓碑と言うことになるだろう.

 ポルターユのタンパンの聖母子の両側に侍するヤヌアリウスとアスプレヌス,そして拝跪するエンリコ・ミヌートロ枢機卿の像がバボッチョの作であれば,バボッチョがティーノの影響を受けていることには十分な状況証拠があるだろうと思う.

 カラッチョーロ家の墓碑に見られる,ふくよかな頬の天使が首を傾げている像は,ティーノ以外のナポリの墓碑にもよく見られ,多分,ティーノの影響をゴシック後期から初期ルネサンスのナポリの彫刻家たちは受けたのだろうと想像する.

 バボッチョの「フランチェスコ・カルボーネ枢機卿の墓碑」も,案内書その他に教えられなければ,ティーノ作と思い続けていただろう.

 ファサードに残る3つのポルターユの内,両側の2つとそれに付随する彫刻はバボッチョの作品とされ,中央のポルターユに残る上記の聖人と枢機卿の他,上部の聖母戴冠もバボッチョの作品と思われる.


ピエトロ・カヴァッリーニのフレスコ画
 ナポリの後期ゴシックから初期ルネサンスの絵画芸術に関しても,非常に興味深い遺産を大聖堂本堂で観ることができる.その中で,最も重要と思われるのは,ピエトロ・カヴァッリーニのフレスコ画である.

 後陣(アプシス)の向かって右隣にあるサンタスプレーノ(聖アスプレヌス)礼拝堂,もしくはここに墓所を持つ家の名前からトッコ礼拝堂と称される空間にカヴァッリーニのフレスコ画はある.

 入り口のコリント式の柱頭の巨大な柱に支えられたゴシック風の尖頭アーチを入り口とするこの礼拝堂には,細長いゴシック風の窓の左右に,柱に区切られた計6面の壁があり,それぞれ上下に3場面ずつのフレスコ画が残っている.

 このフレスコ画は15世紀か16世紀の作品で,計18場面に「聖アスプレヌスの物語」が描かれている.あるいはリブで区切られた天井にも絵があったのであろうが,剥落が激しく暗いのでよく分からない.

 「聖アスプレヌスの物語」は決して高水準のフレスコ画とは思えないが,それでもまとまった形で見られる連作フレスコ画はやはり見応えがある.

 作者は英語版ウィキペディアと仏語版ウィキペディアではベルナルド・テザウロとしており,それぞれこの画家に関して立項しているが,伊語版ウィキペディアにはアゴスティーノ・テザウロとあり,画家に関する立項はなく,ウェブ検索でどうやら16世紀の画家とされているらしいことが分かる.

 「聖アスプレヌスの物語」が描かれた壁面と窓のそれぞれ下に,柱で囲まれた計7面の壁から成る基層部があり,そこにより古い時代のフレスコ画が残っており,これを描いたのがピエトロ・カヴァッリーニとされている.

 サン・ドメニコ・マッジョーレ聖堂に残る作品に比べて,大芸術家の作品というにはインパクトが欠けている.

 司教聖人がおそらく2人,メダイオンの中に描かれた人物が少なくとも5人(うち2人は痕跡),あとは2人の人物が左右に拝跪しているが場面が窓の下にあるが,中央部分は削られて,聖母子の浮彫が飾られている.

 あるいは司教聖人のうち一人はアスプレヌスかも知れないが,字が書いてあるものの,読み取れないので分からない.

 アスプレヌスは,伝説によれば,1世紀に生まれ,2世紀に亡くなり,23年間ナポリの司教だった.聖ペテロがローマに向かう途中,立ち寄ったナポリで,カンディダという女性の病を治癒させ,その奇跡を目の当たりにしキリスト教に改宗した大勢の中の一人に彼がいたということである.

 アスプレヌスもカンディダも共にナポリの守護聖人である.特にアスプレヌスは50人以上いるナポリの守護聖人の中で,首位のヤヌアリウス(ジェンナーロ)に次ぐ第二位に擬せられる存在とされることもあるようだ.



 ここまで書いてきたが,一般的な評価からすると,ナポリ大聖堂で最重要と思われるサン・ジェンナーロの宝物国王礼拝堂まで行き着かなかった.

 いたずらに時間が過ぎるだけで,ナポリ大聖堂の報告が終らないのは良しとしないが,もう一度だけ予定をさらに一回伸ばし,次回,やはりまだ報告が済んでいないカパーチェ・ミヌートロ礼拝堂とともに,サン・ジェンナーロの宝物国王礼拝堂について報告して,ナポリ大聖堂の回を終わらせることとする.

 この回の最後に,ナポリ大聖堂のペルジーノの「聖母被昇天」の写真を紹介する.

 カポディモンテの回で述べたように,同主題のピントリッキオと助手たちの手になる作品の方が,聖母の顔が美しくて好きだが,何といっても巨匠の描いた大きな絵で,しかもあまり地縁のないナポリ大聖堂のために描かれたという事実は,注目に値するのではなかろうか.

 ペルジーノなら,もっと高水準の作品も少なくないと思うが,一目見てそれと分かる作品がナポリ大聖堂に飾られているのを見て,ただ驚いたことを,思い出として大切にしたい.







ペルジーノ
「聖母被昇天」