§ナポリ行 その12 教会篇 その1
ナポリの報告はこの辺りで終わるべきとも思うが,教会について全く語れないのは,あまりにも口惜しいので,最後に教会篇を何回かに分けて整理したい. |
この夏も,研究費を申請して一週間ほどローマに行ってくる.いつものようにヴァティカン博物館の見学をネット予約した他,フランス大使館になっているファルネーゼ宮殿の見学を申し込み,イタリア語ガイドの回に何とかもぐり込むことができた.
実際に行ってみないと,どれほどの成果が得られるかわからないが,ともかくアンニーバレ・カッラッチの天井フレスコ画「ディオニュソスとアリアドネの凱旋行進」を観ることができると思うとワクワクする.今,体調が思わしくないが,出発までに何とか体調を回復し,準備を進めたい.
予定が詰まっていて,フィレンツェだより「備忘録」の更新もままならず,昨夏のフィレンツェ行,今夏のローマ行の「番外篇」の報告はいつになるか分からないが,倦まず弛まず(と自分に言い聞かせる),整理,報告を続けて行きたい.
と,ここまで書いたところで時間切れになり,ローマへ旅立ち,帰国後は成田からそのまま関西大学に向かい,シンポジウムに参加し,翌8月31日に帰埼した.
いつものことだが,印象が鮮烈なうちに書き留めておきたい気持ちが高まっているので,ナポリの次はウンブリアの諸都市の報告のつもりだったが,予定を変更して,2017年度の複数のローマ行と合わせて今回のローマ滞在の見聞をまとめることにする.
ナポリ大聖堂
ナポリ大聖堂(英語版)には2017年度の3回のナポリ行で,計4回行った.大都市の大聖堂なのに昼休みがあるようで,下手な時間に行くと中途半端なところで出されるので,十分な鑑賞ができたと思ったのは3回目の2018年1月16日のことだった.
この日は12月にも見たサン・ジェンナーロの宝物国王礼拝堂をもう一度見て,現在は大聖堂に組み込まれており,何度も修復,改築を経てはいるが,起源を4世紀に遡るサンタ・レスティトゥータ聖堂,そして拝観料を払って入場する洗礼堂の遺構を初めて観た.
以下,ウェブページの他に,サン・ジェンナーロの宝物国王礼拝堂の販売コーナーで買った伊英対訳の案内書,
Paolo Jorio, Il Duomo di Napoli, A. G. M. Editori, 2017(以下,ヨリオ)
を参照する.
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写真:
ティーノ・ディ・
カマイーノの彫刻が
遺るポルターユ |
ナポリ大聖堂のファサードは,ポルターユにフィレンツェ周辺でおなじみのティーノ・ディ・カマイーノ(以下,ティーノ)と,ラツィオ州出身の,今回初めてその存在を知った職人芸術家アントニオ・バボッチョ・ダ・ピペルノ(以下,バボッチョ)のゴシック彫刻が遺っているものの,全体はネオ・ゴシックである.
現在の姿になったのは1871年に始まるエンリコ・アルヴィーノ設計による改築が完成した1951年とのことなので,見るからに新しい.堂内の方もバロック的な改築が施されていて,古いものを期待する眼にはもの足りない.
そもそもナポリという古代に起源のある都市の司教座聖堂でありながら,創建はアンジュー家支配下の13世紀で,本来の司教座聖堂は,現在は大聖堂に組み込まれている上述のサンタ・レスティトゥータ聖堂であった.
カポディモンテ美術館所蔵のチェーザレ・ダ・セストの「悲しみのキリストと祈るオリヴィエーロ・カラーファ」に16世紀のナポリ大聖堂が描き込まれていることは,前々回に紹介した.ファサードは現在とは全く違う姿で描かれているが,1860年に撮影された写真(写真技術の発明は19世紀の始め)とよく似ているので,チェーザレの絵にも納得が行く.
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写真:
大聖堂の堂内 |
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ナポリ大聖堂の現在の正式名称は,カッテドラーレ・メトロポリターナ・ディ・サンタ・マリーア・アッスンタで,「被昇天の聖母」の名を冠しているが,上述のように,最初の司教座聖堂はサンタ・レスティトゥータ聖堂だった.
この聖堂の元となる集会所を創建したのは初代ナポリ司教であるアスプレーノ(アスプレヌス)で,彼は紀元後1世紀の原始キリスト教時代から2世紀の五賢帝のトラヤヌス,ハドリアヌスの時代まで生きたとされ,初代ローマ教皇とされる使徒ペテロから直接任命されたとされている.
一方,聖堂の名のもとである聖レスティトゥータは,3世紀に現在のチュニジアにあたる北アフリカで生まれ,ディオクレティアヌス帝のキリスト教徒迫害により,304年に同地で殉教したとされる女性聖人なので,時代的に,旧司教座聖堂の命名はアスプレーノによるものではない.
そもそもアスプレーノの時代からしばらく,キリスト教はローマ帝国では非公認宗教で,レスティトゥータの殉教の9年後にミラノ勅令が出され,キリスト教は国家公認の宗教となる.公認直前に殉教した聖人であることが宗教的な伝説として意味があるのであろう.
10世紀の聖人伝作者,ピエトロ・スッディアコノに拠れば,レスティトゥータは燃える小舟に乗せられて海に流されたが,天使の導きによって,ナポリ湾の沖のイスキア島(当時はアエナリア島と言った)に流れ着き,亡くなった.その遺体を発見した地元の女性は,住民を集めて,現在のラッコ・アメーノにあるヴィーコ山の麓に聖人を埋葬し,その地に古代教会が創建され,その地域はレスティトゥータの聖域となった.彼女は現在もラッコ・アメーノの守護聖人となっている.
キリスト教が公認された313年以降,伝承によればコンスタンティヌス大帝により司教座聖堂が献堂されたが,サンタ・レスティトゥータという名前でナポリの司教座聖堂となったのは6世紀のことと考えられている.
北アフリカに強大な王国を築いたヴァンダル族の王ガイセリックはアリウス派のキリスト教徒であったため,アタナシウス派のカトリック教徒を北アフリカから追放するが,その中にカルタゴ近郊のアビティナエの司教だったガウディオススがいて,彼が聖レスティトゥータの聖遺物を携えて,439年にナポリにやって来たとされる.
北アフリカの殉教聖人崇敬が,伝説を生みながらナポリ周辺にも広がり,それが,司教座聖堂の命名につながった背景には,こうした何らかの歴史的事実が関係している可能性があるだろう.
洗礼堂の遺構
古代後期から中世初期にかけて,どのような形で旧大聖堂が維持されたのか分からないが,現在は,北東を後陣とし,南西が正面に南西になるラテン十字型の大聖堂の身廊東側にサン・ジェンナーロ国王礼拝堂,西側にサンタ・レスティトゥータ聖堂が付属するかのような形になっている.
しかし,前述のように,元々はサンタ・レスティトゥータ聖堂が大聖堂だったので,現在の形が旧来の通りだとすれば,北西側に後陣,南東側に正面が来る短めの長堂型三廊式で,後陣の北後方に洗礼堂があったことになろうか.
洗礼堂には,洗礼に使ったと思われる水槽が遺っており,古代後期(4世紀から5世紀)のものだとすれば,貴重な遺産ということになる.ギリシア文字のΧ(キー)とΡ(ロー)を組み合わせたクリスモン(ただしΧは斜めに交差するのではなく正十字型)が彫り込まれた柱頭を持つ柱とともの凝灰岩でできていて,単純な造形だが古格をたたえている.
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写真:
不死鳥の
モザイク |
しかし,何といっても目を惹くのは円形天井に施されたモザイクだ.4世紀(ヨリオ)か5世紀(伊語版ウィキペディア)の作品と考えられているので,やはり古代後期のものだ.
黄金の円環に囲まれた,やはりΧが正十字型のクリスモンの両脇にΑとΩがあり,王冠をいただいて,周囲は青地に星が散りばめられている.王冠の中に「神の手」が見えている(トップの写真).
円環の中には,果物の入った籠や鉢を挟んで,鳥が向かい合う模様が複数施され,王冠の先の円環の中には,不死鳥が描かれている.
モザイクは4世紀か5世紀のものとすれば,ビザンティンで栄えたモザイク以前の,古代後期の芸術で,ラヴェンナで言えば,ガラ・プラキディア霊廟のモザイク(5世紀)と同時代,もしくはそれに先行する貴重な作例と言うことになるだろう.
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写真:
「律法の授与」の
モザイク |
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他に古いモザイクと言えば,ミラノのサン・ロレンツォ・マッジョーレ聖堂サンタクィリーノ礼拝堂の,髯の無い若いキリストによるペテロとパウロへの「律法の授与」のモザイク(6世紀)が思い当たる.
同主題のモザイクはローマのコスタンツァ霊廟にもあって,こちらも,若く髯が無い金髪のキリストがペテロ,パウロへ律法授与している.もし,これがコスタンツァ霊廟の他のモザイクと同じくらい古いのであれば,4世紀まで遡ることになるが,どうだろうか.
この「律法の授与」はナポリの洗礼堂モザイクにも描かれている.キリストは黒い髪で髯があり,世界を表す球体の上に立っていて,左側のペテロに開いた巻物を渡しているが,パウロと思われる人物は膝下くらいからしか残っていない.
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写真:
「井戸の傍らの
イエスとサマリア人の
女性」と
「カナの婚礼の
奇跡」のモザイク |
この他に「井戸の傍らのイエスとサマリア人の女性」,と「カナの婚礼の奇跡」,「奇跡の漁」の比較的分かり易い断片と,何かのヒントがないと現場で分かる人はあまりいないだろう「キリストの墓の傍にいる3人のマリア」と思われる(伊語版ウィキペディア)という「新約聖書」に題材をとった図像が見られる.
最後の図像に関しては,ダルマティア風の衣服に外衣をまとった天使と思われる人物が石棺のようなものに腰掛け,側に少なくとも一人女性がいるのが,顔の一部が遺っていることで分かる.
伊語版ウィキペディアの「墓の傍の敬虔な女性たち」の用語(Le pie donne al sepolcro)をそのままGoogle検索すると,ウィキペディアのリンク先が,アンニーバレ・カッラッチの同主題の絵(エルミタージュ美術館,1600年頃)の解説ページだった.それを見ると,確かに天使が石棺の縁に腰を下ろし,柩が空であることを指さして示しており,その傍にいる3人の女性たちはキリスト復活の証人の役を割り当てられている.
ナポリ洗礼堂の顔の一部しか遺っていない女性と同じ位置(天使に一番近い)にいるのは,香油壺を持っていることからマグダラのマリアと推測される.
しかし,アンニーバレの天使は裸足なのに,モザイクではサンダルを履いているなど,細かい描写の相違以上に,時代が違いすぎる(1100年以上)ので,どこまで参考にして良いか分からないが,今は,アンニーバレの絵の写真(この絵はエルミタージュでは見ていない)から,失われた全体像を想像するしかない.
古代後期のキリスト教モザイクに関しては,ラヴェンナ,ミラノ,ローマで鑑賞を重ねることで,漸く関心を喚起された.
洗礼堂に関しては比較的早くから関心を持っていて,フィレンツェから始まって,諸方で観て,2017年に念願のローマのサン・ジョヴァンニ・ラテラーノ大聖堂に付随する古代後期の洗礼堂を拝観することができたのに,ナポリ大聖堂に古代後期のモザイクが遺る洗礼堂遺構があることなど全く知らなかった.
2018年1月に偶然見ることできたのは運が良かったという他はない.再び自分の勉強の足りなさを思い知った.
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写真:
スキンチの有翼ライオン
(福音史家
聖マルコの象徴) |
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通常,洗礼堂の躯体は八角形(オクタゴン)集中式であり,4世紀前半に建設されたローマのサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂の洗礼堂もオクタゴン型で,内部は改築されているが,八角形の躯体に八角形の屋根と言う構造は,その後の洗礼堂の原型になっていると思われる.
ナポリの洗礼堂は同じく4世紀の創建だが,ナポリの司教セヴェーロの時代だとすれば4世紀後半になる.少なくとも現場にあった解説板にはサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノの洗礼堂よりも古いとあった.
解説板にはモザイクも「ローマやラヴェンナより美しい」とあって,やや,お国自慢もあるかも知れないので,どちらが古いかは保留するとして,サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノの洗礼堂の内部は新しく,4世紀のモザイクは残っていないし,ナポリの洗礼堂の構造は正方形の躯体に八角形の天蓋が乗るユニークな形で,「東方の影響を受けている」という解説は多分その通りだろう.
正方形の躯体に八角形の天蓋を乗せるに際し,正方形の四隅にスキンチ(スクィンチ)(入隅迫持)が設置され,それによって,八角形の鼓胴(タンブール/ドラム)が乗り,そこに八角形の天蓋が懸けられる(ウェブ上の簡略平面図).
ナポリ洗礼堂はまさにこの構造で,4つのスキンチに福音史家の有翼の象徴動物が描かれていたことは容易に想像がつくが,はっきりわかるように残っているのはライオン(聖マルコ),人間(聖マタイ)のみだと思う.
サンタ・レスティトゥータ聖堂
地下にある洗礼堂から上がって来て,サンタ・レスティトゥータ聖堂を改めて拝観した.
天井には,レスティトゥータが船でイスキア島に到来した絵が描かれている.天井画だが,フレスコ画ではなく,カンヴァス画を嵌め込んだもののようだ.作者はジュゼッペ・シモネッリという17世紀前半に活躍したナポリの画家で,新しいが,現在の大聖堂以前の司教座聖堂の由来となる聖人の物語を誠実に描いている.
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写真:
サンタ・
レスティトゥータ
聖堂
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三廊式の堂内の身廊と側廊を区切る柱列の柱頭は,コリント式で,古代建築からの転用と思われる.
後陣の中央祭壇にもコリント式の柱頭を持つ2本の柱があって,アクセントになっているが,周辺に施されているのは,華やかなバロック装飾である.
この彫刻とデザインは,アルカンジェロ・グリエルメッリを中心に,協力者としてバルトロメオ・ゲッティ,ロレンツォ・ヴァッカーロの名が挙げられ,フレスコ画はニコラ・ヴァッカーロ,数少ないルネサンス芸術である中央祭壇画「聖母子と聖人たち」はアンドレーア・ダ・サレルノへの帰属の可能性があるとされている.
ヴァッカーロ姓の芸術家が2人いるが,ニコラの方は1640年生まれで,父はカラヴァッジストとしてナポリの諸方に作品を遺しているアンドレーア,ロレンツォの方は1655年生まれで,息子のドメニコ=アントーニオも彫刻家,建築家として活躍し,その仕事もサンタ・レスティトゥータに遺っているが,父はドメニコという名の弁護士だ.血縁がないかと思って調べてみたが,言及する資料は今のところ見つからない.
しかし,サンタ・レスティトゥータで名前の挙がる3人を含む4人のヴァッカーロが全て,ナポリで生まれ,ナポリで修業し,ナポリで亡くなった「ナポリの芸術家」であることは注目されてよいだろう.17世紀のバロックの時代のナポリは,地元から多くの芸術家が輩出した都市であったことを物語っている.
マドンナ・デル・プリンチーピオ礼拝堂(サンタ・レスティトゥータ聖堂)
サンタ・レスティトゥータ聖堂の,洗礼堂につながる右側廊には,古代石棺を再利用した墓が複数あり,これも興味深かったが,左側廊奥のマドンナ・デル・プリンチーピオ礼拝堂にゴシックの遺産が燦然と輝いていて,個人的には洗礼堂のモザイクの次に魅力的だった.
礼拝堂奥の後陣型の半穹窿天井の黄金のモザイク「玉座の聖母子と聖ジェンナーロ(ヤヌアリウス)と聖レスティトゥータ」は,1322年に制作され,作者はレッロ・ダ・オルヴィエートとされる.

「玉座の聖母子と聖ジェンナーロ(ヤヌアリウス)と聖レスティトゥータ」
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人物の下には帯状に文字が記されており,玉座の聖母子の(向かって)右側にいる聖レスティトゥータの足元の下の部分には,右端のところで短く改行しながら下に続いているので少々読み辛いが,「HOC
OPVS FEC LELLUS /(VAL)/DE VRB? /E」 (「/」は改行を示す)とある.
最初の行は「この作品をレッルスが創った(FECはfecit」と読め,(VAL)の行を飛ばすと,「DE VRB?」の「?」の所にEがあり,その後に「VETER」とあれば,全体として「DE VRBEVETERE」で「オルヴィエート(ウルプス・ウェトゥス)出身の」と読める.
ウルプス・ウェトゥス「古い都市」がオルヴィエートのラテン語名(「ウルベ・ウェテレ」は前置詞の被支配格形)なので,イタリア語名のレッロ・ダ・オルヴィエートの根拠は,このモザイクに記された文字に拠るようだ.
しかし,例えば「?」の部分には何もなく,2行に渡って「VRB / E」であれば,ウルプスにウェトゥス(古い)という修飾語が付かないことになり,その場合,古典ラテン語の慣習では「ローマ」を意味するので,場合によってはこの画家はローマ出身の可能性もあることになる.
都合4回行っているオルヴィエートに,この画家の遺した作品は無かったように思う.
レッロがこのモザイクを制作した年代のナポリの芸術環境を考えてみる.
現在のナポリ大聖堂の創創建開始と献堂が13世紀,大体の完成が1313年のことであれば,このモザイクが制作された1322年には既にサンタ・レスティトゥータは司教座聖堂ではない.
1337年に亡くなったとされるジョットがナポリで仕事をしたのは1332年前後と考えられているので,レッロの方がジョットより10年ほど早くナポリで仕事をしたことになる.
ジョットの前にトスカーナからナポリに来た大芸術としてはティーノ・ダ・カマイーノの名が挙げられ,実際にナポリ大聖堂のポルターユには彼の仕事が遺っているし,大聖堂で見られる「フランチェスコ・カルボーネの墓碑」は,素人目にはティーノの作品に見える.
ティーノがアンジュー家のロベール(ロベルト1世)招きでナポリに来たのが1323年で,そこで亡くなる1337年頃まで彼はナポリで活躍する.
ティーノがずっとナポリにいたのかどうかわからないが,約14年という歳月は52歳くらいで亡くなった彼の人生を考えると,彼の芸術にとってもナポリの彫刻の伝統にとっても大きな意味があったはずだ.ナポリの諸教会でこれもティーノ,あれもティーノと思い込んでしまうほど,彼の影響を思わせる墓碑を観たが,実際には,彼が工房の助力を得て制作にかかわった墓碑は3点くらいしか現存しないらしい.
ティーノについては,彼が制作に関わった墓碑を実見することができたサン・ロレンツォ・マッジョーレ聖堂,サンタ・キアーラ聖堂について報告する際に考えることにするが,いずれにせよ,1322年にはまだティーノもナポリにはいなかった.
つまり,1322年という制作年代が正しければ,ティーノもジョットもまだナポリには来ておらず,トスカーナの後期ゴシック芸術の彫刻と絵画の主流とも言うべき彼らの直接の影響以前ということだ.
ただし,シモーネ・マルティーニの「弟ロベールに王冠を授けるトゥールーズの聖ルイ」はそれ以前の1317年にナポリで描かれたので,シモーネの影響を受けたナポリの画家たちがいたとすれば,レッロがモザイクを制作した1322年にはそれが意識されていなかったとは言い切れない.
それよりも古い外来の芸術家は誰かいなかったか.
大聖堂本堂にも断片が遺っており,サン・ドメニコ・マッジョーレ聖堂において一つの礼拝堂をフレスコ画で装飾した大芸術家,ピエトロ・カヴァッリーニがいる.1240年頃生まれたと考えられているカヴァッリーニがナポリで仕事をしたのは,1308年と1317年と考えられており(伊語版ウィキペディア),であれば,こちらはレッロのナポリ到来以前である.
本堂翼廊左端のイッルストリッシミ礼拝堂に,レッロ作とされるフレスコ画「生命の樹」(もしくはエッサイの枝)が遺っており,残念ながらこの礼拝堂は拝観していないが,制作は1315年頃とされる.1308年にサン・ドメニコ・マッジョーレでカヴァッリーニが仕事をしていることを考えあわせると,何らかの関係があったことを想像したくなる.
ウェブ上の写真で見る限り,フレスコ画「生命の樹」にはカヴァッリーニの影響があるように思える.このフレスコ画か描かれた時点では,シモーネ・マルティーニはナポリに来ていないが,既に名声のあった芸術家なので,レッロがナポリ以外で,シモーネの作品を見ていなかったとは言い切れないが,少なくともレッロ作とされるフレスコ画は,シモーネの画風とは一線を画しているように思える.
カヴァッリーニは1317年にもナポリで仕事をしたのであれば,これも今のところ情報がないが,シモーネ・マルティーニとの接近遭遇が有ったのか,無かったのかも興味をひかれるが,残念ながらわからない.
一方,レッロのモザイクに関しては,カヴァッリーニや同時代のヤコポ・トッリ―ティの作品には,もう少し動きが感じられるのに比して,レッロの「玉座の聖母子と聖ジェンナーロ(ヤヌアリウス)と聖レスティトゥータ」は聖母子ともに正面観でビザンティン風の荘厳さを残しているように思え,かえって個性的な感じがする.「感じ」だけかも知れないが.
玉座の奥行き感も遠近法のはしりとして成功しているように思えるし,聖母子に対する両脇の聖人たちも,半穹窿天井のモザイクにふさわしく,奥行き感を醸し出している.
ヤヌアリウスが持つ本には「穢れなく見出された者は幸いである」,レスティトゥータが持つ本には「来たれ,キリストの花嫁,冠を受けよ」とラテン語で書かれている.
前者は通称「ベン・シラの知恵」と呼ばれる,カトリックでは正典,プロテスタントでは外典とされる文書に出て来る.新共同訳では「シラ書〔集会の書〕」とされ,該当箇所(31章8節)は「清廉潔白な金持ちは幸いである」と訳されている.9節が「黄金を追いかけなかったから」と続き,そもそも31章の小見出しが「富について」となっていることも関係するのだろう.ラテン語の読解には文脈が必要だ.しかし,このモザイクでは原文の文脈から切り離して私の解釈のように使われているように思えるが,ここでは立ち入らないことにする.
後者はアンティフォナ(交唱)と言われる形式の聖歌の歌詞として使われる句で,パレストリーナの有名なモテトゥスがある.
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写真:
旧約聖書の物語など
の浮彫
13世紀 |
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同じ礼拝堂の両側面に,浮彫のパネルがあり,古く見えるが新しいかも知れないと思ったが,13世紀初めにナポリの無名の彫刻家によって制作された,旧約聖書のヨセフ,サムソン,ヤヌアリウスを題材にしたものとのことなので,レッロのモザイクよりもさらに100年古いことになる.
なお,この礼拝堂にはレスティトゥータの聖遺物の他に,9世紀のナポリ司教で,列聖されているヨハネス4世「書記者」(サン・ジョヴァンニ・クァットロ・ロ・スクリーバ)(伊語版ウィキペディアにも立項されていないので,別ページにリンクしておく)の聖遺物も安置されている.
サンタ・レスティトゥータとその周辺で見られるものを以下のように分類することができるだろう.
(古代の遺産)
洗礼堂遺構の,水槽とモザイク
右側廊で中世以降の墓に再利用された複数の石棺
古代建築からの再利用と思われるコリント式の列柱
(ゴシックの遺産)
仮称「レッロ・ダ・オルヴィエート」のモザイク「玉座の聖母子と聖ヤヌアリウスと聖レスティトゥータ」
「旧約のヨセフ,サムソン,ヤヌアリウスの物語」の浮彫パネル
(ルネサンスの遺産)
伝アンドレーア・ダ・サレルノの祭壇画「玉座の聖母子と大天使ミカエル,聖レスティトゥータ」(裾絵に女性聖人が船でイスキア島に到着する物語)
(バロック以降の遺産)
バロック風に改築された堂内と,それを装飾する絵画,彫刻
パイプ・オルガンとその周辺の騙し絵(オルガンの周辺に奥行きがあるような騙し絵が描かれている
おそらく,人目も引き,遺産としても価値も高いのは洗礼堂のモザイクだけかも知れないが,サンタ・レスティトゥータ聖堂を拝観し,それについて整理して見て,背景にあるナポリの歴史を感じ,巨大な大聖堂についても時代別に整理してみたいという気持ちになった.
ナポリ大聖堂の報告は1回で終わる予定だったが,洗礼堂も含むサンタ・レスティトゥータ聖堂についてまとめているうちに長くなったので,大聖堂本堂の遺産は次回に続く,とする
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善き羊飼い
洗礼堂遺構
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