フィレンツェだより 第2章「備忘録」
2019年12月9日
カパーチェ・ミヌートロ礼拝堂
ナポリ大聖堂
§ナポリ行 その14 教会篇 その3
ナポリ大聖堂の報告の3回目である.今度こそ終わらせて,次回はナポリのその他の教会とそれに付随する博物館を紹介する.
さて,前回,ナポリに君臨したアンジュー家の諸王について整理したが,王たちの墓碑,墓廟は,大聖堂には見当たらないように思えた.
何処にある,アンジュー家の墓碑
初代のカルロ1世(シャルル・ダンジュー)は1285年1月7日にフォッジャで亡くなり,ナポリで埋葬され,1296年に創建中の大聖堂に改葬されている.
しかし,パリと同じイル・ド・フランス地方の
サン・ドニ聖堂
にも横たわった姿の彫刻が付された墓碑(フランス語の
ジサン
が一般的名称)がある.遺体はナポリで埋葬されたが,心臓はパリの
サン・ジャック修道院
に運ばれて,そこに収められたということのようだ.
カルロ2世は,1309年の5月5日にナポリで亡くなり,同地のサンタ・キアーラ聖堂に葬られた(伊語版ウィキペディア)というが,多くの立派な墓碑があったサンタ・キアーラ聖堂でカルロ2世の墓碑を見ることはできなかったように思う.
シモーネ・マルティーニの祭壇画に寄進者として登場し,「賢王」と称されるロベルトは1343年の1月16日にナポリで逝去し,やはりサンタ・キアーラ聖堂に葬られ,そこには現在も立派な墓碑が残っているが,これについては,サンタ・キアーラ聖堂について報告する際に言及する.
ジョヴァンナ1世は,1387年の7月27日(英語版,仏語版ウィキペディア)もしくは5月12日(伊語版ウィキペディア)に幽閉先の
ムーロ・ルカーノ
の城で,カルロ3世の放った暗殺者の手で絹糸もしくは枕を使って窒息死させられたとされる.
埋葬場所は分からない(伊語版ウィキペディア)か,もしくは遺体がナポリに運ばれ,教皇
ウルバヌス6世
に破門されていたので,葬儀も行なわれず,サンタ・キアーラ聖堂の井戸に投げ込まれた(英語版ウィキペディア)とされる.
そのカルロ3世は,1386年2月24日に,自身が国王となったハンガリーの
ヴィシェグラード
(ハンガリー語の読み方は日本語ウィキペディアに従う)で暗殺され,彼も,以前はジョヴァンナ1世を追い落とす仲間だったウルバヌス6世と対立して,破門されていたので,その地に葬儀無しで埋葬された(英語版ウィキペディア.伊語版ウィキペディアは都
ブダ
を埋葬地としている).
ラディスラオは,1414年8月6日にナポリで薨去し,サン・ジョヴァンニ・ア・カルボナーラ教会に埋葬され,アンドレーア・チッチョーネ作の立派な墓碑が現存している.これについては同教会について報告する時に言及する.
ジョヴァンナ2世は,1435年の2月2日にナポリで亡くなり,同地の
サンティッシマ・アヌンツィアータ・マッジョーレ聖堂
に葬られた.墓碑,墓廟の情報は今のところ得られていない.
こうして見るとナポリ・アンジュー家の諸王で,大聖堂に葬られたとされているのは,初代のカルロ1世のみで,彼には他に2カ所も墓所があり,ナポリ大聖堂の建設は,彼の死の時点では始まっていたが,彼が大聖堂に改葬されるのは死後20年経ってからである.
こうした状況ではあるが,大聖堂にナポリ・アンジュー家の墓碑が少なくとも一つ現存している.堂内のファサード裏にある,カルロ1世,ハンガリー王
カルロ・マルテッロ
,その妃ハプスブルク家出身の
クレメンツァ
の墓碑である.
写真:
カルロ1世,
カルロ・マルテッロ,
クレメンツァの墓碑
カルロ・マルテッロはナポリ王カルロ2世の子で,トゥールーズの聖ルイとロベルト賢王の兄である.したがって,カルロ1世は彼の祖父である.
カルロ2世の妃である母マリアはハンガリー王
イシュトヴァン5世
の娘で,叔父である
ラスロー4世
の死後,祖父の従兄弟
アンドラーシュ3世
の王位継承に反対し,ハンガリー王を名乗ったが,23歳の時ナポリで夭折した.
母の出身のハンガリー王家を
アールパード朝
というようだが,この王朝がアンドラーシュ3世の死で断絶し,結局はカルロ・マルテッロの子カルロ・ロベルトが
カーロイ1世
としてハンガリー王になる.
したがって,カルロ・マルテッロは実際にはハンガリー王ではないが,彼の子孫がハンガリーとクロアティアの王位を継承したこともあり,彼は名目上のハンガリー王とされることが多い.
23歳で夭折した若者は王冠を被った姿で,妃クレメンツァをはさんで祖父カルロ1世と同列に並んで,ナポリ大聖堂の墓碑に刻まれている.
クレメンツァの父は,西方スイスが発祥のハプスブルク家の本拠をアルザス地方から初めてウィーンに移し,同家興隆の基礎を作った
ルドルフ1世
(ハプスブルク伯としては4世)で,
選挙
で「
ドイツ国
王」(Germaniae Rex)に選ばれた人物である.
ドイツ国王は,可能なら,パヴィアで「
ローマ王
」(=「ローマ人の王」Rex Romanorum)に即位し,ローマに行って,教皇によって
戴冠式
が行われるとローマ皇帝となる.いわゆる
「神聖ローマ帝国」の皇帝
である.
伝記的事実としては,ルドルフはパヴィアにもローマにも行っていないので,「神聖ローマ皇帝」とは言えないが,事実上の「皇帝」として,ハプスブルク家が後に,名目的にせよ「神聖ローマ皇帝」,また実質をとって「オーストリア皇帝」を称する一つの根拠となる.
15世紀からはハプスブルク家がドイツ王(≒ローマ人の王)をほぼ世襲する慣習が始まり,傍系から本家を継承した
フリードリッヒ3世
が,1452年ローマで戴冠式を行ない,ハプスブルク家で最初に正式の神聖ローマ皇帝となり,ポルトガル王ドゥアルテ1世の娘エレオノーラと結婚した.
この結婚を仲介したのが,後に教皇ピウス2世となるシエナ司教エネーア・ピッコローミニで,この様子をピントリッキオが,シエナ大聖堂のピッコローミニ図書館のフレスコ画に描いている.
フリードリッヒ3世の子が
マクシミリアン1世
で,その後継者が孫の
カール5世
で,彼は同時に母系から「スペイン王」カルロス1世でもあった.
ハプスブルク家出身の「スペイン王」の話になったところで,改めて,このナポリ大聖堂に残る唯一の(と思う)アンジュー王家の墓碑に並ぶ3人について考えてみる.
この墓碑の制作は1599年で,アンジュー王家の時代のものではない.制作依頼者は,ナポリを支配するスペイン王の代理としてナポリを統治した「
副王
」
エンリケ・デ・グスマン
であった.
スペインは,本土においても元々複数あった王国の同君連合の形をとっており,地中海地域のおいても,サルデーニャ,シチリア,ナポリを支配下に置いており,さらに16世紀には中南米にも領土を持ったので,それぞれの地域に「副王」が置かれ,本国から派遣された.
ナポリ副王職
に関しては,15世紀にアンジュー王家断絶の後,アラゴン王家出身の王たちが直接支配したが,16世紀に再度フランスとスペインの介入があり,最初はフランスが,直後にスペインが副王を置いて統治する体制となった.
「スペイン」という統一国家はまだ存在しなかったが,カスティーリャ女王イサベルとともに「カトリック両王」と言われたアラゴン王
フェルナンド2世
(カスティーリャの共同統治王としては5世)が,ナポリ王フェルディナンド3世としてナポリの支配者となり,副王として
ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ
を指名したのが,1504年から1707年まで続くスペイン系副王の始まりとなる.
アラゴン王フェルナンド2世のナポリ王としての後継者は孫のカルロ4世であるが,この人物はスペイン王(名目上はカスティーリャ王)カルロス1世,神聖ローマ皇帝カール5世と同一人物である.
この人の母が,イサベルとフェルナンドの娘フアナで,彼女は神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の子フィリップに嫁いだが,イサベルとフェルナンドの子でスペインの王位を継ぐ資格者としてフアナしか残らなかったので,フアナとフィリップの子カルロスの代からスペインの王統はトラスタマラ家(カスティーリャ,アラゴンともにトラスタマラ家)からハプスブルク家に移ることになる.
1519年に神聖ローマ皇帝(ドイツ国王,ローマ人の王)に選出された段階で,彼はオーストリア大公,ブルゴーニュ公爵,フランドル伯爵,カスティーリャ王,ナバーラ王,アラゴン王,シチリア王,ナポリ王であり,その他相当数の王位,公爵位,伯爵位を有していた.
通称「スペイン王」の中核であるカスティーリャ王としては,精神を病んだ母フアナが亡くなるまでは共同統治の資格であったが,実質的には外祖父フェルナンドが亡くなった1516年から彼は「スペイン王」であったと言って良いだろう.少なくともナポリの王位は確実に彼のものだった.
オーストリアのハプスブルク家に付随する領土などは,カール5世の弟フェルディナント(外祖父のアラゴン王と同名であるだけでなく,彼はカールとは異なりスペインで生まれた)に皇帝の称号とともに譲られたが,スペインにゆかりの深い領土や地位は,カールの子フェリペ(祖母フアナの共同統治王であったフィリップから数えて「スペイン王」としてはフェリペ2世)に譲られたので,ナポリ王の地位も彼(ナポリ王としてはフィリッポ1世)が引き継いだ.
王統としてはハプスブルク家で世襲が行なわれたことになる.ナポリ大聖堂の墓碑の制作依頼をした副王グスマンを任命したのはこのフェリペ2世である.
今のところ,グスマンを副王に任命したフェリペ2世がハプスブルク家の王であり,カルロ・マルテッロの妃クレメンツァがやはりハプスブルク家の出身で,ハンガリー王カーロイ1世の母で,ハンガリーの王位も,当時はハプスブルク家のもの(当時はフェリペ2世の従兄弟の子マティアス3世)であったという以上の関係性は分からない.
ナポリ・アンジュー王家の家祖,ハンガリー・アンジュー家の家祖とハプスブルク家出身のその妃という組み合わせは,スペイン・ハプスブルク家の副王がナポリを統治するにあたり,なんらかの正統性を主張できる根拠となったのかも知れないと想像するのみである.
カルロ・マルテッロとクレメンツァの子孫でアンジュー家出身の最後のハンガリー女王だった
マリア
の夫は,神聖ローマ皇帝
ジギスムント
(ルクセンブルク家)で,その娘婿が,ハプスブルク家が帝位もしくはそれに相当する地位を継承していく始まりとなったアルバート2世である.
ただし,彼には後継者が無かったので,傍系から入ったフリードリヒ3世がハプスブルク家と帝位に相当する地位を引き継ぐ.
そもそも,アルバートの妃のエリーザベトもアンジュー家のマリアの子ではなく,その死後妃となった女性の子であるので,ハンガリー・アンジュー家と後に皇帝を出すハプスブルク家との関係はハンガリー王位以外には今のところ見当たらない.これも知っている人にとっては自明のことなのであろうが,可能な限り,自分で調べ,理解することが大事なので,今はペンディングとする.
墓碑も作れば,泉も設計する
ナポリ大聖堂のファサード裏のアンジュー家墓碑の制作を副王から依頼された芸術家は
ドメニコ・フォンターナ
である.彼は現在スイス連邦に属するイタリア語地域であるティチーノ州ルガーノ地区のメリーデの出身で,ローマで活躍し,ナポリに活動の場を移し,ナポリで亡くなった.
ローマでは,教皇シクストゥス5世の命令により,元々はエジプトから持って来たものが大部分で,古代からローマにあって,現存するオベリスク13本のうち4本を現在の位置であるサン・ピエトロ大聖堂前,サンタ・マリーア・マッジョーレ大聖堂後陣裏のエスクィリーノ広場,サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂前,ポポロ広場に移し,巡礼路の指標とした(河島英昭『ローマ散策』岩波新書,2000,p.96).
他には,レプッブリカ広場とサンタ・マリーア・デッラ・ヴィットーリア教会の間にあるフェリーチェ水道の泉,通称「
モーゼの泉
」(中央のモーゼ像はレオナルド・ソルマーニとプロスペロ・アンティーキの作品),サンタ・マリーア・マッジョーレ大聖堂のシスティーナ礼拝堂,その他ヴァティカン宮殿,ラテラーノ宮殿でシクストゥス5世のために多くの仕事した.
1592年にシクストゥス5世が亡くなり,1592年の彼は活躍の場をナポリに移した.王宮をはじめとする,宮殿,教会の建設,装飾に関わり,今に残る「
ネットゥーノの泉
」の設計をした.この泉の設計を依頼したのもグスマンだった.
サン・ジェンナーロの宝物国王礼拝堂
さて,ようやく話は
サン・ジェンナーロの宝物国王礼拝堂
(以下,サン・ジェンナーロ礼拝堂)にたどり着く.サン・ジェンナーロはラテン語ではサンクトゥス・ヤヌアリウスなので,とりあえず聖ヤヌアリウスもしくは単に
ヤヌアリウス
と表記する.
この礼拝堂建立の契機は,1526年から27年にかけてナポリが蒙った災禍にある.王権をめぐるフランス軍の進攻,疫病,ヴェスヴィオ火山の噴火とそれに伴う地震などである.市民たちは守護聖人であるヤヌアリウスを記念する礼拝堂を建てることを誓い,資金が集められたが,実現に向かい出したのは遅く,1601年に準備委員会が立ち上がり, 1608年に建設が開始され,1648年に完成した.
設計を依頼されたのは,当時既にナポリで多くの実績があり,名声が高まっていた
フランチェスコ・グリマルディ
であった.
グリマルディは,現在はバジリカータ州ポテンツァ県に属する
オッピド・ルカーノ
に生まれ,
テアティノ会
の修道士となり,同会の本部のあるローマの
サンタンドレーア・デッラ・ヴァッレ聖堂
の建設に
ジャーコモ・デッラ・ポルタ
,
カルロ・マデルノ
とともに中心的役割を果たした.いずれも北方から来てローマで活躍した一流の建築家だが,年長のデッラ・ポルタの影響を受けたかも知れない.
ローマでは,ブラマンテやミケランジェロの建築からも多くを学んだであろう.いずれにせよ彼は,1589年にはナポリの
サン・パオロ・マッジョーレ聖堂
(テアティノ会の祖ガエターノ・ティエーネの墓所),1590年にはテアティノ会のナポリ本部のある
サンティ・アポストリ教会
,1591年にレッチェの
サンティレーネ教会
の設計を手掛け,17世紀に入ってもナポリで複数の教会の建築を主導した.
1607年にサン・ジェンナーロ礼拝堂の仕事を依頼され,1613年に亡くなるまでその仕事に携わり,多くの建築家,彫刻家をこの礼拝堂に関わらせ,完成に向けての道筋をつけた.サン・ジェンナーロ礼拝堂に関わった芸術家としてよく知られているのが,ボローニャ出身で,ローマで活躍したドメニキーノことドメニコ・ザンピエーリである.
ドメニキーノは複数の祭壇画と,丸屋根を支えるペンデンティヴのフレスコ画を描いたが,穹窿天井のフレスコ画を描かないまま亡くなり,その後を引き継いで天井画「天国」を完成させたのが,やはりローマで活躍するボローニャ派に属するが,パルマ出身のジョヴァンニ・ランフランコだった.
ナポリの画家の作品もある.スペイン出身だが,ナポリで有力画家となり,ナポリで亡くなったフセペ・デ・リベーラが描いた祭壇画も1点ある.
本堂からサン・ジェンナーロ礼拝堂に入る際には,コジモ・ファンザーゴ作の
アーチ型柵門
(1665年)をくぐる.堂内は床平面が八角形(オクタゴン)になっており,壁面は八角柱の八面を形成している.
最初の面が鉄柵門とすると,向かって右側の最初の第2面にドメニキーノ作の祭壇画「聖人の灯火の油で癒される病人たち」がある.次の第3面は左側(中央祭壇から見て)祭壇で,そこには「聖ヤヌアリウスの斬首」,第4面には「死者の蘇生」がある.
上の写真は鉄柵門の外から第5面の中央祭壇を撮ったものだ.正面に見える中央祭壇に祭壇画はなく,フランチェスコ・ソリメーナの手になる斑岩の祭壇装飾,1305年にプロヴァンスの職人によって作成され,聖遺物を納めた
金銀細工の胸像
がある.
第6面には「ヤヌアリウスの墓の傍の病人たち」,第7面は右側祭壇でリベーラの祭壇画「
炉から無傷で生還したヤヌアリウス
」があり,最後の第8面には「悪魔に憑かれた女性の治癒」がある.
右側祭壇のリベーラの絵以外はドメニキーノの作だが,「死者の蘇生」は未完のまま残され,最終的にはリベーラが仕上げたらしい.これらはカンヴァス画に見えるが,全て銅板に描かれた油絵とのことだ,ドメニキーノの祭壇画はいずれも死の前年の1640年,リベーラの絵は1645年に描かれた.
写真:
ランフランコと
ドメニキーノによる
フレスコ画装飾
ドメニキーノは堂内を飾るフレスコ画も手掛けた.
ペンデンティヴ
(日本語ウィキペディアは「窮隅」で立項)の
フレスコ画
は写真も撮れた.絵柄についてはウェブ上に情報があり,「ナポリの救済をキリストに願う聖母」,「天国の栄光につつまれてキリストに出会うヤヌアリウス」,「ヤヌアリウスにナポリの守護を命じるキリスト」,「ナポリの守護聖人たち」であろうと思われる.
柵門の上部,右側祭壇,中央祭壇,左側祭壇の上部にアーチがかかっていて,リュネットとアーチ下部にやはりフレスコ画があり,アーチ下部の場合は真ん中にメダイオン,その両側に凸型の枠があって,それぞれフレスコ画が描かれている.
これらが全体として「聖ヤヌアリウスの物語」になっていることは,諸解説等を参考に分かるが,肝心の撮って来た写真が,中央祭壇のアーチ下部以外は絵柄が分かるようには撮れていなかった.中央祭壇のリュネットにあたる部分は窓になっていて,フレスコ画はない.
ドメニキーノとリベーラによるヤヌアリウスの物語の祭壇画
ヤヌアリウスの伝記,伝説は『黄金伝説』には無いが,古いものは古代末期まで遡る文書に記載されているとのことだ.それらを総合した聖人伝承に拠れば,ベネヴェントでサムニテス人の血を引く貴族の家に生まれ,15歳で教区司祭となり,20歳でナポリ司教となった.
ディオクレティアヌスの迫害に際して,多くの信者を助けたが,捕らえられたミセヌムの助祭
ソッシウス
を牢獄に訪ねた際に自身も捕縛された.ポッツォリの円形闘技場で熊の前に投げ出されたが,熊が襲い掛かるのを拒み,次には焼死するように炉に投ぜられたが,無傷のまま出てきて,最後はポッツォリ近郊の
ソルファターラ
と言う噴火口の近くで斬首されたとのことである.
殉教の日は305年の9月19日とされるので,3世紀に生まれ,4世紀初頭のまもなくキリスト教が公認される時期に亡くなった人物ということになる.
中央祭壇のアーチ下の大きなメダイオンの絵は,「ポッツォリ円形闘技場のヤヌアリウス」で,熊ではなく,大人しくなっているライオンが描かれ,上部ではその様子を見守るキリストが天使に囲まれている.左右の凸型の枠には,「拷問されるヤヌアリウス」,やはり上記の所伝とは異なるように思われるが,「フェストゥスとデシデリウスの牢獄を訪ねる司教姿のヤヌアリウス」(伊語版ウィキペディア)が描かれている.
堂内にある青銅彫刻の多くは,中央祭壇の「聖ヤヌアリウス座像」をはじめ,カッラーラ出身で,巨匠ジャン=ロレンツォ・ベルニーニの弟子
ジュリアーノ・フィネッリ
が制作している.彼の作品はフィレンツェのカーザ・ブオナッローティで,ミケランジェロの甥の息子
ミケランジェロ・イル・ジョーヴァネ
の胸像を見ている.
コジモ・ファンザーゴなど他の彫刻家の作品もあり,さらに複数見られるナポリの守護聖人たちの銀製胸像は,ナポリでは名のある彫刻家,
ロレンツォ・ヴァッカーロ
,
ジュゼッペ・サンマルティーノ
,
アンドレア・ファルコーネ
,
フランチェスコ・チタレッリ
の作品とされる.
正直なところ,ナポリで見たバロック以降の彫刻で,レヴェルが低いと思われるものは一つとしてないように思われ,一方で,どの彫刻が特に優れたものであるのかは,私には判断がつきかねる.
以上,サン・ジェンナーロ礼拝堂で観ることができた芸術作品を分かる範囲で整理して見たが,ドメニキーノ,ランフランコが関わっていたことを知った上でも,リベーラの「炉から無傷で生還したヤヌアリウス」が最も印象に残った.
カラヴァッジョの影響の痕跡を排し,明るい色彩で,ドメニキーノなどボローニャ派を意識して描いたのかも知れないが,本人に画力があるので,目をひく作品になっているのだろう.ヤヌアリウスの黄色い司教冠と,生還した聖人が見上げる青い空の対比が見事だ.
中央祭壇の前部装飾に用いられている,銀製浮彫「モンテヴェルジネからナポリへの聖遺物の移送」も立派だった.工芸の伝統があってできるのであろうが,
ジョヴァン=ドメニコ・ヴィナッチャ
という17世紀のナポリでは名のある彫刻家で建築家だった芸術家の仕事だ.
描かれているのは1484年から1503年までナポリ大司教だった
アレッサンドロ・カラーファ
が騎馬で聖遺物を移送している様子で,海の方にあるナポリの方向を示すための寓意的表現ではあるが,三叉の矛を持った海神が左側に横たわっている.
カパーチェ・ミヌートロ礼拝堂
最後に,
カパーチェ・ミヌートロ礼拝堂
に残る中世,ルネサンスの芸術を紹介してナポリ大聖堂の報告の締めくくりとしたい.
おそらく1301年に亡くなったナポリ大司教フィリッポ・ミヌートロの墓所として,当時まだ建設途上だった大聖堂に増築され,結果として現在の大聖堂の中で最も古い礼拝堂となり,ナポリのゴシックを後世に伝えている.
ボッカッチョ『デカメロン』(十日物語)の第二日第五話に,このナポリ大司教フィリッポ・ミヌートロの名前が出てくる.
ペルージャのアンドレウッチョという若者が,異母姉を名乗るシチリア出身の女性に騙されて,馬を買い求める資金を奪われ,偶然出会った2人の男に墓泥棒の共犯者になるように誘われ,自暴自棄に陥っていた彼はそれを引き受けてしまう.
彼らが狙ったのが,その日大聖堂に埋葬されたフィリッポ・ミヌートロの墓だった.アンドレウッチョが棺の中に入り,笏杖や宝冠は仲間に渡したが,高価なルビーの指輪は,自分の物にしてしまおうと渡さなかったところ,仲間は蓋を閉めて逃げてしまった.
棺の中で飢えと腐臭に苦しみながら死んでしまう恐怖と,発見されて盗賊として縛り首になる恐怖に怯えていたが,別の墓泥棒がやってきて蓋を開けようとしたチャンスを活かして逃げおおせ,指輪を持ってペルージャに帰った(河島英昭訳の講談社文芸文庫を参照した).
この話に登場する棺にしては,蓋が中から開けられないほど重いだろうかと疑問に思うほど小さ目の石棺が今も礼拝堂にある.一番奥の向かって右側の壁面に沿わせて置かれた,後期ゴシックの大きな墓碑に比べれば小ぶりな石棺,それが枢機卿でもあったナポリ大司教フィリッポ・ミヌートロの棺とされる.
長い側面にはコズマーティ様式の装飾が施され,礼拝堂の奥までは入れないので,顔の確認はできないが,大司教本人の横たわる姿(ジサン)のほぼ丸彫りに近い高浮彫がある.
これがボッカッチョが墓泥棒の対象として物語ったのと同じ棺かどうかは別にして,制作はフィレンツェ大聖堂を設計したゴシックの大芸術家アルノルフォ・ディ・カンビオの影響を受けた彫刻家で,
ピエトロ・ディ・オデリージオ
に比定されるが,確証はない(伊語版ウィキペディア).
アルノルフォはトスカーナの芸術家だが,ローマにも傑作を残しており,ピエトロはローマで活躍した芸術家であるから,アルノルフォの死が1302年,ピエトロのローマでの活躍が1276年から85年までは確認できるということなので,であれば,フィリッポ・ミヌートロが亡くなった1301年に,ピエトロもしくは他のアルノルフォの追随者が制作した可能性は無いとは言えない.
実物を見たことはないが,ピエトロがヴィテルボの
サン・フランチェスコ・アッラ・ロッカ聖堂
に遺した教皇クレメンス4世の墓碑,
ウェストミンスター修道院教会
に残るヘンリー3世の墓碑には長側面にコズマーティ装飾が施され,その意味では共通点はある.
アルノルフォの名前からコズマーティ装飾への連想がすぐには働かなかったが,彼のコズマーティ装飾を見ていることを思い出した.2018年夏のオルヴィエート行で,残存断片の組み合わせ復元だが,サン・ドメニコ教会にある「
枢機卿ギョーム・ド・ブレの墓碑
」(1282年)を初めてじっくり見ている.
ヴィテルボのサン・フランチェスコ・アッラ・ロッカ聖堂にある「教皇ハドリアヌス5世の墓碑」もアルノルフォの作とされ,そこにも華やかなコズマーティ装飾が施されている.
アルノルフォ・ディ・カンビオは現在はローマのカピトリーニ博物館に展示されている「ナポリ王カルロ1世(シャルル・ダンジュー)」の
全身坐像
の作者とされており,ナポリと無縁であったわけではない.トスカーナ出身の彼の影響をローマで受けた誰かがナポリ大聖堂の礼拝堂に葬られたフィリッポ・ミヌートロの棺を制作し,それが,フィレンツェ人だが,若いころナポリで活動したルネサンス文学の巨匠ボッカッチョの『デカメロン』で墓泥棒の物語の題材になったというのは,中世からルネサンスのイタリア文化を考える上で大変興味深い.
フィリッポ・ミヌートロの棺とは反対側の,向かって左側の壁面に沿わせる形で,1330年頃にサレルノ大司教だったオルソ・ミヌートロの棺があり,形はフィリッポのものと似ており,高浮彫のジサンの彫刻が施された蓋,棺の正面にあたる長側面には3つのメダイオンがあり,それぞれ中央には聖母子,左はペテロ,右はパウロと思われる聖人が掘り込まれ,彩色が施されている.
ラテン語墓碑銘からオルソもしくはウルソ(ラテン語ではウルスス)という名で,フィリッポの一族であることはわかるようだが,その他は生年も両親の名もわからない(伊語版ウィキペディアには立項されておらず,
他のページ
からの情報)ようだ.棺の作者の名前も情報がない.
この2つの石棺に挟まれるように,中央にエンリコ・ミヌートロの大きな墓碑があり,15世紀初頭の作品で,ローマで制作されたか,ローマの職人がナポリで制作したか,石造の大きな構築物なので,組み立てたのでなければ後者であろうが,いずれにせよローマの職人が制作にかかわったというのが,ほぼ唯一の情報で,作者が誰かは分からない.
4体のスティローフォロ(「ロマネスク様式教会の柱などを支える動物の彫刻」『伊和中辞典』)のライオンの上にそれぞれねじり柱があるが,既に中世の華やかなヴァッサレット風ではないが,植物文様が織り込まれた凝ったつくりで,柱頭にはロマネスク風の彫刻が施され,その柱に支えられたゴシック風の天蓋が棺を蓋っている.
柱頭に乗っている天蓋の両脇には,二段になった聖人たちの浮彫のある飾り柱があり,その2本の飾り柱の先端にはそれぞれ,受胎告知の天使と聖母の彫刻がある.
天蓋の正面には三角破風があって,その頂点には祝福するキリスト,その下には,天使の浮彫に支えられた,赤い楯に白と銀の鎧をまとったように見える後足立ち(ランパン)のライオンが描かれたミヌートロ家の家紋が描かれている.また天蓋の頂点には聖母子の立像が置かれている.
棺台の正面には祭壇を囲む仏画のような線描のアーロンとザカリアが描かれ,棺本体を両側で支える柱として,忍耐と自愛の寓意女性像があり,棺の正面(長側面)中央には「ご降誕」,両脇にはそれぞれ2人の聖人の浮彫があるが,右側はペテロとヤヌアリウス,左側はエンリコを(キリストに)紹介するヒエロニュムスとアナスタシアである.さらに棺の下には,聖母子を中心とする左右に6人ずつの聖人の浮彫が施されている.
棺本体の蓋として横たわるエンリコの像あり,それには屋根がかけられているが,そこから垂れ下がる幕を2人の天使が開けている.屋根の上には磔刑のキリストと聖母,福音書記者ヨハネの像がある.
これが優れた作品かどうかはわからないが,彩色が施されていることもあり,華やかで見応えがあり,中に入れない礼拝堂の中にあるとは言え,遠くからでも見入ってしまう.
前回報告したバボッチョをナポリに呼び寄せたエンリコの墓碑が,バボッチョ作ではなく,名前が伝わらない職人集団の工房作品らしいことは皮肉な感じもするが,ボローニャで亡くなったエンリコがナポリ大聖堂に埋葬され,立派な墓碑も建ててもらったのだから,もって瞑すべしだろう.
この礼拝堂に残る絵画遺産として最も重要なのは,おそらく
モンターノ・ダレッツォ
作とされる「使徒たちの物語」のフレスコ画断片であろう.
ヨリオは「チマブーエの新しい画法を南イタリアに伝えた」(p.38)と言っている.伊語版ウィキペディアにあるフレスコ画断片「磔刑のキリスト」の写真を見ると,確かに身をよじるキリストの姿形は,アレッツォのサン・ドメニコ教会に残るチマブーエの彩色磔刑像を思わせる.チマブーエが影響を受けたであろうジュンタ・ピザーノにも似ているように思われる.それらに比べると新しい要素もあるように思われ,ピエトロ・カヴァッリーニやジョットの影響もあるかも知れない,と想像が膨らむ.
しかし,残念なことに私はこのフレスコ画断片に現場で注意を払うことがなかった.明らかにシエナ派を思わせる三翼祭壇画があり,そちらの写真を遠くて斜めの確度にもかかわらず,何枚が写真を撮っているのに,そのすぐ上にあったはずのこのフレスコ画断片の写真を撮っていない.
ナポリ大聖堂でさまざまなものを見落としているが,レッロ・ダ・オルヴィエート作とされるフレスコ画を見ていないこととともに,これが最大の痛恨事であろうと思われる.同じ画家に帰せられるその他の場面,「使徒たちの殉教」,「ドミネ・クォ・ヴァディス(主よ,何処へ)」の場面の写真はかなり無理な角度から障害物にもめげずにとっているのに,大変悔やまれる.
記録があるのであろう,彼の芸術的キャリアの形成は,1280年からアッシジの上部教会から始まったとされる.上部教会の「聖フランチェスコの物語」をジョットが描いたかどうかは今後も議論が続くように思われるし,個人的にはジョットの作品とは思えないが,チマブーエやヤコポ・トッリ―ティに帰せられるフレスコ画も残っており,ピエトロ・カヴァッリーニとジョットに代表されるローマとトスカーナの芸術家が影響しあった場所である可能性は高い.
そこで,たとえ助手的な役割であったとしても,共に仕事をした画家が草創期のナポリ大聖堂で,大司教一族の墓所となる礼拝堂にフレスコ画を描いたのであれば,壮大なロマンを感じないではいられない.モンターノのフレスコ画はやはりナポリのサン・ロレンツォ・マッジョーレ聖堂にも残っており,ピンボケだが写真は撮ったので,可能なら同聖堂について報告する際に考察してみたい.
モンターノの「キリストの磔刑」のすぐ下にあった三翼祭壇画の作者は
パオロ・ディ・ジョヴァンニ・フェイ
(以下,フェイ)とされる.1345年から1411年の生涯(伊語版ウィキペディア)なので,ゴシックよりも既に国際ゴシックからルネサンスの時代のシエナ派の画家である.
影響を受けたと考えられているシモーネ・マルティーニは1344年,リッポ・メンミは1356年が没年なので,直接の師匠とは考えにくく,
バルトロ・ディ・フレーディ
の弟子と考えられている.
フェイの三翼祭壇画は,真ん中が磔刑のキリストとその背後に父なる神と聖霊を表す鳩なので「聖三位一体」が主題で,十字架の(向かって)右側に聖母,左側に福音史家ヨハネ,十字架の足元にマグダラのマリアがいる.父なる神は熾天使に囲まれたマンドルラの中におり,上部にはキリストの自己犠牲を象徴するペリカンが描かれている.
左側のパネルには
巡礼者ニコラウス
と
聖アナスタシア
,右側のパネルには洗礼者ヨハネとトゥールーズの聖ルイが描かれており,中央尖端部には「全能のキリスト」,左右の尖端部にはそれぞれ天使と聖母が描かれ,「受胎告知」になっている.
地味だけれども美しく端正な祭壇画だが,祭壇画といいながら,奥行きの深い礼拝堂の側壁に置かれ,礼拝堂の中に入れないようになっていたので,正面から見ることはできず,斜めの角度からズームして撮った写真と伊語版ウィキペディアの写真が記憶の助けになる.
ゴシックの遺産が残っている他の教会も含めて,一般にナポリのゴシックは,アンジュー家の王族と彼らの周辺の貴族,聖職者の墓碑,多くは剥落してしまっている武骨なフレスコ画の断片に依拠して現在のイメージが形成されているように思われる.その中にある,シエナ派のほぼ完璧な三翼祭壇画は目を引く.フェイは華麗なシエナ派の画家たちの中で,最高水準ではないだろうが,一流の画家だし,彼の祭壇画が美術館,博物館ではなくナポリ大聖堂の一画に残っているのは慶賀すべきことだと思う.
奥の1つの墓碑,左右2つの石棺のそれぞれ後ろの壁面にもフレスコ画が残っているが,15世紀の氏名不詳の画家の作品で,オルソ・ミヌートロの石棺の後ろの壁面は「玉座の聖母子とカタリナ,アナスタシア」で,その上は窓,フィリッポ・ミヌートロの石棺の後ろの壁面にはフレスコ画が残っておらず,その上はやはり窓になっている.
エンリコ・ミヌートロの墓碑の後ろには,それぞれ上下4場面のフレスコ画が2列あって,それぞれ上から,左側が「最後の晩餐」,「キリスト捕縛」,「キリストの鞭打ち」,「キリスト磔刑」,右側が「ゲッセマネの祈り」,「見よ,この人なり」,「カルヴァリオの道」,「キリスト復活」が描かれている.
上手な絵ではないが,ほぼ絵柄がほぼ読みとれるくらいきれいに残っているので,ゴシックの時代に他地域から名を成した芸術家を招いたナポリだが,地元の先人の技が見られる貴重な遺産であるかも知れない.
カパーチェ・ミヌートロ礼拝堂は,墓碑,棺が置かれている奥の間と,その前室とも言うべき,床にコズマーティ装飾が施された空間が,それぞれリブ・ヴォールトの天井に覆われている.それぞれリブで区切られた四面に(計八面)を始めとして,前室部分にもモンターノの作品以外に断片的なフレスコ画が残っている.
中でも,「ミヌートロ家の騎士たち」と通称される,鎧をまとった男たちのフレスコ画断片は14世紀の作とされ,興味深いし,他にもじっくり鑑賞するのに耐える絵も複数ある.
とはいえ,にわか勉強ではこれを全て理解することは難しいし,そもそも前室部分にも入ることは禁じられており,注目度の高いフレスコ画,祭壇画,墓碑,石棺は,距離的に遠い奥にあったり,正面から見られない角度の壁面にあったり,そもそも,見えない部分にあったりで,全体を自分の目で把握するのは無理だと思う.
不全感は残るが,この礼拝堂に関する整理,報告はここまでとし,合わせてナポリ大聖堂に関する報告もここまでとする.次回は,サン・ドメニコ・マッジョーレ聖堂について整理する.
エンリコ・ミヌートロの墓碑
カパーチェ・ミヌートロ礼拝堂