フィレンツェだより 第2章「備忘録」
2019年8月16日



 




「浄罪界の霊たちに現れた聖母子と
フランチェスコとキアラ」
バッティステッロ



§ナポリ行 その11 カポディモンテ美術館 その4

カポディモンテで最も魅力的な展示は,個人的に好きなシモーネ・マルティーニ,マゾリーノを除けば(マザッチョについては保留),間違いなく,ティツィアーノの諸作品,アンニーバレ・カッラッチを中心とするボローニャ派,たった1点あるカラヴァッジョ,そして,それらの影響を受けたナポリ派絵画であろう.


 これらの作品の幾つかは,2010年の上野の国立西洋美美術館の「カポディモンテ美術館展」にも来ていた.改めてその図録(以下,『図録』)を確認し,自分が興味ある画家をピックアップすると,ボローニャ周辺の画家に関しては以のようになる(題名と制作年は基本的に『図録』に拠る).

 アンニーバレ・カッラッチ  「聖エウスタキウスの幻視」  1585年頃
 同  「リナルドとアルミーダ」  1601-02年
 アゴスティーノ・カッラッチ  「毛深いアッリーゴ,
 狂ったピエトロと小さなアモン」
 1598年頃
 フランチェスコ・アルバーニ   「栄光の聖エリザベト」  1603-04年
 バルトロメオ・スケドーニ
(モデナ出身)
 「エッケ・ホモ」  1608-10年頃
 同  「キューピッド」  1610-12年頃 
 シスト・バダロッキオ
(パルマ出身)
 「悔悛するマグダラのマリア」  
 同  「祈る聖ペテロ」  1629年頃
 グイド・レーニ  「アタランテとヒッポメネス」  1622年頃
 ジョヴァンニ・ランフランコ
(パルマ出身)
 「聖母子とエジプトの聖マリア,
 アンティオキアの聖マルゲリタ」
 1620-21年頃


 特別展の鑑賞記を読み返すと,中でもアンニーバレ・カッラッチの「リナルドとアルミーダ」,ランフランコの「聖母子とエジプトの聖マリア,アンティオキアの聖マルゲリタ」を比較的高く評価しており,この頃,既に好みが固まりつつあったことが確認できる.今はさらに高く評価しているのは言うまでもない.

 この中からカポディモンテで再会した2つの作品を手始めに話を進める.


グイド・レーニ
 レーニの「アタランテとヒッポメネス」(1620-25年頃)は,上野の特別展の目玉作品だったが,当時も今回もそれほど深い感銘は受けなかった.それでもこの報告を書くにあたって,図録の解説を読みながら写真で細かく見ていくと,確かに躍動を瞬間に凝縮した優れた作品だという認識を持つに至った.

 せっかく,カポディモンテでもじっくり見たのに,広大な傑作の森の中で,少し気が急いていたのかも知れない.

 ほぼ同じ構図の絵がプラド美術館にある.『図録』に拠れば,制作年代はプラドの作品(1618-19年頃)が早く,大きさもプラドの作品が大きいが,どちらが優れた作品かは諸説あるとのことだ.

写真:
「アタランテと
ヒッポメネス」
(部分)
グイド・レーニ


 レーニは短期間ナポリに滞在したことがあるが,「アタランテとヒッポメネス」も,現在カポディモンテにある「四季の寓意」も,いずれもナポリで描かれたものではなく,ローマで様々な人に所有されていたのを,1802年にドメニコ・ヴェヌーティと言う人物が,ナポリ王家であったスペイン・ブルボン家のために購入した.

 この時代のナポリは激動期で,1759年に8歳でナポリ王に即位したフェルディナンド1世(※)が,1799年にフランス革命の影響で「ナポリ共和国」が成立したことにより,一旦退位を余儀なくされる.(※「1世」は後に王位につく「両シチリア王」としての呼称で,ナポリ王としてはフェルディナンド4世)

 その後,フェルディナンドが短期間復位したが,彼が第3次対仏大同盟側につき,アウステルリッツの三帝会戦で,ナポレオンが勝利を収めると, 1806年から08年まで,ナポレオンの弟ジョゼフがナポリとシチリアの王になった.その後も1815年のナポレオン完全失脚までナポレオンの義弟ジョアシャン・ミュラ(ジョアッキーノ・ムラート)がジョアッキーノ1世として王位にあった.

 1802年はフェルディナンドが短期間復位していた時期にあたる.


ランフランコ
 ボローニャ周辺の出身で,実際にナポリで仕事をしたのは,ランフランコと,ドメニキーノである.ドメニキーノはナポリ大聖堂のサン・ジェンナーロ国王礼拝堂で大きな仕事をしており,彼の死後ランフランコが完成させているが,それに関しては大聖堂について報告する時に考えたい.

 ランフランコは足掛け13年もナポリで仕事をしたので,ナポリ絵画に影響を及ぼさなかったはずはない.後述するカラヴァッジョと並んで,ナポリに北イタリアの芸術文化を伝えた最重要人物の一人と言って良いだろう.

 しかし,再会した「聖母子とエジプトの聖マリア,アンティオキアの聖マルゲリタ」は,もともとパルマのサンタ・チェチーリア教会で,エジプトの聖マリアの聖遺物を保管した祭壇のために描かれ,ファルネーゼ家のパルマ公爵フランチェスコ1世が1710年に購入し,他の作品と共に1734年から36年にパルマからナポリに移され,長い間ナポリのサンティ・セヴェリーノ・エ・ソッシオ教会にあり,第二次世界大戦後,カポディモンテに収蔵,展示されるようになった(『図録』)ので,この作品は同時代的にはナポリの芸術に影響を与えたものではない.

 他にカポディモンテにはランフランコの作品として「マグダラのマリアの被昇天」,「天使に給仕されるキリスト」,「魂の救済」があるが,いずれもローマでファルネーゼ家のために描かれた絵のようで,これも同時代的にナポリで影響力を持ったものではないだろう.

 ランフランコがナポリでした仕事として,ナポリのイエズス会のジェズ・ヌオーヴァ教会のクーポラとペンデンティヴ,前述のサン・ジェンナーロ国王礼拝堂,サンティ・アポストリ教会の堂内フレスコ画,カルトジオ会のサン・マルティーノ・チェルトーザ修道院教会の天上フレスコ画が挙げられる.

 私が見たのはサン・ジェンナーロ国王礼拝堂だけで,しかも,ここは多くがドメニキーノの仕事である.

 それに,近郊のポッツォリ大聖堂の複数の作品を除けば全てフレスコ画で,カンヴァス画はない.ランフランコのフレスコ画なら,以前,ローマのサンタンドレーア・デッラ・ヴァッレ聖堂で既に見ているし,その後のナポリ派への影響があるならば,カンヴァス画だと思うので,今一つピンと来ない.

 しかし,これらのフレスコ画の仕事を通じて,マッティア・プレーティ,ルーカ・ジョルダーノ,フランチェスコ・ソリメーナに影響を与えたとする考え(英語版ウィキペディア)もあるようなので,とりあえず,そのように考えておくこととする.


カラヴァッジョとその影響
 ランフランコの影響も重要だったかも知れないが,ナポリの画家たちにそれ以上の影響を与え,その痕跡が素人目にも明らかなのが,カラヴァッジョである.

 彼のナポリ滞在は,殺人を犯したローマから逃亡した1606年から1607年,その後,保護され騎士に叙任されたマルタ島でトラブルを起こし,シチリア経由で逃亡して来た1609年から1610年のそれぞれ数か月だ.

写真:
「キリストの笞打ち」
カラヴァッジョ


 現在カポディモンテに展示されている「キリストの笞打ち」は,最初のナポリ滞在時に,サン・ドメニコ・マッジョーレ聖堂のために描かれ,かつてはそこに飾られていた.

 既にローマで名声を確立し,多くの追随者がいたとはいえ,ナポリで初めてこの絵を見た人は驚き,画才のある者はこのような絵を描いてみたいと思ったことだろう.その中にナポリの地元の画家ジョヴァンニ=バッティスタ・カラッチョーロ(以下通称の,バッティステッロ)もいたであろう.

 ピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディア教会には,カラヴァッジョの「慈悲の七つの行ない」が残されており,同じ空間にバッティステッロの「聖ペテロの解放」もある.それらについては教会篇で紹介するつもりだが,カラヴァッジョの模倣が成功した絵だと思う.ナポリで生まれ,ナポリで亡くなった「地元の画家」である.

 『図録』には,ナポリで活躍した画家の作品として以下が掲載されている.

 バッティステッロ  「カルヴァリオの丘への
 道行き」 
 1620-23年
 同  「ヴィーナスとアドニス」  1632年頃
 フセペ・デ・リベーラ  「悔悛するマグダラのマリア」  1618-23年
 《羊飼いへのお告げ》の画家  「放蕩息子の帰宅」  1635-40年
 アルテミジア・ジェンティレスキ   「ユディトとホロフェルヌス」  1612-13年
 マティアス・ストーメル  「羊飼いの礼拝」  1637年頃
 同  「エマオの晩餐」  1633-37年頃 
 マッシモ・スタンツィオーネ  「聖アガタの殉教」  1625年頃
 フランチェスコ・グァリーノ  「聖アガタ」  1641-45年頃
 ベルナルド・カヴァッリーノ  「聖カエキリアの法悦」  1645年
 同  「歌手」  1645年頃
 マッティア・プレーティ  「聖ニコラウス」  1653年
 同  「ユディト」  1653-54年
 ルーカ・ジョルダーノ  「給仕の少年を助ける
 バーリの聖ニコラウス」
 1655年
 同  「眠るヴィーナス,
 キューピッドと サテュロス」
 1663年
 フランチェスコ・ソリメーナ  「自画像」  1720年頃


 最後のソリメーナは多分,カラヴァッジストだったことはないように思うが,「ナポリ派」という画派があるとすれば,それを総括するのは間違いなく彼であろう.

 ルーカ・ジョルダーノはカラヴァッジストだったこともあり,1655年の作品には少なくともその痕跡はあり,1663年の作品も味方によってはまだテネブリズムを脱し切っていないかも知れないが,おおむね華やかな色彩に焦点があるように思える.カラヴァッジズムは1650年くらいまでの流行と考えて良いであろうか.

 特別展に展示された作品の制作年代を見ても,プレーティの2つの絵はテネブリズムが支配的で,ジョルダーノの2つの作品は既にテネブリズムを脱却しており,ともに2作のうち1作は聖ニコラウスを描いているだけに,1650年代に流行の分岐点があるという趣旨の展示だったかも知れない.


「ナポリ派」
 今回の報告では「ボローニャ派」の影響と,「ナポリ派」の繁栄について書くことになっていたが,たった2回カポディモンテを観ただけでその全容を理解することなどできるはずもない.特に前者に関しては,カポディモンテで見られる「ボローニャ派」の作品が,ナポリで描かれたものではないだけに,特に根拠が薄弱になってしまう.

 一方,後者に関しては,ドメニキーノとランフランコが蒔いた種は表面に現れないとしても,カラヴァッジョがナポリで描いた絵が展示されており,見るも明らかな影響がカポディモンテの展示作品の相当数に現れているので,「ナポリ派」に関しては,カポディモンテでかなりのことが学べる.

 しかし,美術館では,「学ぶ」ことよりも体感することが肝要だろう.

 カポディモンテの「ボローニャ派」の展示は,やはりファルネーゼ家との関係であろうが,パルマなど北イタリアから来た見事な作品が多い.特にパルミジャニーノ関しては,カポディモンテ所蔵の諸作品を抜きにして語ることはできないだろう.

 では,カポディモンテで見られる「ナポリ派」の作品はどうだろうか.『図録』に,

 ニコラ・スピノザ,渡辺晋輔(訳)「バロック期のナポリ絵画」(以下,スピノザ)

という論文が掲載されており,有益な情報が得られる.これを参考にしながら整理すると,重要な画家として,

 カルロ・セリット(1581-1614)
 バッティステッロ(1578-1635)
 フセペ・デ・リベーラ(1591-1652)
 《羊飼いへのお告げ》の画家
 マッシモ・スタンツィオーネ(1585-1656)
 アルテミジア・ジェンティレスキ(1596-c.1656)
 マッティア・プレーティ(1613-1699)
 ルーカ・ジョルダーノ(1614-1705)
 フランチェスコ・ソリメーナ(1657-1747)

が挙げられる.ほかに,ナポリの諸方で作品を観ることができるアンドレア・ヴァッカーロ,フランチェスコ・フラカンザーノ(フラカンツァーノ),特別展にも作品が来たフランチェスコ・グァリーノ,ジョヴァン=フランチェスコ・デ・ローザ(通称パッチェッコ),ベルナルド・カヴァッリーノ,フィリッポ・ヴィターレがいる.

 ナポリで生まれ,ナポリで死んだ地元の画家セリットは,若くして亡くなったので,活動期間は短かったが,ナポリの最初期のカラヴァッジストであり,マニエリスムからバロック的自然主義の画風への道をひらいた.東京の特別展には作品は来なかったが,カポディモンテには「聖カルロ・ボッロメーオ」,「オルガンを奏する聖カエキリア」があり,後者は観ることができた.

写真:
バッティステッロ
「エッケ・ホモ」


 バッティステッロはナポリで生まれ,ナポリの画家ファブリツィオ・サンタフェーデに学んだ.サンタフェーデは「ナポリのラファエロ」と称された(伊語版ウィキペディア)画家で,1626年まで生きるので,彼自身もカラヴァッジョの影響を受け,カラヴァッジョが祭壇画を描いたピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディア教会に2点の祭壇画(「マルタの家のキリスト」,「タビタを蘇生させる聖ペテロ」)を描いている.カポディモンテでも「牧人礼拝」が見られる.

 バッティステッロの絵は,カラヴァッジョ風の明暗画法が顕著なので,そこに注目されることが多い.2001年の庭園美術館のカラヴァッジョ展に展示された「眠るアモル」(パレルモ,シチリア州立美術館,1610年頃),「ゴリアテの首を持つダヴィデ」(ボルゲーゼ美術館,1612年頃),2016年の西洋美術館のカラヴァッジョ展に展示された「聖家族」(コゼンツァ国立博物館,1610年代後半?)などは当然カラヴァッジョの追随者の作品として日本に来た.

 一方で,彼は,1614年にローマに滞在し,1618年にジェノヴァ,フィレンツェを訪れ,再度ローマに滞在した.特に,ローマでカッラッチ一族の作品の影響を受け,特にアンニーバレ・カッラッチの古典主義的で端正な画風を学んだと思われる.

 カポディモンテでは「エッケ・ホモ」(1610年頃),「カルヴァリオへの道」(1620-22年頃),「パドヴァの聖アントニウスの奇跡」(1622年),「エジプト退避行の際の休息」(1622-25年頃),「浄罪界の霊たちに現れた聖母子とフランチェスコとキアラ」(1625年頃)を観ている.

 東京の特別展に来た「ヴィーナスとアドニス」(1631年頃),ウーティリの案内書に掲載され,伊語版ウィキペディア作品一覧にも挙げられている「柱に縛り付けられキリスト」(1630年以後)はカポディモンテで見ることはできなかった.

 「エッケ・ホモ」はカポディモンテのプレートには1610年頃となっていたが,スピノザは1615年以前,伊語版ウィキペディアは1620-25年頃,ウーティリは1620年代の作品としており,1614年のローマ滞在以前の作品かどうか意見が分かれるようだ.

 それでもカポディモンテで見られる諸作品は概ね,それ以後のカラヴァッジョのみなならず,アンニーバレ・カッラッチなどの「ボローニャ派」の影響も受けた作品と考えられているのであろう.

 具体的にどこにアンニーバレの影響があるのかどうか,今後も理解できるかどうか分からないが,今後,ナポリのカラヴァッジェスキの絵を観る時は,なるべく「ボローニャ派」を意識しながら,観るようにしたい.

写真:
フセペ・デ・リベーラ
「アポロと
マルシュアス」


 フセペ・デ・リベーラに関しては,今まで多くの作品を観て,ほとんどの作品が自分の好みにあうものと思ってきたが,カポディモンテにある彼の作品は「アポロとマルシュアス」,「聖ヒエロニュムスとお告げの天使」が印象に残るくらいで,これまで観てきた作品以上に傑作であると思うことは無かった.

 しかし,現代風に言えばスペイン人であるバレンシア出身の彼の活躍の場が主としてナポリであったことには思いを致すべきであろう.

 スピノザは,リベーラがナポリの画家ベルナルド・アッツォリーノ(ジョヴァンニ=ベルナルディーノ・アッツォリーニ)の女婿となったことを教えてくれる.アッツォリーノはチェファルーの生まれなので,シチリア人であるが,ナポリで活躍し,ナポリで亡くなった.ジェノヴァの名門ドーリア家の愛顧を得て,同地でも活躍したので,当時としてはローカルを超えた画家であったようだ.

 カポディモンテではアッツォリーノの作品を観ていない(ウーティリの案内書にも掲載されていない)が,当時多くの宗教画の受容を生み出していたナポリの諸教会に作品を遺しており,カラヴァッジョが祭壇画を描いたピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディア教会でその一つを観ている.

 「奴隷を解放するノラのパウリヌス」というタイトルのこの作品は,ボルドー出身の4世紀の聖人の事績を描いたもので,古代後期に関心のある私にとっては興味深い画題だが,実はあまり印象に残っていない. 1620年代後半に描かれたと考えられているこの絵は長い間カルロ・セリットの作品とされていた(伊語版ウィキペディア)とのことだ.

 セリットの死が1614年なので,制作年代も推測の域を出ないと思われるが,9歳年長のアッツォリーノの死は1645年だから,マニエリスムの画家と考えられているアッツォリーノもカラヴァッジョの影響は間違いなく受けたのであろう.



 レオナルドの到来以前のロンバルディアには,もちろん独自の絵画伝統があったが,それを前提としつつ,レオナルドの追随者たち,レオナルデスキが輩出し,ルネサンス期のミラノを中心とするロンバルディアに新しい芸術が花開いた.

 カラヴァッジョが来る前のナポリにも,ルネサンス,マニエリスムの絵画伝統が独自の形で繁栄していた.カラヴァッジョの影響が開花する基盤は勿論,この時に形成されていた.マニエリスムのナポリ芸術を支えていたのが,ファブリツィオ・サンタフェーデ,ジローラモ・インパラート,ルイージ・ロドリゲス,イッポリート・ボルゲーゼで,彼らの作品はほぼ1点ずつくらいだが,カポディモンテで見ることができる.

 カラヴァッジョがローマでその工房にいた(1593-94年)ことがあり,多少以上の影響関係もあったと思われる「アルピーノの騎士」(カヴァリエール・ダルピーノ)ことジュゼッペ・チェーザリもまたナポリに滞在(1588-89年)し,影響を与えたようだ.カポディモンテには彼の工房作品とされる「ゲッセマネの祈り」が展示されている.

 カラヴァッジョ以前に,ジョルジョ・ヴァザーリ,マルコ・ピーノ,ジュゼッペ・チェーザリ,ジョヴァンニ・バルドゥッチがトスカーナやローマのマニエリスムの影響をナポリに齎し,芸術の新しい胎動が生まれるのに十分なほど土壌が熟成していた時にカラヴァッジョが到来したのだ,と思いたい.

 話をリベーラに戻すと,もともと1591年にバレンシア(バレンシア語ではヴァレンシア)近郊のハティバ(シャティヴァ)で生まれ,バレンシアで,カラヴァッジョの影響を受けていたフランシシコ・リバルタに学んで,1611年にはパルマ,1612年にはローマにおり,ホントホルスト,テル=ブルッヘンなどユトレヒト出身のオランダ人カラヴァッジェスキと交流し,彼はイタリアで「ロ・スパニョレット」(小さなスペイン人)と呼ばれていた.

 1616年にナポリに移住し,同年アッツォリーノの娘カテリーナと結婚した.当時のナポリ王は1504年から,スペイン王が兼務し,国王の代理である総督(副王)が統治していた.シチリア王を兼ねるナポリ国王の復活は,1735年の,母がファルネーゼ家出身のスペイン・ブルボン家のカルロ7世(後にスペイン王カルロス3世)を待つことになる.

 リベーラは第3代オスナ公爵ペドロ・テリェス・ヒロンを始めとする歴代副王の愛顧を得て,ナポリで多くの仕事をし,副王政庁のスペイン人高官などが帰国の際に作品をスペインに持ち帰ったので,リベーラ自身はスペインに帰ることは無かったが,彼の作品のかなりの数が現在もスペインにある.

 こうした華やかな経歴の一方で,これは英語版ウィキペディアの情報で,そこでも確かな考察と1次資料による正確な情報をもとにした改稿が要求されている(2019年8月13日参照)が,リベーラは地元出身のバッティステッロ,ギリシア出身のベリサリオ・コレンツィオとともに「ナポリ三頭会」(Cabal of Naples)を形成し,ナポリ画壇を牛耳ろうとしたとする説もあるようだ.

 これに関しては,日本語版ウィキペディア「ドメニキーノ」にも「ナポリ派閥」と言う訳語で言及があり,「会」への言及はないが,3人のナポリ画家が嫉妬して起こしたとされる「事件」について,伊語版ウィキペディア「ドメニキーノ」にも言及がある.

 ナポリ大聖堂のサン・ジェンナーロ国王礼拝堂の装飾プロジェクトにグイド・レーニが招かれた時,コレンツィオが脅迫による妨害行為を行ない,後にドメニキーノがこの仕事を引き受けた時,誰が実行者かわからないが暴力を伴う脅迫が行なわれ,1641年に礼拝堂装飾が未完のままドメニキーノが亡くなったとき,遺族は彼が毒殺されたのではないかと疑ったとのことだ.

 しかし,そんなことにリベーラやバッティステッロが関わったとは思いたくない.同じ1641年に,バッティステッロが亡くなって,この「会」は消滅したらしい.

 よしんばリベーラにそうした負の部分があった(実行犯ではない)としても,「ナポリ派」の形成に彼が果たした役割は大きい.フランチェスコ・フラカンザーノ,ルーカ・ジョルダーノ,バルトロメオ・パッサンテ(スピノザに拠れば《羊飼いへのお告げ》の画家に同定されるかも知れない)が弟子筋とされる画家の中におり,シチリアのモンレアーレ出身だが,ナポリで活躍しパレルモで亡くなったピエトロ・ノヴェッリや,ナポリ派の巨匠の一人サルヴァトーレ・ローザもリベーラの影響を受けたとされる(英語版ウィキペディア).

写真:
マッシモ・スタンツィオーネ
「聖アガタの殉教」


 「ナポリ派」がカラヴァッジョの影響から本格的に開花したことを考えると,マッシモ・スタンツィオーネの重要性にも思いが至る.

 彼は1585年に,現在はナポリ都市圏地域に属するフラッタマッジョーレもしくは,カゼルタ県のオルタ・ディ・アテッラに生まれ,ナポリでファブリツィオ・サンタフェーデとバッティステッロに学び,1617年から30年までローマに滞在して,カラヴァッジョ,グイド・レーニ,アルテミジア・ジェンティレスキ,シモン・ヴーエの影響を受けた(伊語版ウィキペディア)とされる.

 カラヴァッジェスキの一人として知られるが,一方でボローニャ派の影響を受けて,端正で古典主義的な絵を描いたので,「ナポリのグイド・レーニ」と称されたと言われる.カポディモンテでは,

 「聖アガタの殉教」(1623-25年)
 「モーセの犠牲」(1628-30年頃)
 「ルクレツィア」(1630-35年頃)
 「聖母子」(1640年頃)
 「牧人礼拝」(1645-50年)

を観ることができたが,『図録』が触れ,ウーティリに美しい写真が掲載されている「獄中の聖アガタ」は見ていない.この作品は確かに,テネブリズムから脱却して,美しい色彩と端正な構図への志向が見られるように思える.

 スピノザがモノクロ写真で例示している「ピエタ」(サン・マルティーノ・チェルトーザ修道院,1638年)のような絵が見られれば,それについてより納得が行ったかも知れない.素人目にも,最後に写真を紹介するアンニーバレ・カッラッチの「ピエタ」から学んだのではないかと思われる,美しい裸体のキリストである.

 バッティステッロもリベーラも,カラヴァッジョだけでなく,「ボローニャ派」の影響も自分の作品に活かしたと言われているが,スタンツィオーネこそが,カラヴァッジョとボローニャ派を総合して,「ナポリ派」を繁栄させた芸術家なのではないかと,カポディモンテを観ただけの少々乱暴な印象だが,そう思うに十分なものがあった.

写真:
アルテミジア・ジェンティレスキ
「ユディトとホロフェルネス」


 スタンツィオーネが影響を受け,一緒に仕事もしたアルテミジア・ジェンティレスキは,トスカーナを出自とする家系に,自身はローマで生まれた.しかし,フィレンツェやロンドンでも活躍しながら,ナポリに仕事を求め,ナポリで亡くなった.

 カポディモンテで彼女の作品は「ユディトとホロフェルネス」(1612-13年頃),「受胎告知」(1630年),「斬り落とされたホロフェルヌスの首を前にするユディトと侍女アブラ」(1645-50年)の3点を観ることができた.

 1638年から42年にロンドンに滞在したのを除けば,1630年から死の1652年まで,彼女はナポリを本拠として活動した.これらの作品も,若い頃,自身が体験した性被害のトラウマを反映しているかも知れない「ユディトとホロフェルヌス」(フィレンツェのウフィッツィ美術館にも類似の作品がある)を除けば,ナポリ移住後の作品と言える.

 2017年5月ローマで観た「アルテミジア・ジェンティレスキ展」の図録に拠れば,「受胎告知」は記録上の確証はないが,ナポリのサン・ジョルジョ・デイ・ジェノヴェージ教会にあったと言い伝えられていたとのことなので,一応,ナポリで描かれた作品と考えて良いのだろう.

 ナポリで彼女がした大きな仕事としては,ポッツォリ大聖堂の祭壇画などが挙げられるが,ここでは,アルテミジアがナポリで,優れた画家たちと交流し,自己の画才を発展させながら,ナポリを終焉の地に選んだのだと想像するにとどめる.

写真:マッティア・プレーティ
「聖セバスティアヌス」


 アルテミジア同様にナポリの画家とは言い切れないが,やはりナポリに縁の深い画家としてマッティア・プレーティを挙げることができる.

 カポディモンテで観ることができた作品は,「バーリの聖ニコラ」(1653年),「放蕩息子の帰還」(1655-60年),「バルタザールの饗宴」(1653-59年),「アブサロムの饗宴」(1660-65年),「コンスタンティノープルの聖母子」(1656年),「聖セバスティアヌス」(1656-57年),「ユディトとホロフェルヌス」(1656年)である.

 この他に伊語版ウィキペディアの作品リストに拠れば,「洗礼者ヨハネ」(1656年頃),「サタンを追い払うキリスト」(1656年頃)があるはずだが,これらは見ていない.アルテミジアとマッティアに関しては,今後ともフォローして行きたい画家なので,今回はナポリでも画業を発展させたのだと想像するにとどめる.

 特に,カラヴァッジョの死の3年後の1613年に生まれ,カラヴァッジョの死後40年を経ても,カラヴァッジズムを想起させる絵を描き続け,その後,カラヴァッジョも騎士に叙任されたマルタ島ヴァレッタで騎士となり,1699年にその地で生を終えたマッティアには,画家としても人間としても深い興味を抱かないではいられない.

 ナポリで時代遅れだったかも知れないカラヴァッジョ風の絵を描いた後,なお40年彼には人生が残されていたのだ.

 東京のカポディモンテ展には「バーリの聖ニコラ」と「ユディトとホロフェルヌス」が来ており,『図録』に拠れば,両作品と「洗礼者ヨハネ」は,このカラブリア出身の画家が,ナポリにいたカラブリア貴族に依頼され,カラブリア人が集うサン・ドメニコ・ソリアーノ教会に飾られ,1807年の教会財産没収により,ブルボン王家のコレクションとなったとのことだ.

 『図録』の指摘で勉強になったのは,やはりマッティアも「ボローニャ派」,特にグエルチーノとランフランコの影響を受けていると言うことだ.

 ローマのサンタンドレーア・デッラ・ヴァッレ聖堂の「聖アンデレの殉教」を観て,彼がローマでエミリア=ロマーニャの画家たちの影響を受けたことは朧げながら感じていたものの,これまでは何となく,マッティア・プレーティ,南イタリアの画家,時季外れのカラヴァッジズムと連想が働いてしまっていた.

 しかし,専門家がそう言ってくれるのだから,これからは安心して,そのような視点からマッティア・プレーティの個性に満ちた作品を鑑賞することができる.

 1650年代のナポリ芸術をマッティア・プレーティとともに輝かせたのがルーカ・ジョルダーノで,彼の作品もカポディモンテで相当数見られたが,感想を語りだすと終わらないので,「ナポリ派」の完成に向けて,重要な役割を果たしたと考えるにとどめる.

 リベーラ,スタンツィオーネの影響を受け,カラヴァッジストから,華やかな色彩の作風に脱皮していき,自身がナポリ・ローカルを超えて活躍する過程で,ローマでピエトロ・ダ・コルトーナの影響を受けながら,芸術家として大成していく.ナポリの芸術を全イタリア,ヨーロッパに広めていったルーカの芸術の意味は極めて大きいように思われるが.これも今後の課題とする.


ナポリの揺籃から
 アルテミジアもマッティアもナポリの人ではないし,彼らの人生全体を見ても,ナポリで亡くなったアルテミジアの場合であっても「ナポリの画家」とは言えない.しかし,大都市として,芸術が盛んになる条件として,外来の要素を寛容に取り入れて,自分たちの文化を革新して行くこと挙げられるだろう.

 ナポリは,中世も,近現代も大都市であり続け,そこに大きな芸術の花を咲かせた.

 ゴシック期にはジョットとシモーネ・マルティーニが,ルネサンス期には画家本人は来なかったとしても,ペルジーノ,ピントリッキオの影響を受け入れ,ロンバルディアの画家チェーザレ・ダ・セストが芸術活動を行ない,次の時代に,ヴァザーリ,マルコ・ピーノ,ジョヴァンニ・バルドゥッチ,カヴァリエール・ダルピーノがトスカーナやローマのマニエリスムを齎し,そうした土壌があるところにカラヴァッジョがやって来て,カラヴァッジョの影響を受けた画家たちが,主としてローマで「ボローニャ派」の画風を学んで,バロックの精華ともいうべき「ナポリ派」の繁栄が始まる.

 17世紀のナポリには,オランダ人も来たであろう.カポディモンテで作品が多く見られるのは,マティアス・ストーメルであるが,実は彼はナポリよりもむしろ,シチリアで活躍した画家だ.ただし1633年から37年にかけてナポリに滞在し(『図録』),ホントホルストから学んだ明暗画法によって,ナポリでも何らかな影響を与えたと考えられている

 カポディモンテのストーメル作品3点のうち,「牧人礼拝」,「エマオの饗宴」が東京のカポディモンテ展に来たが,ここでは,自分の専門と関係が深い「セネカの死」を紹介する.




 足の動脈にメスを入れる医師,毒杯を差し出す人物,口述筆記する書記者,タキトゥス『年代記』に報告されているセネカの死を想起させる要素に満ちているが.ウーティリの説明にあるように1640年の少し後(美術館の説明プレートは1640-45)の作品とすれば,1610年代に描かれた,ミュンヘンにあるルーベンスの「セネカの死」が先行している.

 ルーヴルにあるルーカ・ジョルダーノの「セネカの死」は1680年代中頃の作品とされるので,時期的にルーベンスとジョルダーノの同主題作品の大体中間に位置する作品と言えよう.

 「エマオの饗宴」のように,ストーメルがホントホルストから引き継いだと思われる1本の蝋燭は立てられていないが,闇の中で特定の光源によって情景があぶりだされる描写に,カラヴァッジョ,ホントホルスト,ストーメルと言う流れが明らかに見て取れる.

 羽根飾りの帽子を被った若者は,17世紀風であり,古代ローマの歴史を描いた作品の中に自分の同時代を盛り込んだ.画面左側の赤い頭巾を被った老女が頭に手を置いている赤いマントを首に巻いた裸の幼児は,セネカの関係者には思い当たらないが,画家か,彼に助言した学者の考えを反映して,何か意味があるのだろうか.

 老いさらばえた痩身の裸体の禿頭有髯のセネカは,ルーベンスのように「伝セネカ」の古代彫刻を反映してはいないが,「伝セネカ」がセネカでない可能性が高いことを知っている現代人の視点からは,セネカと記名されているベルリンの肥満した老人の胸像よりも,「哲学者セネカ」のイメージとしてより説得力を持っているように思われる.

 ストーメルの作品としては,日本に来た2点の方が傑作であろうが,予備知識が無かったのに,一目見て「セネカの死」と分かったこの作品に愛着を覚える.



 長々と「ナポリ派」について語ったが,彼らに影響を与えた「ボローニャ派」はペンディングのままなおかつ,その中でも影響の強かったアンニーバレ・カッラッチの傑作群をカポディモンテで観ながら,それについて全く語ることができなかった.

 しかし,奇を衒って言うようだが,カポディモンテで私にとって最もインパクトのあった作品は,アンニーバレ・カッラッチの「ピエタ」である.構図や色彩が日本のカポディモンテ展に来た「リナルドとアルミーダ」に似ているように見えるが,遥かに気品に満ちて,深みを感じさせる作品だ.

 ミケランジェロやラファエロの影響を集大成し,ファルネーゼ宮殿の天上装飾画を仕上げた後の最高潮に達した技量の限りを尽くして描き上げた作品と思いたい.

 この作品はローマで描かれ,長くファルネーゼ宮殿にあったので,死せるキリストの裸体の美しさは,おそらく,彼以後の画家たちに影響を与えたであろう.

 2017年の12月にカポディモンテでこの作品に出会ったが,再会を期した2018年の3月のカポディモンテ再訪の折には,何らかの事情で展示されていなかった.次にカポディモンテを訪れる際にはぜひ,再会を果たしたい.







アンニーバレ・カッラッチ
「ピエタ」