§ナポリ行 その10 カポディモンテ美術館 その3
またしても更新の間が空いてしまった.書きたいことは色々あるが,こうなっては手っ取り早くカポディモンテ篇を終わらせて,ナポリの教会篇,ポンペイ,エルコラーノ篇へと進み,ナポリ行の報告を完了してしまいたい.気の早いようだが,その後はウンブリアの諸都市の報告だ. |
カポディモンテ篇は今回が3回目で,前々回は「ナポリのゴシック」,前回は「ナポリのルネサンス」について報告した.今回はファルネーゼ・コレクションを中心とするルネサンス絵画についてだが,「あれを観た,これが良かった」という程度に簡単にまとめる.
第2室の作品
カポディモンテの展示は第2室から始まる.この部屋にティツィアーノの肖像画の作品が6点あるが,「ピエル=ルイージ・ファルネーゼの肖像」,「スペイン王フェリペ2世」,「帽子を脱いでいる教皇パウルス3世」,「教皇パウルス3世と孫たち」,「カマウロ帽を被った教皇パウルス3世」,「パウルス3世の孫アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿の肖像」と,どれもファルネーゼ家出身の人々の肖像だ.
その他にもアレッサンドロ・デッラ・ポルタの3点ある彫刻のうち2点がパウルス3世の胸像だし,ラファエロの「後の教皇パウルス3世となるアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿の肖像」といった作品もあって,第2室はファルネーゼ・コレクションの中でも特にファルネーゼ家に所縁のある作品を集めた部屋と言える.
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写真:
「教皇パウルス
3世と孫たち」
ティツィアーノ |
その中に,お馴染みのヴァザーリの「正義の寓意」という作品があった.ティツィアーノ,ラファエロ,アンドレア・デル・サルトの作品(ラファエロ「教皇レオ10世と2人の枢機卿」のコピー)が並ぶ中にあって,この作品を傑作と認識するのは難しいが,ヴァザーリの個性に満ちた作品であるのは間違いない.
それがこの部屋にあるのは,制作を委嘱したのが教皇と同名の孫アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿だからだろう.彼はティツィアーノの息子に聖職禄の空手形をちらつかせて,当時世界一の人気画家だった芸術家にファルネーゼ家の人々の肖像画を描かせた策士である.
1人の教皇を出したことによって小貴族だったファルネーゼ家は,パルマとヴィチェンツァの公爵となり,北イタリアの小国とは言え,ハプスブルク家と婚姻関係を結ぶなどして繁栄を維持した.
第6代公爵ラヌッチョ2世は3度結婚して,2度目の結婚でオドアルド2世が生まれたが,公爵位を継ぐことなく父よりも先に亡くなり,3度目の結婚から生まれたフランチェスコとアントニオが相次いで爵位を継承したが,2人とも子供が無く,継承権はオドアルド2世の娘でスペイン王妃となっていたエリザベッタに移り,彼女とブルボン家のスペイン王フェリペ5世との間の息子カルロスが,1731年パルマとピアチェンツァ公爵カルロ1世となった.
彼は最終的に異母兄の死によって,1759年にスペイン王カルロス3世になるが,それに先立って1734年にナポリ王カルロ7世,シチリア王カルロ5世を兼ねる.彼がナポリの宮廷に君臨したとき,パルマとローマのファルネーゼ・コレクションはナポリに移され,その後さまざまな経緯の後,古代コレクションは国立考古学博物館,ルネサンス以降の作品はカポディモンテ美術館に展示されることになる.
第2室にファルネーゼ・コレクションの中でも,特にファルネーゼ家所縁の作品が展示されている由来はこのような事情に拠る.
ヴァザーリの作品は他の部屋も含めて3点あったように思う.そのうち「キリスト復活」は,2010年の国立西洋美術館の特別展「カポディモンテ美術館展」に来ていた.
美術館の説明プレートではラファエッリーノ・デル・コッレ(より原音に近いのはラッファエッリーノであろうが,ラファエッリーノとする)との共作になっていた.特別展の「図録」でも「当時食堂のフレスコ画を共同制作していたラファエッリーノ・デル・コッレの助けを借りた可能性が高い」とし,かなりの部分がラファエッリーノの手になる可能性を指摘している.
作者についても,フィレンツェ派,マルコ・ピーノ,逸名のマニエリスムの画家,と変遷し,ヴァザーリへの帰属が認められたのは1982と遅い.そう言われれば,ヴァザーリ的な個性がより少ないように思えた.
マルコ・ピーノ説があったのも,マルコがシエナ近郊の小村の出身で,ベッカフーミの工房で育ったマニエリスムの画家だったからだろう.ちなみにマルコ・ピーノの「三王礼拝」(「図録」では「マギの礼拝」)も上野の特別展に来ている.
マザッチョとマゾリーノ
本来は第3室に展示されているはずのマザッチョ「キリスト磔刑」(1426年)は,何かの企画でずっと先の特別展示場に飾られていたが,ともかく観ることができた.
シモーネ・マルティーニの「トゥールーズの聖ルイ」など,ナポリ周辺にあった数少ないゴシック絵画の展示を除けば,この美術館所蔵のほぼ最古の作品と言って良いだろう.
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写真:
「キリスト磔刑」
マザッチョ |
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ピサのサンタ・マリーア・デル・カルミネ教会のために描かれた大きな多翼祭壇画の一部であるが,現在はパネルが分散して,中央の「聖母子」はロンドンのナショナル・ギャラリーに,その他は,ロサンジェルスのポール・ゲティ美術館に1点,ベルリンの国立博物館に6点,ピサのサン・マッテーオ国立絵画館に1点(「聖パウロ」)があるのみで,それ以外のパネルは亡失したと思われる.
この祭壇画は16世紀末にはバラバラのパネルになって,「聖母子」は様々な所有者の手を経て,1916年にナショナル・ギャラリーに,「キリスト磔刑」はフィレンツェの無名画家の作品として1901年にカポディモンテの所有に帰したとされる(ルチャーノ・ベルティ/ロッセッラ・フォッジ,浅井朋子(訳)『マサッチョ(ママ)』京都書院,1994,pp. 48, 52).
作者の同定も困難になるほどの転変を経て現在に至っており,「マザッチョの作品」というだけで後光が射して見える現在と違い,ゴシック絵画だけでなく,初期ルネサンスの芸術も,その価値が忘れられ,正当な評価が得られない時代が長かったことが分かる.
当然,この作品はファルネーゼ・コレクションではない.
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写真:
マゾリーノ
コロンナ祭壇画
の中央パネル
表と裏 |
マザッチョの年上の友人でありながら,共作者として影響も受け,夭折した若い友人よりもずっと後まで生きたマゾリーノの作品もある.シモーネ・マルティーニの次に見たかったのが,この「ローマのサンタ・マリーア・マッジョーレ聖堂の創建」と「聖母被昇天」である.
この2つの絵は,ローマの四大総主教教会の一つであるサンタ・マリーア・マッジョーレ聖堂のコロンナ礼拝堂のための祭壇画として,コロンナ家出身の教皇マルティヌス5世の依頼により1425-28年に描かれた三翼祭壇画(コロンナ祭壇画)の中央パネルの表と裏を成していた.
いかなる経緯かわからないが,1653年以降ローマのファルネーゼ宮殿にあったとのことなので,ファルネーゼ・コレクションの作品ということになる.祭壇画のその他のパネルはロンドン・ナショナル・ギャラリーとフィラデルフィア美術館にあるとのことだ.
表の「ローマのサンタ・マリーア・マッジョーレ聖堂の創建」に描かれている題材は「雪の聖母の奇蹟」である.8月5日と言うから真夏であろうが,352年から366年まで教皇だったリベリウスらの夢に聖母が現れ,雪が降った場所に教会を建設するようにとのお告げがあったとされる.そのお告げに基づいて,エスクィリーノの丘(モンス・エスクィリヌス)の頂に献堂されたのが,現在のローマの四大総主教聖堂の一つであるサンタ・マリーア・マッジョーレ聖堂とされる.
雪の積もった場所の鍬を入れている教皇冠を被った人物は教皇リベリウスであろう.それが祭壇画の依頼者であるマルティヌス5世の肖像になっていればおもしろいが,そのような説はないようだ.ピザネッロ作の現存しないマルティヌス5世の肖像の写しがコロンナ宮殿にあるが,少なくともそれとは全く似ていないようだし,ミラノ大聖堂にあるヤコピーノ・ダ・トラダーテ作とされるマルティヌス5世の大理石座像にも似ていない.
教皇リベリウスは4世紀の人物でマゾリーノが直接会ったはずはないが,その横顔は威厳に満ちていて,峻厳な表情に特徴があるように思われ,マザッチョ作という説があったのも納得が行く.
リベリウスの反対側にいる赤い靴下の男性はリベリウスと同じ夢を見た貴族ジョヴァンニであろうか.この人物の横顔も見事に描かれており,マザッチョもピサ祭壇画の裾絵だった「三王礼拝」(ベルリン国立博物館群の絵画館)で,赤いソックスのルネサンス風の服装の若い王と中年の男性を描いていることもあり,これもマザッチョ作と言われても信じそうになる.
しかし,奥の方に描かれたもう一人の赤いソックスの金髪の若者は,女性と見まごうばかりの柔和な顔だちで,周辺の女性たちの顔と同様にマゾリーノ風である.
絵の一番奥に山並みが見えるが,これは実際のローマ周辺の山並みを正確に描いているとは思えない.しかし,その手前にある城壁の城門の傍に描かれた四角錘の構築物が,現在も残るピラーミデと通称され,駅名やバス停名にもなっている「ガイウス・ケスティウスのピラミッド型墓」であることは容易に想像がつく.
城門は現在サン・パオロ門と称されるが,古代にはオスティア門(ポルタ・オスティエンシス)であった所であろう.城壁はアウレリアヌス城壁で,エスクィリーノの丘は,これよりさらに内側に城壁があった時代から城壁内の場所であるから,丘から見てピラーミデが城壁の内側にあるということは,現在の位置関係と一致する.
雲の上の円環の中にいるイエスと聖母の顔は,本来は裏面にあたる「聖母被昇天」のイエスと聖母の顔とよく似ているので,表と裏で統一したイメージで描いたと思われる.
「聖母被昇天」の方は,聖母をマンドルラ型に囲んでいる天使たちの色彩バランスが素晴らしく,白装束に金色の刺繍をちりばめた聖母の座像の威厳を際立たせている.
マンドルラの中ほど左右に白地に赤十字の旗を持った天使がいるが,向かって右側の天使の顔が他の天使の顔と違っており,この天使はマザッチョが描いたのだとする説もあるそうだが,共作している時期のマゾリーノは明らかにマザッチョの影響下にあって,似たような顔の人物を描いており,作品全体をマゾリーノ作と考えることには何の不都合もないと思われる.
マザッチョとの共作で有名なウフィッツィ美術館の「聖母子と聖アンナ」をフィレンツェのサンタンブロージョ教会のために描いたのが1424年から25年,サンタ・マリーア・デル・カルミネ教会のブランカッチ礼拝堂にマザッチョとともにフレスコ画を描いたのが1424年なので,マゾリーノにとって1424年がターニング・ポイントとなったことが推測される.
コロンナ祭壇画の委嘱を受け,制作に取り掛かった時期は,まさにマザッチョとの協力関係が強まり,影響も受けた時期ということになる.
フィレンツェのギベルティやゲラルド・スタルニーナの工房において,国際ゴシックからルネサンスに移り変わっていく同時代の影響を受けながら自己形成し,画家として実績を上げる過程で,同郷の後進マザッチョとの共作を通じて,国際ゴシックの影響を脱してルネサンスの画家として成長し,マザッチョの死後は,国際ゴシックの影響下に培った華やかな色彩を復活させ,個性を発揮していく.マゾリーノに関して私が漠然と思い描いているストーリーはこうだ.
これまでに得られた情報や実際に作品を観る経験を積み重ねて,このストーリーが少しずつ補強されているような気がしている.
マザッチョは1428年に僅か27歳で亡くなり,マゾリーノは18歳くらい年長と思われるが,1440年まで生きる.
2007年にフィレンツェからローマに向かう途中,パニカーレという駅名を見て,これがマゾリーノ・ダ・パニカーレことトンマーゾ・ディ・クリソトフォロ・フィーニの故郷パニカーレかと思ったが,その後,マザッチョの生地サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノにもパニカーレという地名があり,こちらが,マゾリーノの生地であると,日本語の本を読んで知った.
そもそもヴァザーリの『芸術家列伝』には,このパニカーレはパニカーレ・ヴァルデルサとあるが(白水社の邦訳は版が違うのか,訳者の考えなのか,「ヴァルデルサ」は略されている),マザッチョと同郷ということであれば,パニカーレ・ヴァルダルノと言うべきであり,この時点ですでに混乱が生じていることになる.
伊語版ウィキペディアは,私たちが2007年に電車で通過したウンブリアのパニカーレをマゾリーノの生地としており,さらに彼の作品リストに,帰属作品としてウンブリアのパニカーレにある参事会教会の「受胎告知」を挙げている.
しかし,書架にある限りでは最新の,
Paul Joannides, Masaccio and Masolino: A Complete Catalogue, London: Phaidon Press, 1993
に拠れば,この問題は最終的にヴァルダルノ(アルノ川渓谷)のパニカーレで決着しているとのこと(p.25)なので,一応,やはりアルノ川渓谷のサン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノの一地域パニカーレがマゾリーノの故郷と考えるのが,現在のところ正解に近いのだろう.
上述のように,マゾリーノにとってマザッチョとの共作が始まったと思われる1424年と,マザッチョが亡くなり,その影響を自明のものとしながらも,独自路線を展開していく1428年が,それぞれ重要な年であったことは間違いないだろう.その間に描かれた貴重な未見のマゾリーノ作品を見ることができ,大変嬉しかった.
ステレオタイプな言い方だが,マザッチョの豪快さの影響を受けながらも,マゾリーノの繊細な個性が表れた作品で,この時代の絵が好きなら,見た甲斐は十分にあると思う.
有名画家たちの作品
カポディモンテで見ることができたルネサンスの作品としては,
フィリピーノ・リッピ「受胎告知と聖人たち」
ロレンツォ・ディ・クレーディ「幼子イエスの礼拝」
サンドロ・ボッティチェリ「聖母子と天使たち」
ラファエッリーノ・デル・ガルボ「聖母子と幼児の洗礼者ヨハネ」
ルーカ・シニョレッリ「幼子イエスの礼拝」
フラ・バルトロメオ「被昇天の聖母と洗礼者ヨハネ,聖カタリナ」
と言ったトスカーナの画家たちの作品,
アンドレア・マンテーニャ「聖エウフェミア」
同「少年期のフランチェスコ・ゴンザーガ」
バルトロメオ・ヴィヴァリーニ「玉座の聖母子と天使たち」
ジョヴァンニ・ベッリーニ「キリストの変容」
ロレンツォ・ロット「ベルナルド・デ・ロッシの肖像」
同「玉座の聖母子と幼児の洗礼者ヨハネ,殉教者ペテロ」
アルヴィーゼ・ヴィヴァリーニ,三翼祭壇画「玉座の聖母子と聖フランチェスコ,シエナのベルナルディーノ」
など,ヴェネト地方など北イタリア出身の画家たちの作品が印象に残る.
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写真:
セバスティアーノ・
デル・ピオンボ
「教皇クレメンス7世の肖像」 |
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16世紀に活躍したマニエリスムの画家たちについては,ジュリオ・ロマーノ,ポントルモ,ドメニコ・プーリゴ,フランチェスコ・サルヴィアーティ,ピーテル・デ・ウィッテ(ピエトロ・カンディード),マーゾ・ダ・サンフリアーノ,エル・グレコなどの作品が見られた.その中で印象に残ったのは,
セバスティアーノ・デル・ピオンボ「教皇クレメンス7世の肖像」
同「ヴェールの聖母子」
ロッソ・フィオレンティーノ「若者の肖像」
だが,特にデル・ピオンボの2点が抜きん出ているように思えた.

時期を同じくする画家とは言え,ティツィアーノは「マニエリスムの画家」には分類できない.彼の作品では,
「ダナエと黄金の雨」(上の写真)
「悔悟するマグダラのマリア」
が特に有名で,よく似た作品が複数あることでも知られるが,その中にあってカポディモンテの両作品は優れた絵であるとの思いを深くした.「若い女性の肖像」が有名な絵なのかどうか把握していないが,私はすばらしい作品だと思った.
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写真: パルミジャニーノ
「若い女性,
通称アンテアの肖像」 |
パルマ,フェッラーラのルネサンス,マニエリスムの画家たちの中でも特に傑出したコレッジョの作品が4点,パルミジャニーノが4点,ガロファロが1点,ドッソ・ドッシが1点あった.
コレッジョでは「聖ヨセフと寄進者」が,パルミジャニーノでは,「ガレアッツォ・サンヴィターレの肖像」,「若い女性,通称アンテアの肖像」が立派だった.ガロファロの「聖セバスティアヌス」は後のグイド・レーニの同主題作品を思わせる,美しいが筋肉質の若者が描かれていて印象に残った.
ドッソ・ドッシの「聖会話」も美しい絵だが,同じくフェッラーラの画家オルトラーノ(ジョヴァン=バッティスタ・ベンヴェヌーティ)の「キリスト哀悼」が素晴らしい作品だと思われた. また,パルミジャニーノの親族の娘と結婚し,その家名を名乗りの中に取り込んだジローラモ・マッツォーラ=ベドーリの絵も3点あって,個性的で立派な作品に思えた.
クレモナ出身の女性画家ソフォニスバ・アングイッソラの「スピネッタを弾く自画像」も個人的には立派な作品に思えた.王妃たちやスペインのフェリペ2世を描くだけでなく,それらの「国家肖像画」(なじみの薄い日本語だが,ロベルト・ザッペリ,吉川登(訳)『ティツィアーノ 【パウルス3世とその孫たち】 閥族主義と国家肖像画』三元社,1996の訳語で,元はritratto di stato)のように威厳を備えた老境の自画像も彼女は描いたが,若く才気にあふれた娘時代の自画像で個性に満ちているように思う.
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写真:
チェーザレ・ダ・セスト
「悲しみのキリストと
祈るオリヴィエーロ・
カラーファ」(部分) |
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ロンバルディアの画家たちの作品では,チェーザレ・ダ・セスト「悲しみのキリストと祈るオリヴィエーロ・カラーファ」,ベルナルディーノ・ルイーニの「聖母子」,モレットの「柱に縛り付けられたキリスト」がまずまずの作品だろう.
チェーザレの作品には当時の姿のナポリ大聖堂が描かれているが,この絵に描かれているオリヴィエーロ・カラーファがナポリの名門家系の出身で,1458年に28歳の若さでナポリ大司教に任命された人物であることに起因している.
ナポリ大司教の職は1484年に一族のアレッサンドロ・カラーファに引き継いだが,1503年から2年間再任され,その間およびその後,枢機卿に選任された.
フィリピーノ・リッピがローマのサンタ・マリーア・ソプラ・ミネルヴァ聖堂のカラーファ礼拝堂に1489年に描いたフレスコ画の中央にある「受胎告知」の中に,このドメニコ会の聖堂への寄進者としてオリヴィエーロが描かれている.傍らにいて聖母に彼を紹介しているのは神学者トマス・アクィナスで,母方の祖先の縁者であったらしい.
また同族の後進ジャン=ピエトロ・カラーファが後に教皇パウルス4世となっており,パウルス4世を含めて,この家系から枢機卿が16人出ている.こうした血縁関係は,政治的,文化的背景の理解には分かりやすくて便利だが,非キリスト教徒の観点からは,絶対にキリスト教精神に反していると思う.しかし,歴史的事実は歴史的事実として受け止めねばならない.
オリヴィエーロ・カラーファに依頼された絵をトスカーナの芸術家フィリピーノ・リッピや,トスカーナ出身のレオナルド・ダ・ヴィンチの影響を受けたミラノの画家チェーザレ・ダ・セストが描き,それもあってチェーザレは南イタリアに来て,なにがしかの影響をナポリの芸術に与えたのである.
チェーザレはロンバルディアの出身で,トスカーナから来たレオナルドの影響下に自己の芸術を形成したので,チェーザレを通してナポリや南イタリアにトスカーナ,ロンバルディアの芸術伝統の一端が伝播し,それが受容されたことになる.
後に形成されるナポリ派も,ロンバルディア出身のカラヴァッジョ,ボローニャ派のランフランコ,ドメニキーノ,それらに比べれば小さな影響であろうがトスカーナ出身のジョヴァンニ・バルドゥッチによって齎された異なる地域の芸術文化を受容することで,新たな潮流として育っていったと言うことは許されるだろう.
北方絵画のコレクションも充実しており,その中では,ヨース・ファン・クレーフェの折り畳み式三翼祭壇画「キリスト磔刑」,同じく「三王礼拝」,ベルナルト・ファン・オルレイ「青年時代のカール5世の肖像」が印象に残った.
今回,名前を挙げなかった作品も含め,言及した画家たちの中で,前述のヴァザーリとマルコ・ピーノのそれぞれ1点ずつを除いても,マンテーニャ「少年期のフランチェスコ・ゴンザーガの肖像」(図録では「ルドヴィコ(?)・ゴンザーガの肖像」),コレッジョ「聖アントニウス」,ルイーニ「聖母子」,ガロファロ(図録ではガローファロ)「聖セバスティアヌス」,パルミジャニーノ「若い女性,通称アンテアの肖像」(図録では「貴婦人の肖像(アンテア)」),ソフォニスバ・アングイッソラ「スピネッタを弾く自画像」(図録では「スピネッタに向う自画像」),ティツィアーノ「悔悟するマグダラのマリア」(図録では「マグダラのマリア」,エル・グレコ「燃え木でろうそくを灯す少年」がカポディモンテ展に来て,2010年の東京で見ていた.
まだ言及していないボローニャ派,ナポリ派の画家たちの作品を含めると,東京のカポディモンテ展は稀なくらい充実した特別展であったことが分かる.
最後に,画家としてはあまり有名とは思えないヤコポ・デ・バルバリに帰属される「ルーカ・パチョーリの肖像」を紹介する.ウーティリのカポディモンテ案内書の表紙にもなっている数学者の肖像だ.
2017年6月19日にサン・セポルクロを訪ねた時,市立博物館の小特別展で,その著書の古い刊本などが展示されていて,彼がルネサンスの芸術家ピエロ・デッラ・フランチェスカ,レオナルド・ダ・ヴィンチに影響を与えた数学者であることは知っていた.
その特別展で,この作品も見たように思っていたが,撮って来た写真を確認すると,この絵の写真が組み込まれたパネルを見ただけだったらしい.いずれにしても,ルネサンスの文化,芸術に,このサン・セポルクロ出身のフランチェスコ会修道士である数学者が果たした役割の大きさに思いが至るようなインパクトのある絵だ.
修道士の姿の数学者の右隣の若者は,ウルビーノ公爵グイドバルド・ダ・モンテフェルトロとされこともある(ウーティリ)ようだが,たとえそうでなくても,この絵は元来ウルビーノにあった.それがフィレンツェのメディチ家のコレクションとなり,20世紀に国家が買い上げ,その経緯は分からないが,ナポリで収蔵,展示されることになったようである.
この絵はルネサンスのモンテフェルトロ家,デッラ・ローヴェレ家,メディチ家には関係したが,ファルネーゼ家やブルボン家のコレクションだったことはない.
次回は,16世紀末から17世紀のボローニャ派,ナポリ派の画家たちの作品を取り上げる.
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ヤコポ・デ・バルバリ
「ルーカ・パチョーリの肖像」
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