フィレンツェだより 第2章「備忘録」
2019年5月13日



 




「書斎のヒエロニュムス」
コラントニオ・デル・フィオーレ
カポディモンテ美術館 ナポリ



§ナポリ行 その9 カポディモンテ美術館 その2

前回はルネサンス以前のナポリのゴシック絵画について,乏しい材料ながら,ともかく考えてみた.満足の行く結論が得られた訳ではないが,トスカーナの画家たちの影響がかなりあったと推測される.


 トスカーナの画家たちを招いたのは,アンジュー(アンジオ)家のカルロ1世(シャルル),カルロ2世からロベルト(ロベール)王の宮廷であった.ロベルト王の時代に,シモーネ・マルティーニ,ジョットが招かれ,シエナ派,ジョッテスキというトスカーナの後期ゴシックの影響がナポリ周辺に齎されたと推測される.

 ロベルトを引き継いだジョヴァンナ1世(ジャンヌ)が招いたトンマーゾ・ディ・ニッコロもオルカーニャの影響を受けたフィレンツェの画家で,やはりジョッテスキの系譜をひいており,トスカーナ・ゴシックの影響は継続した.

 このようなトスカーナ絵画の影響を受けたナポリのゴシック絵画を体現したのがロベルト・ディ・オデリージオで,カポディモンテにある2点のリュネット画はそのことを伝える貴重な作品と言えよう.

 しかし,カポディモンテの展示作品だけでナポリのゴシックを理解するのは難しく,「トスカーナ絵画の影響が感じられる作風」という程度のことしか分からない.今後,その他の博物館,美術館,諸教会で観た作品群を再考しながら,可能な限りまとめる努力をしてみる.

 前回,名前を挙げたサン・ドメニコ・マッジョーレ聖堂にピエトロ・カヴァッリーニが描いたフレスコ画で装飾された礼拝堂があり,他の教会にもゴシック期のものと思われるフレスコ画が,大部分は断片に過ぎないものの残っていたので,教会編で可能なら考えてみたい.


「ナポリのルネサンス」
 今回は,カポディモンテで観た作品を通じて,ナポリのルネサンス,マニエリスム絵画について考えてみる.

 「ナポリのルネサンス」と言う場合に,カポディモンテにあるルネサンス絵画の傑作のうち相当数が考察の対象外となる.というのも,それらはファルネーゼ・コレクションに属する絵画で,現在はナポリにあるが,元はパルマやローマにあったので,「ナポリのルネサンス」を形作ったとは言い難いからだ.

 ファルネーゼ・コレクション以外で,トスカーナ,ロンバルディア,ヴェネトの画家の印象に残った作品を挙げてみる.

 マッテオ・ディ・ジョヴァンニ
   「嬰児虐殺」(1480年頃,ナポリには1505年以降)
 クリストフォロ・スカッコ
   「聖母戴冠と聖人たち」/他(1495-1500年頃)
 プロタジオ・クリヴェッリ
   「聖母子と天使たち」(1498年)
 ピントリッキオと工房
   「聖母被昇天」(1508年頃)
 チェーザレ・ダ・セスト
   「三王礼拝」(1516-19年)
 ソドマ
   「キリスト復活」(1530年)
 ポリドーロ・ダ・カラヴァッジョ
   「聖ペテロ」/「聖アンデレ」/「受胎告知」(1527-28年)/「キリスト埋葬」(1527年頃)/「牧人礼拝」(1535年頃)/「カルバリオの道」(1530-34年)/「聖霊降臨」(1540年頃)/「聖マタイの召命」/「聖母被昇天」(1540-43年頃)
 マルコ・ピーノ(マルコ・ダ・シエナ)
   「洗礼者ヨハネの斬首」/「牧人礼拝」/「三王礼拝」(1564年頃)
 ジョルジョ・ヴァザーリ
   「パリサイ人の家の饗宴」「イエスの神殿奉献」(1545年)
 ヴァザーリ/ラッファエッリーノ・デル・コッレ
   「キリスト復活」(1545年頃)
 ティツィアーノ
   「受胎告知」(1557年)
 ジョヴァンニ・バルドゥッチ
   「ファリサイ派の家の婚礼」/「カナの婚礼」(以上16世紀末)/「神殿奉献」(1599-1602年)


 特にソドマとヴァザーリの個性は際立っていて,彼らの作品は一見してすぐに作者名が思い浮かぶ.

 上記の作品の中から,シエナの画家,ウンブリアの画家,ロンバルディアの画家の作品を取り上げて,ナポリ画壇における影響関係を考えてみたい.


マッテオ・ディ・ジョヴァンニの「嬰児虐殺」と,その背景
 マッテオはサン・セポルクロで生まれ,シエナで修業,活躍したルネサンス期のシエナ派を代表する画家の一人であり,シエナ大聖堂の床装飾の「嬰児虐殺」の下絵も担当しているし,シエナのサンタ・マリーア・デッラ・スカーラ病院の礼拝堂にも「嬰児虐殺」を描いている.

 カポディモンテの「嬰児虐殺」は1480年頃におそらくシエナで描かれたもので,注文者は当時カラブリア公爵であり,アラゴンのトラスタマラ家出身の,後のナポリ王アルフォンソ2世であった.

 1480年に起こったオスマン帝国の侵攻で殉難した1000人のキリスト教徒たちを追慕して,オトラントに置かれたが,1494年のアルフォンソの即位とともにナポリに移され,その後,長い間,サンタ・カテリーナ・ア・フォルミエッロ教会(創建開始1505年頃)の礼拝堂に飾られていた.

写真:
「嬰児虐殺」
マッテオ・ディ・
ジョヴァンニ


 このサンタ・カテリーナ・ア・フォルミエッロ教会は,2回のナポリ行で計4泊したB&Bの近くにあったので,複数回訪ねているが,堂内は朝でも暗かったので写真はうまく撮れていない.堂内でこの「嬰児虐殺」の写真付き解説を見たときは,サンタ・マリーア・デッラ・スカーラ病院で見た記憶のある「嬰児虐殺」とよく似たシエナ派風の絵が何でここにあったのか不思議に思った.

 恐らくこの教会の創建の背景には,イスラム教徒への対抗心を喚起する対抗宗教改革の大きな流れがあっただろうし,オトラント事件で謂わば当事者だった人物がナポリ王になり,キリスト教信仰を鼓吹して行くには格好の題材であったのだと思われる.

 オトラントは2007年に訪問し,大聖堂ではオトラント事件で殉教した市民の遺骨も見ている.「城」も見ているが,それはホラス・ウォルポールの怪奇小説『オトラントの城』とはほぼ無関係で,ターラントのそれと同様に「アラゴン城(要塞)」(カステッロ・アラゴネーゼ)であったことを思い出す.これに関してはフィレンツェだよりで報告している.



 多分,本人はナポリ周辺には来ていないマッテオの絵が,ナポリのルネサンスにどれだけの影響を齎したかは分からない.

 マッテオ自身は,シエナ大聖堂のピッコローミニ図書館蔵の写本細密画の仕事を共にしたリベラーレ・ダ・ヴェローナなどを通じてか,マンテーニャの影響を受けているとウーティリ所収の解説でマイア・コンファローネが言っている.

 マンテーニャはパドヴァのスクァルチョーネ工房で,ドナテッロが齎したフィレンツェ・ルネサンスの影響を受け,ピエロ・デッラ・フランチェスカの後進としてサン・セポルクロで生まれたマッテオが,シエナでマンテーニャの影響を受けたのちに,依頼に応じて南イタリアの政治と深くかかわる絵画を作成した.

 多くの作品は何らかの影響下に生まれてくる.それは工房や共同作業を通じてのこともあるだろうし,注文主の意図による面もあるだろう.そうして生み出された作品もまた,何らかの意味や影響を持って存在し続け,それを読み解く楽しみを私に与えてくれる.


ピントリッキオの「聖母被昇天」と,その影響
 ピントリッキオの「聖母被昇天」は,銀行家パオロ・トローザ(数世代後に同名のナポリ生まれでキエーティ大司教となる同名の聖職者がいるので地元の有力な家系であろう)の委嘱を受けて制作され,オリヴェート会のサンタンナ・デイ・ロンバルディ教会に収められた.

 ピントリッキオの記録が残っている作品のうち最後のものは,現在サン・ジミニャーノの市立博物館にある「栄光の聖母と聖グレゴリウスと聖ベネディクトゥス」(1510-12年)だが,「聖母被昇天」はこの前後の作と推定され(伊語版ウィキペディアは1512年頃の作としている),ピントリッキオ最晩年の作品のひとつと考えられている.

 ピントリッキオは1510年にはローマで仕事をして,1513年にシエナで亡くなったことが分かっている.この間に上述のサン・ジミニャーノとナポリの作品を描き,記録にはないが,「ピントリッキオの作品 1513年」という記名のある「カルバリオへの道」(イゾラ・ベッラ.ボッロメーオ・コレクション)という作品を描き,これが最後の作品と考えられている.

 「聖母被昇天」の制作者としてピントリッキオと並んで,工房と付記されているのは,完成には工房の助力があったと考えられるということであろう.伊語版ウィキペディアにはエウゼビオ・ダ・サン・ジョルジョの名が挙げられている.

 エウゼビオはペルジーノの主要な助手の一人だが,ペルジーノは1523年まで存命だったので,エウゼビオは師匠の工房から兄弟弟子のピントリッキオの仕事を手伝いに行ったと考えれば良いのだろうか.

写真:
「聖母被昇天」
ピントリッキオ


 「聖母被昇天」は,マンドルラの中の被昇天の聖母が天使たちに囲まれている上部と,それを見つめる聖人たちを描いた下部で構成されており,下部の聖人たちと上部の天使たちはペルジーノ風だが,聖母の顔は間違いなくピントリッキオ風である.

 これと明らかに似た構図の「聖母被昇天」がナポリ大聖堂にある.師匠のペルジーノの作品で1508年から1509年のものとされるので,ピントリッキオの作品に先行している.どちらの絵もおそらく作者がナポリに来て描いたのではないだろう.大きな絵ではあるが,ペルージャ,シエナ,もしくはローマで描かれて,ナポリに運ばれたものと想像する.

 ナポリ大聖堂のペルジーノの作品も立派な祭壇画だけれども,個人的にはピントリッキオの作品の方が完成度が高いように思われる.いずれにせよ,ピントリッキオはペルジーノ工房の有力な助手に制作を手伝ってもらった訳だし,先に描かれたペルジーノの「聖母被昇天」を意識していたことは間違いないだろう.

写真:
フランチェスコ・チチーノ・
ダ・カイアッツォの
三翼祭壇画


 両者の作品が何処で制作されたにせよ,ナポリの教会に飾られ,多くの人が見ただろうから,もちろんナポリのルネサンスに影響はしたと思うが,具体的にどこに影響したかは勉強不足,材料不足で分からない.

 ただ,撮ってきた写真とウーティリを参照する限り,カポディモンテ所蔵の作品では,ボローニャから来てナポリで活動したアントニオ・リンパッタの「玉座の聖母子と聖人たち」,やはりナポリで活動したフランチェスコ・チチーノ・ダ・カイアッツォの三翼祭壇画「玉座の聖母子と聖人たち」などは,少なくともピントリッキオの影響は受けているように思われる.

 前者は1511年,後者は1504年頃の作品とあるので,両者ともピントリッキオの「聖母被昇天」がナポリに到来する以前,特に後者はペルジーノの「聖母被昇天」がナポリ大聖堂に飾られる前の作品なので,ナポリの教会に飾られた作品の影響ということは考えにくい.

 接点があったとすれば,ナポリに近いカゼルタ近郊のカイアッツォの出身のチチーノは,ローマでアントニアッツォ・ロマーノの工房におり,アントニアッツォはペルジーノのシスティーナ礼拝堂の仕事を手伝ったとされる(伊語版ウィキペディア)ので,この時,間接的に,あるいは時代の流行であった実作に直接触れて,ペルジーノ,ピントリッキオの影響を受けたかもしれない.

 リュネットに「ピエタのキリスト」,裾絵に「キリスト復活と十二使徒」のあるチチーノの三翼祭壇画の聖母の顔は,アントニアッツォの聖母よりも,ピントリッキオの描く聖母の顔にしているような気がする.あくまでも「気がする」だけで,強い根拠はない.

 ペルジーノとピントリッキオのナポリにある「聖母被昇天」が直接ナポリのルネサンスに与えた影響は今のところ見いだせていない.


ソドマの「キリスト復活」
 ソドマの「キリスト復活」の存在感は圧倒的に思えた.ピエモンテで生まれ,ロンバルディアの画風を学び,シエナで活躍して,ルネサンス期のシエナ派の代表的な芸術家と考えられ,ローマにも呼ばれて多くの作品を残した偉大な画家である.

 ラファエロやミケランジェロのような世紀の大芸術家とは言えないであろうが,その独特の魅力には抗しがたいものがあり,カポディモンテの作品はその中でも高水準のものと言える.

写真:
「キリスト復活」
ソドマ


 この作品はナポリのサン・トンマーゾ・ダクィーノ教会のためにヴァスト侯爵アルフォンソ・ダヴァロスによって委嘱されたが,多分,画家はナポリには来なかっただろう.

 ウーティリにはシエナからナポリに「発送された」とある.ナポリのルネサンス,マニエリスムにどれだけの影響を与えたのかも不明である.伊語版ウィキペディアの作品リストにもこの作品は載っていないが,私はすばらしい作品だと思う.


チェーザレ・ダ・セストの「三王礼拝」と,その影響
 レオナルドの影響を受けたミラノの画家たち(レオナルデスキ)の中でも,チェーザレ・ダ・セストは特に優れた画家だと思う.カポディモンテの「三王礼拝」は鋭角的なイメージのチェーザレの作品にしては端正にまとめ上げられた美しい絵だ.

 この作品はナポリではなく,1517年に2度目に訪問したメッシーナで,サン・ニッコロ・デイ・ジェンティウォーミニ教会のために描かれた.18世紀にイエズス会が閉鎖された時,ナポリに君臨していたブルボン王家のコレクションに入れられたとのことなので,この絵はナポリのルネサンスに影響を与えてはいないだろう.

 1513年に最初にメッシーナに来た時,ナポリに移動して,1515年にサレルノ近郊のカーヴァ・ディ・テッレーニサンティッシマ・トリニタ大修道院のために多翼祭壇画を描いたとのことだが,この作品に関する情報は今のところがない.

写真:
チェーザレ・ダ・セスト
「三王礼拝」


 チェーザレの伊語版ウィキペディアを見ていたら(2019年5月2日参照),彼の作品としてサレルノ県立絵画館の「イエスの誕生」が挙げられていたが,リンク先ではアンドレア・ダ・サレルノことアンドレア・サバティーニが作者となっている.

 注記によると,従来アンドレアの作とされてきたが,チェーザレの作品であるとする論文が1985年に発表され,現在はチェーザレの作と考えられているということのようだ.

 伊語版ウィキペディアに拠れば,アンドレアは現在のアブルッツォ州に属するチヴィタ・ダントーニオ出身で,ナポリで活躍したアントニオ・ソラーリオ(通称ロ・ズィンガロ)に学んだ.ロ・ズィンガロはヴェネツィアの画家たちの影響を受けたとされるが,ジョヴァンニ・ベッリーニよりも30歳くらい若いので,私たちが「ヴェネツィア派」と聞いてイメージする画風に影響されたことになる.

 カポディモンテでは「統一後の入手作品」としてファルネーゼ・コレクションなどと一緒に展示されている「聖母子と寄進者」を見られる.ロ・ズィンガロもウンブリアの画家たちの影響を受けたらしいが,サバティーニも師匠からの影響とは別に,ローマでペルジーノ,ラファエロの影響を受けたと考えられている.

 伊語版ウィキペディアには,サバティーニは活動初期においてペルジーノ,ピントリッキオの他,チェーザレ・ダ・セストの影響を受けたとある.そう言われて,撮ってきた写真とウーティリを参照すると,確かに彼の「キリスト降架」などは,硬質な色彩感にレオナルデスキの影響があるようにも見える.

 しかし,チェーザレがサレルノで仕事をした1515年には,アンドレアは35歳くらいと思われ,活動初期というより,もう個性の確立した画家であったろうから,果たしてどうだろうか.

写真:
「三王礼拝」と
「聖ヘレナ」(リュネット)
アンドレア・サバティーニ


 アンドレア・サバティーニの作品で,カポディモンテで見られるのは,以下の通り.

 「司教座のバーリの聖ニコラウス」(1514-16年,モンテカッシーノ大修道院)
 「玉座の聖母子と聖マタイ,福音史家ヨハネ」(1515年頃,2010年に取得)
 「聖アンデレと寄進者」(ジョヴァン・フィリッポ・クリスクォーロと共作,1529年,サンタ・マリーア・デッレ・グラーツィエ・ア・カポナーポリ教会)
 「三王礼拝」と「聖ヘレナ」(リュネット)(1520年頃,ブルボン・コレクション)
 「キリスト降架」(1520年頃,ブルボン・コレクション)
 「司教座の聖ベネディクトと教会博士たち」(1529-30年)

 「聖アンデレと寄進者」の共作者として名前の挙がったジョヴァン・フィリッポ・クリスクォーロの作品も1点「嬰児イエスの礼拝と聖人たち」(1545年)という立派な多翼祭壇画が見られる.

 クリスクォーロは,ガエタの出身だが,ガエタで亡くなったサバティーニの画風を学び(伊語版ウィキペディア),ローマに出て,ペリン・デル・ヴァーガの助手を務め,そこからラファエロの技法を学んだ.ペリンはフィレンツェ出身で,最初リドルフォ・デル・ギルランダイオの工房にいたので,あるいはクリスクォーロもフィレンツェ・ルネサンスの系譜に連なる可能性も無しとしない.

 ガエタは現在ラツィオ州に属しているが,カンパーニャ州に隣接していて,当時は教皇領ではなくナポリ王国の領土であり,距離的にもローマとナポリの中間に位置している.クリスクォーロはガエタで生まれ,ガエタで亡くなり,兄弟も娘も名のある画家だったが,ナポリの少なくとも3つの教会に作品を残し,活躍の場は主としてナポリ周辺であっただろう.娘マリアンジョラはナポリで生まれ,ナポリで亡くなっている.

 16世紀のナポリ絵画は,ロンバルディアのレオナルデスキの影響を受け,ヴェネト,マルケ,トスカーナ,ウンブリア,ラツィオの絵画伝統を取り込んで行ったアンドレア・サバティーニ・ダ・サレルノからジョヴァン・フィリップ・クリスクォーロがその中心と言って良いであろうか.


フランドル絵画の影響
 時代は遡って,15世紀のナポリ画壇の中心にいたのは,コラントニオ・デル・フィオーレであろう.カポディモンテで見られる彼の作品は,

 「第一修道会と第二修道会に修道会規則を渡す聖フランチェスコ」(1445年,サン・ロレンツォ・マッジョーレ聖堂)
 「書斎の聖ヒエロニュムス」(1445-46年頃,サン・ロレンツォ・マッジョーレ聖堂)
 「キリスト降架」(1455-60年頃,サン・ドメニコ・マッジョーレ聖堂)
 「聖ヴィンチェンツォ・フェッレル祭壇画」(1456-65年頃,サン・ピエトロ・マルティーレ教会

の4点である.

 「キリスト降架」が最もそのように感じさせるが,明らかにフランドル絵画の影響の濃い画家と言えよう.ヤン・ファン・エイクロヒール・ファン・デル・ウェイデンペトルス・クリストゥスの影響が見られ,特にナポリ王ルネ・ダンジュー(レナート・ダンジオ)に招聘されたバルテルミー・デイク(ダイク)はコラントニオとその弟子筋にあたるかも知れないアントネッロ・ダ・メッシーナを指導した可能性が高いとされる.

 バルテルミー作の可能性がある作品としては,本来はエクサンプロヴァンスのサン・ソヴール大聖堂のために描かれ,現在は他地方に分散している祭壇画「エクスの受胎告知」が有名だが,これは見ていない.唯一,ル・ピュイの大聖堂付属博物館で「聖家族」を見て報告している,

写真:
「キリスト降架」
コラントニオ・
デル・フィオーレ


 コラントニオは15世紀前半にイタリアの繁栄した宮廷があった都市の文化を担う芸術家としては,やや力不足な感は免れないが,それでも「書斎の聖ヒエロニュムス」(トップの写真)に見られるライオンの表情は好ましく思われるし,聖人の背後の棚にある書物の描き方に細部を丁寧に描く技術をしっかりと身に着けた優れた職人であったことを思わせる.

 師筋と想像されるバルテルミーは写本細密画に力を発揮した画家で,その成果はナポリでも影響を齎したとすれば,コラントニオにもその技術は引き継がれたかも知れない.

 さらに「書斎の聖ヒエロニュムス」と言えば,コラントニオの弟子筋にあたるかも知れないアントネッロ・ダ・メッシーナの同名作品が思い浮かぶ.ルネサンス美術の最高峰の一つと言っても過言ではないアントネッロの同名作品とは比べるべくもないとは思うが,好き嫌いで言えば,私はコラントニオの作品が好きだ.

 フランドル絵画の構築的な画面構成も含めて,その技法を自家薬籠中のものとしてイタリア絵画に完全に取り込んだアントネッロの先人として,ナポリでコラントニオが活躍した意味は意外に大きいのではないかと思う.

写真:
「15世紀の無名の
ナポリの画家」の作品


 15世紀後半にフランドル風の絵を描いたナポリの画家の作品をもう一つ紹介する.「15世紀の無名のナポリの画家」作とされる「大天使ミカエルと聖ヒエロニュムス,ジャーコモ・デッラ・マルカ,トゥルボーロ家の二人の寄進者」(1473-76年)である.

 ウーティリはメムリンクの三翼祭壇画「最後の審判」(1467-71年,グダニスク国立博物館))に描かれたミカエルを思わせるとしているが,そこまではっきり分からなくても,間違いなくフランドル風とほとんどの人が思うだろう.



 ルネサンスと言うよりは,マニエリスムの画家だが,アレッツォ出身でフィレンツェで活躍したヴァザーリは実際にナポリに来たし,シエナ出身のマルコ・ピーノ,フィレンツェ出身のジョヴァンニ・バルドゥッチは活動の中心をナポリにして,ナポリのルネサンス,マニエリスムに影響を与えた.

 彼らの活動に刺激されて,全イタリア的には無名に等しい画家が多いとは言え,ナポリ周辺から生まれ育った画家たちが輩出し,バロック期には,他地域の画家たちを場合によっては凌駕して活躍する素地が作られる.

 15世紀にフランドル絵画の影響を受けた前述のコラントニオの「聖ヴィンチェンツォ・フェッレルの祭壇画」の中央パネルのフェッレルの姿を見ると,ピエロ・デッラ・フランチェスカの作風が思い浮かぶし,実際,多くの論者がピエロの影響を指摘しているようだ.

 ピエロ自身もフランドルの影響を受けたが,端っことは言えトスカーナに生まれ,フィレンツェ周辺でも活躍した芸術家であり,15世紀のナポリ絵画にもやはりシエナ派以外のトスカーナ芸術の影響はあっただろうと思われる.

 ナポリ出身かどうかわからないが,1490年前後にナポリに活動記録が残る,クリストフォロ・ファッフェーオの「玉座の聖母子」(1510年,現在はカラブリア州のコゼンツァのサン・フランチェスコ・ディ・パオラ教会)がカポディモンテで見られる.

 上手ではないかも知れないが,綺麗な金地板絵の祭壇画パネルで,アントニアッツォ・ロマーノを思わせる.実際に,この画家にはアントニアッツォだけではなく,メロッツォ・フォルリ,ペルジーノ,ギルランダイオなど諸方出身の画家が影響が見られる(伊語版ウィキペディア)とのことである.私自身はどこがそれにあたるかまだ理解していないが,ピエロ・デッラ・フランチェスカの影響もあるとのことだ.

 16世紀はじめになってまだ金地板絵なのは驚くが,1515年の作のアンドレア・サバティーニの「玉座の聖母子と聖マタイ,福音史家ヨハネ」も,雰囲気はだいぶ新しいが金地板絵に見えるので,ナポリ周辺では16世紀初頭でもまだ金地板絵の需要があったのかも知れない.

 いずれにせよ,金地板絵が根強く残っていたナポリのルネサンス絵画もフランドルや,イタリア諸地方の影響で,カンヴァス油彩画で鮮やかの色彩の祭壇画が主流となって行くように思われた.

 調べ切れていないので,今回は言及する余裕がなかったが,15世紀から16世紀に移行する過程で,イタリア北部の画家たちの活動がナポリの芸術に大きな影響を与えた.

 名前を挙げると,ヴェローナ画家クリストフォロ・スカッコ,ミラノ出身と思われるプロタジオ・クリヴェッリ,レオナルデスキの一人チェーザレ・ダ・セスト,やはりロンバルディア出身のポリドーロ・ダ・カラヴァッジョで,チェーザレとポリドーロの活動拠点はシチリアのメッシーナだったが,ナポリ周辺でも仕事をして,ナポリの芸術を活性化させた.

 ナポリの王権を担ったのは,フランス出身のアンジュー家と,スペイン出身のトラスタマラ家であるが,どちらもフランドル芸術の影響の強い地域であり,これが,イタリア国内の芸術先進地域である,ヴェネト,トスカーナ,ロンバルディア,ウンブリア,マルケの芸術的影響と融合して,ナポリのルネサンスが形成されていったのであろうと想像するに今はとどめる.

 画家が直接来たかどうかは不明だが,ティツィアーノの「受胎告知」はサン・ドメニコ・マッジョーレ聖堂の祭壇を飾っていたので,バロック以前からナポリにあった作品としてはこれが最高傑作であろう.

 次回は,カポディモンテで見られる,ファルネーゼ・コレクションを中心とするルネサンス絵画について報告する.







ティツィアーノ
「受胎告知」(部分)