フィレンツェだより 第2章「備忘録」
2019年4月23日



 




「聖母子を抱く聖アンナ」(部分)
カポディモンテ美術館 ナポリ



§ナポリ行 その8 カポディモンテ美術館 その1

ナポリに行かなければという焦燥感の背景には,ポンペイ,エルコラーノの遺跡やナポリ国立考古学博物館の古代遺産をこの目で見る,という自分の専門に関連する本来の目的の他に,カポディモンテ美術館への強い憧憬があった.


 一年の滞在期間中に必ずナポリに行くと心に決めていたが,暑い季節は避けたかったので,春,夏はトスカーナを巡り,秋はエミリア・ロマーニャとロンバルディアの諸都市を訪ね歩いているうちに冬になった.

 自由な旅にも自然の流れがある.芸術・文化の伝播の道筋や都市の歴史的な関係を辿る過程で,自身の中に湧いた興味の連鎖から自然に生まれたシリーズが一通りの決着を見るまで,ナポリ訪問が先延ばしになったのはやむを得ないことであった.

 前述のようにナポリには3回行き,12月10日の第一回訪問でカポディモンテ美術館を訪れた.なお,カポディモンテ美術館はMuseoなので,これまでの原則通りなら「博物館」とすべきだが,通称に従って「美術館」と記す.

 初日に考古学博物館に行き,翌日の11日にカポディモンテを目指す過程でスリの一行の標的となり,方向違いのバスに押し込まれて,約170ユーロを見事に掏られた顛末は昨年12月17日の回に報告した.

 ショックは取りあえず心の隅に追いやって,気を取り直して向かったカポディモンテ美術館は素晴らしかった.心の傷は完治しなかったが,それでもしばし痛みを忘れ,およそ5時間,芸術作品をひたすら観た.

 こうしてカポディモンテの名は不幸にもスリの記憶とセットになったが,だから行かないという選択肢はもちろん無い.実際,2018年の3月19日にもう一度行き,この時は,高橋教授,北村博士と一緒で,イタリア語堪能で座持ちの良い北村博士のおかげで,行き帰りのタクシーの運転手さんたちの機嫌がとても良かったので,楽しい記憶を上書きすることができた.

 渡伊前に,日本でカポディモンテを先行体験している.2010年に東京の国立西洋美術館(6/26-9/26)と京都文化博物館(10/9-12/5)で開催された「カポディモンテ美術館展 ルネサンスからバロックまで」(以下,カポディモンテ展)という特別展を上野に観に行った.

 その時の感想はフィレンツェだよりで報告しているが,2010年代の後半からイタリアの美術館や特別展では,写真撮影可の場合が増えたが,日本の特別展は撮影できないし,カポディモンテ美術館は未訪だったので,この時は,特別展でまずまず心に残った画家の別の作品の写真(以前にローマやヴェローナで撮影したもの)を参考資料として掲載した.

 このカポディモンテ展に来た作品のうち,絵画に関しては,ナポリでほぼ全てを再見し,不満足な状態だが写真に収めることができた.2回目の訪問の時には,ミラノのカラヴァッジョ展に出張していたカラヴァッジョの「キリスト笞刑」が戻って来ていて,ミラノでは撮ることができなかった写真を撮ることもできた.

 今回の報告にあたって参考にしているのは,その際に購入した,

 渡辺晋輔/他(編)『ナポリ・宮廷と美 カポディモンテ美術館展 ルネサンスからバロックまで』TBSテレビ/東京新聞,2010(以下,『図録』)

と,同年の12月にイタリア・アマゾンで購入した,

 Mariella Utili (ed.), Museo del Capodimonte, Milano: Touring Club Italiano, 2008(以下,ウーティリ)

である.特に日本の特別展で観た作品は『図録』を,それ以外はウーティリとウェブページを参考にした.


「トゥールーズの聖ルイ」
 カポディモンテで何を一番見たかっただろうか.最初に行った時,カラヴァッジョがミラノの特別展に出張中なのは分かっていたが,たとえカラヴァッジョがあったとしても,多分,一番見たかったのはシモーネ・マルティーニの祭壇画「弟ロベールに冠を授けるトゥールーズの聖ルイ」であろう.

 この作品は,結局,12月11日のカポディモンテ見学のほぼ最後に観ることができた.やはり,私にとってはこの作品がカポディモンテの最高傑作である.

写真:
「弟ロベールに
冠を授ける
トゥールーズの
聖ルイ」


 作品の素晴らしさはもちろんだが,この絵には歴史的に重要な意味が少なくとも2つある.一つは描かれた内容で,もう一つはシエナの画家がナポリでこの絵を描いたということだ.

 まず描かれた内容について見ていこう.作品のタイトルから,玉座にいるのが「トゥールーズの聖ルイ」で,跪いているのが弟であるロベルト(ロベール・ダンジュー)であることが分かる.

 ルイはフランス語の名前で,イタリア語ではルイージもしくはルドヴィーコ,ヴェネツィアではアルヴィーゼ,ドイツ語ではルートヴィッヒにあたる.わざわざ「ルイ」と記すからには,フランスに出自のある聖人ということになるが,「聖ルイ」と呼ばれるフランス人の聖人は少なくとも2人いる.

 一人は「聖王ルイ」と呼ばれる13世紀のフランス国王ルイ9世で,1217年に生まれ,1226年から1270年までフランス国王だった.彼の在位中に,彼自身が率いる2回の十字軍遠征が実現している.

 1229年,少年王である彼を後見する母ブランシュの力で,アルビジョア十字軍が終結し,北フランスを勢力圏としていたフランス王国の影響が南仏にも広がると,1248年には第7次十字軍を率いてエジプトを攻撃したが,敗れて捕虜となり,莫大な身代金を払って解放されると,エルサレム巡礼を行なった.

 晩年の1270年には第8次十字軍を率いて,北アフリカに侵攻したが,テュニスの付近で陣没した.1297年に列聖されている.



 もう一人の聖ルイが「トゥールーズの聖ルイ」で,ルイ9世と同じフランスのカペー王家の出自で,ルイ9世は「トゥールーズの聖ルイ」の大伯父にあたる.

 ルイ9世の弟シャルルがアンジューとメーヌの伯爵に報じられ,そのアンジュー伯シャルル(シャルル・ダンジュー)が1266年にシチリア王カルロス1世になり,ベネヴェントの戦いタリアコッツォの戦いで,ホーエンシュタウフェン家の後継者たちを破り,南イタリアに覇を唱えた.

 シャルルの野望を叶えるには多額の戦費が必要で,重税や圧制に対して,イタリア人のフランス人統治への不満が高まる中,フランス軍兵士の暴行をきっかけとして,フランス系住民がパレルモで虐殺される「シチリアの晩禱」事件が起きる.

 これを機に,シャルルと因縁のあったスペインのアラゴン王国のペドロ3世がシチリアに侵攻し,シャルル(カルロ)は後継者である息子のカルロ2世とともにナポリに本拠を移し,シチリアの王座はアンジュー家の手を離れる.

 カルロ2世には嫡出男子が少なくとも5人おり,長子がシャルル・マルテル,次男がルイ,三男がロベールで,四男がフィリップ,五男がジャンであった.シャルル・マルテルはサレルノに領地をもらい,母がハンガリー王家の出だったので,名目上のハンガリー王となったが,父シャルルの在世中に24歳で亡くなる.彼の子孫はハンガリー王位を継いだ.

 次男のルイは,清貧,貞潔,従順を旨とするフランチェスコ修道会に入り,継承権を弟のロベールに譲ったので,父の死後はロベールがロベルト1世としてナポリ王(正式にはシチリア王だが,実態に即してナポリ王と呼ばれたようだ)となる.



 「トゥールーズの聖ルイ」となった次男ルイの生涯をもう少し詳しく見ていく.

 1274年に南フランスプロヴァンス地方のブリニョルもしくは,古代ポンペイの近くの町ノチェーラで生まれたとされ,後者は特に彼が幼年期を過ごした地とされる.

 シチリアの晩禱事件に乗じてアラゴン王ペドロ3世が攻めてきた際,カルロ1世ことシャルル・ダンジューは捕虜となり,自身の解放の条件として,ルイを含む3人の息子を人質に供したので,息子たちはシチリアからカタルーニャに移送され,そこでフランチェスコ会修道士たちの教育を受ける.

 ルイは,ウィッラ・ノウァ(アラゴンのサラゴサ近郊のヴィヤヌエーヴァもしくは南仏モンペリエ近郊のヴィユヌーヴ・マグローヌ)出身の医師で思想家のアルナルドゥスの影響を受けたとする説(英語版ウィキペディア)と,影響したのは,フランチェスコ会修道士のフランソワ・ブラン,ピエール・スカリエ,同会出身の神学者ピエトロ・ジョヴァンニ・オリーヴィとする説(伊語版ウィキペディア)があるが,とにかく神学と哲学を学んだ.

 1295年に兄のシャルル・マルテルが亡くなり,父シャルルの継承権は彼のものとなったが,上述のように,継承権を弟のロベールに譲渡し,フランチェスコ会士となり,教皇ボニファティウス8世によってトゥールーズの司教に叙階された.

 1297年2月に司教となり,貧しい者たち,飢えた者たちのために尽くしたが,過労で倒れ,僅か6か月で辞職して,同年の8月に生地かもしれないブリニョルで熱病のため,23歳の短い生涯を閉じた.1317年に列聖され,その年にロベルト王がシモーネ・マルティーニにこの祭壇画を委嘱し,おそらく注文から間を置かずに完成したものと思われる.

 豪華な司教服に身を包んだ荘厳な姿は,清貧を重んじ,それもあって若くしてなくなったルイにふさわしいものではないかも知れないが,王族出身(父はフランス王家から分かれたナポリ王,母はハンガリー王家の出身)でありながら,王位を放棄して修道士となることを選んだ高潔の士を,俗人に分かりやすいように高貴な姿で描いたものであると思いたい.

 ルイには清貧を旨とする宗教的志向を育む資質と環境があったのかも知れない.母マリアの父がイストヴァン5世,祖父がベラ4世,曾祖父がアンドラス2世とハンガリーの歴代の王だが,アンドラス2世の娘が,やはりフランチェスコ会に関係の深い聖人「ハンガリーの聖エリザベト」である.今まで考えたこともなかったので,特に記したが,血縁も遠いし,ただの偶然かも知れない.


ナポリで筆をとったシエナの画家
 シモーネ・マルティーニがナポリに来たことは記録上,確認できるのであろうか.後述するジョットがロベルト王に招かれ,ナポリで多くの仕事をしたことは,ヴァザーリの『芸術家列伝』の「ジョット伝」に見える.

 しかし,同書の「シモーネ伝」にはシモーネがナポリに赴いたという言及はない.そもそも「シモーネ伝」には多くの誤解が見られ,大芸術家の伝記としては随分不正確なものに思われる.

 チェチリア・ヤンネンッラ,石原宏(訳)『シモーネ・マルティーニ』東京書籍,1994

に拠れば,この祭壇画にシモーネの署名がある以外には直接証拠はないが,彼のナポリ滞在は概ね認められているとのことである.また,

 ピエルルイージ・レオーネ・デ・カストリス,野村幸弘(訳)『シモーネ・マルティーニ』京都書院,1994

に,より詳しい解説があって,裾絵(プレデッラ)の上部を区切っているハンガリー・アンジュー家の6つの家紋の間に2文字ずつ書かれた文字を判読してシモーネ・マルティーニの署名であるとした19世紀の研究者の名前を挙げている.


「トゥールーズの聖ルイ」の裾絵


 裾絵は5面からなり,左から,「教皇ボニファティウス8世によりフランシスコ会入会許可」,「フランシスコ会入会とトゥールーズ司教叙任」,「貧しい者たちの食事への招待」,「ルイの死」,「死後の奇跡」で,ここには,上部パネルの最上部でルイに宗教的な意味での戴冠を施す天使たちの姿と同様に,ジョットの影響を受けた遠近法的画風が見られるとのことだ.

 そもそもこの絵が,通説のようにサン・ロレンツォ・マッジョーレ聖堂にあったのか,同じくフランチェスコ会に関係するサンタ・キアーラ聖堂にあったのかも,長い間に渡って議論されたようだ.

 現在は,アッシジのサン・フランチェスコ聖堂のサン・マルティーノ礼拝堂のフレスコ画との類似から,両者ともシモーネ・マルティーニの作品であるのは間違いが無いとされているが,それでもシモーネがナポリに滞在してこの絵を描いた証拠はないようである.

 この作品を委嘱された1317年は30代前半で,既にドゥッチョの影響を脱した聖母子を何点か描き,シエナのパラッツォ・プッブリコの「荘厳の聖母子と聖人たち」,アッシジのサン・フランチェスコ聖堂サン・マルティーノ礼拝堂の「聖マルティヌスの物語」などを完成し,大芸術家への道を歩み始めていた.

 アヴィニョンで亡くなるのが1344年とされるので,その死までは27年ある.「若き巨匠」の作品と言えよう.美しい.ジョットの影響もあるのであろうが,やはりシモーネ独自の世界が表現されているように思う.

写真:
「祝福する救世主」
リッポ・ヴァンニ


 シモーネが築いた実績があってのことかどうかは分からないが,カポディモンテでシエナ派の画家の作品が他に少なくとも3点見られた.リッポ・ヴァンニ「祝福する救世主」(1342-43年頃),アンドレーア・ヴァンニ「使徒大ヤコブ」(1365年頃),マッテオ・ディ・ジョヴァンニ「嬰児虐殺」(1468-88年の間)である.

 今のところ,英語版,伊語版のウィキペディアとウーティリしか情報源がないが,リッポとアンドレーアは兄弟で,二人ともナポリで仕事をしたと伊語版ウィキペディアには説明されている.美術館の説明プレートにある制作年代を見ると,同時にナポリで仕事をしたわけではないようだ.

 どちらの名を聞いてもシエナ派の画家であろうと認識できるし,調べたら,シエナやフィレンツェで何点かの作品を観ていることが分かった.特にアンドレーアの方は画家であるにとどまらず,公職にもついたらしく,もしかしたら,外交使節を兼ねてナポリに行くというようなことがあったのかも知れないが,今のところ不明だ.

 「祝福する救世主」はシモーネ・マルティーニの作とされていた時もあり,もちろん,二人ともシモーネの影響は受けていたであろう.

 サン・セポルクロ出身のマッテオ・ディ・ジョヴァンニの活躍した時代は,既に15世紀も後半で,「嬰児虐殺」の絵を彼に依頼したのは,ナポリの王権をアンジュー家から奪ったアラゴン王国のトラスタマラ家のアルフォンソ(アラゴン王としては5世,シチリア王,ナポリ王としては1世)であった.「嬰児虐殺」はサンタ・カテリーナ・ア・フォルミエッロ教会に飾られていた.

 もはや時代はルネサンスだったので,シモーネ・マルティーニは遠い昔の芸術家だった.


ナポリで筆をとったフィレンツェ周辺の画家
 シエナ派のナポリでの活躍は今一つはっきりしないが,上述のようにジョットがナポリで多くの仕事をしたことはヴァザーリが証言している.ただし,ナポリにはジョットの作品は現存しない.

 間違いなくジョットの影響を受けた地元の画家としてロベルト・ディ・オデリージオが挙げられる.彼の作品はカポディモンテで2点観ることができる.どちらもリュネット型のテンペラ板絵で,「キリスト磔刑」(1335年頃)と「謙譲の聖母子」(1340-45年頃)である.

 絵を直接観た上での感想としては,全く確信が持てないが,ウーティリその他を参照する限り「ナポリのジョッテスキ」の一人と言って良いのだろう.

写真:
「キリスト磔刑」
(部分)
ロベルトディ・
オデリージオ


 ジョットのナポリ滞在は1328年から1333年とのことであれば,シモーネ・マルティーニの10年以上後ということになる.ジョットの誕生が1267年頃とすれは,巨匠は60歳を越していると思われ,サンタ・キアーラ聖堂,カステル・ヌォーヴォでフレスコ画の仕事をしたとすれば,当然,弟子筋の人々も同道していたであろう.

 どのような経緯か理解していないが,ロベルト・ディ・オデリージオの現存作品には,ジョットとマーゾ・ディ・バンコの影響が見られると考えられている.

 「キリスト磔刑」の方は特にサンタ・キアーラ聖堂にあったであろうジョット工房のフレスコ画の影響を受けているということだが,図像プログラムなどはともかく,絵としての水準は高いとは思えない.エボリのサン・フランチェスコ教会にあった作品とのことだ.

 「謙譲の聖母子」の方が状態も良く,綺麗に描けているように思われる.素人目にはそれこそシエナ派の影響があるように見えるが,ウーティリはやはりジョットとマーゾの影響を指摘している.

 カポディモンテで見られるトスカーナの有名な画家のルネサンス絵画の殆どはファルネーゼ・コレクションである.しかし,シモーネ・マルティーニ,リッポ・ヴァンニ,アンドレーア・ヴァンニらの作品は,画家がシエナからナポリまで来て絵筆を握り,ナポリの芸術に大きな影響を齎したこと,ジョット工房がナポリに到来し,ナポリにジョットの影響を受けた画家を生んだことを教えてくれる.


「大修道院長アントニウスと聖人たち」
ニッコロ・ディ・トンマーゾ


 ロベルト王の跡を引き継いだ孫娘ジョヴァンナ1世(ジャンヌ)もまた,トスカーナの画家を招いた.呼ばれたのはフィレンツェの画家ニッコロ・ディ・トンマーゾで,カステル・ヌオーヴォに彼のフレスコ画が残っている.カポディモンテではサンタントーニオ・ア・フォリア教会のために描いた祭壇画「大修道院長アントニウスと聖人たち」(1371年)を観ることができる.

 ニッコロ・ディ・トンマーゾはピストイアの旧サンタントーニオ・アバーテ教会,通称タウ祈禱堂にアントーニオ・ヴィーテとともにフレスコ画「旧約聖書の物語」,「新約聖書の物語」,「大修道院長アントニウスの物語」を描いた画家で,オルカーニャの影響を受けているとされる.

 彼の絵は,この時代の金地板絵としてなかなかの水準と思われ,ナポリの後期ゴシック絵画に影響を及ぼしたと思われる,シモーネ・マルティーニとシエナ派の画家たち,ジョットとジョッテスキの画家たちの中の重要な一人と言って良いのではないだろうか.

 こうして招かれた,当時は先進的であったトスカーナの画家たちの影響もあり,ナポリ周辺でも一定の水準を超えたゴシック絵画の画家たちが輩出したものと想像される.それをカポディモンテで確認できるのが,上述のロベルト・ディ・オデリージオの2点のテンペラ画である.

 オデリージオ以外の画家の作品でも「フランチェスコ会の聖人たちを描いたテンペラ画の親方」と通称される画家の「授乳の聖母子と聖ドミニクス」,「聖ラディスラウスの物語の親方」の,多翼祭壇画の部分だった3枚のパネル「聖母子を抱く聖アンナ」,「聖ペテロ」,「聖パウロ」(1403年以後)などはそれなりに見応えがある.

 前者は,フランチェスコ会の聖人たち4点のテンペラ画を遺しているのでこのような通称になるようだが,名前の元となった作品がどこにあるのかはウーティリにも情報はない.カポディモンテの作品は元々サン・ドメニコ・マッジョーレ聖堂にあったとのことだ.画風はジョット風で,名前が知られている画家としてはクリストフォロ・オリミーナが近いとウーティリは言っているが,判断の仕様がない.

 後者の作品は既に15世紀に入ってからのもののようだ.トップに写真を紹介した「聖母子を抱く聖アンナ」はマザッチョとマゾリーノの共作「聖母子と聖アンナ」(ウフィッツィ美術館,1424年頃)に先駆ける,いわゆる「アンナ・メッテルツァ」の作例として貴重だ.

 聖母子の造形も見事だが,何よりもアンナの存在感が際立っている.アンナに比べて幼児のイエスはともかく,マリアが小さすぎて非現実的だが,「神の祖母」としてのアンナの威厳をいかんなく表現しているように思われる.

 両脇に飾られているペテロとパウロも立派で,これこそナポリのジョッテスキの遅まきながらの完成形と思いたいが,ウーティリはナポリのあるカンパーニャ州ではなく,アドリア海側のマルケ州で活躍した可能性のある画家としている.フィレンツェの画家で言えば,ロレンツォ・ディ・ビッチの絵に似ているように思えるが,偶然かも知れないし,そもそも私の勘違いかもしれない.


フィレンツェやシエナの画家が来る前は
 ナポリのゴシックに関しては,材料が少なすぎて,これだけでは何とも言えないし,シモーネ・マルティーニやジョットの到来以前にはどのようだったのかも想像を働かせるしかないが,カポディモンテにその時代の作品が数点展示されていて,多少の手がかりになる.

 プレートに「カンパーニャの無名の画家」とある二人の画家の作品は,「聖母」及び「幼児イエス」断片(1280年頃)と,「玉座の聖母子」(1290年頃)で,前者はサンタニェッロ・ア・カポナーポリ教会に,後者はナポリから南に位置するアマルフィ近郊のサンタ・マリア・デ・フルミネ教会にあった.

 どちらの作品も素人目にはビザンティン風に感じられるが,後者は特に華やかで聖母の両肩に分かれて「母」(メーテール)と「神の」(テウー)とギリシア語の略語が書かれていて,いっそうビザンティン風に思える.

写真:
カンパーニャの無名の画家
の「玉座の聖母」(部分)
1290年頃


 もう1点ジョヴァンニ・ダ・ターラント作とされるテンペラのコマ絵付きパネル画「聖ドミニクスとその物語」は,トスカーナでも良く見られるタイプの聖人画をもう少し古拙にした感じで,イタリア的に思える.

 ターラント出身であればプーリア州なので,ナポリからは遠いが,ナポリでも活躍した(ナポリのサン・ピエトロ・マルティーレ教会にこの作品はあった)のであれば,これからトスカーナの巨匠たちを迎えて,花開いていくナポリのゴシック絵画の基礎を作った芸術家の一人と思いたい.

 ルネサンス以降に関しては次回に続く,としたい.







「聖ラディスラウスの物語の親方」の
残存する3枚の祭壇画パネル