§ナポリ行 その6 考古学博物館のフレスコ画(その3)
“ポンペイの壁画”には流行があって,様式の変遷とともに様々な主題が描かれたことを紹介したので,今回は様式の考察に加えて,選ばれた主題の中に見える当時の文化についても少し考えてみたい. |
前回,ポンペイ周辺に残るフレスコ画の基準にして,前2世紀から後79年の大噴火までの時期を4つに分け,それぞれの時代に流行した4つの様式について不十分ながら考察した.
改めて簡単に整理すると,
第Ⅰ様式(前2世紀から前80年頃):漆喰に切れ目を入れて彩色し,積み石や化粧大理石を絵で表現したもの.
第Ⅱ様式(前80年頃から前20-前10年頃):遠近法的な技法で建築物の絵を描くことで奥行き感を出し,窓のない狭い部屋に,外部への疑似的な開放感を持たせる.
第Ⅲ様式(前20-前10年頃から後62年):第Ⅱ様式で培われた建築物の絵を洗練させて,画面分割の装飾的な枠として用い,各画面中央などに,人物や風景,物語の絵を描き,奥行き感を排して,閉ざされた空間としての部屋の装飾を最重要事とする.
第Ⅳ様式(後62年から79年):第Ⅱ様式の奥行き感のある建物の絵と第Ⅲ様式の洗練されたデザイン性の高い装飾をともに取り入れる.
となるように思われるが,間違っているかもしれない.他人様の書いた解説を実例の写真と見比べながら読んでも,なかなか理解に至らないので,暫定的にそのように考えておく.
前回は様式ごとに作品を紹介したが,今回は同じくナポリ考古学博物館所蔵の作品を,モチーフごとに紹介したい.それらは,前々回紹介したポンペイの「ディオスクロイの家」,「悲劇詩人の家」から出土したフレスコ画と同じように,個人邸宅から出土した作品である.
静物画
「ユリア・フェリックスの家」からは,「静物画」と称される作品群が出土した.金属製の食器も描き込まれた「卵と獲物の鳥」,ガラス製の透明容器に入った「ガラス器に入った果物」,「パン」その他のリアルさに目を見張る.
英語版ウィキペディア「ポンペイの諸様式」とそこからリンクされているウィキメディア・コモンズではこの「静物画」群を「第Ⅱ様式」としているが,
Roger Ling, Roman Painting, Cambridge University Press, 1991
では,紀元後1世紀の第3四半世紀の作品とされており,であれば,第Ⅲ様式の終期から第Ⅳ様式の可能性が高いように思われる.また,これらの「静物画」をフリーズ(装飾帯)状に上部に戴く壁面全体の装飾を見ると,素人考えでも第Ⅳ様式,少なくとも第Ⅲ様式ではないかと思われる.
もし,フリーズ部分のリアル感が第Ⅱ様式を思わせるのであれば,諸要素を取り入れた第Ⅳ様式と考えて良いのではないか.
ここではタブロー画状の「ガラス器に入った果物」の絵(トップの写真)と共に,「パン」,「水の中の魚」,「卵と獲物の鳥」,「食材と筆記具のある棚」の4つの絵が,上部にフリーズ状に並んだ壁面の写真を紹介する.

英語版ウィキペディアでは,モザイク編で紹介した「サンダルの紐を解くヴィーナス」(通称「ビキニを纏ったヴィーナス」)の大理石像がこの家にあったとしているが,別の資料では違う「家」からの出土となっている.
「マルクス・ルクレティウス・フロントの家」出土のフレスコ画にも,書き板,貨幣,パピルスの巻物を入れた円筒形の容器,白い布袋が描かれていて,当時の筆記用具,文房具を視覚的に理解できる.
神話を描いた作品
「百年祭の家」(カーザ・ディ・チェンティナーリオ)に残っていた「ヴェスヴィオ火山と葡萄の房を身に纏ったディオニュソス」は,下方に描かれた大蛇が目を惹く作品だ.この蛇は,古代宗教では葡萄畑の「良き精霊」(アガトス・ダイモン)である神アガトダイモンを象徴するものとされている.
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写真:
「ヴェスヴィオ火山と
葡萄の房を身に纏った
ディオニュソス」 |
ヴェスヴィオ山の麓で足元に豹を従えたディオニュソスが,左手にテュルソスという杖を持ち,右手に持ったカンタロス型の杯から大地に葡萄酒を注いでいる.葡萄の房を纏ったその姿は,荘厳な姿の処女神が体中に乳房をつけている「エペソスのアルテミス」を思わせる.
ララリウムといわれる家神ラル(複数形ラレス)を祀った祭壇周辺に描かれたこの絵は,第Ⅳ様式とされる.ララリウムに関してはポンペイの回で報告する.

左:「傷を治療してもらうアエネアス」 右:「沈思のディドー」 |
ローマの建国伝説に取材したフレスコ画として「傷を治療してもらうアエネアス」,「沈思のディドー」を観た.前者は「ププリウス・ウェディウス・シリクスの家」から,後者は「メレアグロスの家」から出土した.
肖像画
大きさや迫力等の点では,エルコラーノ出土の「アキレウスとケイロン」,「ヘラクレスとテレポス」には及ばないが,ポンペイ出土のフレスコ画と聞いて,真っ先に思い浮かぶであろう作品がある.「伝サッポーの肖像」,「若い夫婦の肖像」,通称「フローラ」の3作品だ.ただし,「フローラ」はスタビアエの「アリアンナ荘」を飾っていたもので,ポンペイ出土ではない.
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写真: 「伝サッポー」 |
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「伝サッポー」は西側の第6地区に分類される地域で,1760年に発見された.
左手に蠟を塗った書板を持ち,右手の鉄筆を口にあてて,何か草案を練っているように見えることから,有名な女性詩人の名で呼ばれているが,落ちついた大人の女性のイメージがあるサッポーより,紀元後50年頃の実在の文学少女をモデルにしているようにも見える.髪を飾っているネットや装身具が金製に見えるところからも,高所得層出身の女性であろう.
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写真:
「若い夫婦の肖像」 |
「若い夫婦の肖像」は,パクウィウス・プロクルスもしくはテレンティウス・ネオ夫妻の肖像という仮説が立てられ,後者はパン屋(ロベール・エティエンヌ『ポンペイ・奇跡の町』創元社,1991,pp.92-93)とされることが多いように思われるが,デ・カーロは法律家と言っている.
男性が持っている巻物は法律家や政治家を表している可能性があるので,現に法律家とも言えるし,稼いだ金を駆使して,階級上昇を目指している野心的な商人かも知れない.
エティエンヌは,女性が持っている二つ折れの書版は勘定書きで,表情は「色気にあふれ,意地悪で,ずる賢そう」で,「ポーズを取って人の目を欺こうとしている」としている.私には,読み書きのできる中流階級出身の若い女性が叩き上げの青年と結ばれ,彼の野心を支えて行こうとしているように見えるが,いずれも主観的過ぎるかも知れない.
最初は「パクウィウス・プロクルスの家」から発見されたと誤解されていたが,家の外にテレンティウス・ネオの名が残っている家から発見されたことが分かり,この家が「パン屋」仕様になっていたことから,パン屋という説が生まれた.服装も,男女とも商人階級のものとされる.
「テレンティウス・ネオの家」は第7地域(レギオ)第2地区(インスラ)6番,パクウィウス・プロクルスの家は第1地域第7地区1番で,比較的近い.パクウィウス・プロクルスの家は,2017年12月21日に確かに見学し,その見事な床モザイクを観たので,ポンペイの回に紹介するが,テレンティウス・ネオの家はウェブ上の写真でも今のところ確認できない.
イシス神殿のフレスコ画
ポンペイの公共建築や宗教施設については,やはりポンペイの回にまとめたいと思うが,ナポリ考古学博物館で多くの遺産を観ることができたイシス神殿に関しては,ここで簡単に述べたい.
イシスはエジプトの女神で,兄弟セトに殺された夫オシリスを甦らせ,息子ホルスに後世のエジプト王権の象徴となるような立場を確保した.
一連の物語は,エジプト古代文字が解読されるより前に,後1世紀中ごろから2世紀初めまで生きたローマ時代のギリシア語作家プルタルコスの著した『エジプト神イシスとオシリスの伝説について』(柳沼重剛訳,岩波文庫,1996)によって西洋に伝えられた.
物語にちりばめられた「夫婦」,「母子」,「兄弟相克」,「王殺し」,「死と再生」といった主題の中で,イシスが殺された夫の再生に力を尽くし,王統を子に伝えるという物語の根幹は,死からの救済と現世の繁栄を希求する者たちにとって,十分に魅力的な信仰の対象になり得た.
ヘレニズム時代の地中海という大きな器の中でローマ人の宗教形態が変化を遂げる過程において,東方起源の様々な信仰が大きなかかわりを持つ.その一つがイシス信仰であり,他にも大地母神キュベレ,太陽信仰と深い関わりを持つと思われるミトラ,治癒神セラピス(サラピス)の信仰が影響を与えた.
最終的には,やはり東方に起源を持つキリスト教が勝利を収め,古代末期から中世以降のヨーロッパ世界を形成していくが,東方諸宗教がキリスト教にも影響を与えたのは確かだろう.
セラピス信仰については,ヘレニズム時代に,支配者であるギリシア人(マケドニア人)と,被支配者ではあるが圧倒的多数のエジプト人のそれぞれの信仰の融合を図って形作られたもので,セラピス(もしくはサラピス)という名称は,オシリス(エジプト名アセルもしくはアサル)と,オシリス信仰と関係が深く,創造神プタハの化身ともされる牡牛アピス(もしくはハピス)の名を組み合わせて作られた.
セラピス信仰がまず東地中海世界に広がり,ローマの東方進出とそれに伴う東から西への人口移動に伴って,ローマの支配地域にも広まっていったように,イシス信仰もヘレニズム的要素を吸収しながら,ローマ人,イタリア人の心を捉えて行った.
イシス信仰がポンペイに到来したのは紀元前100年頃とされ,神殿の創建もその頃と考えられるが,現存する神殿は後62年の地震後に再建されたものである.
通りに面した入り口に残る刻銘によると,解放奴隷ヌメリウス・ポピディウス・アンプリアトゥスが息子ケルシヌスの名前で資金を出して神殿を再建し,解放奴隷本人にはその資格はないが息子は自由市民として生まれたので,これによって都市参事会員に選ばれたようだ.
地震後の再建という事実によって,神殿および神域から出土した多くのフレスコ画は第Ⅳ様式と考えられており,ポルティコの壁面を飾っていたポンペイの赤を基調とする繊細な装飾壁画を始めとする多くの作品は,現在はナポリ考古学博物館に所蔵されている.
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写真:
イシス神殿の後ろにあった
信者用集会所の
フレスコ画 |
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このイシス神殿に描かれたフレスコ画から,エジプト信仰がどのようにイタリアで受容されていったのか,その手がかりが得られる.上掲のフレスコ画で手を取り合っている二人の女性のうち,左側の男性に担ぎ上げられている女性がキーとなる.
情景は,足元にワニがいるのでナイル川のほとりであり,後方にいる男女二人は,儀式に使うシストルム(ギリシア語の「振られるもの」セイストロンのラテン語形)という楽器を右手に持っており,司祭と巫女のように見える.実際にポンペイのイシス神殿からシストルムも出土し,考古学博物館に展示されている.また,男性は,蛇がからんでいるように見える杖を左手持っていて,ヘルメスのようにも見える.
種明かしをすると,右手前にいるコブラを左手に抱えた女性はイシス,左側はイオで,この「カノポスでイオを迎えるイシス」には,河の神に支えられ,エジプト北岸の町カノポスに上陸したイオを迎えるイシスが描かれている.
ギリシア神話で,イオはゼウスの子を身ごもるが,突如現れた妻ヘラの嫉妬をかわそうとしたゼウスによって牝牛の姿にされ,それに気づいたヘラが,その美しい牝牛をゼウスからもらい受け,百眼の怪物アルゴスに見張らせたので,逃げることができなくなる.
ゼウスの意を受けたヘルメスがアルゴスを殺したが,ヘラは虻を送ってイオを苦しめたので,イオは牝牛の姿のまま,どこまでも追いかけてくる虻に苦しみながら彷徨った挙句,エジプトに着き,そこでゼウスの子エパポスを生んだ.
その後,人間の姿に戻ったイオはエジプト王の妻となり,息子エパポスはナイル川の神の娘との間にリビュエを儲け,リビュエが海神ポセイドンとの間にアゲノルとベロスを生む.
ベロスの双子の息子がダナオスとアイギュプトスで,ダナオスはギリシアに渡ってアルゴス王となり,ホメロスが「ダナオイ人」と称するギリシア人たちの名のもととなった.アイギュプトスは日本語のエジプトの語源なので,エジプトの名祖になったことになる.
ただし,アイギュプトスとエジプト王家の(あくまでもギリシア神話の上のことだが)その後の関係は不明である.
このフレスコ画が描かれていた信者用の集会所(エクレシアステリオン)には,「イオを怪物アルゴスから解放するヘルメス」のフレスコ画もあって,それも考古学博物館で観ることができる.
ギリシア神話では,イオとエジプトの結びつきは上記のようになるが,ヘロドトス『歴史』第1巻冒頭では,ギリシアに交易に来たフェニキア人がアルゴス王イナコスの娘イオを略奪してエジプトに連れ去った,もしくはイオがフェニキアの船長と関係を持ち,妊娠したのを父に知られないため,船長とともに出帆したとしている.
また,第2巻でエジプトの起源,風習を語りながら,ギリシア神話ではイオの子とされるエパポスの名をアピスに当て(38章),牡牛と関係づけている.牝牛をイシスの聖獣とした上で,イシスの神像は「ギリシア人の描くイオの姿と同様に」,牛の角を持った女身としている(41章).
よく見ると確かに,上掲のフレスコ画のイオには角が生えている.こうした伝承を踏まえて,ヘレニズム時代にイシス信仰が西進する過程で,同じく牛の角を持つイシスとイオの関係は一層強調されていったのであろう.
上記の絵ではイシスは右手でイオの右手をとって歓迎の姿勢を示しており,イオとイシスの同定は格別示されていないようだが,エジプトの女神が,ヘレニズムの影響を受けて地中海世界に受け入れられていく過程で,イオとの同一化が図られたのかも知れない.
ポンペイに代表されるイタリアの人々は,このようにギリシア神話と関係させながらイシス信仰を受容したことになる.
さらに,「カノポスでイオを迎えるイシス」の右側の女神がヴィーナスであれば,足元の子どもはエロスであろうが,イシスであればホルスに間違いなく,エジプトから出土する「嬰児のホルスを抱くイシス」がキリスト教の聖母子像の原型となった考える人もおり,それほどイシス信仰の影響はヘレニズム時代の地中海世界で大きかったものと想像される.
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写真:
イシス像 |
ポンペイのイシス神殿のポルティコの北東角から,シストルムとエジプト固有の再生の象徴アンクを持った(ただし,シストルムは亡失)イシス像,信者集会所からもイシスの胸像が出土し,どちらもヘレニズム風の美しい女性像になっている.
本尊と言うべき神像は遺っていないようだが,他に神殿の壁龕からディオニュソス像が出ており,やはり考古学博物館に展示されている.ヘレニズム時代以降オシリスがディオニュソスに比定されるようになり,プトレマイオス朝エジプトでは,セラピスもディオニュソスにあたると考えられていた.
ポンペイのイシス神殿は,地震後すぐ再建された新しい姿のまま,17年後の大噴火で地中に埋もれた.都市参事会員に選出され,選良の道を選び始めた寄進者の息子も多分,若い身空で,有毒ガスか熱風か火山弾で亡くなったものと想像される.痛ましいことではあるが,その遺産は,後の世に,ヘレニズム時代,ローマ時代を学ぶ者にとって貴重な情報を提供してくれている.
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写真:
「イシス神殿の宗教儀式」
エルコラーノ出土 |
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イシス信仰の影響の大きさ,その儀式の様子などは,エルコラーノ出土のフレスコ画「イシス神殿の宗教儀式」からも想像できる.
また意外なことに,作曲家のモーツァルトがポンペイのイシス神殿の遺跡を1769年に訪れたという.そうと知れば,1791年上演のドイツ語オペラ(ジングシュピール)「魔笛」の,「おおイシスよ,オシリスよ」に始まるザラストロの歌がもっとリアルに聞こえようというものだ.歌詞は作曲家が作ったわけではないが,当然,構想段階で台本作家のエマヌエル・シカネーダーと相談したであろうから,この想像はあながち荒唐無稽ではないだろう.
ポンペイ周辺の遺跡
ナポリ考古学博物館に展示されているフレスコ画の多くは,ポンペイから出土したものだが,エルコラーノ出土のものもあり,スタビアエ,オプロンティス,ボスコレアーレ,ボスコトレカーゼなどの地名が出てくる.
ウェブ上の地図を参照すると,ナポリ湾岸の中央部から少し東にヴェスヴィオ山があり,その南麓の海沿いにオプロンティスがある.そこから東に向かって,海からは少し離れた場所で,ヴェスヴィオ山からは南東に位置しているのがポンペイである.
ポンペイ遺跡の南に遺る城門にスタビア門というのがあり,そこから南進してソレント半島の付け根に古代都市スタビアエがあった.そこから半島を西進すると「帰れソレントへ」で有名なソレント(古代名はスッレントゥム)がある.
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「円形闘技場の乱闘」 |
ポンペイ遺跡の南東部にヌケリア門があり,古代にはそこから東進すると,古代都市ヌケリア(現代名はノチェーラ)があった.芸術的とは到底言えない絵だが,そこで起こった歴史的事件が反映されている可能性のあるフレスコ画が考古学博物館にあった.
そこに残っていたフレスコ画から「円形闘技場の乱闘の家」と名付けられた邸宅跡から出土した絵に描かれているのは,タキトゥスが『年代記』14巻17章で「ヌケリアとポンペイの両植民市の住民の間に,残酷な殺し合いがあった」と述べている事件であると考えられている.
紀元後59年頃,リウィネイユス・レグルスという人物が開催した剣闘士の見世物の最中に争い事が起こり,両市の住民たちの乱闘に発展した.主催地のポンペイ市民が優勢を収め,ヌケリア市民の被害が甚大だったので,ローマ元老院がポンペイ市に見世物開催を10年間禁止し,扇動者は追放刑に処せられたとタキトゥスは記している(国原吉之助訳『年代記』岩波文庫,(下),p.188).
事件が起きたのが59年,開催禁止が10年間であれば,79年の大噴火の前の10年間は再び剣闘士競技会などの見世物が開催されたと推測される.ポンペイ遺跡の東端に大きな円形闘技場が現在もほぼ完璧な姿で残っている.
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写真:
乱闘の起きた
円形競技場の遺跡 |
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ポンペイ遺跡の城外にある秘儀荘に向かう時にくぐる北西の門がエルコラーノ門で,そこからヴェスヴィオ山の南麓を,北西方向に向かうと,山の西麓にエルコラーノ(古代名ヘルクラネウム)があった.
現在はナポリから電車に乗ってポンペイに向かう途中にエルコラーノの駅があるので,それほど遠いとは思わないが,他の周辺都市に比べると,古代都市ヘルクラネウムはポンペイよりもナポリに近い.ナポリは大噴火の被害をそれほど受けなかったので,僅かの距離がヘルクラネウムを地中に埋めたことになる.
ボスコレアーレ(「王の森」)はポンペイの北にあって,ヴェスヴィオ火山のまさに麓で,現在は同名の基礎自治体があるが,古代は帝政初期の時代の別荘地で,都市ではなかったからか古代名は確認できない.「ラクリマ・クリスティー」(キリストの涙)という有名なワインのブドウ産地とのことだ.
ボスコレアーレの少し西にあるボスコトレカーゼ(「三軒家(の)森」も同様に現在は同名の基礎自治体があるが,古代名はわからない.ボスコレアーレ同様,ヴェスヴィオ山南麓のポンペイ郊外の別荘地だったと言うことだろう.
ボスコレアーレの「プブリウス・ファンニウス・シュニストルの別荘」,ボスコトレカーゼの「アグリッパ・ポストゥムスの別荘」に残っていたフレスコ画の一部で,ナポリ考古学博物館に展示されているフレスコ画は,それぞれ第Ⅱ様式,第Ⅲ様式を代表する作例として前回紹介した.
オプロンティスは,現在はトッレ・アヌンツィアータ(「告知された聖母の塔」)という基礎自治体になっており,エルコラーノとポンペイの間に鉄道駅もある.そこに「ポッパエアの別荘」と称される遺構があり,第Ⅱ様式や第Ⅲ様式の見事な壁画が残っている.
ポンペイ周辺には,こうした古代遺跡が残る場所が幾つかあるが,まだエルコラーノしか行っていない.いつの日かまた,ナポリに行き,ポンペイ,エルコラーノだけではなく周辺の古代都市,別荘地を訪れてみたい.
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火山周辺 |
ポンペイ周辺から出たフレスコ画についてはまだまだ勉強が追い付かないが,ひとまずナポリの考古学博物館で観ることができたフレスコ画の報告はこれで終わる.
最後に,古代都市ヘルクラネウムの南東に位置する地域で,現在はポルティーチという基礎自治体になっている町から出土したフレスコ画の写真を紹介する.
デ・カーロに拠れば,奥行き感のあり第Ⅱ様式から,高い装飾性を備えた第Ⅲ様式に移行していく時期の作例で,紀元前10年代の作品と考えられている.既にローマはアウグストゥスの時代で帝政最初期で,キリスト教暦は当時のローマ人には全く関係がないが,後世の私たちからすると,紀元前というのはそう言われただけでインパクトがある.
右側の枠内の神殿や旅人を描いた青緑の風景は,オプロンティスにある第Ⅱ様式のフレスコ画を連想させるとのことで,あるいは調べていくと,繋がりが見えてくるところもあるかも知れないが,今のところはペンディングである.
次回は,ナポリ考古学博物館で観た碑文,石棺,浮彫について報告する.
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「緑のモノクロームのデザインのある
建築物」のフレスコ画
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