フィレンツェだより 第2章「備忘録」
2019年3月23日



 




悲劇役者のフレスコ画
国立考古学博物館 ナポリ



§ナポリ行 その4 考古学博物館のフレスコ画(その1)

「フィレンツェだより」では,教会などの宗教施設に描かれた宗教的なフレスコ画を紹介することが多いが,ナポリ考古学博物館所蔵のフレスコ画は,それよりも圧倒的に古いし,題材も様々だ.


 フレスコ画はモザイクに比べて保存が難しいと想像される.たとえ少雨の乾燥地域であっても,露天にあって何度も雨にあたれば,当然,劣化は免れないだろう.何より強い日差しに直接さらされるダメージは大きい.地中に埋もれていたとしても,湿度の高い状態が続けば,相当の経年劣化があるだろう.

 その点,大噴火による短期間の大量の降灰の堆積に埋もれたポンペイ,エルコラーノのフレスコ画は,保存には有利な条件下で長い年月を過ごした.

 当時の文化を伝える多くのものが灰の中に残ったお陰で,彫刻以上に残りにくい古代の絵画も今見ることができる.しかし,被災して死んだ多くの人たちのことを思い,遺跡がそのようにして後世に伝わったことを幸運という言葉で表現することは慎みたい.



 ナポリ考古学博物館収蔵フレスコ画のうち,最も有名な作品はどれだろう.大きさと芸術的達成度を考えると,エルコラーノから出て来た「アキレウスとケイロン」,「ヘラクレスとテレポス」が二大傑作と言って良いであろう.

 しかし,奇異な事に,これらの作品は2016年に日本で開催された「ポンペイの壁画展」で観ることができたのに,3回行ったナポリで一度も見ていない.後者は昨年(2018年),上野の国立西洋美術館で開催された「ミケランジェロと理想の身体」展にも来ていたので,日本で2回も観ている.見応えのある立派な作品ゆえに,世界各地の特別展に貸し出される稼ぎ頭になっているということだろうか.

 と言う訳で,フレスコ画に関しては,少々不全感を伴う鑑賞になったが,大きくて芸術性の高い立派な作品でなくても神話をはじめ,風俗を描いた絵など,興味深い題材の作品をたくさん観ることができた.

 3回,考古学博物館に行き,毎回夢中でシャッターを切ったが,コンデジでも,ある程度の熟練をもってマニュアルで撮るならまだしも,十全ではない光の中で運を天にまかせ,ズームしてオートで撮った写真は,残念な結果に終わったものがほとんどであることを最初に言っておく.


メデイアのフレスコ画
 “剣を抱くメデイア”という主題の作品は,私の見る限り,ナポリ考古学博物館に2つある.一つは,剣を抱いて沈鬱な表情をしたメデイア一人が描かれているフレスコ画で,ポンペイ出土ではなく,現在はカステッランマーレ・ディ・スタビアという基礎自治体になっている古代都市スタビアエのアリアンナ荘の寝室に描かれていたものだ.

 もう一つは,ポンペイの「ディオスクロイの家」出土の作品で,4人の人物が描かれている.

写真:
「剣を抱くメデイア」


 「ディオスクロイの家」から出土した作品は,静謐な場面に見えるが,画面(向かって)右端にいるメデイアは,手にした剣の次の役割をはっきりと意識しており,何かをして遊んでいる子供たちは,ただならぬ気配に不安を感じながら,運命を待っている.

 左端の男は多分,悲劇『メデイア』において,主人公のかつての乳母とともに重要な役割を果たす子供たちの教育係であろう.止めることのできない惨劇への諦念を表現しているように見える.裏切った夫への復讐のため,これから母親が我が子を殺すのである.

 おそらく元の話では,メデイアが,夫イアソンの新しい伴侶となるコリントスの王女とその父であるコリントス王を何らかの方法で殺し,コリントス人たちが,その復讐として,メデイアとイアソンのあいだにできた子供たちを殺したのであろうが,それを母による子殺しの話に変えたのは,エウリピデスの独創であったと考えられている.

 『メデイア』の上演は紀元前431年なので,この物語を描いた陶器画は,これ以後の作であり,メデイアの場面を彫り込んだ石棺パネルは紀元後の帝政ローマ時代のものなので,このフレスコ画はその中間の時代のものと言える.

 デ・カーロに拠れば,この作品には紀元前3世紀初頭の画家ビュザンティオンのティモマコスの影響があると推測されている.

 ティモマコスの作品については,まさにヴェスヴィオ火山の噴火の直接の影響で亡くなった大プリニウスが,『博物誌』(35巻136章)の中で,ユリウス・カエサルが大金を出して,ティモマコスの「アイアス」と「メデイア」を入手したと報告しており,それらの絵はウェヌス・ゲネトリックスの神殿に飾られていたが,紀元後80年の火災で焼失したと推測されている.

 ポンペイの「メデイア」がティモマコスの絵の直接の影響を受けたという証拠はないが,ティモマコスの絵が失われたと推測される後80年の前年まで,ポンペイの「メデイア」も同じイタリアの空の下に存在していた.

 その後,ポンペイは火山灰に埋もれたが,1828年か29年に「ディオスクロイの家」は発掘され,「剣を抱くメデイア」は再び人々の前に姿を現し,現在は額装されてナポリ考古学博物館に展示されている.


その他の「ディオスクロイの家」出土のフレスコ画
 「メデイア」の近くに展示されている「アンドロメダを救うペルセウス」も「ディオスクロイの家」で発見された.

 2008年3月7日にローマに行き,マッシモ宮殿の国立考古学博物館で開催されていた特別展「ポンペイの赤」(ロッソ・ポンペイアーノ)を観て,3月10日付けの「フィレンツェだより」でその報告をしたが,今見返すと,確かに観たと記憶している「ペルセウスとアンドロメダ」を紹介していない.

 撮っていた写真を確認すると,2008年に観た「アンドロメダを救うペルセウス」は,「ディオスクロイの家」の作品とよく似た別の作品で,完成度が今一つなので,紹介しなかったようだ.「ディオスクロイの家」で発見された作品の方が高水準に思える.

 考古学博物館には,岩に縛られたアンドロメダの手を取るペルセウスのフレスコ画が3点あるが,「ディオスクロイの家」の作品の他は,後1世紀の作品というだけで詳しい情報は無い.

写真:
「アンドロメダを救う
ペルセウス」
「ディオスクロイの家」出土


 他に,「ディオスクロイの家」出土の作品としては,仮面を被り,高い靴(コトルノス)を履き,たっぷりとした衣装をまとった悲劇役者が演じている場面の絵(トップの写真)が印象に残る.登場人物は女性と男性だが,当時,女優はいないので演じているのはどちらも男性だ.

 この二人はアウゲテレポスと考えられており,であれば,今回見られなかったエルコラーノ出土の「ヘラクレスとテレポス」とも関係がある.ソポクレスが書いた「テレペイア三部作もしくは四部作」の中に,悲劇もしくはサテュロス劇の『テレポス』があるが,同名作品をアイスキュロス,エウリピデス,その他の詩人たちも書いたらしい.

 2組の「宙を舞う男女」,「美少年エンデュミオンを訪れる月の女神セレネ」,部分しか残っていないが「剣を抜こうとするアキレウス」,「旅人に水を施す女性」,何よりも多分,この屋敷の通称の元となったであろう,ディオスクロイ(カストルとポリュデウケス)がそれぞれ馬を牽く姿で描かれた絵,それらと同様に「ポンペイの赤」を地とする「ディオニュソスとサテュロス」,「玉座のゼウス」を観ることができたが,「秘密の部屋」にあったらしい「ヘルマプロディトスとサテュロス」は見られなかった.

写真:
「スキュロス島の
アキレウスと
オデュッセウス」


 上のフレスコ画の真ん中で楯を足元に置き,剣を手にしているのがアキレウス,彼の右手を自身の右手で押さえている人物はピロス帽を被っているのでオデュッセウスだ.

 迫力ある群像表現が見事なこのフレスコ画は,息子がトロイア戦争へ出征することを望まなかった両親の意で,スキュロス島のリュコメデス王の宮廷に女装して隠れていたアキレウスをオデュッセウスが暴いた瞬間を描いたものだ.

 商人に扮したオデュッセウスが女性たちに装身具,衣装,武具を見せたところ,女性たちが誰一人として興味を持たない武具にアキレウスが興味を示したので,ばれてしまったという他愛もないストーリーだが,この一連の物語には戦争をめぐる本人,家族,知人の悲しみが語られている.

 自身もパラメデスの詐略によって,いやいやトロイア戦争に参加させられたオデュッセウスが,アキレウスの参戦が無ければトロイアは陥落しないという予言を受けて,身を潜めていたアキレウスを策略を用いて見つけ出す.

 背後からアキレウスを捕らえているのがディオメデス,さらにその後ろにいる男性がリュコメデス,右端で叫んでいる半裸の女性が,王女デイダメイアで,彼女とアキレウスの間には既にネオプトレモス(=ピュッロス)という子が生まれていた.

 この物語に関して,紀元前5世紀にエウリピデスが悲劇『スキュロス島の人々』を上演し,画家ポリュグノトスが絵に描いたとされるが,いずれも現存しない.私たちにこの話を詳しく伝えているのは前1世紀の作者不詳の詩「アキレウスとデイダメイアの祝婚歌」であり,後1世紀から2世紀のラテン語詩人スタティウスの未完の叙事詩『アキレウスの歌』である.

 この絵とほぼ同じ絵柄の作品がやはり考古学博物館にあったようで,その絵が通称のもととなった「アキレウスの家」にあったものらしいが,それは見ていない.

 こうして見てくると,「ディオスクロイの家」に遺っていたフレスコ画群は,私の研究テーマとも深い関係を持っていることに今更ながら気づく.しかし,古代の図像表現に興味を持ちだしたのが遅いので,今後,自分の研究に活かせるかどうかはまだわからない.


「悲劇詩人の家」のフレスコ画
 モザイクの回に触れた,「犬に注意」のモザイク(写真はポンペイの回に紹介する)でも知られる「悲劇詩人の家」には,他にも「俳優たちを指導する演出家」という重要なモザイクがあるが,フレスコ画に関しても面白いものが残っている.

 ゼウスとヘラの結婚を描いた「聖婚」ではヘラの威厳に満ちた美しさが印象に残るし,隣には多分同じ作者の手になる「アキレウスのもとに帰るブリセイス」もあった.

写真:
「イピゲネイアの犠牲」


 「イピゲネイアの犠牲」は多分絵画としての卓越性には欠けると思うが,物語が凝縮されており,やはり印象深い.

 屈強な男たちに運ばれて犠牲に供せられようとするイピゲネイアの上空には,代わりの牝鹿を別の女神に用意させているアルテミス,右端にはこの犠牲を主導する予言者カルカスがいる.

 左端の,アルテミスの像を乗せた柱の陰で布を被って悲しみをこらえている人物は,一見,女性に見えたので,母クリュタイメストラかと思ったが,サンダルの形と足の大きさからすると男性のようだ.とすれば,ギリシア軍の総大将でイピゲネイアの父アガメムノンであろう.


「ポンペイの壁画様式」
 ポンペイ周辺に遺ったフレスコ画は,豊富な量と質の高さによって,ローマ時代(共和政末期から帝政初期)の古代絵画を考える上で一つの規範になり得る.あるいは,ほとんど唯一の規範を提供してくれると言ってもよいかも知れない.

 ポンペイ発掘以後の近現代の研究者によって整理された内容は「ポンペイの諸様式」と称され,時代の流行に従って4つに分類されている.一応,参考のために英語版ウィキペディアにリンクを張ったが,日本語版ウィキペディア「ポンペイの壁画の様式」から,相当程度学ぶことができる.

 発行された日本語資料がないか探してみた.1990年台以降に限っても,日本で何度かポンペイを題材にした特別展が開催されていて,私も少なくと,大阪,横浜,東京で1回ずつ,それぞれ違う特別展に行っている.行っていない特別展の図録も古書で手に入るものはできるだけ入手しており,これらに関してはポンペイについて報告する際にまとめるとして,その中で,

 横浜美術館(編)『ポンペイの壁画展 2000年の眠りから甦る古代ローマの美』「ポンペイの壁画展」日本展実行委員会・現代彫刻センター,1997

に,

 カテリーナ・チチレッリ「ポンペイ壁画第I様式」
 グレーテ・ステファーニ「ポンペイ壁画第II様式」
 アントニオ・ダンブロシオ「ポンペイ壁画第III様式」
 エルネスト・デ・カロリス「ポンペイ壁画第IV様式」
 マリーザ・ロストロロベルト「庭園画」
 エルネスト・デ・カロリス「民衆画」
 マリオ・パガーノ/アンナマリア・チャラッロ「ポンペイ壁画の技法と修復」

という丁寧な解説が付されていた.

 前述の日本語版ウィキペディアは,「出典」としてメトロポリタン美術館の英語解説ページと,

 浅香正『ポンペイ 古代ローマ都市の誕生』芸艸堂,1995

を挙げている.日本におけるローマ史研究の草創期からの発展的継承者で,自身も独創的研究者であり,優れた後進も育成した浅香の著書はポンペイの報告では是非参考にさせてもらうつもりだが,フレスコ画の技法については特に整理していないので,日本語版ウィキペディアは,主としてメトロポリタンの英語ページを参考にしたと思われるが,全く同じではないので,多分,きちんと勉強された方がお書きになったのだと思う.

 日本語版ウィキペディアと上記の図録の翻訳解説を参照できることは,日本語話者でポンペイのフレスコ画に関心を持つ人には,大変心強いことだと思う.もちろん,私も,今後とも参照させてもらう.

 とは言え,それぞれに固有の特徴を有する4つの様式を簡単に理解するのは容易ではない.幸いなことに,それぞれの代表となるような作品をナポリ国立考古学博物館,ポンペイ,エルコラーノで観ているので,それらを参考にして,自分の理解のために少し,整理してみたい.

 ナポリの考古学博物館で観たフレスコ画に関する報告も,1回ではまとめ切れなかった.次回はまず,時期別の様式を整理することから始める.という訳で,次回に続く.







ディオスクロイ(カストルとポリュデウケス)
ポンペイの赤