§ナポリ行 その2 考古学博物館の古代彫刻(後篇)
いつものことではあるが,今回もまた,後から参考書を読んで,見逃しを残念に思ったり,見たものの素晴らしさを再確認したりしている. |
この報告を書くにあたっては,
Stefano De Caro, trr., Mark Weir & Federico Poole, The National Archeological Museum of Naples, Napoli: Electa Napoli, 1996(以下,デ・カーロ)
を参照している.2008年にインターネットの「日本の古本屋」で泉大津の古書店から購入したもので,そう大きくはないが,カラー写真掲載のページ数の多いものなので,イタリアへは持って行かなかった.
2017年の滞在では,案内書を買うときは,英語版や日本語版ではなく,イタリア語版を買う義務を自分に課していたが,ナポリの国立考古学博物館に関しては,自宅にこの本があるので,現地では博物館全体の案内書は購入しなかった.
どこにいてもインターネットでもかなりの情報が得られるが,それでも,イタリアに行く前にこの本を熟読していれば,3回行ったナポリ考古学博物館で見逃さなかったものもあったのではないかと悔やまれる.
デ・カーロでは,収蔵品が発掘地,コレクション別に,次のように整理されている.
1.ナポリ湾周辺の先史文化と原始文化
2.ローマ支配以前のカンパーニア文化:ギリシア人の遺産(プテオリ/キュメー/ネアポリス)
3.ローマ支配以前のカンパーニア文化:エトルリア人,イタリア諸民族の遺産
4.大ギリシア(マグナ・グラエキア)の出土品
5.ローマ支配下のカンパーニア諸都市(ポンペイ/ヘルクラネウム/プテオリ/カプア)
6.ポンペイのイシス神殿
7.ヴェスヴィオ噴火で埋もれた諸都市:個人住宅を含む建造物の装飾(絵画,彫刻,漆喰装飾など)
8.ヴェスヴィオ噴火で埋もれた諸都市:家庭用彫刻,家具,宝飾品などの個人財産
9.パピルス荘(ピソ家の別荘)
10.ローマ時代のその他の別荘:バイア/噴火被害地域/ソレント/ガエタ湾岸地域
11.ファルネーゼ・コレクション
12.ファルネーゼ・コレクションの宝飾品
13.金石碑文コレクション
14.硬貨・メダルコレクション
15.エジプト出土品コレクション
16.その他
この中で,“11.ファルネーゼ・コレクション”は,エルコラーノ,ポンペイの発掘開始(それぞれ1738年,1748年で,ポンペイの遺跡発見は1599年)以前からのコレクションで,考古学博物館,カポディモンテ美術館の収蔵品の基礎部分を構成している.
ファルネーゼ家のコレクション(前篇の続き)
ファルネーゼ・コレクションのうち,カポディモンテ美術館に展示されている絵画作品の方は,ファルネーゼ家がパルマ公爵となったことがコレクションに反映していて興味深いが,考古学博物館の展示に関しては,カラカラ浴場などローマ周辺で発見されて,ファルネーゼ宮殿などに飾られていたものが中心であろう.
前回,紹介したものの他にも花の女神フローラ(慣用により長音保持)もしくは果実の女神ポモナとされる女性立像,少年の妖しいまでの美しさと中年男性の劣情を残酷なくらい表現した「牧神パンと牧童ダプニス」などが見事だった.
大彫刻家ペイディアスの弟子パロス島のアゴラクリトス作が原作と考えられている堂々たるアテナ立像(通称「ファルネーゼのアテナ」)など,いずれもローマン・コピーの大理石作品ではあるが,十全ではないにしても,古典ギリシア彫刻,ヘレニズム彫刻の素晴らしさを伝えてくれる.
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写真:
「イルカと戯れるエロス」 |
その中にあって,題材の面白さで目を惹いたのは,「イルカと戯れるエロス」,「猪の調理」だった.前者は,前回紹介した「海のヴィーナス」の足元にいるイルカから類推して,イルカと戯れている少年はエロスであろうと思って見たら,有翼だったので,弓も矢も松明も持っていないがエロスで間違いはないだろう.
「猪の調理」は二人の男が,大鍋で猪を調理しているが,火加減の調整をするためにかがんでいる方は少年に見える.もう一人の男は髭があるので成人でこちらが調理人であろう.前2世紀のヘレニズム時代に好まれた作風で,ローマ時代に模刻されたのは庭園の置物として愛好されたからだと考えられている.
ヘレニズム彫刻の模刻である瀕死のケルト人の彫刻はこれまで何度か見てきた.2007年にローマのカピトリーニ博物館の「瀕死のケルト人」,2008年にアルテンプス宮殿の考古学博物館の「妻を殺して自殺するケルト人」,さらに2014年のツァーで,アルテンプス宮殿において行われた「瀕死のケルト人」を集めた特別展で,複数の美術館が所蔵する作品を見て,そこで初めて見た作品の一つは,2015年にヴェネツィアの考古学博物館で再会した.
ナポリ考古学博物館にも4体の死体の彫刻(厳密にはガラティア人は瀕死の状態)がある.これらも恐らくアルテンプスで見ていたはずだ.「巨人神族」,「アマゾン」,「ペルシア人」,「ガラティア人(ケルト人)」の4体である.

「巨人神族」,「アマゾン」,「ペルシア人」,「ガラティア(ケルト)人」 |
ヘレニズム時代のペルガモン王アッタロス1世が,自身のケルト人への勝利を記念した像を,エピゴノスなどの彫刻家たちに制作させ,ペルガモンの神殿に奉納した際,協力したアテネに,それらの小ぶりに彫刻群が寄贈され,アテネのアクロポリスに飾られた.それらを模刻したのがこれらの彫刻ということのようだ.原作はペルガモンの作品も,アテネの作品もブロンズ製だったので,現存するのは全てローマ時代の大理石によるコピーと考えられているが,少なくともナポリの4体の彫像の材料はペルガモンがあった小アジア産の大理石とのことである(デ・カーロ,p.315)
4体はそれぞれ,「オリュンポス神族ち巨人神族との戦い」(ギガントマキア),「アマゾン族との戦い」(アマゾノマキア),「ペルシア戦争のマラトンの戦い」,アッタロス1世の「ガラティア人との戦い」(ガラタノマキア)を象徴し,ペルガモンやアテネのギリシア人,その守護者であるオリュンポス神族の他者に対する勝利を意味しているであろう.
パピルス荘の彫刻
前回紹介した彫刻の中で,ファルネーゼ・コレクション以外のものは,「アプロディテ・ソサンドラ」がバイア,写真は紹介していない「アレス(マルス)の楯を鏡とするヴィーナス」がカプア近傍で出土したものであるくらいだった.
他にはギリシア古典期の有名な彫刻であるポリュクレイトスの「槍を担ぐ男」(ドリュポロス/ドリュフォロス)の模刻があった.オリジナルは失われており,ローマン・コピーが複数残っているが,その基準となるのがナポリ考古学博物館の作品だ.ポンペイから出土したもので,発見は1793年の4月17日とされるので,18世紀の末まで,この模刻は世に知られていなかったことになる.
ファルネーゼ・コレクション以外の作品を紹介するとなると,デ・カーロが9番目に分類した「パピルス荘」出土の彫刻群が中心となるだろう.
パピルス荘は,エルコラーノの発掘で,見つかった古代の別荘で,その別荘には図書館もしくは書庫があり,そこから貴重なパピルス写本が見つかったことにちなんで「パピルス荘」(ヴィッラ・デイ・パーピリ)との通称を持つ.
これらのパピルス写本は後79年の噴火災害で炭化を蒙っていたが,発見時から様々な努力が続けられ,修復技術が進んで,解読された結果,大変貴重な資料であることが分かった.古典学の歴史に重要な足跡を残しながら,研究はなおも進行中である,これに関してはエルコラーノの回にあらためて言及する.
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写真:
「大神祇官ピソ」とされる
ブロンズ像 |
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この別荘で,エピクロス派の哲学者ピロデモスの著作が発見されたこともあり,持ち主は,ピロデモスと親交があったとキケロが証言しているルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌスではなかったと推測されている.
確証は無いが,ピソであれば,ユリウス・カエサルの3度目の妻カルプルニアの父であり,前59年の執政官で,帝政期に入った前15年に執政官,大神祇官でもあった同名の息子もいるので,記録上の証拠が無いと言え,大図書館を有する別送の持ち主としては説得力がある.
博物館のプレートに拠れば「大神祇官ピソ」とされるブロンズ像(英語版ウィキペディアも「大神祇官ピソ」の肖像として掲載)があった.これを前15年の執政官ピソの胸像とする根拠はまだ調べていない.
パピルス荘には,エピクロス派の哲学者と,彼と親交のあるローマの有力者に縁があると推測される別荘にふさわしく,多くのパピルス写本を所蔵する図書館があったばかりか,回廊付き中庭(ペリステュリウム)などには哲学者や文人の胸像,立像が多数飾られていた.
それらは考古学博物館の2階(日本風には3階)で観ることができるが,相当数がブロンズ像であり,大理石彫刻を主としているファルネーゼ・コレクションとは対照的だ.その中に,ずっと見たいと思っていた「伝セネカ」のブロンズ胸像があった.
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写真:
「伝セネカ」の胸像 |
学生の頃,「上級ラテン語」と言う授業で,引地正俊教授の指導下でセネカの悲劇『狂えるヘルクレス』を読み始め,以来ずっとセネカの悲劇を研究の核にしてきた.京都大学で書いた博士論文も「セネカ悲劇集における主題としてのpietas」だった.
最初の全国学会の発表も「セネカの悲劇『狂えるへルクレース』におけるuirtusの変容」だったし,最初に公刊された翻訳もセネカの悲劇『テュエステス』(『セネカ悲劇集』2,京都大学学術出版会,所収)だった.
セネカを読み始めた頃,羅英対訳のロウブ古典叢書の英訳とともに参考にしたのが,
Seneca, tr., E. F. Watling, Four Tragedies and Octavia, Penguin Books, 1966
で,私が高田馬場駅前のF1ビルに入っていたビブロスという小さな洋書店で買った1981年頃,この本の表紙にはナポリ考古学博物館所蔵の「伝セネカ」のブロンズ像の写真が使われていた.アマゾンでこの本を検索すると,まだ新刊で買うことができるようだが,表紙のデザインはもう変わってしまっている.
発刊された時は,ベルリンのソクラテスとのダブルハームの発見(1813年)から既に150年以上経っており,セネカの真影だとは思われていなかったはずだが,16世紀の人文主義者フルヴィオ・オルシーニ以来,セネカに比定されてきた伝統を踏まえて,敢て「伝セネカ像」を表紙に使ったのかも知れない.
エルコラーノ(ヘルクラネウム)のパピルス荘の回廊付き中庭にあったこの「伝セネカ像」の発見は1750年から65年の間とされるので,オルシーニの著作に「伝セネカ像」の版画が載ったのはそれより150年以上前だ.ルーベンスもがこれをセネカと考えて,「四人の哲学者」(フィレンツェ,パラティーナ美術館)に描き込んだ1610年頃からも140年ほど経っている.当然,それよりもさらに前に,これと同じもしくは似た図像が存在していたはずだ.
類似の胸像は全世界に古代の模刻だけで40点を超すとのことで,私も諸方で見ている.ナポリ考古学博物館にもファルネーゼ・コレクションの中にも少なくとも3点(うち1点は,フェッラーラの特別展に出張中で見ていない)あったので,16世紀には大理石の模刻が少なくとも数点は知られていたであろう.
この像は一体誰であるのか.
ベルリンの刻銘入りダブルハームの胸像の存在にも拘わらずナポリのこの胸像をセネカと思いたい私にとって,状況は全く不利なようだ.一時よく見かけた「漁師の像」という俗称ももはや優勢ではなく,やはり古代には有名な文人で,リヒターがかつて支持したヘシオドスに始まり,アリストパネス,ヘレニズム期の大詩人カッリマコス,アパオロニオス・ロディオスなど諸説入り乱れて,アリストパネス,ローマの詩人エンニウスなどが一応の支持を集めているようだ.
デ・カーロは,パピルス荘のブロンズ像の原作を前3世紀から2世紀の作品と考えており,そうだとすれば,ローマの詩人でもエンニウスなら可能だが,後1世紀に生きたセネカの可能性は全くないことになる.残念だが仕方がない.
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写真:
ヘラクレイトスとされる
ブロンズ像 |
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哲学者としては,ヘラクレイトス,デモクリトス,ゼノン,エピクロス,ヘルマルコス,しばしばプラトンと誤称されることもあるディオニュソス(もしくはアポロ)があり,女性詩人サッポーとされる胸像もあった.
ヘラクレイトスは「泣く哲学者」,デモクリトスは原子論で知られ,「笑う哲学者」との通称が古代からあり,ストア派のゼノンとエピクロスの対比的でこれらが同じ回廊に置かれていたことには意味があるだろう.
このうちゼノンとエピクロスは諸方で見られる胸像であり,デモクリトスも他に有力なものがなく,概ねそれと認められているようだ.私が一番興味がある(大学の卒論の題名が思い出すのも恥ずかしいが「マルティン・ハイデガーの思想圏におけるヘラクレイトスのロゴス」だった)ヘラクレイトスに関しては,残念ながら,説得力に乏しいようである.
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写真:
パニュアッシスの胸像 |
哲学者や文人以外では,アレクサンドロス,ピュッロスなどのヘレニズム諸王,ローマの将軍でカルタゴを滅ぼしたスキピオ・アエミリアヌスの胸像もあった.
これらの多くは見事なブロンズ像だが,大理石像も少なくない.その中で,アイスキネス,伝ホメロス(またはイソクラテス)の全身像とともに,パニュアッシスとされる大理石胸像は注目に値する.
パニュアッシスは小アジアのハリカルナッソスの人で,ヘロドトスの血縁の近い親族(おじでありいとことされる)で,ヘラクレスを題材にした叙事詩を書き,政治活動ゆえに前454年に僭主によって処刑された人物である.
前回言及した,ホメロスの全身像の可能性が示唆された大理石像もパピルス荘の出土品だ.別の資料ではイソクラテスともされていて,博物館のプレートでは「ホメロスまたは哲学者」とあった.他にも「アテナ・プロマコス」(戦いの先頭に立つアテナ)像や,弁論家アイスキネスとされる全身像など興味深いものが少なくない.
冬の夕方で外が暗くなっている時間になっても,日本の博物館のようには館内を明るくしないこともあり,大理石像は問題がないが,ブロンズ像は写真写りが大変良くない.しかも,磨き上げられ黒光りしている様は,まるで現代人が作成したレプリカのように見え,正直なところ熱心に見る気が失せたのも事実だ.
それでも,ブロンズも全身像となると,「休息するヘルメス」,「走者たち」,18世紀に実見したヴィンケルマンが「踊り手たち」の名付けたとされる,ペプロスを着て静謐な様子ではあるが様々な手振りの6体の少女像など,見応えのあるものがあった.

「眠っているサテュロス」,「酔っているサテュロス」 |
ミュンヘンで「バルベリーニのファウヌス」(=酔って眠るサテュロス)を見たばかりのせいか,小さいがやはりブロンズ製の「酔っているサテュロス」,「眠っているサテュロス」は印象に残った.
サテュロスは性欲の象徴として半獣神(下半身が山羊で,上半身は人間だが頭に山羊の角が生えている)の中年男性として造形されることが多く,上で言及したファルネーゼ・コレクションの「サテュロスとダプニス」もそういう造形だ.
一方で,完全に人間の姿で,しかも若者であり,場合によっては美少年として表現される場合も少なくない.ミュンヘンでも「バルベリーニのファウヌス」は若者,「木によりかかるサテュロス」は少年の姿だった.パピルス荘出土の2体のブロンズのサテュロスもまずまず若者で,姿態とともに「バルベリーニのファウヌス」を想起させる.
「踊るサテュロス」像は,諸方でブロンズ製のものも大理石製のものも見られる.パピルス荘出土の小さなブロンズ像「踊るサテュロス」は躍動感に満ちた少年の造形で,写真には収めたが,今回は小さなブロンズ像まで丁寧に見る余裕がなくて残念だった.
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写真: 「アレクサンドロス騎馬像」 |
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パピルス荘ではないが,ヘルクラネウムから出土した「アレクサンドロス騎馬像」は印象に残った.
原作は,マケドニアにあったリュシッポス作の,グラニコス河畔でのマケドニア軍の奮闘を表現した群像の中の大王の勇姿を描いた彫刻と思われるが,オリジナルの彫刻群は,マケドニアがローマに征服された時に,勝利の記念として持ち帰られ,「オクタウィアの柱廊」(現在も建造物は一部残っている)となる建物を飾ったとされている.
この小さなブロンズ像はその縮小コピーの一つと考えられている.躍動感に満ちた立派な作品で,たまたま見逃さずに写真に収めたが,ガラスケースに入っているのでうまく写っていない.デ・カーロを見ていると,彫刻だけでも,幾つかの傑作を見逃したようなので,その点は残念だった.
エルミタージュで,今回「ルーヴル=ナポリ型」もしくは「ウェヌス・ゲネトリクス」と認識できたヴィーナス像を見たとき,その時点で可能な限り,ヴィーナス像の幾つかのタイプを整理したが,その際に「サンダルを脱ぐ(もしくは履く)ヴィーナス」は未見とした.
ウェブ検索すると,ルーヴル美術館に腕輪などの金色の装身具をつけたブロンズ像があったようで,詳しい解説ページがある.正確には「サンダルの紐をほどくヴィーナス」と言うべきようだが,このルーヴルの作品とほぼ同じブロンズ像がナポリにもあった.
デ・カーロの写真で確認すると,ルーヴルの作品にはないイルカが足下におり,前回紹介した「海のヴィーナス」との共通性が感じられる.やはりパピルス荘ではないエルコラーノ出土作品のようだ.悔やまれるが3回とも見ていない.今後はポンペイ,エルコラーノ出土の小さなブロンズ像にも注意を払いたい.
次回は,ナポリ考古学博物館で観ることができたモザイクについて報告する.
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弁論家アイスキネスの像
(パピルス荘から出土)
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