2018年の9月23日に「備忘録」ミュンヘン編の第3回を書いて以来,半年ぶりの更新となる. |
更新が滞った理由のひとつは,授業負担はそのまま,9月から引き受けた新しい校務が,予想以上に時間拘束とストレスを伴うものだったことにある.もっとも,早稲田大学に奉職以来(昨年10月に勤続20年の表彰を受けた),校務負担は常態的だったので,今回が特別という訳ではない.
戦略的なミスがあるとすれば,特別研究期間があるので絶対にできると思って引き受けた翻訳の仕事が遅々として進んでいないことの対処に問題があった.学外の別のタイプの仕事なのだから,それはそれ,これはこれとしっかり切り替えながら進めれば,むしろ相乗的効果が生まれる可能性もあったのに,生来要領が悪い私はプレッシャーの中,何もかもごちゃ混ぜにしながら,目の前の授業と校務をこなすことで一杯いっぱいになってしまった.
年末に上野で「ミケランジェロと理想の身体展」,「ルーベンス展」を見て,どちらにもイタリアその他で,自分で観て,写真も撮ってきた作品が少なからずあったので,フレッシュな印象ならすぐまとめられるような気がして,まずその報告から更新再開と考えたのも失敗だった.例によって,感想以外のことを調べ始め,思ったようにまとまらなくなり,時間だけが過ぎていった.
校務に関しては,まだ任期が1年半残っているので,上手に付き合って行くしかなく,引き受けている仕事も進展の目途が立ったので,ともかく「フィレンツェだより」を再開する.うまくまとまらない日本の特別展の感想はペンディングにして,ずっと報告したいと思っていた「ナポリ篇」から始める.
§ナポリ行 その1 考古学博物館の古代彫刻(前篇)
2017年度(2017年4月から2018年3月まで)の特別研究期間中,ナポリには3回行った.2017年12月10日から2泊3日,2018年1月16日から2泊3日,3月17日から2泊3日の3回である. |
最初に2回は単独行動で,1回目はポンペイ,2回目はエルコラーノにも立ち寄った.最後は関西大学の高橋教授,フィレンツェ大学の北村博士,国際日文研の根川博士と一緒で,ポンペイに1泊,ナポリに1泊して,最初の日にエルコラーノにも行った.
報告は何回にわたるか書き出してみないと分からないが,ナポリだからこそ観ることができたと思われるものを中心に,考古学博物館編(彫刻編,モザイク編,フレスコ画編,石棺・浮彫・碑文編,特別展編),美術館編(カポディモンテ美術館を中心に,ゴシック編,ルネサンス編,バロック編),教会編(大聖堂編とその他の教会)に分けて進めたい.ポンペイ,エルコラーノについてはナポリ篇とは別に報告する.
今回は,ナポリの国立考古学博物館で観ることできた古代彫刻を中心に報告する.
2017年12月10日に,フィレンツェ・サンタ・マリーア・ノヴェッラ駅から,ローマ・ティブルティーナとローマ・テルミニには停まるが、乗り換え無しのイタロの特急電車で,ナポリ中央駅に向かった.
駅前の恐ろしく庶民的な通りに面したB&Bに荷物を預けて,そこで貰った地図を頼りに最初に向かったのは国立考古学博物館(英語版/伊語版ウィキペディア)だった.地下鉄で行く手もあったが,街を歩いてみたかったので、徒歩で向かった.
最大の目当ては,5世紀初めまで生きた詩人クラウディウス・クラウディアヌスの死後顕彰碑だったが,これは結局見つけることができず,館員に尋ねても要領を得なかったので,今後に大きな課題を残した.
ファルネーゼ家のコレクション
ナポリ考古学博物館で最も有名な古代彫刻は何であろうか.多分,「ファルネーゼのヘラクレス」,「美しい尻のヴィーナス」,「ハルモディオスとアリストゲイトン」であろう.
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写真:
「ファルネーゼのヘラクレス」 |
「ファルネーゼのヘラクレス」は,前4世紀にリュシッポスが制作したブロンズ像から型を取って,後3世紀に制作された大理石によるコピーで,当時造営されたカラカラ浴場に置かれ,16世紀に発掘された.
教皇パウルス3世の孫であるアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿が入手し,ローマのファルネーゼ宮殿に置かれていたが,1787年に母エリザベッタからファルネーゼ家の財産を継承したナポリ王カルロ7世(後にスペイン王カルロス3世)によってナポリに移された.
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写真:
「美しい尻のヴィーナス」 |
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「美しい尻のヴィーナス(アプロディテ・カッリピュゴス)」は,おそらく前4世紀末にブロンズで造られた像をもとに,前1世紀の大理石模刻で,少し早いがローマン・コピーと言って良いだろう.16世紀に発見された時は首がない状態だったが,同世紀中に首も発見され,当時の修復者が,肩越しに背中を見る形に首をついだ.
有名なラオコンの右手の肘から下も遅れて別に発見され,最初の修復が後に変更されているが,「美しい尻のヴィーナス」の首の向きに関しても,議論があったようだけれど,今のところ,当初の修復が維持されている.
1594年にファルネーゼ家の所有となり,ファルネーゼ宮殿に飾られていたが,1731年にテヴェレ川を越えて郊外のヴィッラ・ファルネーゼに移され,1792年にナポリに運ばれ,1802年までは,現在カポディモンテ美術館になっている建物に置かれ,その後,考古学博物館(開館は1816年)に展示され,今に至っている.
英語版ウィキペディアの当該ページに掲載された写真を見ると(2018年3月10日参照),この彫像の後方に「ファルネーゼのヘラクレス」が見えるが,少なくとも私が見た時は離れた別の部屋に置かれていた.

「ハルモディオスとアリストゲイトン」 (「僭主殺害者たち」) |
「ハルモディオスとアリストゲイトン」像もローマン・コピーだが,こちらは神話ではなく史実を反映している.
前6世紀に民衆の支持を基盤に非合法な独裁政治を行なったペイシストラトスが死去し,その子供たちヒッピアスとヒッパルコスが政権を継承した.
ヒッパルコスは,成人男性であるアリストゲイトンとパイデラスティア(少年愛)の愛人関係にあった美青年のハルモディオスに横恋慕し,拒絶されると,権力を背景に圧迫を加えたので,これに怒った二人が僭主打倒の計画を立て,少なくともヒッパルコス殺害には成功した.
二人はそれぞれ殺されたが,生き残ったヒッピアスが恐怖政治を行なったこともあって,最終的に僭主政府は打倒され,アテネはクレイステネスの改革から,ペルシア戦争の勝利,ペリクレスによる黄金時代を迎える.
ハルモディオスとアリストゲイトンがヒッパルコスを殺害し,自分たちも殺されたのは紀元前512年で,ダレイオスが攻めて来た第一次ペルシア戦争に先立つこと22年であった.
これが史実と認められるのは,ヘロドトス『歴史』に言及があり,同性愛の恋愛沙汰に原因があったことはトゥキュディデス『歴史』に詳述され,さらにトゥキュディデスとだいぶ違うが,アリストテレス『アテナイ人の国制』にも述べられているからである.
ヘロドトスには恋愛沙汰への言及はないが,ハルモディオスとアリストゲイトンの出身部族の起源を巡って,ボイオティアに定住したフェニキア人が祖先であり,そのフェニキア人たちがギリシア人たちに文字使用を伝え,私たちが「ギリシア文字」と呼んでいるものを「フェニキア文字」と言っている.真偽はともかく文化史的に重要な言及であろうと思われる.
個人的な事情に端を発したとはいえ,結果的にはアテネの民主制発展の契機となった英雄なので,彼らの像が彫刻家アンテノルに委嘱され,制作された像はアテネのアゴラ(公共広場)に飾られたが,前480年の第二次ペルシア戦争で,多くの市民がサラミス島などに引き上げたアテネの町をペルシア王クセルクセスが占領,破壊,略奪した際,この像はペルシア帝国の都の一つであるスサに持ち去られた.
アレクサンドロスがペルシアを征服した際に奪還し,アテネに戻した(アッリアノス)とされるが,アテネに戻したのはアレクサンドロスの後継者の一人シリア王セレウコス1世,もしくはマケドニア王アンティオコスとの説もある(前者がウァレリウス・マクシムス,後者はパウサニアス).
その間に,アテネでは,新たな像の制作がアンテノルの弟子クリティオスと共同制作者ネシオテスに依頼され,新しいブロンズ像は前477年もしくは476年にアゴラに設置された(パロス島出土大理石碑文年代記).
前4世紀末に最初の英雄像がペルシアから戻ってきたので,アンテノル作とクリティオスとネシオテス作のそれぞれ一対の英雄像が併存していたことになる(パウサニアス『ギリシア旅行記』)が,後代の模刻家たちの創作意欲をかきたてたのは後者の作品で,このローマ時代のコピーがナポリの考古学博物館に現存する大理石像ということになる.
これらの像は「ハルモディオスとアリストゲイトン」と人物名で言われることもあるが,「僭主殺害者たち」(ギリシア語ではテュランノクトノイ,ラテン語ではテュランニキデスで,後者から作られた英語Tyrannicides,伊語Tirannicidiもある)とも称される.
今風に言えばテロリストのようでもあり,アリストテレスの伝える話が正しければ,ヒッパルコスの直接の殺害者というわけでもないことになるが,トゥキュディデスの伝える話の方が説得力を持った.そもそもアリストテレスの『アテナイ人の国制』は古代末期,中世には書名しか知られていなかった.
「ハルモディオスとアリストゲイトン」は,恋愛沙汰が原因とは言え,結果的に「民主主義」進展を後押しした「僭主殺害者たち」として,後世の人々の関心を集めた.
この大理石模刻は後2世紀に作成され,ティヴォリのハドリアヌス荘にあり,後にファルネーゼ家のコレクションとなり,現在はナポリの考古学博物館に収蔵,展示されている.
アリストゲイトンの顔は失われていたが,原作から型と取ったと思われる顔がバイア(古代はバイアエ)から発掘され,それを元に補ったものとのことだ.アリストゲイトンは髭をたくわえ,ハルモディオスはギリシア人の成人にはめずらしく髭を剃った顔になっており,年齢差を前提にしている少年愛の名残を思わせる.
以上,3作は全てファルネーゼ家のコレクションであったが,ファルネーゼ家のコレクションで他に有名な古代彫刻として,「ファルネーゼのアトラス」,「ファルネーゼの牡牛」がある.いずれもローマン・コピーであるが,それぞれ,観ることができて感動した.ともに大きな像で,特に後者は相当な補修が為されているとは言え,群像表現で圧倒される.前者でもよく見ると,アトラスが支えている球体には黄道十二宮の浮彫が施され,視覚的に天空であることがわかり,芸が細かい.
ヴィーナスあれこれ
ヴィーナスについては,「美しい尻のヴィーナス」の他に,姿態によって様々に分類される作品があった.胸と腰部を手で隠す「羞恥のヴィーナス」(ウェヌス・プディカでカピトリーニ型),幼児のエロスを伴って水浴びするクラウチング・ヴィーナス(ヴェーネレ・アッコヴァッチャータ),有翼の少年であるエロスを伴った立ち姿の「幸福なヴィーナス」(ウェヌス・フェリックス),イルカを傍らに伴っている「海のヴィーナス」(アフロディーテ・マリーナ),身を傾けている着衣の「(柱に)寄りかかるヴィーナス」などである.

さらに,エルミタージュで観た際に,左手に「パリスの審判のリンゴ」を手にしているので,審判に勝利したヴィーナスと一応結論付けた,右手でヴェールまたは上衣を掲げ,背中に垂らしている,薄衣(キトンまたはペプロス)をまとった立ち姿の女神像と似ている彫像が少なくとも2つあった.
両者とも博物館のプレートでは「ルーヴル=ナポリ型」のヴィーナスと説明されている.
「ルーヴル=ナポリ型」についてウェブ検索すると,コーネル大学のページがヒットし,「ルーヴル=ナポリ型」の別称として「ウェヌス・ゲネトリックス」(生みの母であるヴィーナス)というラテン語が紹介されている.
「ウェヌス・ゲネトリックス」という別称は英語版ウィキペディアに立項があり,他にもモノクロ写真で説明もドイツ語だが,ウェヌス・ゲネトリックスの現存作品を収蔵先別に整理したページも見つかる.ただし,このページにはエルミタージュのヴィーナスは含まれていない.
ルーヴル美術館にある作品は,現在はプロヴァンス=アルプ=コートダジュール広域圏に属しているフレジュス(古代都市フォルム=ユリイー)で1650年に発見され,多くの補修を施された上で,テュイルリー宮殿.ヴェルサイユ庭園を経て,1803年にルーヴル美術館に収蔵された.
プリニウス『博物誌』を根拠として,前420年から10年頃,アテネの彫刻家カッリマコスがブロンズで作成した像がオリジナルで,現存する作品は全てローマ時代の摸刻と考えられている.
このタイプの特徴の一つとして左乳房が露になっていることが挙げられるが,エルミタージュの像は,ローマの実在の女性大アグリッピナの肖像性を反映しているとの説とも関係するかも知れないが,乳房は露出していないように見える.
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写真:
「ルーヴル=ナポリ型」の
ヴィーナス |
撮ってきた写真で見る限り,ナポリ考古学博物館に2つあった「ルーヴル=ナポリ型」ヴィーナスのうち,エントランスから直進した先の階段の下に置かれていた,より大きな像(上の写真)はエルミタージュの作品に似ている.ただ,エルミタージュのヴィーナスはパリスの審判のリンゴを持っているが,ナポリの作品は小さな香油瓶のような器を持っている.
もう一つあるやや小ぶりな作品は,左手のひらを上に向けているので,リンゴが乗っていたように思えるが,今は乗っておらず,指も一部破損している.
さらに一見するとヴィーナスとは思えないが,バイア出土の着衣の「アプロディテ・ソサンドラ」(男たちを救うヴィーナス)が考古学博物館にある.ローマ時代のギリシア語作家ルキアノスの証言によって,「ヴェールを被って,微笑んでいるアプロディテ像」がアテネのアクロポリスの入り口プロピュライアにあったことが知られ,作者はボイオティア出身のカラミスで,モデルはペリクレスの愛人のアスパシアだったとされる.
これも原作ではなく,ローマン・コピーだが美しい.摸刻であっても日本なら国宝級の芸術だと思うが,展示がさりげなすぎて,見過ごしてしまいそうになる.
その近くに,カプアで出土した,立ち姿で両手を前に出し,何かを持っていたかのような上半身裸体のヴィーナス像がある.愛人とされる軍神アレスの楯を持って,そこに移る自分の姿を見つめていると考えられていて,ポンペイに遺っていたフレスコ画から,そのような推論が可能だと言うことだ.
ファルネーゼ家のコレクションにあった作品,その他ナポリ周辺の地域で出土した彫刻群の見事さには見惚れる.
有名人の古代胸像
さまざま,興味深い彫刻がある中で,古代の有名な人物たちの胸像には幾つか見たいものがあった.伝セネカのブロンズ像,ホメロスの異なるタイプの胸像,ヘロドトスとトゥキュディデスを組み合わせたダブル・ハーム,エウリピデス像などだ.
このうちエウリピデス胸像については,今までに何回か言及したが,ナポリ考古学博物館に少なくとも3点あり,そのうちの一点が胸の所に,ギリシア文字でΕΥΡΙΠΙΔΗΖと刻まれていて,このタイプの胸像が悲劇詩人の像であるという一つの保証になっている.
ヴァティカン博物館のブラッチョ・ヌォーヴォには全身像もあるが,その顔を見て同一人物と思わない人はいないであろう.有髯,長髪,憂鬱な表情の中年男性といういかにもエウリピデスという感じに思えるが,このナポリの胸像を何度も写真で見た上で,作品を読んでいることもその要因の一つであろう.
決め手であり,最良と思われるこのローマン・コピーは,実は1回目と2回目のナポリ行の際には,ミュンヘンの特別展に出張中で,その後ミュンヘンに行ったときには既に特別展は終わっていた.3回目のナポリ行でようやく出会うことできた.その際に撮った3つ並んだ写真を紹介するが,やはり(向かって)一番左の胸像が最良に思える.

これと同じ顔をした人物が腰掛けて悲劇の仮面を持っている浮彫がイスタンブールの考古学博物館にあり,そこにΕΥΡΙΠΙΔΗΖと文字が刻まれているが,私は写真でしか見たことがない.
悲劇詩人の胸像としては,他にアイスキュロスが1体,ソポクレスが2体あった.このうち,アイスキュロス像は,やはりこの劇詩人の最も可能性の高いものとして知られる.ただし,ローマのカピトリーニ博物館に全く違うアイスキュロス胸像があり,この詩人の禿頭に関するエピソードに何らかの根拠があるなら,後者の方に説得力があるように思える.
例によって,
G. M. A. Richter, abridged and revised by R. R. R. Smith, The Portraits of the Greeks, London: Phaidon Press, 1984(以下,リヒター)
を参照すると,リヒターに第一に挙げられている現存肖像は,ナポリの作品である.またこの類例の有力作品として,18世紀にリヴォルノ沖の海中から発見され,かつてフィレンツェ考古学博物館に展示されていたブロンズ胸像が挙げられている.

アイスキュロス像
左から カピトリーニ,ナポリ,フィレンツェの博物館の収蔵作品 |
フィレンツェのブロンズ像は,2007年5月14日に,ホメロス,ソポクレス,の像とともに見ている(一緒に発見されたエピクロス派の哲学者ヘルマルコス像はこの時はなかった)が,その翌々日の報告に書いたように,その時点で既に古代の作品とは考えられておらず,16-17世紀に作成されたものとされていた.その後,フィレンツェ考古学博物館には何度か行ったが,現在はこれらの作品群は展示されていないと思う.
リヒターはこれらのブロンズ像に関して,ローマ時代の別荘に飾られていた古代作品と考えていたようだ.真の作成年代に関して,判断できる材料を私は持っていないが,リヒターの見解に反して,現在考えられているようにルネサンス期以降の制作だとしても,一見して特定の古代人と判断できる根拠があったのは間違いないだろう.
多くの類似作品が伝わるホメロス,ソポクレスはともかく,現存肖像が少ないアイスキュロスに関しては,それをアイスキュロスと判断する手がかりが必要だったはずだ.
アイスキュロスという刻銘のある古代彫像は現存しないが,アイスキュロスと推定される胸像がローマのコロンナ宮殿にある.現在は別々にされているが,もともとはダブル・ハームで,一方が明らかにソポクレスで,他方が明らかにエウリピデスではないことから,アイスキュロスであろうと推測され,このタイプの胸像をアイスキュロスとする根拠となっているようだ.
ソポクレスの肖像性に関しては,ΣΟΦΟΚΛΗΣの刻銘がある胸像が刻まれたメダイオンがかつて発掘され,その実物はもう失われてしまったが,ヴァティカン図書館の写本にその素描が残っていて,それが現存するソポクレスと言われている像の多くに明らかに似ていることが根拠となっている.
コロンナ宮殿の元ダブル・ハームの片割れであるソポクレスはファルネーゼ・タイプと呼ばれる型だが,ソポクレスの有力なローマン・コピーの一つがナポリ考古学博物館のファルネーゼ・コレクションの中にあることから,ファルネーゼ・タイプと名付けられたようだ.
ナポリ考古学博物館には,このファルネーゼ・タイプと,タイプIIIと言われるソポクレス像がある.他に,ラテラーノ・タイプと言う,ヴァティカン博物館のグレゴリアーノ・プロファーノ博物館にある全身像に見られる顔のタイプと,大英博物館所蔵のブロンズ像に見られるタイプIVを合わせて,4つのタイプのソポクレス像があるようだ.
ホメロスに関しては,以前リヒターを参考に,「エピメニデス型」,「モデナ型」,「テュアナのアポロニオス型」,「ヘレニズム期制作盲人型」の4つのタイプがあるこというのを整理した.ナポリ考古学博物館には,このうち,テュアナのアポロニオス型とヘレニズム期作成盲人型の2つがあり,さらに,ホメロスの可能性がある全身像が1点ある.
この全身像に関してはリヒターは言及していない.簡略版であるリヒターの親本を参照しても,写真も紹介されていない.盲人だからなのか杖を持っており,顔は上記の4つのどれにも似ていないが,長髪有髯の老人がヘアバンドをしているので,何も知らずにこの像を見てもホメロスと思う可能性はあるように思える.エルコラーノのパピルス荘からの出土品の中にあるが,パピルス荘出土の作品群については次回報告する.

ファルネーゼ家のコレクションの中にあった諸胸像の中では,他には何と言っても,ヘロドトスとトゥキュディデスのダブル・ハームが重要だろう.
それぞれにギリシア文字による刻銘(ただし,ヘロドトスに関してはΗΡΟΔΟΤΟΣヘーロドトスではなくΗΡΦΛΟΤΟΣヘールプロトスと読める)があり,リヒターでもそれぞれの歴史家の項目で最初に紹介されている.
16世紀にティヴォリ近くの別荘で発見され,最終的にファルネーゼ家の所有となった.ナポリ考古学博物館には,もう1点ヘロドトスの刻銘のある胸像がある.こちらは造形的には迫力に欠けるが,刻銘はΗΡΟΔΟΤΟΣとある.
ソクラテスの古代彫刻に関しては,ラファエロのアテネの学堂に明らかに反映が見られ,16世紀には広く知られていたものと思われる.リヒターに拠れば,タイプAとタイプBの大きく2つに分類され,どちらもナポリ考古学博物館の収蔵品が基準となる,タイプBには台座にΣΩΚΡΑΤΗΣと言う刻銘があり,その下にプラトン『クリトン』の一節が刻まれている.
タイプAには刻銘がないが,タイプBによく似ていて,確かに禿げ具合その他に違いは見られるが,違う年齢の同一人との理解はそれほど困難ではない.Bタイプのヴァリエーションとして,ローマのカピトリーニ博物館の胸像,大英博物館の全身像の写真が掲載されているが,全てソクラテスとして多くの人が認知するだろう.
非常に残念なことに,今回ナポリ考古学博物館に3回行ったが,3回ともBタイプのソクラテスには会えなかった.
地階(日本風には1階)にあるファルネーゼ・コレクションの胸像では他に,弁論家リュシアス,ストア哲学者ポセイドニオスの胸像にギリシア語の刻銘があり,それぞれリヒターで基準作品とされている.モスキオンという,断片しか作品が現存しない悲劇作家とエピクロス派の哲学者メトロドロスの着座全身像があったことが印象に残る.
特にモスキオンは,それぞれ僅か数行だが,3作の題名がわかる断片があり,作品名不明の劇からの引用断片が複数残っている.神話だけでなく歴史も題材にしたギリシア悲劇は,現存作品ではアイスキュロスの『ペルシア人』,失われた作品では,あまりの悲惨さに上演禁止になったというプリュニコス『ミレトスの陥落』が知られているが,モスキオンはそうした歴史劇に力を発揮する作家だったかも知れず,その意味で悲劇研究にとっても重要な作家であり得た人物と言うことになる.
彫刻編は1回で終わらせるつもりだったが,ナポリ考古学博物館の彫刻作品を1回の報告でまとめるのはやはり無理だった.という訳で,次回に続く.
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「アプロディテ・ソサンドラ」
(男たちを救うヴィーナス)
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