フィレンツェだより第2章
2017年7月18日



 




野外オペラの開演(21:15)を待つ
ピッティ宮殿中庭にて



§シエナ その4 シエナ派 ドゥッチョ以前 

これから3回に分けて絵画,特にシエナ派について書いてみる.初回の今回はドゥッチョ以前のシエナ派について,作例を引きながらまとめてみたい.


 2007年11月7日に初めて国立絵画館に行った時の報告に,

シエナの国立絵画館を見て「もういい」という感想を持った人は多いようだ.私は「もういい」とまでは思わなかったが,「シエナ派」に分類される中世末期からルネサンス初期の宗教画の展示を延々と見せられて,これを見て良いと思うためには,かなりの準備が必要で,それは非専門家である愛好者にはかなり難しいのではないかと思った.

と書いた.「うんざりした」とは言っていないが,シエナ派の洪水に飲み込まれたことは確かだ.

 以来,非専門家の愛好者で居続けること10年,今やそれがどう変わったか.5月6月と2回に分けて国立絵画館を丁寧に鑑賞した私の感想は,「もっとシエナ派を見せて欲しい」だった.もう完全に「シエナ派」病に罹っている.

 国立絵画館の2回の鑑賞でも満たされなかったこの渇望を,多少は満たしてくれたのがプッブリコ宮殿で開催されていた「シエナ 200年代から400年代まで サリーニ・コレクション」という素晴らしい特別展(入場無料)だった.これについては次回報告する.


「シエナ派」に関するウィキペディア
 ウィキペディアの正確さ,詳細さ,内容のレヴェルが項目によって様々なのは周知のとおりだが,参考資料が手元にない今は,同じ項目の各国語版を比較しながら,大いに参考にさせてもらっている.以下,各ウィキペディアの参照日は,全て2017年7月13日である.

 ドッチョからベッカフーミまで時代的には150年以上に亘っているのに,挙げられている芸術家は僅か9人,日本語ウィキペディア「シエナ派」の情報はかなり寂しい.列挙されている名前は,ドッチョ,シモーネ・マルティーニ,ロレンゼッティ兄弟,サッセッタ,ジョヴァンニ・ディ・パオロ,アンドレア・ブリオスコ,ソドマ,ベッカフーミと,ほぼ有名画家で占められている.

 この中でアンドレア・ブリオスコはシエナとはあまり関係がないように思えるので不思議だったが,彼の通称がイル・リッチョで,この通称がシエナ派の画家の一人バルトロメオ・ネローニと同じなので,間違って入れられたのだと思われる.

 「シエナ派」は,中世の「ローマ派」とか中世からルネサンスの「ウンブリア派」に引けを取らないくらい認知されているし,「フィレンツェ派」が,それぞれ個性が際立つ画家がたくさんい過ぎて,画派全体の印象が曖昧であるのに対し,「シエナ出身の画家」,「シエナで活躍した画家」には,他の画派と一線を画する共通の特徴がある.

 にも関わらず,シエナ大聖堂の報告をまとめる際に「ゴシック建築」の項目で大いに勉強になった日本語ウィキペディアの「シエナ派」は,少し寂しすぎるように思える.

 2007年に初めて「シエナ派」を意識して,インターネットで情報を求めた時,それに属する芸術家を分かりやすく列挙していたのは独語版ウィキペディア「シエナ派」だった.

 説明は少なく,名前の一覧が主なので,あまり知識のない当時は分かりやすくて良かったのだが,スピネッロ・アレティーノの名前が挙げられていることには疑問を感じた.スピネッロはシエナで大きな仕事をしているし,もちろん影響は受けたであろうが,アレッツォ出身で,どちらかと言えばフィレンツェのジョッテスキの系譜に属していると思われたからだ.

 今の独語版ウィキペディアにもスピネッロの名前はある.それどころか,2007年の時はどうだったか覚えていないが,最初に挙げられている名前は何とコッポ・ディ・マルコヴァルドで,チマブーエ以前のフィレンツェの中心的画家がシエナ派というのは,明らかに間違いだと思う.

 コッポとスピネッロを含めて列挙されている芸術家は35人で,もちろんこれだけいれば,私が知らない画家もいるし,殆ど,各画家の独立項目にリンクされているので,情報の窓口として機能していると言えなくもないが,非充実ぶりは残念な感じがする.

 フィレンツェだけでなく,イタリア各地の観光地にはドイツ人観光客が多く,美術館・博物館で出会うことも多い.ゴシック絵画が好きな人も少なくないようなので,私たち日本人よりは「シエナ派」の近くにいるように思えるのだが.

 英語版ウィキペディア「シエナ派」も,説明は簡潔だが,芸術家は55人が列挙されており,各人の項目に概ねリンクされている.

 当然だとは思うが,伊語版ウィキペディアは,説明も詳しく,列挙されている芸術家の名前は65人に及ぶ.しかし,驚くべきことに,ここにもスピネッロ・アレティーノが挙げられている(英語版には挙げられていない).

 仏語版ウィキペディアは,説明は簡潔だが,分かりやすく主要画家の活躍が表にまとめられている.列挙されている芸術家は49人で,やはりスピネッロ・アレティーノの名前がある.

 西語版ウィキペディアも,やはり簡潔な説明だけで,リンク付きで列挙されている芸術家は31人で,スピネッロ・アレティーノだけではなく,コッポ・ディ・マルコヴァルドも挙げられている.

 以上のウィキペディアを見たところで,一応,伊語版ウィキペディアに挙げられている,スピネッロ・アレティーノを除く芸術家たちを「シエナ派」と考えることにして,話を進める.


ドゥッチョ以前のドゥッチョ風
 西語版と独語版の「シエナ派」のリストの先頭に,フィレンツェの画家であるコッポ・ディ・マルコヴァルドが挙げられていることについて,2つのマエスタを通じて少し調べてみた.

 まず一つ目のマエスタは,シエナのサン・クレメンテ・イン・サンタ・マリーア・デイ・セルヴィ聖堂にある「ボルドーネのマドンナ」と称される作品だ.この聖堂には何度も足を運んだが,開いていたことは一度もないので,マエスタはまだ自分の目で観たことはない.

 1260年のモンタペルティの戦いで,シエナがフィレンツェに勝利を収めた際の捕虜の名簿にコッポの名がある.彼は身代金の代わりにこの絵を描いたとされる.絵の下部にラテン語で「1261年コップス(コッポ)が私(絵)を描いた」と記されている(伊語版ウィキペディア).

 もう一つのマエスタは,ドゥッチョ以前のシエナ派の巨匠グイド・ダ・シエナの「荘厳の聖母子」と称される作品だ.シエナのサン・ドメニコ聖堂にあるこのマエスタは都合3回観ているが,この教会は写真厳禁なので,写真を紹介することはできない.

 伊語版に拠れば,コッポは1225年頃の生まれで1276年頃に亡くなったと考えられているので,1230年頃に生まれ,1290年頃亡くなったとされるグイドは,彼よりやや年下の同時代人だったことになる.

 サン・ドメニコ聖堂のグイドのマエスタにも「幸福な日々にシエナ出身のグイドが私を描いたが,優しいキリストは彼が苦痛で苦しむことを欲しない,主の年で1221年」とラテン語の記銘がある.ウィキペディアに掲載された写真を拡大すると,「シエナのグイド」の「グイド」の箇所は読めなくなっており,状況証拠からの推測であることがわかる.

 英語版の情報に拠ると,この記銘は一行で書かれているが,四行に分けられる押韻詩になっており,古典詩には脚韻は無いが,中世ラテン詩では13世紀には脚韻があったことがわかる(脚韻に拠る切れ目の示唆は伊語版にもある).

 ところで,この記銘にはひとつ問題がある.1221年という年だ.まだグイドは生まれていないし,英語版ウィキペディアでも,様式から見て1270年代に描かれたものとしており,日付と作品の制作年代は一致しない.

 拡大写真で記銘を見るとローマ数字の2200(MMCC)と21(XXI)の間にも傷のようなものが見え,私なら能天気にここに50(L)を補って読めば,簡単に1271年になって,都合良く「ボルドーネのマドンナ」の10年後の作品と言うことになるように思われるが,それでは安直すぎるのか,ウィキペディアには見た限り,その情報はない.

 1221年の記銘については色々な説があるようだが,いずれにせよ,サン・ドメニコのマエスタは1270年代の作品で,先行するコッポの「ボルドーネのマドンナ」の影響を受けたと考えられている.

写真:
ドゥッチョ作
「聖母子」
シエナ国立絵画館


 この2つのマエスタは,構図その他に多くの違いがあるものの,両者の聖母子の顔は驚くほど良く似ている.一口に言えばドゥッチョ風だ.これには理由があった.両作品とも後になって,ドゥッチョ風に描き換えたり,手を入れたりされたのだ.伊語版ウィキペディアでは,「ボルドーネのマドンナ」に手を入れたのはニッコロ・ディ・セーニャ,グイドのマエスタの顔を描いたのはウゴリーノ・ディ・ネリオと推測している.

 伊語版ウィキペディアは,コッポが捕虜としてシエナで過ごし,解放されるために「ボルドーネのマドンナ」を描いたことが,かつて彼を「シエナ派」に属する画家とする間違いにつながったとしている.しかし,顔がドゥッチョ風のこのマエスタを見たら,そう思うのも無理もないような気がする.

 こうして,ドゥッチョ以前にドゥッチョ風の作品が出現したわけだが,顔に手が加えられたことは別にして,13世紀から14世紀にかけて聖母子の表現が洗練されていく様子を,1260年代,1270年代に描かれたこの2つのマエスタは示しているように思われる.


ビザンティン芸術の影響
 コッポ・ディ・マルコヴァルドは,他にどのような絵を描いていたのか.現存する最古の作品は,1250年から60年の間に描かれた「大天使ミカエルの物語」とされる.

 5月15日にサン・カシャーノに行って,サン・カシャーノ・ヴァル・ディ・ペーザの宗教芸術博物館にあるこの作品を観てきた.「ボルドーネのマドンナ」の作者と同一人物が描いたとは思えないほど古拙感の漂う,しかし,しっかりと描きこまれた物語絵だ.

写真:
コッポ・ディ・マルコヴァルド
「大天使ミカエルの
物語」


 オルヴィエートの大聖堂博物館には,「ボルドーネのマドンナ」と同じく,聖マリア下僕会のサンタ・マリーア・デイ・セルヴィ教会のために描かれた通称「オルヴィエートのマエスタ」(1265年頃)がある.この作品も2回観ている.

 オルヴィエートのマエスタが,「ボルドーネのマドンナ」の成功によって同じ修道会から注文されて描かれたという情報が正しければ,「大天使ミカエルの物語」,「ボルドーネのマドンナ」,「オルヴィエートのマエスタ」の順に15年くらいの間に描かれたことになる.

写真:
コッポ・ディ・マルコヴァルド作
「オルヴィエートのマエスタ」
オルヴィエートの大聖堂博物館


 2つのマエスタは,成功例に倣ってもう一つが描かれたのだから,似ているのは当然であるが,どちらにもビザンティンの影響が見られる.「ボルドーネのマドンナ」がシエナ派の形成に影響を与えたのだとすれば,このビザンティンの影響は大きな意味があっただろう.

 ジョット以前の古拙な芸術家と一括されることも少なくない13世紀の画家にも,間違いなく高い技術と個性があることを,コッポとグイドの2つのマエスタを通じて知ることができるように思える.



 以前ロシアでイコンをたくさん観た時に,少し勉強して整理した分類を適用すると,「ボルドーネのマドンナ」は聖母の右手がイエスの足に触れているので,グリコフィルサ(グリュコピルーサ)型,サン・ドメニコのマエスタはイエスを指差しているので,オディギトリア(ホデーゲートリア)型だと思う.

 玉座に座り,周りに天使がいるのでマエスタに分類されるのであろう.伊語版ウィキペディアの関連項目では「ボルドーネのマドンナ」もオディギトリア型としているが,キリストを指差しているようには見えないので,私はグリコフィルサ型だと思う.

 聖母の表情が憂鬱で,イエスや絵を見ている人と視線が合っていないことに関しては,ネット上にある,

益田朋幸「イスタンブール アヤソフィア美術館とビザンティンの聖堂」


という講演(「無断転記転載を禁ず」と赤字強調されているのでそれぞれ検索されたい)が参考になる.

 現在はコッポの作品とは考えられていないようだが,長い間コッポ作と考えられてきた同時代作品で,フィレンツェのサンタ・マリーア・マッジョーレ教会の中央祭壇左脇の礼拝堂の祭壇に飾られている「サンタ・マリーア・マッジョーレの聖母の聖遺物入れ」は,何度も目にしているが,彩色が鮮やかすぎて中世の遺産と言う有難みに乏しく,じっくりと観ることは無かった.

 木彫浮彫の聖母子はニコポイア(ニーコポイイアー)型で,周辺のコマ絵の人物造形は細長いフォルムで,私たち素人がビザンティンのモザイクやロシアの古いイコンに描かれていると思っているものに近いように思われる.

 これは簡単に理解してはいけない問題だとは思うが,どのような形(※)にせよ,12世紀のトスカーナ芸術もビザンティンの影響を受けながら自己形成が行われ,そうした共通の要素がありながら,独自性を追求した結果,片やフィレンツェ,片やシエナで,それぞれ独特の伝統が形成され,前者からはチマブーエとジョット,後者からはドゥッチョとシモーネ・マルティーニという偉大な芸術家たちが出て,相互に影響し合いながら更に伝統を発展させたと考えたい.

 (※同僚のビザンティン美術の専門家に一度だけ聞いたことがあるが,写本挿絵のようなものは持ち運べるので,直接コンスタンティノープルやその周辺に行かなくても影響が広まる可能性は高いとのことだったように思う.素人の理解なので専門家の正統的な説明を自分に都合良く解釈している可能性があるから,あくまでも,私がそのように理解した,と言うことではあるが.)

 グイド・ダ・シエナの作品は国立絵画館で2点見られるが,残念ながらサン・ドメニコのマエスタほどのインパクトは無い.制作年代としてはどちらも13世紀中頃(絵画館の解説プレート)とあるだけで,サン・ドメニコのマエスタより古いか新しいかこれだけではわからない.

 どちらもオディギトリア型の聖母子を中心に聖人たちを描いた横長五角形の板絵だが,聖母の表情はドゥッチョまではまだ随分距離があるように思われる.


ドゥッチョ以前の画家たち
 グイドの他にも数人のドゥッチョ以前の画家の作品を国立絵画館で見ることができる.

 今回はその中で,記録上最古のシエナ派絵画(1215年)と思われるトレッサの親方の1点(他に大聖堂博物館で1点),グイド・ディ・グラツィアーノの2点,ディエーティサルヴィ・ディ・スペーメの3点に注目したことを言及するにとどめる.

写真:
トレッサの親方
「救世主と真の
十字架の物語」


 国立絵画館にあるトレッサの親方の作品「天使と福音史家の象徴物に囲まれて祝福を与える救世主と真の十字架の物語」は,一見して,とても上手な絵とは思えないし,ビザンティン芸術の影響による洗練も感じられないようにに思えるが,「ボルドーネのマドンナ」に約45年先立つシエナの作品と思えば,興味も生まれる.

 もう一つの,大聖堂博物館にあるニコポイア型の「大きな目の聖母子」(1225年頃)は注目に値する.玉座に座る聖母子の両肩のところに天使がいるので,これもマエスタ・タイプの聖母子とも言える.「ボルドーネのマドンナ」に35年ほど先行する作品だ.

 この聖母子にも間違いなくビザンティン芸術の影響があるだろうが,ビザンティン的な洗練よりも,むしろ何か呪術的な迫力を感じさせ,このような作品が生まれた背景としてロマネスク彫刻の影響も視野に入れなければならないように思うし,ここからずっと先にドゥッチョが生まれるためには,やはり「ボルドーネのマドンナ」をコッポが描かなければならなかったと思える.

写真:
トレッサの親方
「大きな目の聖母子」
大聖堂博物館


 ディエーティサルヴィの2つのオディギトリア型の聖母子もドゥッチョ以前の聖母子として注目するべきだろう.

 「サン・ベルナルディーノの聖母子」にも,作者名はないが1262年に描かれたとする記銘があり,それが本当なら「ボルドーネのマドンナ」の翌年に描かれたことになる.

 聖母は大きな目を見開いていて,微かに微笑んでいるように見え,コッポの影響はあったのだろうが,むしろ今までドゥッチョ以前の聖母子に持っていたイメージに近い.金とその他の色のバランスが良く,輪郭線がくっきりとした美しい絵である.

 もう一つの「マドンナ・ガッリ=ドゥン」という通称の聖母子は,縦長五角形で,聖母子の玉座の両肩に天使がいるので,オディギトリア型のマエスタと言って良いと思う.1908年に寄贈したマルチェッロ・ガッリ=ドゥンの名にちなんでそう呼ばれ,元々どこにあったかは分からないようだ.

 伊語版ウィキペディアの推定制作年では1265年頃とされており,やはり「ボルドーネのマドンナ」とサン・ドメニコのマエスタの間に描かれたことになる.これも立派な絵だが,聖母の表情はドゥッチョにつながるものには見えない.

 大聖堂の右翼廊にある「誓願の礼拝堂」(カッペッラ・デル・ヴォート)でも,この画家が描いた「誓願の聖母子」(1267年頃)がバロックの彫刻に囲まれた祭壇で,崇敬の対象になっているが,これもドッチョの洗礼性まではだいぶ距離があるように思われる.

 大聖堂のクリプタ(地下教会)の「キリスト磔刑」なども彼の作品とされることもある.大聖堂にフレスコ画が残っているところからみても,シエナ派の形成に重要な役割を果たして画家であるのは間違いない.

写真:
ディエーティサルヴィ?
「キリスト磔刑」
大聖堂クリプタ


 国立絵画館で見られるグイド・ディ・グラツィアーノの作品は「聖母子」ではないが,ウェブ情報をたどって行くと,彼にはマエスタ・タイプのオディギトリア型の「サン・レゴロの聖母子」という通称の作品があるようだ.

 フィレンツェ都市圏地域の西南端にモンタイオーネと言う基礎自治体があり,その地のサン・レゴロ教会の堂内に今でも飾られているようだ.ネットで公共交通機関のルート検索をすると,鉄道でカステルフィオレンティーノまで行けば,そこからバスで行けるようなので,実は明日行ってこようかと思っている.

 この絵の聖母もドゥッチョとはだいぶ違うように思えるが,聖母の衣とか全体の雰囲気はドゥッチョの聖母子に良く似ているように思われる.

 推定制作年代は1285年から1295年とある(伊語版ウィキペディア)ので,グイド・ダ・シエナのサン・ドメニコのマエスタから10年から20年後の作品で,ドゥッチョが1355年くらいの生まれであれば,既に成人していると考えられるので,それほどの重要性はないかも知れない.

 しかし,シエナ絵画館で見られる他の作品に比べて,「サン・レゴロの聖母子」は洗練度が高く,シエナでドゥッチョという巨匠を中心に傑作が生まれて行く時代を先取りしているように思われる.

 ドゥッチョまでたどり着かない内に,だいぶ長々と述べてしまったので,ドゥッチョ以降のシエナ派に関しては,後2回書かせてもらうことにして,今回はここまでとしたい.

写真:
バディア・ア・イゾラの親方
「聖母子」


 最後に多分,ドゥッチョよりも年長であろうと推測されているバディア・ア・イゾラの親方に言及したい.この画家は謎の画家で,若い頃のドゥッチョ,その弟子筋のウゴリーノ・ディ・ネリオもしくはその父であろうネリオに比定する考えもあった程の実力者と考えられている.

 画家の通称のもととなったイゾラ大修道院にかつてあったマエスタ型の聖母子を,コッレ・ディ・ヴァルデルサの宗教芸術博物館で観て,魅せられた.詳しくは,コッレの回で報告するが,シエナの国立絵画館にもグリコフィルサ型の聖母子が1点あり,こちらも大変美しい絵だ.

 絵画館のプレートには13世紀の終わりから14世紀初めと推定年代が記されており,もちろんドゥッチョが画家として活躍し始めた時代ではあろうが,聖母のやや細めの顎の形など,ドゥッチョとは違う特徴が見られるように思う.ドゥッチョが登場する前提になって,初期シエナ派の伝統形成に大きく貢献した画家と思いたい.



 酷暑がしばらく続く.来年無事に帰国することが自分にとっての最大の課題でもあり,暑さにへばって病気になっては元も子もないし,翻訳の仕事のペースを上げる良い機会とも思うので,寓居で,10年前は無かったエアコンも少しずつ使いながら(昼は日の当たらない室内ならわりに涼しい),しばらくPCに向かう生活をして行こうと思っている.

 トスカーナの諸都市や小さな町々についても,先日まで幾つか行ったエミリア・ロマーニャの諸都市,2012年までは未拝観だったフィレンツェ市内の諸教会など報告したいことはいっぱいあるが,簡潔にまとめる能力が足りず,積み残しが増えるばかりなので,翻訳の仕事と並行して,なかなか実現しない「行った,見た,感動した」と言う報告をテンポ良くまとめて行きたい.

 しかし,シエナ派については,自分の勉強の整理としてもう少し語らせてもらうことにする.


6月16日- 7月17日の活動報告
 6月16日は,金曜日の夕方,博物館が開くと言うネット情報を信じて,カンピ・ビゼンチオのサン・ドンニーノ地区に行こうとしたが,ATAFのバスがストライキ(ショーペロ)で来なかった.

 17日はバルジェッロ博物館に行き,帰る途中ストロッツィ宮殿に寄り,アメリカの現代芸術家ビル・ヴィオラの特別展を見た.

 18日は35番のバスでフィレンツェ近郊のペレトーラ地区とブロッツィ地区に行き,3つの教会,1つの祈禱堂,1つのタベルナコロを訪ねた.

 19日は電車とバスを乗り継いでサン・セポルクロに行き,20日はシエナ,21日はフィレンツェ市内でダヴァンツァーティ博物館を見学し,サンタ・トリニタ教会とサンティ・アポストリ教会を拝観した.

 22日は大聖堂博物館を見に行ったが,15ユーロのセット券しかなかった(実は他にビル・ヴィオラの特別展とのセット券もあった)ので,大聖堂の地下教会サンタ・レパラータ教会跡,ジョットの鐘楼,サン・ジョヴァンニ洗礼堂を見学し,大聖堂も拝観した.

 セット券に含まれる大聖堂のクーポラは当日の予約が取れなかったので,翌23日にサンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂を拝観した後,予約の取れた午後3時に大聖堂のクーポラに登った.

 24日は電車でアレッツォの先のカスティリオン・フィオレンティーノに行き,25日は市内で捨て子養育院を見学,サンティッシマ・アヌンツィアータ教会で特別展を見た.

 25日はサン・ジミニャーノを再訪し,前回見落としたサン・ロレンツォ教会と宗教芸術博物館,考古学博物館を見学し,市立博物館,参事会教会も改めて見学,拝観した.

 29日はボローニャ乗り換えの電車でエミリア・ロマーニャ州のピアチェンツァに行き,事情は後日報告するが,見落としがあったと思い,翌日もピアチェンツァに行って,帰りにパルマに寄った.

 7月2日は,高橋教授情報で,第一日曜日が入場無料になるピッティ宮殿に行き,パラティーナ美術館と特別展を行なっていた銀器博物館を見学した.

 3日は30番,35番のバスで行ける市内のノーヴォリ地区で4つの教会を拝観し,さらに帰りのバス券の時間がまだだいぶ残っていたので,アルノ川を越え,サンタ・マリーア・ア・リコルボリ教会を拝観した.

 4日はローカル線でラヴェンナの日帰りに挑戦した.

 5日は未拝観のサンティ・シモーネ・エ・ジューダ教会が午前中開くとのネット情報を信じて,レオパルダのバス停からミニバスC3で行ったが開いていなかった.近くに古本屋があり,古典の注釈つきテクストを88ユーロで12冊買って,サン・ミケーレ・ヴィスドミニ教会とサンティッシマ・アヌンツィアータ教会を拝観して,サン・マルコ広場からバスで帰って来た.

 6日は寓居の隣の床屋で散髪してもらい(髭剃り無しで15ユーロ),7日はローカル線でのボローニャ日帰りに挑戦した.

 8日午前中は考古学博物館を見学し,夜は高橋教授が都合で行けなくなったオペラのチケットを譲ってもらって,ピッティ宮殿でドニゼッティ「愛の妙薬」を鑑賞した.

 これがとてもおもしろかったので,10日夜のロッシーニ「セビリアの理髪師」のチケットを帰宅後すぐインターネットで買い(チケットは自分でpdfを印刷して,入口でバーコードを読み取ってもらう.窓口では予約料がかかるが,インターネットだと入場料のみ),ピッティ宮殿中庭の野外オペラを再び楽しんだ.

 歌手も指揮者もオケも合唱も演出家も本気で,素晴らしかった.夜遅いし,観光客が多いので途中で帰る人が多く,その点は残念だったが,2回とも20ユーロの最後列の席(一番良い席でも90ユーロ)だったので,前の人がいなくなると舞台も一層良く見えて,個人的には楽しむことができた.

 12日は23番と14番のバスを乗り継いで,少しだけ郊外のサンタントーニオ・ア・ベッラリーヴァ教会を拝観した.帰途,サンティ・シモーネ・エ・ジューダ教会の前まで行ったが開いていなかったので,周辺のタベルナコロを幾つか見た.

 ヴァルディ通りで良さそうな古本屋を見つけたので,入ったら偶然にも『フィレンツェのタベルナコロ100選』という1971年に限定5000部で出版された本を見つけ,18ユーロだと言うので,『シエナのプッブリコ宮殿』と言う立派な本20ユーロと一緒に買った.

 ギリシア・ローマの古典はないかと尋ねると,これを見てくれと言われ,店の目録を貰い,買った本は 35ユーロにまけてもらった.近くのバス停からミニバスC2に乗って帰り,買い物をして午後は仕事をした.夕方から高橋教授宅で,日本人5人による暑気払いに参加した.

 14日はフレッチャロッサとローカル線を乗り継いで,フェッラーラに行って来た.

 16日はローカル線でフィリーネ・ヴァルダルノまで行き,バスに乗り換えてレッジェッロのカッシャ地区にあるマザッチョ宗教芸術博物館を10年ぶりに再訪した.後日,報告の予定.

 17日は17番と4番のバスを乗り継いで,フィレンツェ郊外モントゥーギ地区のサンティ・フランチェスコ・エ・キアーラ教会と,ロミート地区のサクロ・クオーレ・アル・ロミート教区教会を拝観し,14番のバスでベッカリア広場まで行って,サンタンブロージョ市場を覗いた後,サンタ・クローチェ聖堂を5時間かけて拝観した.

 サンティ・シモーネ・エ・ジューダ教会の前に立ったが,夕方でも開いていなかった.C3のミニバスで帰宅した.






ヴェローナのアレーナ音楽祭以来の
野外オペラ 楽しみました