フィレンツェだより第2章
2017年7月10日



 




ロマネスクとゴシックの混交
シエナ大聖堂



§シエナ その3 大聖堂( ピッコローミニ)

黒白の横縞を基調とする森厳な大聖堂の堂内に,場違いなほど煌びやかな場所が1カ所ある.左側廊の奥にある,いつも人が詰めかけている小さな部屋,ピッコローミニ図書館だ.


 その壁面は書架ではなく,華麗な連作フレスコ画で覆われている.描いたのはピントリッキオ(ピントゥリッキオ)とその工房で,題材は聖書に基づくものでも,聖人や奇跡の物語でもない.エネーア・シルヴィオ・ピッコローミニ,後に教皇ピウス2世となる人物の物語である(以下,教皇就位以前はエネーア,就位以後はピウス2世と表記する).

 依頼したのはピウス2世の甥で,当時はシエナ大司教であり,後に教皇ピウス3世となるフランチェスコ・ピッコローミニ・トデスキーニだ.トデスキーニが父方の姓で,ピッコローミニはピウス2世の姉妹である母方の姓である.

 図書館の建設は1492年,フレスコ画は1502年から1503年にかけて制作された.協力者の中には1502年当時19歳のラファエロ,ボローニャの画家アミーコ・アスペルティーニ(28歳)もいたようだ.

 ペルージャで生まれ,シエナで亡くなったピントリッキオは,シエナ以前にローマで多くの仕事をしている.しかし,古代遺跡の発掘が本格的になるのは彼のローマ滞在より後なので,古代胸像などを見たかどうかは分からない.

 それに比べ,ペルジーノの工房でピントリッキオと共に仕事をしたこともあるラファエロは,本格的になっていく古代遺跡発掘の監督官の地位を与えられ,発掘品の管理にも関わった.両者は親子ほども年が離れていて,世代差のせいもあっただろう.

 ラファエロのように古代遺産に触れる機会は無かったにせよ,長い間ローマにいて,人文主義教育の中で育った教皇や枢機卿が増えてくる環境の中で仕事をしたピントリッキオが,古代や人文主義に無関心だったはずはないと思う.

 彼の最大の仕事とも言うべき,この連作フレスコ画「教皇ピウス2世の物語」の中に,作者自身が取り込んだ人文主義の影響があるかどうかは分からない.しかし,このフレスコ画の主人公である教皇ピウス2世,エネーア・シルヴィオ・ピッコローミニは,間違いなく時代を代表する人文主義者だった.


エネーア・シルヴィオ・ピッコローミニ
 事実かどうか確認していないが,エネーア・シルヴィオ・ピッコローミニが教皇名にピウスを選んだのは,本名のエネーア(ラテン語ではアエネアス〈アエネーアース〉)に因んでのことと言われる.

 もちろんアエネアスは古代叙事詩『アエネイス』(アエネーイス)の主人公で,『アエネイス』において主人公に枕詞のように冠せられる形容詞が,ラテン語のピウス(敬神と親族愛を兼備した)である.

 ピッコローミニ家には,アエネアスの子孫を称する古代ローマのユリウス氏族(カエサルもその一族だった)の子孫であるという家系伝説があり,その影響もあったとされる(伊語版ウィキペディア).

写真:
ピッコローミニ図書館

古代彫刻
「三人の優美の女神たち」

フレスコ画の下には
楽譜の写本


 薄暗い堂内から図書館に入ると,光に満ちた明るい空間に少し驚く.明るい光の中で見る「教皇ピウス2世の物語」は色鮮やかで美しい.けれども,なぜか有難みに乏しい.おまけに狭い部屋は常に人で溢れ,落ち着いて鑑賞できる雰囲気とは言い難い.

 私の関心はむしろ,部屋の中央に置かれた古代彫刻「三人の優美の女神たち」,フレスコ画の下に展示されているリベラーレ・ダ・ヴェローナなどが装飾した楽譜の写本に向いてしまい,なかなか「ピウス2世の物語」に集中できない.

 それでも,鑑賞も3回目ともなると,ようやくエネーア・シルヴィオ・ピッコローミニ,ピウス2世の物語の内容に踏み込んで,絵柄を確認しようという気になった.

 物語は10場面で構成されている.

1.バーゼル公会議に旅立つエネーア・シルヴィオ・ピッコローミニ
2.スコットランド宮廷への使節の役目を果たすエネーア
3.神聖ローマ皇帝フリードリッヒ3世から桂冠詩人に叙せられるエネーア
4.教皇エウゲニウス4世に恭順を誓うエネーア
5.ポルトガル王女エレオノーラをフリードリヒ3世に
  引き合わせるシエナ司教エネーア
6.枢機卿に任命されるエネーア
7.ヴァティカンで教皇に推戴されるピウス2世
8.マントヴァ教会会議を招集するピウス2世
9.シエナのカタリナを列聖するピウス2世
10.十字軍開始のためにアンコーナに到着するピウス2世

題名は伊語版ウィキペディアを参照した(付番は宮城).

 この10場面は栄達のステージによって,3つの時期に分けることができる.1)俗人であり,人文主義者であった頃,2)シエナ司教や枢機卿などの高位の聖職者であった頃,3)教皇に選出されて以後.上の付番で言うと,1から3は人文主義者の時代,叙階を受けた4の時期(1476-1477年)から6までが教皇就位以前の聖職者の時代,7から10が教皇の時代ということになるだろう.

 場面1(26歳)で白馬に跨る美少年のように描かれたエネーアは,場面2(30歳),3(37歳),4(40歳)では長髪の若者のような姿であり,5では司教冠を被っているが,まだ青年のようで(47歳),6では頭頂部を剃り上げた頭に枢機卿の赤いつば広帽子を授かろうとしている中年男性(51歳),7以降は教皇冠を被って玉座に座る初老から老年期(53歳から59歳)の男性として描き分けられている.

 エネーアは1)の人文主義者の時代に,高位聖職者たちの信頼を得て,公会議へ参加し,外交使節としても実務能力を発揮し,その手腕が高く買われて,後に聖職者として教皇に登りつめる下地を作ることに成功した.

 別の言い方をすれば,彼が能力を発揮する状況が次々と生まれる,混沌と波乱の時代が進行していた.



 時代は遡って,1305年からアヴィニョンに教皇庁があった時代が終わり,1377年にグレゴリウス11世が教皇庁をローマに戻した翌年,彼の死去に伴い,新たに選出された新教皇への反発から,反対派は別の教皇を擁立し,教皇庁をアヴィニョンに置く,いわゆる「大分裂」が起こった.

 高校の世界史ではこの「大分裂」をシスマという発音で習ったと記憶するが,ギリシア語語源のラテン語で,エラスムス式ならスキスマとなる.

 事態収拾のため,ピサ公会議(1409年)が開かれ,新教皇が選出されたが,かえって教皇が3人いるという混乱を生むこととなった.

 その後,コンスタンツ公会議で,それぞれの後継者である3人の教皇は退位するか,廃位され,ローマの名門コロンナ家出身の新教皇マルティヌス5世が選出されて(1417年),「大分裂」は解消する.

 しかし,問題の解決に公会議が大きな役割を果たしたこともあって,教皇の権威よりも公会議が優先するという考えが影響力を強め,新たな火種が生まれる.

 コンスタンツ公会議において,公会議が定期的に開かれることが主張されたので,マルティヌス5世はバーゼル公会議を招集(1431年)したが,開会前に逝去し,後を引き継いだエウゲニウス4世(公会議に出席せず)と,公会議主義者たちとの対立が浮き彫りになる.

 オスマン・トルコの勢力が強大になり,国際情勢の緊迫が高まる中,ビザンティン皇帝ヨハネス8世の申し出により,東西両教会の再合同を審議すべく,公会議の場はフェッラーラ(1437年),さらにコジモ・デ・メディチの提案によりフィレンツェ(1439年)に移される.

 イタリアで行なわれた公会議は,教皇エウゲニウス4世,ビザンティン皇帝ヨハネス8世,東西の高位聖職者たちが列席する華やかなものになり,実現はしなかったが,東西教会の再合同を目指す方針が採択された.

 それに対し,バーゼルに残った公会議至上主義者たちは対立教皇フェリックス5世を立てて,エウゲニウス4世に対抗したが,1447年にエウゲニウスの後継者に選ばれたニコラウス5世が1449年にバーゼルの会議を解散させ,対立教皇も退位に追い込まれる.

 ここで対立教皇フェリックス5世について少し説明すると,もともと聖職者ではなく,現在の国名で言うとフランス属しているサヴォワ(イタリア語ではサヴォイア)地方を中心とするサヴォイア伯領の首都シャンベリで生まれ,その国の当主アメデーオ8世としてサヴォイア伯爵から公爵となった有能な君主だった.

 彼が築いた公国の後継君主たちが,後にイタリア,ピエモンテ地方のトリノに首都を移し,サヴォイア公からサルデーニャ王となり,19世紀のイタリア統一運動(リソルジメント)の中で1861年統一イタリア王国の国王となる.

 歴史上最後の対立教皇で,対立教皇としての本拠地は,自身の影響下にある,現在はスイス領のローザンヌに置かれた.

写真:
バーゼル公会議に旅立つ
エネーア・シルヴィオ・
ピッコローミニ(場面1)


 エネーアに話を戻そう.バーゼル公会議の時,26歳の若者だった彼は,後に枢機卿となりローマ教会を支えたフェルモ司教ドメニコ・カプラニカの側近の一人として公会議に参加する.「教皇ピウス2世の物語」の最初の場面だ.

 対立教皇フェリックス5世が擁立された時,まだ俗人の平信徒だったエネーアは派遣先のスコットランド,イングランドからバーゼルに戻り,彼を支持したようだ.

 しかし,対立教皇を支持することの不利を悟ったからか,1442年にストラスブールを経て,神聖ローマ皇帝,ハプスブルク家のフリードリッヒ3世※の宮廷に迎えられた.(※皇帝としての正式な戴冠は1452年からで,この時点では従来皇帝が兼務するのが慣習である「ローマ人の王」Rex Romanorumという名の実質上のドイツ国王.)

 この翌年の1443年にフランクフルトでフリードリヒ3世により「桂冠詩人」の称号を与えられる(場面3).

 エネーアはラテン語の詩も書いていたが,文筆家としては喜劇,歴史書,書簡が知られ,桂冠詩人になった翌年の作でラテン語散文による一種の恋愛小説「二人の恋人たちの物語」が有名である.



 ところで,「桂冠詩人」とはどのような称号なのか.古いところでは,1341年当時のローマ市元老院からこの称号を貰ったペトラルカが知られるし,17世紀以降現在までイギリス王室が桂冠詩人を任命し,その中にはワーズワースやテニスンなどの大詩人もいる.

 しかし,中世,ルネサンス期には確立した恒常的な制度ではない.

 宗教改革にも影響を与えたドイツの人文主義者ウルリッヒ・フォン・フッテンが,フリードリヒ3世の息子マクシミリアン1世によって桂冠詩人の称号を与えられ,イタリアの大詩人トルクァート・タッソーが1544年,時の教皇クレメンス8世により桂冠詩人とされるべくローマに呼ばれたが,桂冠を授けられる前にローマで亡くなった.

 タッソーはもちろん高名な詩人だが,フッテンを詩人と思う人はいないだろう.確かに彼はラテン語の詩を書いたとのことであるが,エネーアの場合にしても,フッテンの場合にしても,当時民族を超えて共通のコミュニケーション・トゥールであったラテン語の水準を古典ラテン語に近づけた人文主義者たちを顕彰する意味があってのことだろう.

 現代の英語のような圧倒的影響力を持つ言語は西欧にはラテン語以外に存在せず,ラテン語が共通語の役割を果たしていなければ,現在の国名を用いるとイタリア人(当時イタリアと言う国家は存在しない)であるエネーア,オランダ人(当時オランダと言う国家も存在しない)であるエラスムスが国際的に活躍できるはずはない.

 いずれにせよ,ピッコローミニ図書館のピントリッキオのフレスコ画「神聖ローマ皇帝フリードリッヒ3世から桂冠詩人に叙せられるエネーア」(繰り返しになるが厳密にはこの時フリードリヒは有資格者ではあるが,まだ正式には皇帝ではない)は,エネーアの人生のうち人文主義者としての前半生の栄光の頂点を示しているであろう.

 人文主義者としての名声,高位聖職者たちと皇帝にとって有用であった外交上の実務能力,そこで培われた人脈が彼に出世の階段を登らせた.

 エネーアがフリードリヒの宮廷,ドイツ諸侯,教皇庁の調整役の使命を果たしたことにより,バーゼルに残っていた公会議主義者たちの勢力が失われ,エウゲニウス4世の信頼を得る.

 こうして高位聖職者への道の出発点に立ったエネーアは,次の教皇ニコラウス5世によってトリエステ司教,ついでシエナ司教となる.ニコラウス5世はエネーアら人文主義者たちと親しく,フラ・アンジェリコを招くなどして,ローマにフィレンツェのルネサンスを齎した教皇である.

写真:
ポルトガル王女
エレオノーラを
フリードリヒ3世に
引き合わせる
シエナ司教エネーア
(場面5)


 シエナ司教のとき,フリードリッヒ3世とポルトガル女王エレオノーラとの結婚を成立させ,その婚礼とともに神聖ローマ皇帝の戴冠式をローマで挙行することに貢献した.

 フリードリヒとエレオノーラのシエナでの出会いを仲立ちするエネーア(場面5)は,枢機卿,教皇に選ばれる以前の聖職者としての絶頂期の姿が描かれているのだろう.


ピウス2世
 エネーアはフリードリッヒ3世等の後押しもあって,枢機卿になる(場面6).彼を任命したのは,ニコラウス5世の次に教皇となったカリクストゥス3世(「カリストゥス」と言う読み方が日本語では主流かも知れないが,綴りに x を用いる以上,エラスムス式の原則通りカリクストゥスとすべきだろう)である.

 しかし,カリクストゥス3世は高齢だったので,就位3年で早くも亡くなり,次の教皇としてエネーアが選出される.俗人としても,聖職者としても成功を収め,教会の中の複雑な人間関係の中で紆余曲折を経ながら,教皇ピウス2世となったのは1458年のことだ(場面7).

 ピウス2世として行なったことの一つに,同じシエナ出身の「シエナのカタリナ」の列聖がある(場面9).カタリナは教皇庁のローマ帰還に功績があったとされる聖女で,シエナだけではなく,また出身母体のドメニコ会だけではなくイタリア各地で崇敬を集めている聖人だ.

 彼女を列聖したのがピウス2世であることを,今更だが知って驚いた.

写真:
シエナのカタリナを
列聖するピウス2世(場面9)


 就位の翌1459年のマントヴァ教会会議(※)において,ピウス2世はビザンティン帝国を滅ぼし,コンスタンティノープルを陥落させたオスマン・トルコに対する十字軍を呼びかけるが,皇帝を初めとする西欧の諸王,諸侯の反応は冷たく,所期の目的を果たすことはできなかった.

(※招集に際しては「公会議」を意図したかも知れないが,現在は公会議に数えられていないようなので,ラテン語1語ではどちらもコンキリウムを使うが,公会議の下位に分類される「教会会議」の訳語を用いる.)

 それでも彼は,1463年に十字軍結成の命令を発し,翌年,十字軍の出発地となるアンコーナに赴く.

 華やかに描かれた物語は「アンコーナに到着したピウス2世」の場面で終わる.しかし,この時,ピウス2世は既に病んでいたようだ.何とかして士気を上げようと,病を押してアンコーナまで来たが,望みを果たせぬまま亡くなり,十字軍も中止される.

 開明的な人文主義者として人生のキャリアを始め,その成功がエネーアを教皇の地位へと導いたが,最後は教皇としての仕事を成功させずに終わった.

 オスマン・トルコによるキリスト教世界の危機を目の前にして,教皇と言う立場からは時代遅れの十字軍の派遣を主張せざるを得なかったのかも知れないが,宗教的にも政治的にも指導力を発揮して,何か別の道を模索できなかったのかと,残念な気持ちを抱かざるを得ない.



 通算3度目の見学で,初めてピッコローミニ図書館に描かれたフレスコ画の物語を整理してみた.

 長々と述べた後で,それを台無しにすることを言うようだが,この狭い部屋でフレスコ画に見入っている大勢の人たちの殆どにとって,歴史的背景はあまり意味を持たないかも知れない.私自身も人文主義との関連でピウス2世に興味を持ってはいても,ピッコローミニ図書館に足を踏み入れると,ピントリッキオの絵の能天気なまでの美しさに見惚れるだけだった.

 しかし,この華やかなフレスコ画の背景には,教皇庁のアヴィニョン移転とローマ帰還,その後の「大分裂」,その事態を収拾するために力のあった公会議,そして公会議の権能を教皇に優先させようとする人々と教皇庁の葛藤,ビザンティン帝国の滅亡とそれを齎したオスマン・トルコによるイスラムの脅威,コンスタンツ宗教会議で火刑に処されたヤン・フスと,彼を支持する人々の反乱,ローマに華やかなルネサンスを現出した人文主義の影響を受けた教皇たち,枢機卿たちといった,時代にダイナミックな変容を齎した力が渦巻いていた.

 全体的に「ゴシック」のイメージがあるシエナ大聖堂を丁寧に拝観すると,その先入観を超えて,「中世からルネサンスへ」という顕著な特徴が浮かび上がってくる.華やかなピッコローミニ図書館はそれを端的に物語っているように思える.


ピッコローミニ祭壇
 ピッコローミニ図書館を出て,振り返ると,入り口には彫刻の施された大理石の正面が作られていることに気付く.

 この正面は図書館の制作依頼者でもあるシエナ大司教フランチェスコ・ピッコローミニ・トデスキーニ枢機卿の依頼により,1497年に制作された.シエナ生まれの彫刻家ロレンツォ・ディ・マリアーノの作品で,ロレンツォは象嵌床装飾の「ヘルメス・トリスメギストス」の作者ジョヴァンニ・ディ・ステファノの弟子とされる.

 フランチェスコ・ピッコローミニ・トデスキーニ枢機卿は,1503年9月22日に教皇アレクサンデル6世の後任に選出され,ピウス3世となったが,同年の10月18日に逝去しているので,在位は僅かに26日だった.図書館内のフレスコ画は1502年には着手されていたが,完成したのは1507年なので,依頼者の死後も仕事は続けられたことになる.

 正面の上部にはピントリッキオによって「ピウス3世の教皇戴冠式」が描かれているが,完成は1504年なので,こちらの依頼者はピッコローミニ図書館の装飾を継続させた,シエナにおけるピウス3世の後継者たちであろう.

写真:
ピッコローミニ図書館
の正面


 図書館正面の左隣には,ピッコローミニ祭壇がある.一見墓碑のように見える巨大な構築物だが, ここにはエネーア・シルヴィオ・ピッコローミニ(教皇ピウス2世)も,制作を依頼したフランチェスコ・ピッコローミニ・トデスキーニ(教皇ピウス3世)も埋葬されていない.

 後者が前者を顕彰し,ピッコローミニ家の威光を顕示する一種の記念碑のようなものだろう.とは言え,もちろん祭壇なので,施された彫刻,飾られた絵は全て宗教的なものである.制作を依頼されたのは,ロンバルディア出身で北イタリア,ローマで活躍していた彫刻家で建築家のアンドレーア・ブレーニョだ.

 ピウス2世が教皇になった際,甥のフランチェスコ・ピッコローミニ・トデスキーニは,親族優先登用のネポティズムにより枢機卿とシエナ大司教に任命されていたが,ピウス2世が亡くなって既に17年が経ち,43歳の枢機卿は,あるいは自分の墓となることを意識していたかも知れない.

 ブレーニョは1481年に依頼を受け,1485年まで仕事を継続したが,高齢であった他に様々な事情があり,未完成のままローマに帰ってしまい,制作は中断された.別の彫刻家に依頼しても長続きしなかったりして,中断は1501年まで続いた.

 長い中断の後,1501年に銀行家ヤコポ・ガッリの仲介で,当時,ヴァティカンのピエタ(1497-1499年)を完成させた新進気鋭の彫刻家ミケランジェロと契約を結んだが,彼がフィレンツェでのダヴィデ像(1501-1504年)の制作など,別の仕事のために先延ばしにしている間に,フランチェスコ・ピッコローミニ・トデスキーニは教皇になり,在位26日で逝去する.

 ところで,シエナ大司教だったフランチェスコがピウス3世が教皇になった後,シエナ大司教の座に就いたのはジョヴァンニ・ピッコローミニで,彼の後継者はフランチェスコ・バンディーニ・ピッコローミニ(ジョヴァンニの姉妹の子)という人物である.

 伊語版ウィキペディアに拠れば,エネーア(ピウス2世)の後任で,しかもフランチェスコ・ピッコローミニ・トデスキーニ(ピウス3世)の前任者はアントニオ・ピッコローミニなので,エネーアから5代続けて,1450年から1588年まで138年間,シエナ大司教(エネーアとアントニオは大司教ではなく司教)はピッコローミニ家の関係者だったことになる.

 こうした状況下で,他にも仕事を抱えていたミケランジェロは乗り気でも本気でもなかったかも知れないが,助手たちの力も借りながら,1504年には何とか壁龕の4体の聖人像が完成した.

 その後もこの祭壇完成の努力が続けられたが,最上部の右側の壁龕に彫刻がないのを見ると,現在も未完成のままと言うことだろう.

写真:
ピッコローミニ祭壇
中央の大壁龕の両脇の
小壁龕の中の4体の彫刻は
ミケランジェロの作


 上部の中央の壁龕には,ヤコポ・デッラ・クェルチャの作かも知れない「聖母子」の彫刻がある.写真を拡大して見るとクェルチャの作品よりも前の時代のゴシックの遺風を帯びているように思われる.

 もっとも,クェルチャは1374年頃の生まれで,ドナテッロよりも12歳ほど年長,ギベルティ,ブルネレスキよりも年上であるから,彼の作品にゴシック的な要素があっても不思議ではない.クェルチャの作品かどうかわからないが,この祭壇装飾の中の彫刻では唯一ゴシックを感じさせる彫像に思える.

 制作年代から言っても,この祭壇のために造られたはずはなく,18世紀にこの祭壇の壁龕に置かれるようになったようだ.

 「聖母子」の左側の壁龕にある聖フランチェスコの彫刻は,フィレンツェの彫刻家ピエトロ・トッリジャーノの作品だ.ブレーニョが未完のまま放棄した祭壇の完成を依頼された彼は,依頼者と同名の聖人の彫刻を1体制作しただけで,1489年にローマに去り,その後,ロンドン,スペインで仕事をし,1528年セビリアで亡くなった

 ピエトロ・トッリジャーノに影響を与えたのがベルトルド・ディ・ジョヴァンニで,ベルトルドはドナテッロの弟子にあたる.べルトルド・ディ・ジョヴァンニはミケランジェロを指導したとも言われている.

 若いミケランジェロはギルランダイオ工房を去った後,当時メディチ家のロレンツォ・イル・マニフィコが若い芸術家たちを集めて,生活の面倒を見,古代彫刻のコレクションを見せて,自由な環境で育成していた「サン・マルコ庭園」に通っていた.そこでベルトルドに出会った.

 ミケランジェロとトッリジャーノも接点があったようだ.年下のミケランジェロを殴り,彼の鼻骨を折って,生涯続く容貌コンプレックスを背負わせたとされるのがトッリジャーノのようなので,殴ったトッリジャーノの彫刻が1点と,殴られたミケランジェロの作品が4点,同じ祭壇装飾の壁龕で見られることになる.

 このエピソードは才能の無い年長者が年少の天才に嫉妬して起こした事件に思われがちだが,実は殴った方もミケランジェロには遠く及ばないまでも,才能を活かして彫刻家として国際的にも活躍することになる若者だったことになる.

 いずれにしてもトッリジャーノもミケランジェロもベルトルドの指導を受けた以上は,彫刻家の系譜としてはやはりドナテッロに遡ることになる.



 ピッコローミニ祭壇にはドナテッロの作品はないが,左翼廊のサン・ジョヴァンニ・バッティスタ礼拝堂の壁龕にあるブロンズの洗礼者ヨハネ像(1457年)はドナテッロの作である.

 シエナ大聖堂にあるドナテッロの作品は他に,洗礼堂の井戸に付されたブロンズの浮彫パネルの一つ「ヘロデの饗宴」(1427年)とパネル脇に付された「信仰」と「希望」の2つの小寓意像(ブロンズ),サンタンサーノ礼拝堂にあるシエナ出身でグロッセート司教になったジョヴァンニ・ペッチのブロンズ製の墓碑(1426年),現在はコピーに置き換えられ,オリジナルは大聖堂博物館にある,「免償の門」の上部リュネットのトンドの聖母子(1457-59年,大理石)がある.

 ドナテッロがパドヴァのサンタントーニオ聖堂でした仕事が,北イタリアにフィレンツェのルネサンスを広めたと言われる.パドヴァにいたのは1443年から53年にかけて,シエナでの仕事はそれを挟んで前後2期に分かれる.

 ドナテッロがシエナのルネサンスにどれほどの影響を齎したか,私には分からないが,シエナ大聖堂における彼の存在感は,おそらく本気ではなかっただろうミケランジェロを遥かに凌駕しているように思う.

写真:
ドナテッロ作
「浮彫パネル「ヘロデの饗宴」


 さて,肝心の祭壇中央だが,大きな壁龕の中に祭壇彫刻がある.裾絵にあたる部分もあるので,絵画なら差し詰め多翼祭壇画といったところだろう.浮彫も彫刻もブレーニョの作品だが,中央の「謙譲の聖母子」は絵画で,作者はパオロ・ディ・ジョヴァンニ・フェイだ.

 この画家は師匠と思われるバルトロ・ディ・フレーディを通してシモーネ・マルティーニとリッポ・メンミの作風を引き継いだ(伊語版ウィキペディア)とされ,制作年代も1390年頃であれば,ルネサンス以前の作品である.

 大聖堂博物館に同じ絵を見つけた.

 Barbara Tavolari, Siena, Museo dell’ Opera: Dipinti, Milano: Silvana Editoriale, 2007

に拠れば,博物館の作品はピッコローミニ祭壇から移されたとある(pp. 62-63)ので,堂内の絵はコピーだろう.この絵も既成の作品だが,クェルチャ作かも知れない聖母子とは違い,祭壇制作の当初から,この絵を飾ることが意図されていた可能性もあるようだ.

 全体としてルネサンスの作品であるピッコローミニ祭壇にも,クェルチャ作の可能性のある彫刻と中世後期のシエナ派の正統を継承する祭壇画が見られ,わずかだがゴシックの遺風を感じることができる.


大聖堂のゴシック芸術
 サンタンサーノ礼拝堂に残るティーノ・ディ・カマイーノ作「リッカルド・ペトローニ枢機卿の墓碑」(1317年)は立派なゴシック芸術だ.

 巨大な墓碑のほぼ真ん中にある石棺の中央パネルの浮彫「キリストの復活」が旗を持ち,片足を棺の縁にかけて立つ堂々たる姿のキリストの姿は,ピエロ・デッラ・フランチェスカの同主題フレスコ画(1465 年)に先立つこと約150年,見事な作品と言う他はない.

 ティーノの活躍の場はフィレンツェなど,殆どがシエナ以外だったが,シエナで建築家の子として生まれ,ジョヴァンニ・ピザーノを師匠としてピサで修行している.

 ジョヴァンニの父ニコラ・ピザーノ作の説教壇がおそらくシエナ大聖堂に残るゴシックの最高傑作であろうが,これは修復中で周囲に足場が組まれ写真を印刷した囲いで覆われていた.

 サンタンサーノ礼拝堂には1799年までシモーネ・マルティーニとリッポ・メンミ共作の受胎告知があったが,当時のトスカーナ大公の希望により,フィレンツェに移され,現在はウフィッツィ美術館にある.

 シモーネの師匠格にあたるドッチョのテンペラ板絵の祭壇画「荘厳の聖母子と聖人たち」(マエスタ)も,1311年から1711年まで大聖堂を飾っていたが,別の教会に移されたり,大聖堂に返されたりする過程でパネルが分解され,一部は失われてしまった.

 残存するパネルについては大聖堂博物館の一室に,中央の「荘厳の聖母子と聖人たち」の大きなパネルと,小さなパネルを再構成しないまま別々に展示している.全体が組み上げられた元の姿は大層立派だったろうと想像する.

 フィレンツェで言えばジョットに匹敵する大芸術家ドッチョの最高傑作の一つであっても,このような運命をたどったのだから,宗教画にもやはり流行や時代別の好みがあり,シエナ大聖堂の堂内を飾っている芸術作品が時代的統一を欠いているように見えるのは,ある程度はやむを得ないことであろう.

 堂内にはベッカフーミの他にもシエナのマニエリスムの画家ヴェントゥーラ・サリンベーニやフランチェスコ・ヴァンニの祭壇画もあるし,バロックの巨匠ジャン=ロレンツォ・ベルニーニが関わった礼拝堂と彫刻もあるが,これらについては機会があれば整理することとし,随分長くなってしまったので,これで今回は終わりにする.

写真:
ゴシックの特徴と
ロマネスクの特徴が
混在する堂内


 最後に建築について少し触れる.シエナ大聖堂は,イタリアではどちらかと言えば稀なゴシック建築のように思われるが,日本語ウィキペディア「ゴシック建築」の中の「イタリア半島のゴシック建築」に「1250年頃に起工されたシエーナ(ママ)の大聖堂などは,ファサードを除くとほとんどロマネスク建築のままである」とあって,少々気になった.

 しかし,確かに堂内の写真を確認すると,身廊と側廊を分ける柱列で構成されるアーケード(※)を構成する大きなアーチはゴシック建築に特徴的な尖頭アーチではなく,ロマネスクの教会に見られる半円アーチである.これを見れば,確かに「ほとんどロマネスク建築のままである」と言うのも納得がいく.

 注※:電子辞書の『ジーニアス英和大辞典』arcadeの2に「[建築]拱廊≪アーチ状の側面の続いている廊下≫;(ギリシア建築にみられる)列柱,柱廊;アーチ形建造物」と説明されている.

 一方で,そのアーチを支える柱は,装飾的彫り込みによって数本の柱から構成されているように見える「束ね柱」で,これはゴシック建築の特徴とされる.

 さらに,アーケードの上に,側廊より高くなった身廊の屋根を支え,同時に明り取りの窓があるクリアストーリー(※1)を構成する窓は尖頭アーチで,ゴシック風の装飾が施され,ステンドグラスが嵌め込まれて,バラ窓やガーゴイル(※2)とともにゴシック建築と言う印象を深めているのではないかと思う.

 注※1:電子辞書の『ジーニアス英和大辞典』のclerestoryの1に「[建築]クリアストーリー≪a 教会の身廊と側廊を分ける採光用の高窓が並んだ側壁の層.b aの高窓の列≫」と説明されている.

 注※2:電子辞書の『ジーニアス英和大辞典』のgargoylの1に「ガーゴイル.樋橋(ひはし)≪ゴシック式教会の屋根などにある怪獣の形をした雨水の落とし口≫.」と説明されている.

 外に出て側壁を見ると,ゴシック教会には定番のフライング・バットレス(飛び梁)は見られず,確かに最初に構想された時にはロマネスクの伝統にのっとっていたのかも知れない.

 バレル・ヴォールトだったように見える身廊の天井を幾つも大きな半円アーチが支える一方,天井そのものは交差リブ・ヴォールトになっていて,やはりこれもロマネスクとゴシックの両方の特徴を備えているということだと思う.



 シエナ大聖堂は魅力的だが,何かを疑問に思って踏み込もうとすると,自分の貧弱な知識では到底歯が立たず,調べれば調べるほど,深い森の暗闇の中で迷子になり,長い時間考え込んだ挙句,多くのことを諦める仕儀となる.長々と述べたところで,随分間違ったことを言い,本質的な誤解を犯しているのであろうと思われる.

 しかし,これは滞在見聞報告なので,先に進む意味もあるだろうから,シエナ大聖堂に関してはこのくらいにして,次回はシエナの博物館や特別展の報告を通じて,シエナ派が好きになったということを能天気に語り,次々回はコッレ・ディ・ヴァルデルサ,その次はポッジボンシで見聞したことをなるべく簡潔に語って,シエナ周辺地域の報告を一旦終わることとする.






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