フィレンツェだより第2章
2017年7月24日



 




マンジャの塔とプッブリコ宮殿
カンポ広場はいつもの賑わい



§シエナ その5 シエナ派 ドゥッチョ・ディ・ブォニンセーニャ

「シエナ派」形成期の要がドゥッチョ・ディ・ブォニンセーニャ(英語版伊語版ウィキペディア)であることに異論がある人は少ないだろう.


 前回は,どのような土壌があってドゥッチョが出て来たのかを考えてみたくて,「ドゥッチョ以前」(『伊和中辞典』には登録が無いが,伊語版ウィキペディアにはpreduccescoと言う形容詞が使われている)の画家たちの作品を取り上げた.

 その際に,コッポ・ディ・マルコヴァルドの「ボルドーネのマドンナ」,グイド・ダ・シエナの「サン・ドメニコのマエスタ」の聖母の顔が,予想に反してドゥッチョの描く聖母にそっくりだったところから,トレッサの親方が1220年代に描いた古拙感に満ちた聖母子から,1260年代のコッポ,1270年代のグイドと急速に洗練度が高まり,1280年代には活動を始めていたドゥッチョへと繋がることが,聖母の表現から読み取れるのではないかと推測し,少し興奮した.

 結論から言うと,これは完全に早とちりで,たとえば伊語版ウィキペディアのそれぞれの項目を読むと,「ボルドーネのマドンナ」も「サン・ドメニコのマエスタ」も,聖母と幼児キリストの顔は14世紀の初めにドゥッチョの追随者たち(前者に関してはニッコロ・ディ・セーニャ,後者はウゴリーノ・ディ・ネリオとの推測もなされている)がドゥッチョ風に描きかえたとされている.それなら確かに似ているはずだ.コッポとグイドの名前で伝わるその他の聖母などの人物と比べても,これが冷静な議論だと思う.

 校正者である家族にそれを指摘されるまで,フィレンツェ人であるコッポがシエナで,後にはドゥッチョ風と思われるようになる聖母を描き,それをシエナ出身のグイドが模倣したのは奇跡の瞬間だと思い込んでいた.良く考えれば,有り得ない妄想だったと反省せざるを得ない.

 しかし,確かに分かってから見ると相当の違和感はあるが,一見したところ,顔の部分だけが突出して整合性が無いとは思われなかった.たとえば「ボルドーネのマドンナ」以前の作品の聖母の顔をドゥッチョ風に直したら,一層不自然に思われるだろう.

 聖母子の顔をドゥッチョ風に直したとしても,全体の姿とまあまあ釣り合うところに,「ボルドーネのマドンナ」や「サン・ドメニコのマエスタ」が,ドゥッチョの時代が近づいている,もしくはドゥッチョの時代の前提となっていると言うことはできるのではないだろうか.

 聖母が背筋を伸ばして正面を向いているか,後世の肖像画でいう「四分の三観面」(英語では"three-quarter view"…英語版ウィキペディア「肖像画」参照)くらいの角度とやや前のめりの姿勢になっているかで,印象はだいぶ違うであろう.


シエナ派の特徴
 「シエナ派」の特徴として,日本語ウィキペディアに,

 フィレンツェ派と較べると保守的で,後期ゴシック様式に傾倒した優雅で装飾的な画風が特色として挙げられる

とあるが,これは英語版ウィキペディアの

 though it was more conservative, being inclined towards the decorative beauty and elegant grace of late Gothic art

か,伊語版ウィキペディアの

 nonostante fosse più conservativa e si focalizzasse maggiormente sulla bellezza decorativa e l'eleganza dell'ultimo periodo dell'arte gotica

のどちらかの翻訳になっているだろう.

 日本語の「フィレンツェ派と較べると」の部分は,英語版,伊語版ともに直前に「フィレンツェ」と言う語があり,さらに「較べると」の部分は文中の比較級がそれに対応している.英語版と伊語版もほぼ一語一語対応するので,どちらかがどちらかを参考にしたか,あるいは誰がまとめてもこのようにまとめられるということになるのだろう.

 ウィキペディアはしばしば,他言語版ウィキペディアの翻訳をベースにして書かれていることがあるが,「シエナ派」の項目に関しては,全体としてはそれぞれ独自の要素もあるので,一応,後者と考え,日本語ウィキペディアに示された,「保守的,「優雅」,「装飾的」をシエナ派の特徴と一応考えても良いであろう.

 さらに日本語ウィキペディアには,

 その絵の中には,自然主義的なフィレンツェ派の絵とは異なる,神秘主義的な傾向が見受けられる.奇蹟を主な題材とし,時空は超現実的に歪曲し,それはしばしば夢のようで,彩色も非現実的である.

とあるが,この部分は英語版の,

 Unlike the naturalistic Florentine art, there is a mystical streak in Sienese art, characterized by a common focus on miraculous events, with less attention to proportions, distortions of time and place, and often dreamlike coloration.

に対応するだろう.ほぼ逐語訳と言っても良い.これにあたる部分は伊語版には今のところ見つけられない.

 いずれにせよ,「シエナ派」の特徴は「フィレンツェ派」と対照すると,美しく優雅で装飾的だが,ゴシック的性格を保守し,写実性を犠牲にしても神秘的,夢想的な雰囲気を湛えていると要約できるかも知れない.

 しかし,こうして噛み砕いたつもりでも,なお抽象的にならざるを得ず,一人一人の人が,なるべくたくさんの「シエナ派」の絵を見ることでしか,理解を共有できないかも知れない.

 「~的」という語はとても便利だが,フィレンツェの画家たちにも,上記の傾向を持つ画家は少なくないので,誰がシエナ派で,誰がフィレンツェ派かは,描いた絵を見て,作家名,出身地などの情報から知識を積み重ねていく他は無いように思える.

 絵は感性のみで鑑賞すべきという考えなら,そもそもシエナ派とフィレンツェ派の区別の必要もないだろう.


ドゥッチョの聖母子
 前回,ドゥッチョの「聖母子」の例に挙げた絵は,国立絵画館の解説プレートではドゥッチョと工房の作品とされている.一方でこの作品は時代順を超えて,わざわざ第1室に展示されており,絵画館のHPでは,この絵画館にとって象徴となる作品の一つで,ドゥッチョ作としている.

 美しい絵だが,巨匠が描いたにしては今一つインパクトに欠けるように思え,工房の助力があったと言われれば,そうかも知れないという気がする.ただ,自分の中にある「ドゥッチョ風」とはどういう絵かというのを良く体現しているように思えたので紹介した.国立絵画館の順路のほぼ最初に目に入る場所に飾られているので,行けば見落とすことはないだろう.



ドゥッチョ作「マエスタ」 (中心パネル部分) 大聖堂博物館


 ドゥッチョ作とされる作品で,確実に巨匠自身の作品で制作年代が記録上確認できるものは,ウフィッツィ美術館に展示されているマエスタ型である「ルチェッライの聖母子」(1285年委託)と,かつてはシエナ大聖堂に飾られ,現在は大聖堂博物館で見られる「マエスタ」(1308年委託,1311年完成)のみとされる.

 前者は傑作だが,聖母の顔は「ドゥッチョ風」ではない.巨匠の最高傑作である後者の聖母の顔は「ドゥッチョ風」である.

 同じ作者の作品といっても,制作年代に25年くらいの開きがあれば,1255年くらいに生まれたとされる30歳前後の新進気鋭の画家の時代から,名声が確立し,時代を代表する50代の巨匠となった時代までの成長と変化があったであろう.

 ドゥッチョの没年は1318年か19年とされるので,大聖堂のマエスタは最晩年ではないが,円熟期の作品と言えよう.


ドゥッチョとチマブーエ
 ドゥッチョの作品で初期のものと推定されている「聖母子」が大聖堂博物館にある.「クレーヴォレの聖母子」という通称を持つこの作品は,大聖堂博物館の案内書(以下,タヴォラーリ)に拠れば,1983年頃の作品(伊語版ウィキペディアは83年から84年)と推定されている.タヴォラーリはドゥッチョの生年を1360年頃としており,それを前提にすると20代前半から半ばくらいの作品と考えられていることがわかる.

 この作品がドゥッチョ作とされたのは1905年からとされている(タヴォラーリ,p.14).現在はシエナ県に属しているムルロサンティ・ピエトロ・エ・パオロ・ア・モンテペスキ教会のために描かれ,同地のモンテスペッキオ地区のアゴスティーノ修道会隠修所に移され,さらにクレーヴォレ地区にあるサンタ・チェチーリア・ア・クレーヴォレ教区教会に移され,そこから大聖堂博物館に移管された.

 しつこいほど伊語版ウィキペディアにリンクしたのは,そこに掲載されている写真を見てもらうと,現在では巨匠ドゥッチョの若い頃の作品とされている祭壇画が,小品とはいえ,いかに田舎の小さな教会等にあったかを見てもらうためだ.

 作者をドゥッチョへ同定することに関しては,有名な美術史家が賛成しないなど議論があったようだが,現在は概ねドゥッチョの作品ということになっているようだ.

 作者に関しては議論があっても,どの教会のために描かれ,どのような経緯で大聖堂博物館に収められたかが分かる以上,推定制作年代に関しては記録上の根拠があるのだろう.それが正しければこの作品は「ルチェッライの聖母子」以前の作品と言うことになる.

   チマブーエ作
「カステルフィオレンティーノの聖母子」

 ドゥッチョ作
「クレーヴォレの聖母子」



 この作品が論じられる際に,良く比較されるのが,チマブーエ作とされる「カステルフィオレンティーノの聖母子」である.カステルフィオレンティーノは5月7日に行き,サンタ・ヴェルディアーナ博物館にあるこの作品についても,同18日に報告している.

 これを初めて観て,チマブーエの作品と言われた時には俄に信じ難かったが,その後6月3日にフィレンツェのアカデミア美術館のブックショップで購入した,売れ残っていた古い本,

 Angelo Tartuferi, La Pittura a Firenze nel Duecento, Firenze: Alberto Bruschi, 1990(以下,タルトゥフェーリ)

に拠ると,はっきり数少ないチマブーエの現存作品とされている.記録的根拠は無いようだが,これがチマブーエの作品で,ドゥッチョの「クレーヴォレの聖母子」と良く似ているが,ある部分で,はっきり違う特徴があることに重要な意味があるようだ.

 どちらも,四分の三観面(ア・トレ・クァルティ)で頭を傾けて(コン・ラ・テスタ・レクリナータ)おり,幼児イエスが聖母の方を見ながら,彼女の顔に右手を伸ばしているところは全く同じ構図と言って良い.

 しかも,聖母は左手で我が子を抱えながら明らかに右手の指は彼を指しており,いわゆるオディギトリア(ホデーゲートリア)型の聖母子である.また,聖母の衣は黒地で,金線によって襞が表現されており,この様式はビザンティンの影響とされる.

 もちろん,相違点もある.まず聖母の顔が似ているようで違う.

 顔の違いが場合によっては当てにならないことは,「ボルドーネのマドンナ」や「サン・ドメニコのマエスタ」の顔がドゥッチョ風に描き直されていたことからも分かるが,タルトゥフェーリには「ボルドーネのマドンナ」の放射線写真も付されていて,明らかに描き直しの証拠が示されているが(図版73),少なくとも「カステルフィオレンティーノ聖母子」にはそうした言及はなく,「保存状態良好」(p.96)と説明されている.

 また,幼児イエスの右手は「カステルフィオレンティーノの聖母子」では直接聖母の顔に触れているのに,「クレーヴォレの聖母子」では聖母の頭巾に触れている.

 聖母の右手は,「カステルフィオレンティーノの聖母子」では我が子を指さしながらその右足を抱えているのに対し,「クレーヴォレの聖母子」では純粋に指さしているだけである.幼児の体勢も表情もだいぶ違う.

 これらの相違を踏まえて,「クレーヴォレの聖母子」の方がより人間的で繊細に描かれている(伊語版ウィキペディア)と説明することもでき,遠い先のルネサンスに僅かだが近づいていると考えることもできるかも知れない.

 片やチマブーエの作品で,片やドゥッチョの若い頃の作品で,なおかつ前者が先行しているということを直接証明する証拠は無い(多分)以上,断言はできないけれども,もしそうであるならば,ドゥッチョがチマブーエの工房で修行したという説の裏付けになる,と考える人もいたようである.

 これに関して,何か自分の考えを述べるだけの知識も材料も思考方法も持っていないので,なるほどそういう可能性を指摘した人もいたのか,と思うだけのことだが,個人的には,後には違う個性を発揮したフィレンツェの芸術とシエナの芸術も,その出発点はそれぞれ,チマブーエ,ジョットとドゥッチョであったとしても,草創期には近いところに立っていたのではないかとおぼろげに思っている.

 コッポ・ディ・マルコヴァルドとグイド・ダ・シエナの関係と言い,チマブーエとドゥッチョの関係と言い,同じような泉の水を飲んで派生した可能性があることが作品の中に読み取れるような気がしている.

 タルトゥフェーリに掲載された13世紀のフィレンツェ芸術の写真を眺めていると,この4か月で見ることができた作品も少なくなく,これらを一括して「古拙」と言い切ってしまうのは,随分乱暴なことで,それなりの画力と洗練性が,時を経る中に磨かれて行って,その先にチマブーエ,ドゥッチョ,ジョットがいたのではないかという風に思う.

 もちろん,私の貧しい知識と体験の中で結論の出る問題ではないが,「クレーヴォレの聖母子」と「カステルフィオレンティーノの聖母子」の対比は,様々ことを考えさせてくれる.


ドゥッチョ風の聖母子
 こうした文脈で,前回紹介した「バディア・ア・イゾラの聖母子」を改めて見てみると,前回はドゥッチョに先行するかのような希望的観測を述べてしまったが,むしろ作者の実年齢はともかく,画風としてはドゥッチョやチマブーエの影響を受けながら,違う個性を発揮したと考えられるかも知れない.

 ドゥッチョのおそらく年長の同時代人で,影響も受けたとされるメンモ・ディ・フィリップッチョが描いた聖母子も,ピサのサン・マッテーオ絵画館,チェルタルドのサンティ・ヤーコポ・エ・フィリッポ教会,サン・ジミニャーノの市立博物館で少なくとも3点観ているが,バディア・ア・イゾラの親方の方がずっとドゥッチョに近い立ち位置を持っていたように思える.

 バディア・ア・イゾラの親方の聖母子では,幼児は聖母に右手を伸ばしておらず,聖母の右手もイエスを指差していないので,大きくはオディギトリア型の中に分類し得るかも知れないが,指差していないことに注目して,右手でも幼児を支えているのを愛撫の一種と考えれば,暫定的にグリコフィルサ(グリュコピルーサ)型と考えて良いだろう.

 「ボルドーネのマドンナ」以前には,トレッサの親方の「大きな目の聖母子」のように,正面を向いた聖母の膝の上で祝福の姿勢を見せるニコポイア(ニーコポイアー)型の聖母子が多いように思えたし,実際,数としてはその方が多いように思えるが,タルトゥフェーリに掲載された写真を見ると,先行するかどうかは分からないが,少なくとも同じ頃にオディギトリア型や,ほぼ四分の三観面で首をかしげてイエスに頬ずりするエレウサ(エレウーサ)型の聖母子もトスカーナに存在したようだ.

 シエナの大聖堂博物館には,顔がドゥッチョ風で,案内書では作者は「ドゥッチョ派の画家」とされる聖母子の絵があり,ある研究者はこれをバディア・ア・イゾラの画家の作品と推測したという情報がある.聖母の右手は幼児イエスにかるく添えられていて,指さしているようには見えないが,オディギトリア型かグリコフィルサ型か微妙なところだ.しかし,美しい絵で,ドゥッチョの影響が大きかったことを示す作品の一つかも知れない.

 「ドゥッチョ風」の聖母は,憂いを湛えながらも,優しく柔らかな表情をしている.この特徴は同時代の先輩チマブーエにも,後進ジョットにも見られないように思う.

 ただ前述のように,若い頃の代表作「ルチェッライの聖母子」の聖母の表情は「ドゥッチョ風」ではなく,国立絵画館の断片的な「聖母子と拝跪するフランチェスコ会修道士たち」も小品なので分かりにくいが,聖母の表情はむしろ峻厳な感じで,「ドゥッチョ風」ではないし,聖母の右手は自分の右膝に当てられており,何型と言って良いのかわからない.

 こうして見ると,聖母の表情だけとってもドゥッチョの作風は一様ではない.それでも,最大公約数的な「ドゥッチョ風」の特徴は,憂いに満ちて我が子から視線をそらしてはいるが,優しく柔和で上品な聖母像と言うことになるだろうか.

 ドゥッチョの弟子筋で,名のある画家となりながら,この「ドゥッチョ風」の聖母を描いたのが,ウゴリーノ・ディ・ネリオセーニャ・ディ・ボナヴェントゥーラ,その子ニッコロ・ディ・セーニャと言うことになろうか.

 それぞれの作品は,シエナの国立絵画館で見られるし,セーニャのマエスタはカスティリオン・フィオレンティーノの参事会教会で6月24日に観たし,セーニャの聖母子も6月14日にコルトーナの司教区博物館で観ている.

 いずれも一瞬,ドゥッチョの作品かと思うが,良く見れば確かにそれぞれに個性があるので,全くの模倣ではないが,それでも「ドゥッチョ風」と言えるだろう.後者の場合,特にシモーネ・マルティーニと多分同世代であると考えれば,意識してドゥッチョの遺風を尊重したのかも知れない.


シモーネ・マルティーニ
 ドゥッチョの弟子かどうかはわからないが,間違いなく影響を受けながら,新境地を開いて巨匠になったのがシモーネ・マルティーニだ.

 シエナの国立絵画館にある彼の若い頃の作品と考えられる「聖母子」の聖母は,金線の襞装飾の衣を着ており,全体的な印象は一瞬「ドゥッチョ風」を思わせる.実際に,ドゥッチョの作品の中でもペルージャの国立ウンブリア絵画館所蔵の「聖母子」の影響が想定されているようだ.

写真:
シモーネ・マルティーニ
「聖母子」
シエナ国立絵画館


 確かにシモーネの聖母の右手は幼児イエスの右手を握り,ドゥッチョの聖母は我が子の左手に触れているグリコフィルサ型で,その点は共通している.しかし,あくまでも印象だが,独特の目力には「ドゥッチョ風」の柔和さが感じられず,若い頃のシモーネは既に個性の際立った聖母子を描いていたことになるように思う.

 ただし,この作品がシモーネのものであると言う記録的な証拠は無く,以前はドゥッチョへの帰属が主張されていたとのことで,なかなか作者の同定と言うのは難しいものだなと思う.

 現在は同じ国立絵画館にあるシモーネの「慈悲の聖母」との類似を根拠に同定がなされているようだ.確かに良く似た顔だが,判断は保留し,とりあえず反論の材料も無いので,シモーネの作品と信じることにする.

写真:
シモーネ・マルティーニ
「聖母子」
シエナ国立絵画館


 同じく国立絵画館に,元々はルチニャーノ・ダルビアのサン・ジョヴァンニ・バッティスタ教区教会のために描かれた多翼祭壇画の1パネルだった「聖母子」(上の写真)がある.保存状態は悪いが,聖母の顔は比較的はっきり残っており,美しい.オルヴィエートの大聖堂博物館にある祭壇画パネルの「聖母子」(2016年7月4日の報告に写真)同様,「目力」は維持されている.

 シモーネの筆頭助手格で,個人でも活躍したリッポ・メンミの「聖母子」も国立絵画館で見られる.もう「ドゥッチョ風」ではなく,「シモーネ風」の「目力」を感じさせる聖母像だ.進歩,発展ではなく変化と考えても良いが,「ドゥッチョ風」にこだわっていたシエナ派は,シモーネ・マルティーニの登場を待って,ドゥッチョの圧倒的影響を脱していくと考えて良いだろう.

写真:
リッポ・メンミ
「聖母子」
シエナ国立絵画館


 反証を示されれば素直に従うしかないが,少なくとも国立絵画館の作品群を見る限り,シモーネ以降は「ドゥッチョ風」の絵は描かれなくなり,リッポ・メンミの後は,「シモーネ風」の絵でもなく,百花繚乱の個性の時代を迎えるように思える.


 「個性の時代」とまで言い切って良いかどうか自信がないが,ともかくこれ以後のシエナ派については次回にまとめることとし,今回はリッポ・メンミまでで終わりにする.



 プッブリコ宮殿にあるシモーネの「マエスタ」は今回は修復中で見られなかったが,ドゥッチョ,シモーネ,リッポ,それぞれの「マエスタ」の聖母子の型について見てみると,

 ドゥッチョは,オディギトリア型に似ているが,右手は我が子を指差しておらず,体に軽く触れているのでグリコフィルサ型.
 シモーネは,聖母の右手がイエスの右足に触れているので,やはりオディギトリア型に似たグリコフィルサ型に見えるが,聖母が四分の三観面で首を傾けてはいるけれども,イエスが直立して祝福の姿勢を見せているので,一種のニコポイア型.
 サン・ジミニャーノのリッポ作のマエスタ(テンペラ祭壇画のドゥッチョの場合と異なり,シモーネ同様フレスコ画で,天蓋の下に玉座の聖母子がいるので,見た目にも師匠の影響を受けたと思われる)は,聖母が正面を向き,イエスは立って祝福の姿勢なので,完全なニコポイア型に見える.

 些末な違いに今更ながら気付いただけかも知れないが,こうした違いに,師匠や先達の影響を受けながらも個性を発揮していこうとする姿勢を読み取りたい.もちろん,注文者の意向もあるだろうから,画家の考えだけでは決められないことだろうが,結果的に違う絵になっているのは,やはりそれぞれの画家の個性というものだろう.

 脈絡のない終わり方になるが,シエナのプッブリコ宮殿にある,今回初めて写真に収めることができたシモーネ・マルティーニの極めて個性的なフレスコ画「モンテマッシ城を攻囲するグイドリッチョ」(1330年)を紹介する.

 シエナ派の絵を好きになったのは良いが,奥が深すぎ,それぞれの画家が個性的で,とても手に負えないが,ともかく次回でシエナ派に関しては一旦終わりにする.






グイドリッチョの雄姿に見惚れる
プッブリコ宮殿