フィレンツェだより第2章
2017年6月29日



 




黒いシートで覆われている下にも
素晴らしい象嵌装飾がある



§シエナ その2 大聖堂の床

シエナの大聖堂の床装飾に捉まった.ちょっとした見ものとは思っていたが,気が付いたら虜になっていた.こういう事はこれまでも何度かあった.


 評判は耳にしているが,格別な思い入れはない,それが一気に魅せられる必要条件かも知れない.あまり予習をしないうえ,マイナー志向で,評判が確立しているものに天邪鬼になりやすい私には起こり得る事だ.

 大聖堂の床装飾は10年前にも観ているので,いきなり魅せられた訳ではない.今回は知識の手助けが必要だった.

 簡単な知識がある状態で,まずは観に行き,帰ったら,写真を整理しながら,自分の観たものが何だったのか,後から仕入れた知識とともに記憶を反芻する.この段階で,色々なことがつながり始めると,調べながらワクワクしてくる.出来れば,もう一度それを確認しに行く.まどろっこしいプロセスだが,滞在していればそれも可能だ.

 フィレンツェだよりを書くのも反芻プロセスだ.走りながら書くことは褒められたことではないかも知れないが,「滞在記」として,今観てきたもの,面白いと思って興奮したことが伝われば良いと思う.写真は大きな手掛かりになるだろう.


狼とライオンが握手すると…
 繰り返しになるが,今回の3回のシエナ行で大聖堂は2回拝観した.2007年には観られたベッカフーミが下絵を描いた床装飾は公開されていなかったが,かなり興味深い象嵌装飾を複数観ることができた.

 その中からまずへレスポントスのシビュラ(シビュッラ)を紹介する.

写真:
ヘレスポントスの
シビュラ


 シビュラの少し後方で狼とライオンが握手している.辛辣な諷刺が籠められたイソップ寓話の中の,ほのぼのとした情景のように見えるが,2頭の後ろに立てられた,やや晦渋なラテン語の碑銘がその期待を打ち砕く.

 稚拙な直訳を試みると,「彼らは食物には苦味(胆汁)を,渇望には辛さ(酸味)を与えた.彼らはこのような歓待の食卓を示すであろう.確かに神殿の幕屋は裂け,昼日中の第3時に暗い夜が現れるだろう」ということが書かれている.

 キリスト教の文脈でこれを読むと,磔刑によるキリストの死の場面が語られている,もしくはそのように解釈することが可能だろう.狼はユダヤ人を,ライオンは異教徒を表しており,キリストに死を齎したのは彼らである.

 同時に狼とライオンの握手はシエナとフィレンツェの平和を表しているとの説もあるようだ(Bruno Santi, Il Pavimento del Duomo di Siena, Firenze: Scala, 1982, p.11,ただしサンティ本人の説ではなくフリードリヒ・オーリーと言う人の説).

 歴史的根拠はないが,シエナは,ローマ建国に関わった双子の兄弟のうち,レムスの子どもたちによって建設されたという伝承がある.その子たちも,ロムルスとレムスと同じように牝狼に乳を与えられて育ったとされ,その像は,シエナで少なくとも大聖堂の床とサン・クロストフォロ教会の前の広場の柱の上の2カ所で見ることができる.

 そして,フィレンツェを象徴する動物がマルゾッコの愛称を持つライオンであることは周知の通りである.狼はシエナ,ライオンはフィレンツェの象徴と見ると,両者の平和を意味していると解釈することも可能だろう.

 個人的には,狼(ユダヤ人)とライオン(異教徒,この場合はローマ人か)が手を結んでキリストを殺したという物語の先に,キリストの死がそれらの罪を贖い,現世に平和が実現するという理想と救済のヴィジョンを読み取りたい.


シビュラの起源
 ヘレスポントスのシビュラの碑銘に使われたラテン語は,晦渋で,予言のような感じを与える.だからこそ,キリストの磔刑による死が読み取れるのだろう.

 旧約聖書の預言書などに典拠がないかどうか一応調べてみた.今のところ,ぴったりの句は聖書の中には見つからないが,アウグスティヌスの『神の国』18巻23章6節に,碑銘と同じ句が含まれた引用を見つけた.(アウグスティヌスのラテン語テクストはLatin Libraryなど複数のウェブページで見ることができる.)

 アウグスティヌスは,エリュトライアのシビュラがギリシア語で書いた詩をラテン語に移し替えた詩句(短短長六歩格になっている)を引用し,さらにそれをラクタンティウスが散文のラテン語で解釈した文を引用している.その散文の引用に同じ句がある(碑文の方には接続詞autem「しかし,一方」が省略されている).

 本来は固有名詞であったと思われるシビュラは,もともとはキリスト教以前の,そしてユダヤ教とも無関係の,主としてギリシア世界もしくはそれ以前に起源を持つ女性予言者である.それが上述の引用例のように,初期キリスト教思想家たちによってキリストの出現とその受難による世界救済を預言した存在と解釈され,キリスト教の中に取り込まれていったものと考えて良いだろう.

 シビュラいう名の人物は,ウェルギリウスの叙事詩『アエネイス』第6巻に登場する.ネミ湖周辺の森の黄金の枝をかざしながら英雄を冥界へと導いた女性予言者で,この物語はトロイア落城の後日談なので,トロイア戦争が本当にあったとすれば紀元前1200年頃のこととされており,エジプトやメソポタミアならともかく,西欧の古代関係者としては随分古い人物と言うことになる.

 しかし,シビュラという名前は固有名詞から,女性予言者を意味する一種の普通名詞化し,複数のシビュラ伝承(一応,英語版ウィキペディアにリンクしておくが,日本語ウィキペディア「シビュラ」は翻訳ではなく明らかに独自に書かれ,よく整理されていて参考になる)が語られるようになる.

 ラクタンティウスの報告に拠れば,紀元前1世紀のローマの学者ウァッローは,ペルシアのシビュラ,リビュアのシビュラ,デルポイのシビュラ,キンメリウムのシビュラ,エリュトライアのシビュラ,サモス島のシビュラ,クマエ(キュメ)のシビュラ,へレスポントスのシビュラ,プリュギアのシビュラ,ティブルの10人のシビュラの名を挙げている.



 シビュラに関する現存する最古の言及はヘラクレイトスの断片(ヘルマン・ディールス『ソクラテス以前の哲学者断片集』「ヘラクレイトス」92番)とされる.本当にヘラクレイトスが言ったとすれば,紀元前6世紀末から5世紀初頭にはシビュラという名前が知られていたことになる.

 「ヘラクレイトスに拠れば,シビュラは憑依した口で,喜ばしくもなく,飾られてもおらず,香気もない言葉を語ったが,神のおかげで,その声によって千年後までも達している」というギリシア語原文と英訳をタフツ大学のペルセウスで参照することができる.分かりにくいが,要するにシビュラは後世に影響力を持つすぐれた予言者であると言いたいのであろう.

 「ヘラクレイトスに拠れば」とあるように,ヘラクレイトス自身の著作は引用断片以外は一切現存しないので,後世の作家による引用のうちの1つだが,上記の引用があるのはプルタルコスの『倫理論集』の中の「ピュティアの予言について」である.

 プルタルコスが紀元後1世紀半ばから2世紀初めに生きた人なので,ヘラクレイトスの言葉であるかどうかは,プルタルコスという作家の信頼性にかかっている.失われてしまった古代の多くの作品の断片が現在に伝えられるのは,プルタルコスなどの作品が現存し,古文献をよく引用する著述家たちの証言に拠っている.

 絶対はないが,この場合,やはりヘラクレイトスがシビュラを予言者と考えていたと判断すべきだろう.ただし,ヘラクレイトスの断片では語形から女性であることがわかるが,固有名詞なのか,普通名詞なのかは分からない.単数形なので,ヘラクレイトスが言及したシビュラは1人だった(総称的な単数形なら別だが)と考えるのが妥当だろう.

 それがいつから普通名詞化し,複数の存在が語られるようになったかは分からない.ラクタンティウスの報告を信じるなら,ウァッローが生きた紀元前1世紀にはそうなっていたと思われる.それでもキリスト教以前なので,もしキリストに関する予言をしたのであれば,キリスト教にとっては重要な意味を持つ予言者もしくは預言者であったことになる.

写真:
ミケランジェロ
「デルポイのシビュラ」
システィーナ礼拝堂天井画
(2016年3月16日撮影)


 長々述べたが,最初にキリスト教関連でシビュラという名前を聞いたのは,おそらくモーツァルトの「レクイエム」を聴いて,その中の迫力に満ちた曲「怒りの日」にシビュラの名前が出てくるのに気がついた時だろう.

 その歌詞は聖書等の引用ではなく,後世の詩人が作った「続唱」(セクエンティア)の1つで,フランチェスコの伝記を書いたことでも知られるチェラーノのトーマスに拠るとされてきた押韻ラテン詩(古典文学には脚韻はない)である.

 本当にトーマスが書いたとすれば(現在はそうではないと考えられているようだ),彼の没年が1265年なので,13世紀前半には書かれていた.

 夏目漱石の『吾輩は猫である』の中にローマの伝説では有名な「シビュラの予言書」の話が出てくるし,『アエネイス』にシビュラが出てくるのも知っていたので,何で,キリスト教の宗教曲にシビュラなんだろうと不思議だったが,気になっただけでそのままにしていた.

 ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂に描いた天井画の中にも複数のシビュラが登場する.デルポイ,リビュア,ペルシア,クマエ,エリュトライアのシビュラの5人である.

 ラファエロもサンタ・マリーア・デッラ・パーチェ教会のフレスコ画「シビュラと天使たち」で,4人のシビュラ(クマエ,ペルシア,プリュギア,ティブル)を描いている.

 シビュラが何人かは諸説あるが,シエナ大聖堂の象嵌による床装飾のシビュラは10人で,名前を確認すると,キンメリウムのシビュラとアイオリス地方のキュメのシビュラの混同はあるかも知れないが,ラクタンティウスが伝えたウァッローの整理に大体従っていることになる.

 埼玉大学の伊藤博明教授の著書,

『ヘルメスとシビュラのイコノロジー シエナ大聖堂舗床に見られるルネサンス期イタリアのシンクレティズム研究』ありな書房,1992


を北本の茅屋に架蔵しており,今すぐにでも参照したいところだが,残念だが今はできないので,帰国後,勉強させてもらうことにする.



 伊藤博明教授の著書名にヘルメスの名前が挙がっているのは,シエナ大聖堂の床装飾の中にヘルメス・トリスメギストスの像が描かれているからだろう.

 ヘルメス・トリスメギストスの名前で伝わった文書群を「ヘルメス文書」,そこに述べられた思想,あるいはその影響を受けた思想を「ヘルメス思想」と言う.

 ラクタンティウス,アウグスティヌスなどの古代のキリスト教思想家たちが,ヘルメス・トリスメギストスをキリストの出現を予言した人物として扱っているので,キリスト教の神学に反しないものとして受け入れられてきた伝統があるようだ.

 とは言え,元々ギリシア語で書かれたヘルメス文書が西欧で本格的に研究されるようになったのは,ビザンティン帝国が滅亡する1453年前後にその写本が西欧に齎されて,それをマルシリオ・フィチーノがラテン語に訳して以後のこととされる.

 フィチーノの翻訳は,1463年には完成しており,1471年に印刷出版されている(伊語版ウィキペディア「Marsilio Ficino」).まさに盛期ルネサンスのさなかである.

 シエナ大聖堂の象嵌床装飾の主要部分が作成されたのが1480年代で,ヘルメス・トリスメギストス像の完成は1488年とされる(Bruno Santi, Il Pavimento del Duomo di Siena, Firenze: Scala, 1982, p.16)ので,ゴシックのイメージの強いシエナ大聖堂の魅力を構成している床装飾は,実はルネサンスと人文主義の流行を反映しているものであることが分かる.


ポントスのヘラクレイデス
 へレスポントスのシビュラ像には,狼とライオンの上の碑銘の他にもう一つラテン語碑銘があり,「へレスポントスのシビュラはトロイアの地の生まれで,キュロスの時代にいたとヘレクレイデスが記述していた」と記されている.

 古代の人物でヘラクレイデスという著述家,思想家は複数いるが,このヘラクレイデスは「ポントスのヘラクレイデス」と称される哲学者である.

 彼はプラトンの弟子で,プラトンがシチリアに行った時にアカデメイアの運営を任され,2代目の学頭であるプラトンの甥のスペウシッポスが亡くなった時,結局はクセノクラテスが継承したが,3代目学頭となる可能性もあったとされる人物だ.

 ディオゲネス・ラエルティオスの名前で伝わる『ギリシア哲学者列伝』第5巻にヘラクレイデスの伝記がある.岩波文庫の邦訳は持って来ていないが,ウェブページ「ペルセウス」でギリシア語原文と英訳を読むことできる.リンクは英語版にしておくが,日本語ウィキペディア「ヘラクレイデス」も簡潔で分かりやすい(2017年6月27日参照)ので各自参照されたい.

 しかし,ディオゲネス・ラエルティオスの「ヘラクレイデス伝」にはシビュラの言及はなく,現存しない多くのヘラクレイデスの著作名が挙げられているが,どの本でシビュラに言及したのか分からない.

 ネット検索でヒットした本(Rieuwerd Buitenwerf, Book III of the Sibylline Oracles and its Social Setting, Leiden: J. Brill, 2003)を参考にすると,アレクサンドリアのクレメンス,ラクタンティウスなどの初期キリスト教思想家の著書やウァッローなどを典拠にしているようだ.

 こうなるとほとんど伝言ゲームのようだが,一応信頼できるものと考えることにする.件の著作は『神託の地について』という書名だったようだが,この本はディオゲネスが列挙した40冊以上のヘラクレイデスの書名リストには無い.

 碑文には“へレスポントスのシビュラはキュロスの時代にいた”とあるが,ペルシア帝国のキュロス大王の在位は前550年から529年までで,そう証言したヘレクレイデスが前382年に生まれ,前312年まで生きたとされるので,170年前後の時間差がある.

 一方,「シビュラ」に関する現存最古の証言を遺したとされるヘラクレイトスは紀元前540年頃に生まれたと考えられているので,であればヘラクレイトスの方はヘレスポントスのシビュラの同時代人であった可能性がある.

 細かく見ると,どこまでが本当なのか,どれも確かな証言とは言えないように思われるが,ともかく何らかの形でその実在の根拠を示そうとした姿勢がシエナ大聖堂の床装飾の碑銘に見られるように思う.

 異教徒である私たちは,これを信じなくても良いわけだが,キリストの誕生以前にキリスト教(救世主の受肉と死と復活による救済への信仰)の成立を予言した人たちがいたとする思考と確信のプロセスは興味深い.

 しかも,そのおかげもあってシエナ大聖堂の床装飾のような非常に魅力的な芸術作品が生まれたことには感謝しても良い.


私の観てきたシビュラたち
 伊語版ウィキペディアには,上に挙げた10人のシビュラを含めて,「オリエントのシビュラ」が4人,「ギリシア・イオニア地方のシビュラ」が17人,「ギリシア・イタリアのシビュラが6人,「中世のシビュラ」が6人列挙されていて,これだけで37人のシビュラがいたことになる.

 さらに,『イリアス』その他に名前の出てくるカッサンドラ,予言者手テイレシアスの娘で北イタリアの都市マントヴァの名祖とされるマントなど,固有名詞で伝えられる19人の女性予言者たちがシビュラとして挙げられている.

 こうして見ると,古典古代,初期キリスト教時代,中世,ルネサンス,いずれの時代にも,私がよく知らなかった「シビュラ」という存在が大きな意味を持っていたことが分かる.

写真:
ジョヴァンニ・マリーア・
ファルコネット作
「アウグストゥスとシビュラ」
カステルヴェッキオ美術館
2008年8月撮影


 伊語版ウィキペディアは個々のシビュラの名を挙げた後,芸術家が取り上げた「シビュラ」の一覧を示してくれている.

 それに拠れば,古いところではカンパーニャ州カプアのサンタンジェロ・イン・フォルミス大修道院の13世紀のロマネスクのフレスコ画の中に旧約の預言者たちとともにペルシアのシビュラもしくはエリュトライアのシビュラが描かれているとのことである.さらに1450年に描かれたフェッラーラのカーザ・ロメイに描かれた無名画家のフレスコ画が紹介されている.

 この後の時代は,ギルランダイオ作のサンタ・トリニタ聖堂サッセッティ礼拝堂のリブ・ヴォールト天井(1479-85),シエナ大聖堂の床装飾(1483-83),フィリピーノ・リッピ作のローマのサンタ・マリーア・ソプラ・ミネルヴァ聖堂カラーファ礼拝堂のリブ・ヴォールト天井(1488-93),ピントリッキオ作のヴァティカン宮殿,ボルジアの間の「預言者たちとシビュラたち」(1482-94),ペルジーノ作ペルージャ,両替商組合審議の間のリュネット面に描かれた「全能の神と旧約の預言者たちとシビュラたち」(1496-1600),ピントリッキオ作スペッロ,サンタ・マリーア・マッジョーレ参事会教会のバリオーニ礼拝堂のリブ・ヴォールト天井などが,ミケランジェロ(1509年),ラファエロ(1513-15)以前に描かれたシビュラたちの図像である.

 驚くべきことだが,ギルランダイオからラファエロまでの作品を全て観ている.しかし,それと意識しながら観たのはミケランジェロとラファエロの他は,シエナの床装飾のシビュラたちだけだ.

 伊語版ウィキペディアのリストには,他にマンテーニャとカルパッチョの小品が挙げられているが,後者はウフィッツィ美術館所蔵なので観ているけれども,ウフィッツィの解説板では「ニッコロ・ロンディネッリに帰せられる」とした上で,題名の「シビュラ」にも「?」を付している.

 描かれたシビュラの数が多いのは,ボルジアの間のピントリッキオが最多で12人,ペルジーノとミケランジェロは5人,ラファエロは4人で,その他はリブ・ヴォールト天井の4つの三角面(スピッキオ)に描かれているので4人である.

 ラファエロを含め4人のシビュラを描いた4人の画家のシビュラの組み合わせが全て異なるのが面白い.スペッロのピントリッキオ作品は写真厳禁だったので,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートの画像を拡大して見ると,ティブル,サモス島,エリュトライア,エウロパのシビュラという記銘がそれぞれの人物像の下方にある.

 スペッロのピントリッキオ以外には全てにクマエのシビュラは登場するが,組み合わせが恣意的なのか,根拠があるのかは,まだ調べ切れていない.

 ボルジアの間にピントリッキオが描いた12人のうち10人はウァッローが整理したのと同じで,すなわちシエナ大聖堂の床装飾の10人以外の2人は,エウロパのシビュラとアグリッパのシビュラである.彼女らについての情報も今は持っていない(伊語版ウィキペディアにも立項はない.2017年6月27日参照).


シビュラの下絵作者たち
 シエナ大聖堂のヘレスポントスのシビュラを担当したのは,ネロッチョ・ディ・バルトロメオ・デランディとされている.この人物は画家であり彫刻家であったらしく,6月20日に見たシエナ派の特別展では彼の絵と彫刻が1点ずつ出展されていた.

 今確認すると,ウフィッツィ美術館で祭壇画の裾絵「聖ベネディクトの物語」を観ており,シエナ大聖堂でもドナテッロの洗礼者ヨハネのブロンズ像があることで知られる,サン・ジョヴァンニ・バッテイスタ礼拝堂に,「アレクサンドリアの聖カタリナ」の大理石像を制作している.

 10面のシビュラ像には他に,アントニオ・フェデリーギ(エリュトライアのシビュラ,共作でデルポイのシビュラ),ジョヴァンニ・ディ・ステファノ(キンメリウムもしくはアイオリス地方のキュメのシビュラ,クマエのシビュラ,共作でデルポイのシビュラ),ベンヴェヌート・ディ・ジョヴァンニ(ペルシアのシビュラ,プリュギアのシビュラ,ティブルのシビュラ),グイドッチョ・コッツァレッリ(リビュアのシビュラ),マッテオ・ディ・ジョヴァンニ(サモス島のシビュラ)が担当している.

 1420年生まれのフェデリーギ,1428年頃の生まれのマッテオ・ディ・ジョヴァンニが年長者であるが,その他は概ね1440年以降の生まれで,ルネサンスのシエナ派を代表し,絵画も彫刻も手掛けたヴェッキエッタの工房にいたか,その影響を受けた芸術家たちだ.

 また,同時代人であり,絵画,彫刻の他に建築でも大きな業績を遺したフランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニの影響も受けているとのことだ.ジョヴァンニ・ディ・ステファノは「ヘルメス・トリスメギストス」も担当している.

 ルネサンスは間違いなくフィレンツェが生んだ文化現象だと思うが,フィレンツェの芸術にばかり目を向けていると,ゴシック期にはフィレンツェに拮抗していたシエナのルネサンス芸術を見落としてしまう.

 確かにボッティチェリのような華やかな有名画家や,レオナルドやミケランジェロのようなトスカーナ・ローカルを遥かに超えた芸術家の名前は思い当たらないが,シエナ大聖堂で多くの作品に接しながら,シエナ独自のルネサンスの魅力を感じる人も少なくないのではないかと思う.

 何か中世の作品のような古格を感じさせたシビュラたちの象嵌床装飾が,実は1480年代に制作された,時代的には盛期ルネサンスの作品であることに改めて驚く.

 象嵌細工の下絵を担当した芸術家たちは,サンセポルクロで生まれてシエナで亡くなったマッテオ・ディ・ジョヴァンニを除いてシエナの出身であり,マッテオも含めて全員が「シエナの芸術家」で,その作品は,大聖堂を初めとするシエナ各地で見られる.

 「シエナ派」と言う時に最初に思い出されるドッチョ,シモーネ・マルティーニ,ロレンゼッティ兄弟などゴシックの画匠たちの時代から100年以上が経ち,それでもシエナには「自前の」芸術家たちがこれだけいたことも感嘆に値するだろう.


古代の賢者たち
 床装飾の全体像を肉眼で確認するのは難しい.平面図で見ると概ねラテン十字の形になっており,その交差部から下が身廊と側廊の床を飾っており,5場面ずつ3列(大きな柱で区切られた側廊/身廊/側廊)計15場面で構成されている(トップの写真).

 場面は大きな正方形の枠で囲まれていて,シビュラは3列の両側(側廊部分)に5人ずつ描かれており,真ん中の列(身廊部分)の,ファサードの方から見て最初にヘルメス・トリスメギストス像が描かれている.

 ヘルメス・トリスメギストスの上に,シエナの象徴である「レムスの子セニウス(セヌス)とアスカニウス(アスキヌス)に乳を与える牝狼」を中心としたトスカーナ諸都市を象徴する動物たち,バラ窓を模した象嵌装飾の中の「神聖ローマ帝国の鷲」,一つ置いて「運の変転(フォルトゥーナ)の車輪」が描かれている.

 この3つは,大きな四角の枠(リクァドロ)の中で,円形に表現されているという共通の特徴がある.

 「運の変転の車輪」は四角枠の中に線によって菱形が作られ,その真ん中に車輪がある.菱形の外側にはラテン語の標語を持った4人の人物,エピクテトス,アリストテレス,エウリピデス,セネカが描かれている.

写真:
「運の変転の車輪」の
装飾の中のセネカ


 ウェブページの写真や撮って来た写真を拡大しても,角度が付いて,光が反射しているので,なかなか字まで読むことが難しいが,左下の人物が持つ標語は何とか読み取ることができる.

 「MAGNA SERVITVS EST MAGNA FORTVNA. SENECA DE CONSOL LIB VI」,セネカの『ポリュビウスへの慰め』第6章5節である.この原文(ペルセウスでは4節)はペルセウスで確認することができる(セネカに関しては,英訳は掲載されていない.2017年6月28日参照).

 「大きな運は大きな隷属」と言う意味であろう.運の変転において,大きな幸運を得て,人も羨む地位と財産があっても,それを失う不安や,不運に見舞われる恐怖に怯え,真に自由な人生を生きることができず,まさに運の変転の奴隷となっているという意味と考えたい.

 他の3人についても撮って来た写真を拡大すると,そこに書かれているラテン語は解読できるが,元はギリシア語なので,言及はギリシア語の原文を確認できてからにする.

写真:
「智慧の丘の寓意」の
中のソクラテス


 「運の変転の車輪」の下の「智慧の丘の寓意」を見てみる.最上部の真ん中に「智慧の女神」と思われる女性がおり,彼女の頭上の石板にはラテン語で「男たちよ,ここへと急げ.険しい山を登れ.労苦の美しい報酬は栄光の棕櫚と平安であろう」と書かれている.

 女性の足許には坂道を登る男性たちが描かれ,女性の両側には年配の男性がいる.左側の書物を持った男性の上部にはソクラテス,右側の金,銀,財宝を放棄していている人物の上部にはクラテスと書かれている.

 生涯1冊の本も書かなかったソクラテスだが,書物を手にしているのは当時のイメージとして学問に打ち込んだ人であることを意味しているのだろう.

写真:
「智慧の丘の寓意」の
中のクラテス


 一方のクラテスは複数の同名異人と区別するために出身地を冠して「テバイのクラテス」と言われている人物であることは,財産放棄の姿から明らかである.

 女神はソクラテスに棕櫚を,クラテスに書物を差し出している.既に書物を持っているのは,すなわち智慧を獲得しているという意味と考えれば,ソクラテスこそ智慧の奥義を修得して,栄光の棕櫚を受けるにふさわしく,クラテスは財産を放棄して,これから智慧の奥義を授けられるにふさわしい人物となったという寓意であろう.

 クラテスについても,ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』に伝が立てられている.ソクラテスの影響を受けた思想家アンティステネスは質素な生活を重んじたことで知られるが,彼に弟子入りしたのが有名なシノペのディオゲネスで,その弟子にあたるのがクラテスとされる.

 前365年頃に生まれ,前285年頃に亡くなったとすれば(英語版ウィキペディア),古典ギリシアの終盤からヘレニズム時代にかけて生きた思想家ということになる.彼の弟子がストア派を開いたキュプロス島キティオン出身のゼノン(ソクラテス以前の哲学者であるエレアのゼノンとは別人)である.

 紹介する写真に見られるように,彼は父親から相続した莫大な財産を放棄し,著作(現存しない)もあったが,むしろ生き方によって賢者として同時代人から尊敬を受けた.

 シビュラたちやヘルメス・トリスメギストスなど古代末期からキリスト教と関係づけられていた人々ならともかく,多分,キリスト教と関係づけるのは難しい古代の賢者たちが描かれていることは注目に値すると思う.

 身廊部分の5面の床装飾は,「智慧の丘の寓意」を除いて1370年代に制作され,19世紀にオリジナルを尊重しながらも大幅な修復が施されている.

 それでも末期とは言え,まだゴシックの時代にセネカ,エウリピデス,アリストテレス,エピクテトスが描かれ,セネカ以外はギリシア語からラテン語への翻訳で有るとは言え,彼らの言葉とされる箴言が引用されている.「運の変転」に左右されない恒心の教訓と受け止めて,それほど深く考えなくても良いのかも知れないが,機会があれば考えてみたい.

 アリストテレスは12世紀にアラビア語訳からラテン語訳されることにより,キリスト教神学の構築に貢献したし,セネカは,現在は偽書と断定されているが.パウロとの往復書簡があることにより,キリスト教と全く無関係とは言い切れないが,エウリピデス,エピクテトス,ソクラテス,クラテスはおそらくキリスト教とは無関係と言えよう.

 床装飾の古い部分は1370年代の制作で,時代的には少し古く,人文主義と関係づけるのは無理があるかも知れないが,中世にも人文主義の萌芽はあったわけだし,人文主義の開祖とされるペトラルカの死は1374年,視覚芸術のルネサンスに先立ってフィレンツェで文学のルネサンスを現出したボッカッチョの死が1375年,時代は既に人文主義とルネサンスに向っていたと言えよう.


ピントリッキオ
 身廊の5面の象嵌装飾のうち「智慧の丘の寓意」だけは,制作が遅く,シビュラたちの像よりもさらに20年ほど遅い1505年である.下絵を担当したのはピントリッキオで,これはもはや完全にルネサンス芸術と言えよう.

 この装飾に関しては,人文主義が成熟した時代になってもなお,ギリシアの哲学者は私たちが知っているような古代ギリシア人の姿ではなく,これもよく理解していないまま,イメージで言うのだが,むしろオリエント世界の賢人のように描かれているように思える.

 ピントリッキオはペルジーノの工房でラファエロと一緒に仕事をしている.シエナ大聖堂の見ものの一つであるピッコローミニ図書館のフレスコ画の下絵はラファエロが提供したのではないかという説もあるくらいで,29歳年長なので同世代ではないが,間違いなく同時代人だ.

 ラファエロがヴァティカン宮殿の「署名の間」にフレスコ画「アテネの学堂」を描いたのは1509年から1510年とされており,この時まだピントリッキオは存命だった(1513年が没年).

 「アテネの学堂」の中心にはプラトンとアリストテレスが描かれている.プラトンはレオナルド・ダ・ヴィンチをモデルにしたと言われているが,アリストテレスは明らかに古代彫刻を参考にしている.プラトンの師にあたるソクラテスも,プラトンの(向かって)左側8人目に他の人物たちと議論している姿で描かれている.このソクラテスも間違いなく古代彫刻を参考にしている.

 「アテネの学堂」もあくまでも理想化されたギリシア世界が描かれているだけで,様々なアナクロニズムが見られるが,ピントリッキオが下絵を描いたシエナ大聖堂の象嵌装飾のソクラテスの姿と,ラファエロが「アテネの学堂」に描いたソクラテスを比べると,僅か数年しか違わないとは思えないほど,後者は古代の再現として説得力を持っている.

 ラファエロの描いた議論しているソクラテスは,まさにプラトンの「対話編」の主人公としてのソクラテスであり,「智慧の丘の寓意」のソクラテスが知者として智慧の女神から栄光の棕櫚を渡される姿と対照的に思える.

 当時,ギリシア語原文は既に出版されているが,翻訳は多分,フィチーノのラテン語訳だけだったと思う.ラファエロはプラトンの著作を読んでいなかったかも知れないが,書物の内容に関する情報と思想のエッセンス,何よりも古代彫刻を参考にするという人文主義的環境が彼の周りにはあったことは確実だろう.

 逆に言うと,ピントリッキオという盛期ルネサンスの画家が下絵を描いたにも拘らず,シエナ大聖堂の「智慧の丘の寓意」は中世の人々のギリシア世界の理解を遺しているようで,かえって魅力的に思える.

 「アテネの学堂」の説得力のある古代世界の再現よりも,それ以前の西欧の人々のギリシアのイメージを垣間見せてくれる「智慧の丘の寓意」は大変興味深いものに思えた.

写真:
「智慧の丘の寓意」


 丘を登って行こうとする男たちの坂の下に,片足を球に,もう片足を帆柱の折れた船に置いた裸体の女性は,「目隠し」はしていないが,「豊饒の角」(コルヌコピア)を持っているので,「運(の変転)の女神」(フォルトゥーナ)であることがわかる.

 折れた帆柱についていたものであろう帆を左手に持って掲げている姿は,少なくとも私は他に見たことがないが,古代から続くフォルトゥーナのイメージである.これに背を向けて賢者の道を歩むことが智慧の丘を登ると言うことであり,丘の上でクラテスが放棄している金銀財宝は,ラテン語の普通名詞フォルトゥーナの複数形が「財産」を意味することと関係があるだろう.

 フォルトゥーナは確かに古代的図像だが,中世にもずっと引き継がれていたので,特にこれがあるから人文主義を反映しているとは言えない.しかし,誤解も,理解不足もありながら,中世にも引き継がれて来た古代の智慧への憧憬が人文主義の素地を作ったと考えれば,「智慧の丘の寓意」は1505年の作と新しいものであっても,興味深い作品に思える.

 「大聖堂篇」を1回で書き終えるつもりだったが,だいぶ長くなったので,これも前篇と後篇の2回とし,ピントリッキオの一世一代の大仕事で人文主義とも深い関わりを持つピッコローミニ図書館などに関しては次回に回すことにする


その他の下絵作家たち
 身廊と翼廊の交差部には大きな六角形の部分があり,その中はさらに7つの六角形と6つの菱形の組み合わせによって構成されている.

 この7つの六角形の内4面と6つの菱形の内2面をベッカフーミが担当した.その他の部分は19世紀のアレッサンドロ・フランキが制作している.プラート大聖堂の礼拝堂をフレスコ画で装飾し,シエナ大聖堂の洗礼堂にも美しい三翼祭壇画を遺している画家だ.

 この大きな六角形の上部に長方形の象嵌装飾があり,「シナイ山のモーセ」が描かれているが,この下絵の担当もベッカフーミである.しかし,大きな六角形と「シナイ山のモーセ」のある部分は会衆が座る椅子が置かれ,多分敷物が敷いてあったと思う.

写真:
「詩篇を創作する
ダヴィデ」


 撮って来た写真で確認できるのは,さらにその上の長方形の真ん中にある装飾的な円環と楽人たちに囲まれた「詩篇を創作するダヴィデ」で,この装飾円環の両脇には,幾何学的な装飾枠に囲まれた「石を投げるダヴィデ」と「石を命中させられるゴリアテ」が描かれているが,そこは敷物に隠れていた(4月27日の「天の門」ツァーで,上から撮った写真には写っており,この時は見ることができたようだ).

 いずれもドメニコ・ディ・ニッコロの作である.シエナのプブリコ宮殿の礼拝堂に見事な浮彫の施された木製の合唱隊席があり,多くの観光客が写真に収めていた(私も挑戦したがとても写らない)が,その作者もドメニコ・ディ・ニッコロとされる

 ダヴィデをモチーフにした3面は1423年頃の作品とされるので,シエナ大聖堂の床装飾の中では,19世紀に大幅修復された身廊の3面の作品の次に古く,しかも原形をとどめている.

 ドメニコ・ディ・ニッコロは1362年の生まれとされ,フィレンツェの芸術家と比べてもブルネレスキ(1377年生まれ),ギベルティ(1381年生まれ)よりも10歳以上年長なので,シエナのゴシック最後の芸術家と言っても良いかも知れない.

 ダヴィデの上はラテン十字の交差部より上の部分にあたり,そこにも象嵌装飾が施されているが,残念ながら,進入禁止の赤いロープの先で,祭壇等もあり,一部は見えているが大体は敷物で覆われている.

 十字架の交差部から左右に伸びる部分が,それぞれ翼廊の象嵌装飾に対応しているが,今回は右翼廊部分(そこに以前紹介した「死せるアブサロム」もあり,従ってこれは今回見ていない)は敷物に覆われていたが,左翼廊部分の象嵌装飾は公開されていた.

 下から,「ヘロデの狩り」,「嬰児虐殺」,「ユディトの物語」,「アモリ人を征服するヨシュア」で,作者はそれぞれベンヴェヌート・ディ・ジョヴァンニ,マッテオ・ディ・ジョヴァンニ,フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ,サッセッタとされる.

 フランチェスコ・ディ・ジョルジョ,サッセッタと言う「シエナのルネサンス」を支えた芸術家たちの名前が出て来たが,サッセッタが担当した部分は,右翼廊の「サムソンの物語」とともに今回は見られなかったし,フランチェスコ・ディ・ジョルジョの担当部分に関しても,今のところ,この人ならではの特徴を読み取れていないので,後日の課題とする.



 床の象嵌装飾だけで話が長くなってしまったが,4月25日より,6月20日に行った時の方が,多くの場面が見られたので,写真とウェブページと参考書で反芻するうちに,全体について考えて見たくなった.

 2007年10月27日に行った時は,期間限定で,右翼廊の部分を含め多くの場面を公開していたが,この時は,全体について考えると言うような気持ちは起きなかった.

 それでもヘルメス・トリスメギストスの場面と,今回見ることができなかったアブサロムの場面は随分印象に残り,シエナ大聖堂は当時から写真可だったので,「フィレンツェだより」で紹介もした.

 今回少し勉強して意外だったのは,象嵌床装飾の多くの部分がルネサンスからマニエリスムの時代の作品だったことだ.ゴシックが優勢と思っていたシエナ大聖堂に関する私の思い込みをだいぶ修正することになった.

 また,下絵作者の殆どがシエナ出身ということを知り,改めてシエナの芸術環境について考えさせられた.調べていないし,調べることができるかどうかも分からないが,直接制作を担当した職人たちも,おそらくシエナとその周辺で生まれて,活動し,そこで亡くなった人々であろうと想像する.

 床装飾以外のシエナ大聖堂の芸術と,そこに見られる特徴に関しては,次回とし,最後に,マッテオ・ディ・ジョヴァンニが担当した「嬰児虐殺」の大きな場面の中の,玉座でそれを指示するヘロデ大王の写真を紹介して,今回は終わりとする.






「嬰児虐殺」
下絵マッテオ・ディ・ジョヴァンニ