§シエナ その1 教会篇
この3カ月で3回シエナに行った.フィレンツェから直通バスで行けるので,心理的には近い.起伏の多い大きな町で,坂を上ったり下りたりしているうちに時間切れとなり,おまけにいつもどこかが閉まっているものだから,また来なくては,ということになる. |
1回目の4月25日はイタリア解放記念日の祝日だった.平日ならあるはずのバスが1時間後になり,町に着いたら,観光客で溢れかえっていた.
バス停の近くにあるサン・ドメニコ教会を拝観した後,目当ての一つだった国立絵画館に行ったが,見学の途中,13時で締め出されてしまった.これも祝日のせいなのだろうか.やむなく大聖堂へと向かった.
大聖堂広場も人が一杯だった.券売所に行き,少し考えてセット券を購入した.大聖堂,洗礼堂,地下教会,「天の門」(ポルタ・デル・チエーロ)周回,大聖堂博物館,ファッチャトーネ,サンタ・マリーア・デッラ・スカーラ救済院に付随する諸博物館(サンティッシマ・アヌンツィアータ教会を含む)が見られて,25ユーロ.
10年ぶりだし,どこも観るべきものがそれなりにあるから,セット券も悪くないと思った.強いて言えば,眺望だけのところは,あってもなくても良かった.
「天の門」周回は,堂内の隠れた通路を通ってクーポラ周辺の屋根裏を歩き,堂内を上から眺めることができ,外の風景も眺められる.ファッチャトーネは,大聖堂の拡張改築計画で新しいファサードになるはずだったが,計画が放棄されて残った巨大な構築物で,その上部で周囲の風景を眺めることができる.
全部見るのであれば,セット券は割安と言えるが,のんびり見ていると,全部は回りきれない可能性もある.25ユーロを高いと思う人は多いのだろう,券売所でセット券の列は他よりも短かった.
セット券に含まれるところは全部見て,フィレンツェの寓居に戻った時は,夜の9時頃だった.
拝観した教会
2回目の5月19日は,未拝観の教会を中心に幾つかの教会を拝観し,パラッツォ・プッブリコの中にある市立博物館(ムゼーオ・チヴィコ)を見学し,前回,途中で締め出された国立絵画館にもう一度行った.
2度のシエナ行で拝観できた教会を拝観順に並べると,
サン・ドメニコ聖堂(以下,ドメニコ聖堂)
大聖堂
サンティッシマ・アヌンツィアータ教会(初)
サンタゴスティーノ教会
サン・クリストフォロ教会(初)
サンティ・ニッコロ・エ・ルチーア教会(初)
サン・ニッコロ・デル・カルミネ教会(初)(以下,ニッコロ教会)
サンタ・マリーア・プロヴェンツァーノ教会(初)
サン・フランチェスコ聖堂(以下,フランチェスコ教会) となる.
博物館,美術館に時間を使ったので,拝観できた教会の数は多くない.タイミングが悪くてたまたま閉まっていたのか,それともいつも閉まっているのかは分からないが,ファサードの前まで行って,開いていなくてガッカリすることも多かった.
バス停近くにあるサン・ドメニコ聖堂は2回とも拝観した.ここは相変わらず写真厳禁だ.最近は,入口にある注意事項の張り紙のカメラの絵に×がついていても,尋ねると撮影OKだったり,拝観者が写真を撮り始めても,特に注意されないことも増えたが,ここは学習見学の中高生や団体の観光客が数に任せて撮影を強行すると,売店の販売員や掃除係の人が結構きつく注意をする.
シエナの聖カタリナの聖遺物が安置されている神聖な場所として,厳しい姿勢を堅持しているのかも知れない.シエナの聖カタリナは,教皇庁のローマ帰還に功績があり,イタリアの守護聖人ともされる女性で,サン・ドメニコ聖堂の近くにある生家も至聖所として公開されている.
サン・フランチェスコ聖堂に向かった時には,わずかに正午を過ぎていた.昼休みを覚悟したが,行ってみると開いていた.しかし,12時半になると,アフリカ出身と思われる青年が「閉める時間だから」と拝観者たちに声をかけ始めた.やはり昼休みはあるようだ.
聖堂を出て,隣にある司教区博物館(サン・ベルナルディーノ祈禱堂)に行った.サン・フランチェスコ聖堂が昼休みの場合は,ここだけでも見学できれば良いと思っていたのだが,こちらは毎日13時半から開館だった.教会はちょっとだけしか見られなかったし,博物館は諦めたので,中途半端なことになってしまった.
 |
|
写真:
ベッカフーミ
「叛逆の堕天使たちを
討伐する大天使ミカエル」
サン・ニッコロ・
デル・カルミネ教会 |
今回の最も大きな成果はサン・ニッコロ・デル・カルミネ教会で得られた.ここにはドメニコ・ベッカフーミの傑作「叛逆の堕天使たちを討伐する大天使ミカエル」がある.
この絵のことは,フィレンツェのスコローピ教会前の露店古本屋で買った,
Cristina Sirigatti, Siena: Dove Trovare, Firenze: Scala, 2003
で知っていた.国立絵画館にも同主題,同作者の絵があり,おそらく裸体表現にはミケランジェロの影響が見られる.
|
写真:
ベッカフーミ
「叛逆の堕天使たちを
討伐する大天使ミカエル」
国立絵画館 |
 |
国立絵画館の作品は,上部に天使軍を率いて剣を掲げるミカエル,下部に堕天使たちの二層構成になっているのに対し,ニッコロ教会の祭壇画は,振り下ろすべく剣を構えたミカエルを中心に置いて,上部には全能の神を中心にそれを囲む天使たち,下部には堕天使たちのいる地獄が描かれた三層構造である.
ニッコロ教会の作品は色調といい,明暗の使い分けといい,神と大天使の威厳といい,どこか幻想的で静謐でありながら,ただ荒々しいのとは違う迫力に満ちている.教会の堂内に飾られているその大きさも素晴らしい.
ドメニコ・ベッカフーミ
『地球の歩き方』にもその名前が出てくる有名な画家なのに,2007年にフィレンツェに滞在するまでベッカフーミの名前を知らなかった.
最初に知ったのは,ウィンスピアが著し,当時フィレンツェ大学の先生だった中嶋浩郎先生が訳されたので,私たちは中嶋本と呼んで最も参考にしていた『最新完全版ガイドブック フィレンツェ』(Livorno:
Syllabe, 2007)のホーン財団美術館の紹介記事でだった.
ドメニコ・ベッカフーミは1486年に,シエナ近郊の,皇帝党のシエナと教皇党のフィレンツェの戦い(1260年)で有名なモンタペルティ(伊語版ウィキペディアに拠れば,より細かくはその近傍のコルティーネ・ディ・ヴァルディビアーナ)で農民の子に生まれた.
ベッカフーミという姓は,元々は後援者の姓だったようだ.
どのような形で画業を修めたのかよく分からないようだが,後援者がついたくらいだから,子供の頃から才能は顕著だったのだろう.ヴァザーリが彼の伝記を書いており,その英訳をウェブページで読むことができる.
それに拠れば,シエナのさほど画力の優れていなかった画匠のもとで,彼が持っていた有名画家たちの下絵を通じて技術を養い,さらに,その時代にペルジーノがシエナの教会に描いた2点の祭壇画を模写して,その技法を学んだ.ペルジーノの作品は彼の嗜好にあっていたようだ.
ヴァザーリはペルジーノのその祭壇画を特定していないが,伊語版ウィキペディアはサンタゴスティーノ教会の「キリスト磔刑」とサン・フランチェスコ聖堂にあったが今は無い作品としている.
「キリスト磔刑」は,同じ日にベッカフーミの作品に先立って観ている.良くも悪くもペルジーノらしい絵で,工房作品と言われれば信じてしまいそうだが,ヴァザーリがそこまで言うのであれば,本人が描いたのだろう.
 |
|
写真:
ペルジーノ
「キリスト磔刑」
サンタゴスティーノ教会 |
教会の解説板では1502年から1504年頃の作品としている.1504年にベッカフーミは18歳,1502年なら16歳,才能もあり,基礎的技術の修得も済んで,開花のきっかけを待っている青年もしくは少年にとって,巨匠ペルジーノの作品から学ぶところがあったというのは一応,説得力を持つ.
ペルジーノの作品の天を仰ぐ人物の,思慕と憧憬に満ちた,時として現実との乖離を感じさせる表情は,ベッカフーミの描く人物にも共通しているかもしれない.山ほどいたペルジーノの追随者であれば,そのままペルジーノ風に描くところを,全く違う画風を確立したところにベッカフーミの天才性が感じられる.
初めてベッカフーミの作品を意識して観たときからずっと,他とは違う魅力を持った画家と思う一方で,心のどこかで,戦前の少女雑誌のイラストのような人物が描かれたペッタリとした絵というイメージを捨てきれずにいた.
しかし,ニッコロ教会で観た「叛逆の堕天使たちを討伐する大天使ミカエル」には真の宗教画とはこういう絵のことではないだろうかと思う程の感動を覚えた.
ヴァザーリの言うように,サンタゴスティーノ教会のペルジーノの「キリスト磔刑」は,ベッカフーミの才能を開花させる契機となったかもしれない.しかし,開花した才能はそれを凌駕する作品を生んだ.
この日の午後,国立絵画館で複数のベッカフーミ作品を観て,6月5日にはホーン財団美術館で3点の彼の絵に再会して,ニッコロ教会の祭壇画が私の意識に変化をもたらしたことを感じた.どの作品を観ても,その中に彼の個性と卓越性を感じられるようになった.
ヴァザーリ拠れば,シエナでは何も学ぶべきものがないと考えた彼は,後援者にベッカフーミの名乗りを許してもらい,ドメニコ・ベッカフーミとしてローマに出て,ミケランジェロ,ラファエロ,その他の画家たちの技法を学んだ.
2年に満たないローマ滞在中にこれといった仕事はしていない.卓越した諸技術を身につけることだけに集中したのか,仕事を得る機会に恵まれなかったのか.
ベッカフーミがシエナに帰るきっかけになったのは,ヴェルチェッリ出身のジョヴァンニ・アントニオという画家のシエナでの活躍だった.シエナに戻った彼はジョヴァンニ・アントニオの技法に心酔し,そこから多くを学んで一流の画家として大成する出発点に立った.
ジョヴァンニ・アントニオの通称がイル・ソドマである.
1477年生まれのソドマは11歳年長で,ベッカフーミがソドマの影響を受けたことは一応納得できるが,ベッカフーミがローマに滞在した1510年から12年に,ソドマもローマで仕事をしていたので,果たして,ローマで2人の接触はなかったのかどうか,もう少し詳しい情報が欲しいところだ.ヴァザーリはローマでのソドマとベッカフーミの関係には全く言及していない.
ソドマとベッカフーミでは画風が全く違い,素人目にその影響関係を感知するのは難しいように思うが,それでも国立絵画館にある「聖三位一体の三翼祭壇画」を見ると,確かにソドマの影響を受けているように思える.
この祭壇画は,1513年にサンタ・マリーア・デッラ・スカーラ救済院のマント礼拝堂のために描かれたらしい.この時,ベッカフーミは27歳,新進気鋭の地元画家の出発点となる絵には,やはりソドマの影響があったと言えるだろうか.
ヴァザーリはベッカフーミより25歳年下の同時代人で,個人的にも接触があったようで,「ベッカフーミ伝」に関しては,今もシエナ周辺に残るベッカフーミの作品名を具体的に挙げて記述しているところを見ても,その他の画家の伝記より信用度は高いと思われる.
「叛逆の堕天使たちを討伐する大天使ミカエル」に関して,ヴァザーリは,教会からの依頼で現在は国立絵画館にある第一作を描いたが,未完のまま第二作を描き,それが教会に納められたと記している.ヴァザーリは未完の第一作も高く評価しているが,第二作に関しては絶賛しながら,構図などを細かく分析している.
ヴァザーリの言うことをどこまで信じて良いのか分からないが,立派な画家に成長したベッカフーミは,ソドマが放縦な生活をし,奇矯な行動を取る人物だったのに対し,人柄が良く,人に好かれ,誠実に仕事をこなすので,多くの注文を受け,亡くなった時にはこの町の職人たちによって,シエナの大聖堂に埋葬されたとのことである.
確かに,多くの仕事から多額の報酬を得たであろう有名画家だったのに,貧窮のうちに亡くなったソドマとは対照的な人生だ.
今回は「キリスト降誕」のあるサン・マルティーノ教会の再訪が叶わなかったので,教会で見ることができたベッカフーミの祭壇画はニッコロ教会の「叛逆の堕天使たちを討伐する大天使ミカエル」だけだった.
シエナの魅力に目覚める
この稿を書いている最中の6月20日にもシエナに行って来た.
サン・マルティーノ教会のベッカフーミの「キリスト降誕」は今回も見られなかった.その代わりと言っては何だが,プッブリコ宮殿で,「シエナ 200年代から400年代まで サリーニ・コレクション」という素晴らしい特別展を見ることができた.これについては別途報告する.
特別展と並ぶ,この日最大の成果は,芸術作品の宝庫としてのシエナ大聖堂の凄さを改めて認識したことだった.
|
写真:
大聖堂 |
 |
大聖堂にはベッカフーミが制作した天使の姿の燭台彫刻(ブロンズ),下絵を描いた床装飾,後陣の壁面のフレスコ画がある.大聖堂は4月25日と6月20日の2回拝観したが,ベッカフーミが下絵を描き,職人の作業も熱心に監督した床装飾は覆われていて見られなかった.
後陣の壁面のフレスコ画と,燭台を持つ天使のブロンズ像は確認できた.フレスコ画は,地震の被害などもあり,後世の大幅な修復を経ているとのことであるが,進入禁止ロープのところから,単眼鏡を駆使して確認した限り,少なくとも最初はベッカフーミが描いた絵だったろうという感触は得ることができた.
床の象嵌装飾は大聖堂の見どころの一つで,下絵作者たちの画風を反映していて面白い.次回の大聖堂篇で,興味深い絵柄の中からまずへレスポントスのシビラ(シビュッラ)を紹介しようと思う.
腰を据えて大聖堂を拝観(大聖堂のみの拝観料は4ユーロ)したことで,イタリアを代表するゴシック教会の中に自分のテーマの一つである「人文主義」の影響があることを察知するに至った.よって,2回に分けて報告する予定を変更し,今回の「教会篇」に続き,次回は「大聖堂篇」,3回目を「博物館・美術館・特別展篇」とする.
ただし,私に「シエナ派中毒」の毒素を思いっきり注入した,大聖堂博物館,国立絵画館,市立博物館と特別展の回を1回でまとめられるかどうかは自信が無い.特に市立博物館では,シエナ派とは一線を画しているスピネッロ・アレティーノのフレスコ画も観ることができたのでなおさらである.
シエナに行った翌21日,フィレンツェ市内でダヴァンツァーティ宮殿の博物館,サンタ・トリニタ聖堂,サンティ・アポストリ教会,オンニサンティ教会を拝観し,22日にはフィレンツェの大聖堂博物館を見学した.
博物館,大聖堂のクーポラ,大聖堂の地下教会(サンタ・レパラータ教会跡),ジョットの鐘楼,洗礼堂がセットの15ユーロのコンバインド・チケットしか売っていなかったので,翌日でないと予約の取れないクーポラ以外は,全部見学,拝観した.
大聖堂の地下にあるサンタ・レパラータ教会跡を見学するために,大聖堂(入場無料)にも入り,フィレンツェ芸術の凄さを再認識することとなったが,それでも現在の私には「シエナ派」の方が数百倍魅力的だ.
どんな形でまとまるか,書いてみないとわからないが,ともかく「シエナ派」の魅力と,ゴシックが優勢なシエナでもやはり人文主義とルネサンスが重要な要素であることは語ってみたい.
3カ月で3回シエナに行って,教会の拝観を中心にシエナ行の計画を立てるのは殆ど意味がないことが分かった.カンポ広場の近くの,ベッカフーミの「キリストの降誕」のあるサン・マルティーノ教会のような大きな教会ですら,午前中も夕方も閉まっている.その他の未拝観の多くの教会も,ファサードの前まで行って,徒労感を味わうばかりだ.
しかし,シエナはそれを補って余りある魅力に満ちている.あと2回(3回?)の報告で,それを伝えられたらと思う.尻切れトンボになってしまい,「教会篇」と言うのも恥ずかしいが,初めて拝観したニッコロ教会でベッカフーミの魅力に開眼したということで,この回を終わりにする.
ニッコロ教会は大きな教会なので.他にも古いフレスコ画や,ジローラモ・パッキアの「キリスト昇天」,次回以降に言及するであろうシエナのバロックを代表するルティリオ・マネッティの「磔刑のキリストと3人のマリア,福音史家ヨハネ」などもある.
サンタゴスティーノ教会にも,ペルジーノの他に,カルロ・マラッタ(マラッティ)の「無原罪の御宿り」,フランチェスコ・ヴァンニ.ピエトロ・ソッリ,アレッサンドロ・カゾラー二,ヴェントゥーラ・サリンベーニなど,シエナのマニエリスムからバロックの芸術を支えた画家たちの作品が見られる.アンブロージョ・ロレンゼッティなどの作品があるという情報もあるが,今回は確認できなかった.
サンタ・マリーア・デッラ・スカーラ救済院は大きな複合博物館になっているが,その建物内にあるサンティッシマ・アヌンツィアータ教会の大きな後陣にはセバスティアーノ・コンカの「池の奇跡」(※)という巨大なフレスコ画が描かれていて,その前の祭壇にヴェッキエッタのブロンズ像「復活のキリスト」が立っている姿が幻想的で印象に残った.
※「マタイによる福音書」の5章1節から17節で,キリストが足の不自由な人を癒す奇跡
もちろん,サン・フランチェスコ聖堂,サン・ドメニコ聖堂には,立派な芸術作品が数多くあるが,前者に関しては,ロレンゼッティ兄弟のフレスコ画がどちらも修復中で,それらが描かれた礼拝堂には足場が組まれ,かろうじて隙間からフレスコ画が見えるだけだったので,今回は新たな言及は控えることにする.
|

セバスティアーノ・コンカ「池の奇跡」
ヴェッキエッタ「復活のキリスト」
|
|

|
|