フィレンツェだより第2章
2017年6月16日



 




ベネデット・ダ・マイアーノ作
「聖バルトロの墓碑」



§サン・ジミニャーノ 後篇 - 聖人たち

前回は「聖アウグスティヌスの物語」に終始したが,ゴッツォリについて少し書きたかったのと,自分にとってはまず哲学者として認識されるアウグスティヌスが,キリスト教の「聖人物語」においてどのように描かれたのか関心があって,1回でまとめきれなかった.


 前篇の原稿で,「聖アウグスティヌスの物語」の作例をゴッツォリ以外には知らないと書いたら,校正をしてくれている家族から,イタリア在住の日本人ガイドの方が各地の見どころを紹介しているサイトの中のウンブリア州グッビオのページに,サンタゴスティーノ教会の「聖アウグスティヌスの物語」のフレスコ画が紹介されているというメールが来た.

 なるほど,自分の見聞はごく限定されたものに過ぎないと今更ながら感じた.フィレンツェからグッビオに公共交通機関を使って行く方法はないか,やはり日本語検索すると,2016年の新しい情報を詳しく載せているブログもあり,イタリアに詳しい日本人の方々が相当おられるのだなあとしみじみ思った.

 改めて伊語版ウィキペディアを見てみると,グッビオのフレスコ画は,ゴッツォリの作品よりも30年ほど早く描かれている.ゴッツォリはサン・ジミニャーノで仕事をする10年ほど前にウンブリアのモンテファルコに行き,当地のフランチェスコ教会で「聖フランチェスコの物語」のフレスコ画を描いているから,グッビオのオッタヴィアーノ・ネッリの同主題のフレスコ画を見た可能性もあるかも知れない.


物語の骨格
 ゴッツォリの「聖アウグスティヌスの物語」についてもう少し続ける.アウグスティヌスが両親に連れられて,生地のタガステで学塾に入校する最初のエピソードを見てみる.

 画面は左右2つの場面に分かれ,左の場面では,イタリアの上流貴婦人のような姿のモニカ(聖人なので光輪が付されている)とルネサンス時代の裕福な商人のようなパトリキウスが,教師にアウグスティヌスを預ける様子が描かれている.

 右側の場面では,教鞭を持った教師が子どもたちを指導しているが,多くの子どもたちは勉強に集中できず,おしゃべりなどをしているのに対し,入校時と同じ緑色の服を着たアウグスティヌスがギリシア文字の記された石板を熱心に読んでいる様子が描かれている.

 画面下にはラテン語で「幼年期の福者アウグスティヌスは父パトリティウス(ママ)と母モニカによって文法教師に預けられ,短期間で考えられないほどの進歩を遂げた」と記されている.

写真:
タガステで入塾する
アウグスティヌス


 人物の衣装や建築物には多くのアナクロニズムが見られる.背景にはルネサンス風の開廊(ロッジャ)や,ゴシック建築の本堂にルネサンス風のポルティコが付された教会が描かれているが,もちろん,北アフリカの古代ローマ植民都市にゴシックの教会やルネサンスの開廊があるはずもない.

 古代遺跡の発掘などにより,古代世界のイメージがオリジナルに近いものになっていくのは16世紀以降で,16世紀初頭でも,ヴァティカンでラファエロが制作したり,彼の死後,遺された下絵を基に工房が完成したりしたフレスコ画は古代風であると十分に感じられる絵柄になっているが,ゴッツォリがこの絵を描いた1465年前後は,古代建築に関する知識はおそらく一般的ではなかっただろう.

 ゴッツォリ自身は,仕事で呼ばれたローマで古代建築の遺構を見たと考えられる.多くはまだ地中に埋もれていたとしても,古代神殿の柱は教会にも再利用されていたし,コロッセオは見えていたはずだ.サン・ジミニャーノの後になるが,ピサでも仕事をしている(1469‐84年)ので,カンポ・サントで古代石棺を見て,ギリシア神話の登場人物がローマ時代にどのように表現されていたかも知っていたと思う.

 仕事柄,一般の人よりは古代に関する知識があったと思うが,「聖アウグスティヌスの物語」を古代風に見せる工夫をすることなく,衣装も建物も当時のスタイルをアレンジして描いた.現代の視点からはアナクロニズムだが,おそらく,信者たちに分かりやすいことが大事で,当時はそれで良かったのだろう.

 背景に描かれた教会は,ミラノ勅令後の,国教に定められる以前ではあるが,キリスト教が既に浸透している時代であることを示している.実際にモニカはキリスト教徒であり,パトリキウスは異教徒であったが,臨終の際には改宗している.



 物語は神童アウグスティヌスに始まり,聖人の死で終わるが,最大の出来事がキリスト教への改宗であろう.それは奇跡に与るエピソードだが,同時に,モニカとアンブロシウスによる働きかけという人間的なつながりも強調されている.

 同棲していた女性との間に子供がいたこと,その女性と不幸な別れ方をしたことなどは話題として避けられている.洗礼も息子アデオダトゥス(「神から与えられた者」という意味のラテン語)と一緒に受けたはずだが,絵に息子の姿はない.

 古代ローマ世界が崩壊し,北アフリカもヴァンダル人の脅威に曝された危機的な状況の中で彼は世を去るが,その緊迫感もゴッツォリの絵からは察せられない.

 一方,モニカとアンブロシウスの影響を強調した諸場面の描かれ方には,アウグスティヌスほどの偉大な知性を備えた人物でも,他者との関わりがあって人生が展開していくのだという点で興味を覚える.

 聖人の没後1000年を経て描かれたこのフレスコ画自体は,もちろん,アウグスティヌスの同時代資料ではあり得ないが,そこには別の面白さがある.

 重要なのは,本人が書いた『告白』と同時代人であるポシディウスによる伝記が,テクストとしてまず存在すること,その後,文献的根拠のない様々な伝説が生まれる長い時代を経て,今度は,たとえキリスト教の聖人の著作であっても,哲学的,文献学的な批判的視点を伴って精読,研究する人文主義の時代になり,その時代に「聖アウグスティヌスの物語」が描かれたということだ.

 この全体を意識して作品に向かい合うと,また新たに見えてくるものがあるのではないかと思う.

 ゴッツォリのラテン語力がどの程度のものであったかは分からないが,古代文献と伝承をもとに図像プログラムの構想を考えた助言者がいたとすれば,少なくとも,その助言を理解して作品を構成していく知性に恵まれた人であったことは間違いないだろう.



 フィレンツェのアゴスティーノ会の教会であるサント・スピリト聖堂の隣には有料(本堂は無料)で公開されている修道院の回廊があり,壁面のリュネットに複数の作者による「アゴスティーノ会の聖人たちの物語」のフレスコ画が残っている.

 回廊から入る「新食堂」(レフェットーリオ・ヌオーヴォ)にもフレスコ画があり,「カナの婚礼」,「最後の晩餐」,「エマオの食事」の3面の他,左右の両壁面のリュネットには,「アンブロシウスに洗礼を授けられるアウグスティヌス」,「パウロに洗礼を授けられるディオニュシオス」がある.

 3面のフレスコ画は食堂にちなんで,どれも食事の場面が描かれているが,リュネットの2作は洗礼をモチーフにしており,食堂と洗礼のつながりはよく分からない.これらの作者はベルナルディーノ・ポッチェッティで,制作は1597年である.

 前回名を挙げたアゴスティーノ会の諸教会の他にも,シエナ,コッレ・ディ・ヴァルデルサ,モンテプルチャーノのサンタゴスティーノ教会を拝観したが,サント・スピリトの食堂のように,エピソードが単独で描かれたフレスコ画はあっても,「聖アウグスティヌスの物語」の連作フレスコ画には出会っていない.

 もっとも,修道院の回廊などが公開されていない教会もあるので,絶対に無かったとは言えない.

 この稿を書いている最中にコルトーナに行って来たが,今は教会としては使命を終え,現代アートの展示場のようになっている旧サンタゴスティーノ教会の回廊に,フィレンツェのサント・スピリト聖堂の回廊のような比較的新しいフレスコ画の「聖アウグスティヌスの物語」があった.

 撮って来た写真を数えると,28面のリュネットに改宗以後のアウグスティヌスの生涯と死後の奇跡が描かれている.

 アウグスティヌスは430年に北アフリカのヒッポで亡くなり,遺体は,同地がイスラムの支配地域になったので8世紀にサルデーニャに移され,さらにそこからジェノヴァを経て,北イタリアのパヴィアのサン・ピエトロ・イン・チエル・ドーロ聖堂に埋葬された.現在も「アウグスティヌスの墓」が残っている.

 しかし,コルトーナのフレスコ画は「疫病から救われたパヴィア」という死後の奇跡で終わっている.私たちにとってアウグスティヌスは,第一義的には古代後期を代表する哲学者だが,聖人には奇跡の物語が必要だということだろう.


「サン・ジミニャーノのバルトロ」
 さて,ようやく「聖アウグスティヌスの物語」を離れて,話を次に進める.サンタゴスティーノ教会の中央礼拝堂の祭壇画は,ピエロ・デル・ポッライウォーロの「聖母戴冠と聖人たち,奏楽の天使たち」である.

 最前列にアウグスティヌス(左)とヒエロニュムス(右)が描かれたこの祭壇画は,1483年の作品で,礼拝堂のフレスコ画完成の18年後から飾られている.ピエロはゴッツォリより20歳ちょっと若い,フィレンツェ出身の芸術家だ.

写真:
ピエロ・デル・
ポッライウォーロ
「聖母戴冠と聖人たち,
奏楽の天使たち」


 ファサード裏に向って左側のサン・バルトロ礼拝堂にもフィレンツェ出身の芸術家の傑作がある.ベネデット・ダ・マイアーノ作の「聖バルトロの墓碑」である(トップの写真).

 ベネデットと兄ジュリアーノは通称の示す通り,現在はフィエーゾレの一地区であるマイアーノで,石工の父レオナルド・ダントーニオのもとに生まれた.10歳年長の兄ジュリアーノは,フィレンツェ出身の建築家イル・フランチョーネことフランチェスコ・ディ・ジョヴァンニの工房にいたとされ,さらに建築家としてブルネレスキの影響を受けたとされる(伊語版ウィキペディア).

 フランチョーネの作品もサン・ジミニャーノにある.ポッジボンシに向う帰りのバス停から見える城壁に付随する構築物だ.このような構築物を「稜保」(イタリア語ではbastione,英語ではbastion)と言うようだ.

 ウェブ上のデジタル大辞泉には「城壁や要塞の,外に向かって突き出した角の部分」とある.攻撃してくる相手に対して大砲を使うようになってからのもので,15世紀からの城塞建築に見られるようになる.

 2007年に,プーリア州オトラントのアラゴン城で,シエナ出身の建築家フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ設計の稜保を見ているが,フランチョーネにはフランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニの影響があるということだし,ゴシック建築のイメージの強いサン・ジミニャーノに残るルネサンス建築ということで,ここにも後述する,シエナからフィレンツェへ,ゴシックからルネサンスへという流れが読み取れるかも知れない.

写真:
イル・フランチョーネの
設計した「稜保」


 ベネデットに話を戻すと,彼は父や兄の影響を受けながら,建築家,彫刻家として成長していき,フィレンツェでも多くの仕事を成し遂げ,フィレンツェの周辺および遠隔地にフィレンツェのルネサンス芸術を伝え,フィレンツェで亡くなったので,やはりフィレンツェの芸術家と言えよう.

 サン・バルトロ礼拝堂の墓碑は,「サン・ジミニャーノのバルトロ」という人物のためにベネデットが造ったものだ.

 この人物については伊語版ウィキペディアには立項されておらず(2017年6月11日参照),イタリア語でその生涯を説明しているページを見つけたが,有益な情報が得られるものの,閉じても,閉じても,宣伝ページが出てくるのでリンクはしない.

 幸いなことに英語版ウィキペディアに立項されていたので,そちらにリンクしておく.ただし英語版では聖人ではなく福者になっており,福者に列せられたのも1910年となっている.1910年の列福はその他のウェブページでも同様なので,カトリック教会が正式に列聖した「聖人」ではないようだ.

 それらに拠れば,バルトロは1228年にサン・ジミニャーノから4キロほど離れたムッキオという地で貴族の子として生まれた.父の反対を押し切って聖職者を志したが,キリストの幻視に促されて,聖職者として叙階されることよりも弱者を助ける行動に力を注いだ.

 結果的に助祭,司祭に任命されたが,ハンセン病を患って,サン・ジミニャーノ近くの ハンセン病患者のための医療施設で残りの人生を過ごし,患者たちのためにミサを司式し,1300年(1299年説もある)の12月に死去した.

 「トスカーナのヨブ」と呼ばれ,幻視などの神秘体験や,彼の死を悲しむ少女を遺体の片手が5時間も慰藉したと言う奇跡によって崇敬を受けた,というようにまとめることができるだろうか.



 サン・ジミニャーノにはサン・バルトロ教会もあり,これも偶然,拝観することができた.バルトロという名前はバルトロメーオの省略形で,ということは使徒のバルトロマイと同じ名前である.

 実際にサン・バルトロ教会は「聖バルトロ」が生まれる前の1173年には完成しているロマネスク教会なので,第一義的には使徒バルトロマイの名を冠する教会であろうと思われる.

 堂内は簡素で,新しい彩色木彫の聖人像(イタリアの教会にはよくある)が数体と新しいリュネット型の油彩カンヴァス画が2点の他に,ゴッツォリがサンタゴスティーノ教会の「聖アウグスティヌスの物語」に付随して描いた「聖バルトロ」のフレスコ画の拡大コピーが掛けられていた.

写真:
ゴッツォリ
「脚を治癒する奇跡」
サンタゴスティーノ教会


 この小さなフレスコ画は,「聖バルトロ」の下の関連エピソードの絵である.この聖人が使徒バルトロマイではなく,サン・ジミニャーノの福者バルトロ・ブォンベドーニであることは,「脚を治癒する奇跡」の絵柄から推測できる.

 サン・バルトロ教会にサンタゴスティーノ教会の「聖バルトロ」のコピーが飾られていたということは,少なくともある時点からは,この古い教会においても,「バルトロ」という教会名に,使徒バルトロマイの他に,サン・ジミニャーノのバルトロが意識されたのであろうと思う.

 ちなみに同じ奇跡の場面は,ベネデット・ダ・マイアーノの「聖バルトロの墓碑」にもある.棺の下方に,祭壇画の裾絵のように彫られた3つの奇跡の場面一つで,左から「脚を治癒する奇跡」(生前),「悲しむ少女を慰藉する奇跡」(臨終直後),「聖遺物による悪魔祓いの奇跡」(死後)である.

写真:
「聖バルトロの墓碑」(部分)
「脚を治癒する奇跡」


 堂内の新しい絵に関しては,今のところ,バルトロとの関連は分からない.

 サン・バルトロ教会には,15世紀の木彫磔刑像以外に,ゴシック,ルネサンス,バロックの遺産は何もないが,何よりもロマネスクの遺風を遺す堂内と外観がこの教会の財産であろう.シンプルな美しさは一見,ネオ・ロマネスクの再建かと思うが,オリジナルの姿をとどめているとのことだ.



 ゴッツォリも,ベネデット・ダ・マイアーノも,地元で崇敬されている聖人(公式には当時も今も「聖人」ではないが)の伝承を作品に取り込んだ.

 ベネデットは聖遺物ともいうべき遺体を収める棺と墓碑の作成を依頼された.両側を天使に支えられた円形のクリペウスの部分が透かし彫りになっているのは,参詣者が聖遺物を見られるようにとの配慮であろう.

 ゴッツォリの方は,モニカ,ゲミニアヌス(ジミニャーノ),バーリのニコラウス,フィーナ,セバスティアヌス,トレンティーノのニコラウス,大天使ラファエル(とトビアス)といった多くの聖人・天使像とともにバルトロも描いた.このうち関連する場面までも描いたのは,ラファエル,セバスティアヌス,トレンティーノのニコラウスとバルトロの4人である.

 ハンセン病と言うと,野村芳太郎監督により映画化された松本清張の小説『砂の器』などを想い出す.古典関係でもマルクス・アウレリウスの『自省録』の邦訳(岩波文庫)で知られる神谷美恵子が精神科医としてハンセン病の療養施設に深く関わったことは有名である.洋の東西を問わず,患者が社会から排除され差別される難病であったことは,人類の歴史の深刻な一面を語っている.

 日本語版ウィキペディア「ハンセン病」を読んで,ここに十全の情報があるのかどうか判断するだけの知識も能力もないが,その歴史において,医師,医学者と並んで宗教者が大きな役割を果たしたことを知ることができる.

 サン・ジミニャーノのバルトロは医師ではなく,治療を行ったわけではないし,「聖人」ではなく,「福者」に認定されたのも20世紀になってからだとしても,地元やその周辺では崇敬を受け続け,「聖人」のように遇されていた.

 このことはやはり宗教というものの一面を物語ってくれるであろう.科学が発達した現代ですら,解決できなことは数多い.今後とも宗教の持つ意味は大きいと思うが,それについては,そのように漠然と思っているだけで,深く考えたわけではない.


聖ゲミニアヌス
 意外だが,サン・ジミニャーノの名前の元となったゲミニアヌスは4世紀のモデナの司教だった人物である.452年にアッティラの率いるフン族がモデナを劫略しようとした時,神の助力を得られるようゲミニアヌスに願ったところ,雲が町を隠したので,フン族はそれを通過して,モデナは無事だったという伝説を持つ.

 ゲミニアヌスは312年に現在はモデナの一地域となっているコニェートで生まれ,397年にモデナで亡くなっているので,時代が合わないが,既に亡くなっている聖人の助力で外敵の侵入を防いだり,戦いに勝ったという聖人伝説は他にもあるので,そうした伝説の一つと考えて良いのであろう.

 ゲミニアヌスを描いた絵としては,ゴッツォリのフレスコ画の他に,タッデーオ・ディ・バルトロの祭壇画が市立博物館にあり,後者の方が古いが,聖人の死後1000年近く経ってからのものなので,もちろん,肖像性は無い.

 サン・ジミニャーノの起源は,エトルリア人が居住していた紀元前3世紀に遡る.英語版ウィキペディアによると,紀元前1世紀にローマで起こったカティリーナの陰謀に端を発する内乱を避けて,ムキウスとシルウィウスという貴族の兄弟がヴァルデルサの地にやって来て,彼らの名前からムッキオとシルヴィアと呼ばれる城砦を築き,451年のフン族侵攻の際に町を守ってくれた聖人としてゲミニアヌスを記念した教会が建てられ,町はサン・ジミニャーノと改名された,という伝承があるようだ.

 2つの城砦は地名になったわけだが,後にサン・ジミニャーノとなったのはシルヴィアの方のようだ.ムッキオの方は聖バルトロの出身地である.

 疫病,難病だけでなく外敵の侵入も,古代,中世を問わず人々の脅威であり,それらから守ってほしいという気持ちが教会の創建や,聖人の名を冠した地名に繋がっているのであろう.


もう一人の地元の聖人,聖フィーナ
 ゴッツォリは,聖バルトロの他にもう一人,サン・ジミニャーノの地元の聖人をサンタゴスティーノ教会に描いている.サンタ・フィーナだ.

 聖フィーナは,貧しい貴族の家系に生まれたが,不治の病苦,両親の死,経済的困窮の中,信仰を捨てることなく,1253年に15歳で亡くなった.病に倒れてから亡くなるまでの5年間,柔らかいベッドで寝ることを拒み,固い板の上に仰臥して祈り続けた少女は,生前既に崇敬の対象となっていた.

 フィーナの葬儀の日には多くの市民が参集したことは,ギルランダイオのフレスコ画にも描かれている.彼女の死後,病の治癒をめぐる奇跡が彼女の崇敬者の中で起こったとされることは,やはり重要なエピソードであろう.

 参事会教会には,ジュリアーノとベネデット・ダ・マイアーノ兄弟が設計を担当(1468年)したサンタ・フィーナ礼拝堂があり,聖フィーナをめぐる2面のフレスコ画「フィーナにその死を告げる聖グレゴリウス」,「フィーナの葬儀」をドメニコ・デル・ギルランダイオが描いている(1475年).

 一方,サンタゴスティーノ教会のサン・バルトロ礼拝堂は,ギルランダイオ工房のエース,セバスティアーノ・マイナルディのフレスコ画装飾,床装飾はアンドレーア・デッラ・ロッビアである.

 こうして芸術家たちの名前を並べ,実際に出来上がったものを見ると,フィレンツェのサン・ミニアート・アル・モンテ聖堂のポルトガル人枢機卿の礼拝堂の墓廟装飾が思い起こされるだろう.


フィレンツェのルネサンスへ
 「フィレンツェのルネサンス芸術」と聞いて,多くの人がまず頭に浮かべるのは,ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」と「春」であろう.「フィレンツェの」と言う枠を遥かに超えてしまっているが,ミケランジェロとレオナルドも間違いなく,「フィレンツェのルネサンス芸術」の中で才能を開花させたと言える.

 しかし,上述の礼拝堂でその実力を知らしめた,ベノッツォ・ゴッツォリとその工房,ダ・マイアーノ兄弟とその工房,デッラ・ロッビア一族とその工房,ギルランダイオ工房などの力があって,「フィレンツェのルネサンス芸術」は各地に受け入れられ,広がっていった.

 シエナの影響が強いサン・ジミニャーノにおいて,地元の人々にとって大切な聖人,福者の礼拝堂をフィレンツェの芸術家たちとその工房が制作したことは注目すべきことではないだろうか.





 もちろん,シエナ派の作品も数多く残っている.参事会教会,サンタゴスティーノ教会ではシエナ派の巨匠に次ぐレヴェルの芸術家たちの作品が見られる.

 参事会教会の壁面を飾っているフレスコ画は,後陣に向って左側が「旧約聖書の物語」,ファサード裏が「最後の審判」,右側が「新約聖書の物語」(上の写真)で,これだけ壮大な規模のフレスコ画がその町の主要教会の本堂の壁面を飾っている例を他には見たことがない.

 もっとも,私が見たことがないだけで,知っている人は容易に幾つも例を列挙できるであろうが,ここ十年でイタリアの相当数の教会を見たにも拘らず,思い当たらないのは,少なくとも希少な例であるとは言えるだろう.

 「旧約聖書の物語」はバルトロ・ディ・フレーディ,「最後の審判」はタッデーオ・ディ・バルトロ,「新約聖書の物語」はリッポ・メンミと弟のフェデリコの作品とされる.ファサード裏にはメンミ兄弟の父メンモ・ディ・フィリップッチョの作品もある.

 この中で最年長は,13世紀中ごろの生まれとされるメンモだが,それでも参事会教会の作品は1305年頃の制作とされるので14世紀に入っており,最年少のタッデーオ・ディ・バルトロの没年が1422年とされるので,概ねシエナ派のフレスコ画は14世紀から15世紀初頭に描かれたと考えて良いだろう.

 見逃してしまったが,サンタ・フィーナ礼拝堂の近くにニッコロ・ディ・セーニャがリュネットに描いたフレスコ画「グレゴリウスのお告げを受けるフィーナ」があったようだ.14世紀前半に円熟期を迎えた画家なので,ギルランダイオに百数十年先行している.もちろんギルランダイオはこの絵をサン・ジミニャーノで見て参考にしたと思われる.

 市立博物館にはタッデーオ・ディ・バルトロの祭壇画「聖ゲミニアヌスとその生涯」(1401年)があり,「塔の町」サン・ジミニャーノを膝に抱えて祝福する玉座の聖人を中心に,左右上下に2面ずつの計8面のコマ絵が描かれている.

 このうち2面は軍隊を城市から退散させている様子と思われ,そのうち1面では明らかに聖人は天使に支えられて空中浮遊している.この描き方からすると,聖人がフン族から町を守ったのは,その死後のことだったと認識されていたのではないかと想像する.自分が撮って来た写真以外に今のところ資料がないので,私の思い込みの可能性は残る.

 福者バルトロに関しては,今のところ,シエナ派が描いた絵などは確認できないが,少なくともゲミニアヌスとフィーナというサン・ジミニャーノの守護聖人をシエナ派の画家たちも描いたことはわかる.

 サン・ジミニャーノは現在シエナ県に属しており,地域的にもシエナの影響が深かったことは容易に想像されるが,一方でサン・ジミニャーノは一度もシエナに支配されたことはない.

 1260年のモンタペルティの戦いで皇帝派のシエナが教皇派のフィレンツェに勝利した時に,シエナの影響を受けた皇帝派がサン・ジミニャーノでも優勢になったと思われるが,その後,フィレンツェの巻き返しがあり,1348年の黒死病の流行でシエナ,サン・ジミニャーノが政治経済的に行き詰まり,サン・ジミニャーノは1351年以降フィレンツェ共和国の支配を受け入れるようになっていく.

 芸術面ではサン・ジミニャーノにおけるシエナ派の活躍は14世紀と15世紀初頭,フィレンツェ派の活躍は15世紀後半で,政治経済をフィレンツェに依存するようになってすぐに芸術面でもフィレンツェの影響下に入ったとまでは言えないようだが,ゴシックからルネサンスへという芸術の流行を視野に入れると,サン・ジミニャーノで見られる芸術作品に,シエナのゴシックからフィレンツェのルネサンスへという流れは明確に現れていると思う.


シエナ派の画家たち
 ギルランダイオ工房のエースの一人で,巨匠の妹と結婚して義兄弟にもなったセバスティアーノ(バスティアーノ)・マイナルディは,サン・ジミニャーノの出身である.

 参事会教会は出る時は正面からだが,入る時は拝観料を払って,ファサードに向って左側のペコリ広場に面した「洗礼盤の開廊」というロマネスクの遺構にある入り口から入る.その入り口の前にマイナルディの描いたフレスコ画の「受胎告知」がある.平凡なルネサンス絵画と見ることもできるかも知れないが,フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂に彼が遺した「腰帯の聖母被昇天」とともに,私は美しい絵だと思う.

 サン・ジミニャーノで1460年に生まれたマイナルディだが,おそらくフィレンツェで修行して,フィレンツェ周辺とサン・ジミニャーノで仕事をする画家に成長し,フィレンツェで亡くなったので,サン・ジミニャーノ出身ではあるが,フィレンツェの画家と言えよう.

 それに比して,サンタゴスティーノ教会で複数の作品を観て,その実力を知ることができたヴィンチェンツォ・タマーニは,1492年にサン・ジミニャーノに生まれ,ソドマのもとで修行し,ローマでラファエロの工房で仕事をした後,サン・ジミニャーノ,シエナ周辺に多くの作品を遺して,38歳でサン・ジミニャーノで亡くなった.今回,初めて出会った地元の画家と言って良いのでないだろうか.

 メンモ・ディ・フィリップッチョはサン・ジミニャーノで多くの仕事をし,この地で亡くなったし,息子たちもここに作品を遺したので,サン・ジミニャーノに縁の深い画家と言えるであろうが,基本的にはシエナの画家であろう.

 ヴォルテッラのサン・フランチェスコ聖堂の「真の十字架の物語」のフレスコ画のある礼拝堂で,この人の絵に初めて出会った時,上手だけれどもローカルな画家だろうと想像した.しかし,サンタゴスティーノ教会,市立博物館で見ることができる彼の作品はどれも高水準の作品で,やはり一人の画家のイメージが形成されるためには複数の作品を観ることが大事だという思いを新たにした.

 ソドマはピエモンテの出身で,レオナルデスキの時代のロンバルディア芸術の影響を受けたとされる画家なので,厳密にはシエナ派とは言えないかも知れないが,シエナを拠点に,16世紀前半のシエナ芸術を支えた.

 タマーニにソドマの影響があるのであれば,時代は下っても,サン・ジミニャーノの地元の画家にシエナの芸術の影響があったと言えるだろう.ただし,ゴシックの時代は遠く過ぎ去り,ルネサンス,マニエリスムの時代のシエナ芸術は質,量ともにフィレンツェの芸術に見劣りがする.

 もっとも,ソドマとベッカフーミは全く別格で,決してフィレンツェの画家たちに劣らないどころか,もしかしたら同時代のフィレンツェの画家たちを実力で圧倒しているようにも思える.もし,タマーニがその周辺で修行をし,ローマで一流の画家たちと一緒に仕事をして,多分もともと持っていただろう才能を活かすことができたのだとしたら,私たちはもっとタマーニについて認識を深めていくべきかも知れない.

 今回はサンタゴスティーノ教会,参事会教会,市立博物館で多くの芸術作品に接することができたが,それらの中に,シエナ派ならドゥッチョ,シモーネ・マルティーニ,ロレンゼッティ兄弟といった巨匠たち,フィレンツェ・ルネサンスの芸術家としてはボッティチェリのような有名画家の作品があるわけではない.

 しかし,リッポ・メンミ,バルトロ・ディ・フレーディ,タッデーオ・ディ・バルトロはシエナ派の一流の画家たちだし,ゴッツォリ,ピエロ・デル・ポッライオーロ,ダ・マイアーノ兄弟,ギルランダイオも間違いなくフィレンツェのルネサンスを築き上げて行った芸術家たちだ.

 市立博物館で見られるピントリッキオの「聖母被昇天」,フィリピーノ・リッピの「受胎告知」も優れた作品だと思う.

 「塔の町」と称される中世の街並みが一番の売りで,付近の同程度の規模の小都市に比べて,観光地として懸絶した人気があるサン・ジミニャーノだが,この町が持っている芸術作品を観ていると,豊かさが芸術家の選択に現れているように思える.

 今回は大聖堂の拝観券で見学できる宗教芸術博物館を見忘れてしまったし,多分,市立博物館と同じ入場券で拝観できるサン・ロレンツォ・アル・ポンテ教会にも行き損ねた.後者にはチェンニ・ディ・フランチェスコのフレスコ画,シモーネ・マルティーニ作かも知れない「栄光の聖母子」がある.次回の重要課題だ.

 サン・ジミニャーノにはもう一度行くことになるだろう.




 市立博物館が入っているパラッツォ・コムナーレに「ダンテの間」の通称を持つ部屋がある.フィレンツェから追放される前のダンテがフィレンツェ共和国の外交使節の一人として,ここを訪れたとされる.この時ダンテはまだ25歳だが,共和国の要職にあった.しかし,党争に敗れ,翌年から彼は追放の身となり, 1321年に56歳でラヴェンナで亡くなるまでフィレンツェに帰ることはなかった.

 「ダンテの間」に何かダンテの遺品があるわけではないが,1317年の完成なので,ダンテが来た時にまだ描かれていなかったリッポ・メンミの「荘厳の聖母子と聖人たち」(マエスタ)の大きなフレスコ画がある.

 シエナのパラッツォ・プッブリコに義兄のシモーネ・マルティーニが描いた同主題の作品の影響は明らかだが,5月19日にシエナに行った時にはシモーネのマエスタは修復中で見られなかった.

 リッポのマエスタはシモーネのマエスタ程の傑作ではないが,大きくて立派な絵だし,父メンモの縁もあっただろうが,これだけの仕事の担当者にリッポを選んだところに,サン・ジミニャーノの個性を感じるので,光の関係でうまく写っていないが,その写真を紹介して,サン・ジミニャーノの報告を終えることにする.

 思った以上にフィレンツェの影響を大きいことが印象に残ったサン・ジミニャーノだったが,次回はシエナについて報告する.今回の滞在で既に2回行っているので,教会篇と美術館・博物館篇の2回に分けて報告する.


5月22日‐6月14日の活動報告
 5月22日はイタリア・アマゾンで注文したプリンタを受け取るために在宅し,23日は帰国される兵藤教授ご夫妻を囲んでトラットリーア「アックァコッタ」で夕食会があり,それまでの時間は,ウフィッツィ美術館に行き,同時に開催されている3つの特別展を見学し,その後は,サン・レミージョ教会,サンタンブロージョ教会,サンタ・マリーア・マッダレーナ・デイ・パッツィ教会を拝観した.

 24日はプリンタと同時に注文したインクの配達予定日だったので在宅したが,配送業者が勝手に30日に延期し,結局30日も届かなくて,「配達先不明」と言うことで解約,返金になった.

 別の運送業者とはいえ,プリンタが届いたのに,より小さなインクを配達できないとは驚いたが,プリンタについて来たインクで当分は困らないし,返金されたので実害は無かった(2日寓居から出られなかったが,中ですることは沢山あるので,その意味で,確かに実害は無かった)ので,気にしないことにする.

 25日はコッレ・ディ・ヴァル・デルサ,26日はカンピ・ビゼンツィオ,27日はポッジボンシに行き,28日は再度カンピ・ビゼンツィオに行った後,フィレンツェで未拝観のサン・ヤーコポ教会,近くのサント・スピリト聖堂を拝観した.

 29日は今回の滞在で4度目のピストイア,30日は在宅,31日は2度目のプラート,6月1日は2度目のアレッツォ,2日はセスト・フィオレンティーノに行き,3日はフィレンツェでアカデミア美術館とカーザ・ブオナッローティ博物館を見学した.

 4日の日曜はロドルフォ・シヴィエーロ博物館,バルディーニ博物館を見学し,両者の間にあるサン・ニッコロ教会がミサの間の休憩時間だったので,うまい具合に聖具室を拝観でき,伝アレッソ・バルドヴィネッティのフレスコ画「腰帯の聖母被昇天」,ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノの祭壇画を確認した.

 5日もフィレンツェで,ホーン財団博物館を見学,6日は電車でペッシャに行き,7日は高橋教授宅で,鷺山先生とともに食事会,その前にバスでスティバート博物館に行ってきた.

 8日は寓居で仕事,9日は電車でボルゴ・サン・ロレンツォに行き,10日はバスでタヴァルネッレ・ヴァル・ディ・ペーザに行って来た.

 11日はサン・ドンニーノに行ったが,またしても空振りだったので,代わりにフィエーゾレのサン・ドメニコを拝観しようとしたが,日曜のミサで拝観できるような雰囲気ではなかった.教会としては正常なことだと思う.

 12日は,前日確認したフラ・アンジェリコの祭壇画を観に再びフィエーゾレのサン・ドメニコ教会を拝観した.2時間くらいいたが,前日とうって変わって,殆ど私一人だった.12時を回って,扉を閉めに来た男性から絵はがきを買って帰宅した.

 13日は電車とバスを乗り継いでモンテプルチャーノ,同様に14日はコルトーナに行って来たが,これらに関してはいずれ報告する.






高いところは苦手だが登る価値はある
トッレ・グロッサ