フィレンツェだより第2章
2017年6月3日



 




ビゼンツィオ川のほとり
サンタ・マリーア教会の鐘楼



§カンピ・ビゼンツィオ

カンピ・ビゼンツィオに行こうと思ったのは,サンタ・マリーア教会のサン・ヤーコポ礼拝堂にあるマリオット・ディ・クリストファノのフレスコ画を観たかったからだが,行くまでに試行錯誤した.


 カンピ・ビゼンツィオという地名は,アルノ川の支流の一つであるビゼンツィオ川の周辺に広がる平原(カンポが単数形でカンピはその複数形)という意味で,カンピ・ビゼンツィオという町は,その平原にある諸地域(フラツィオーネ)によって構成されている.

 フィレンツェ都市圏地域(以前はフィレンツェ県)に属しているが,フィレンツェとは別のコムーネ(基礎自治体)で,カンピ・ビゼンツィオという名前は19世紀からだが,ダンテの『神曲』「天国篇」(第16 歌49-51行)にカンピという地名が出てくるそうだ.

 伊語版ウィキペディアに掲載されている2015年10月31日の統計に拠れば(2017年6月1日参照),人口は4万6千241人で,思ったより多い.バスに乗った感じでは,ここに含まれていない人もかなり住んでいるのではないかという印象を受ける.

 観光地ではないので情報が少ないこと,それに付随して交通手段が不明なこと,一口にカンピ・ビゼンツィオと言っても複数の地域(フラツィオーネ)に分かれることなどがネックになって,計画は手探りだった.

 ところが,カンピ・ビゼンツィオの前に模索していたことがリンクして,思いがけず,2つの計画がほぼ同時に実行に移されることになった.


サン・ドンニーノ行きの計画
 寓居の近くのフィレンツェ・ポルタ・アル・プラート駅から,平日の8時21分にエンポリ行きの電車が出ている.出かけるには丁度良い便なので何度か利用したが,途中のサン・ドンニーノという駅の名前が気になっていた.

 聖人の名がついた町ということは,教会があるということで,そこにはもしかしたらトスカーナの隠れた芸術作品があるかも知れないと想像すると,胸がときめいた.

 ネット検索すると,サン・ドンニーノには宗教芸術博物館がある.どうやら,サンタンドレーア教会に付随する建物の中にあって,ウェブページの情報によると,ギルランダイオ工房の作品を中心に剥離フレスコ画とその下絵,祭壇画,司祭の衣裳,聖具などが見られるらしい.

 巨匠その人の作品は無いとしても,ギルランダイオ工房には大いに魅かれた.

 グーグルマップなどを参照しながら,行き方を検討したところ,サン・ドンニーノ駅から博物館までは思ったよりも遠いし,サンタ・マリーア・ノヴェッラ駅からも電車は出ているが,本数が少なく,行きは良いとしても,帰りの効率が悪くなることも分かり,バスのルートを調べることにした.

 伊語版ウィキペディアのサン・ドンニーノのページには,フィレンツェ市内を走っているのと同じATAFのバスの写真が出ていて,路線番号も35とはっきり書いてある.そこで,「ATAF linea 35」で検索すると,35番のフィレンツェ側の始発バス停はスタツィオーネ・レオポルダであることが分かった.

 スタツィオーネ・レオポルダ(レオポルダ駅)とは,フィレンツェに鉄道が敷設された時に初めて設置された駅で,1848年に完成し,リヴォルノに向かう鉄道のフィレンツェ始発駅として機能し始めたが,ルッカ,ピストイア方面の鉄道が敷設された時に,両方のターミナルとなる現在のサンタ・マリーア・ノヴェッラ駅の原型となる駅ができ,レオポルダ駅は1860年に廃止された.

 レオポルダという名称は,トスカーナ大公レオポルド2世にちなんでおり,48年にはもちろん彼が大公だった.49年にフィレンツェで共和国政府が樹立され,大公は一時国外に退去するが,オーストリアの支援で復帰した.

 しかし,高まるイタリア統一運動の嵐の中,1859年に彼は退位し,息子のフェルディナンド4世に大公位を譲ってオーストリアに移った.同年,住民投票で大公国の存続は否決され,フィレンツェはサルデーニャ王国の一部となり,1861年にサルデーニャ王を国王とするイタリア王国が成立する.

 スタツィオーネ・レオポルダにはこうした歴史的背景があり,現在はバスターミナルの名前として生き残っている.

 その,フィレンツェ最初の鉄道駅だったレオポルダ駅のすぐ近くで,現在も駅として使われているのが,寓居近くのフィレンツェ・ポルタ・アル・プラート駅である.という訳で,ポルタ・アル・プラート駅と,バスターミナルであるスタツィオーネ・レオポルダ(ATAFのページに拠ると,正式名称はレオポルダ・ポルタ・アル・プラートのようだ)は同じ空間を共有している.

 ポンテ・アッレ・モッセ通りに面して,駅への近道の扉(寓居の窓から見える)がある.10年前はいつも閉まっていたが,今はほとんど毎日開いているので,余計に利用しやすくなっている.



 前置きが長くなったが,結局,サン・ドンニーノへ行くのには,寓居近くのバスターミナルから出るバスが便利ということが分かった.生活路線なので本数も多い.大学近くのサン・マルコ広場に行く以外にあまり出番のなかったカルタ・アジーレに,ようやく活躍の機会がやって来た.

 30ユーロのカルタ・アジーレには,90分で1.2ユーロ(車内で運転手さんから購入すると2ユーロ)の30回分を割引値段にして,さらに5回分のおまけがついている.打刻する黄色い機械とは別の緑色の機械にかざして使用し,あと何回分残っているかも確認できるようになっているが,混みあったバスでは機械にかざして,ちゃんと認識されたことを確認するのが難しいこともあって,時々不安になるが,今のところ大過なく使用できている.

 イタリアのバスで何が不安と言って,車内で次のバス停の案内がないことだ.ローマは今でもそうで,フィレンツェも以前は無かったが,今は大体のバスで,音声と電光掲示で次のバス停が案内される.正直なところ,これは大変助かる.前回よりもバスの利用頻度が増えた理由の一つはこれだ.

 以前も1年住んでいたので,自分が行ったことのある辺りなら大体の察しはつくが,いくらグーグルマップで前以て確認していたとしても,初めて乗る路線で,目指すバス停を車中で認識するのは難しい.

 観光客も地元住民も溢れているローマでは,大体どのバス停でも人が乗降するので,大丈夫なことが多いが,人が乗降しないバス停も少なくないフィレンツェでは,次のバス停の知らせがなければ,乗り過ごす危険は大である.

 宗教芸術博物館の開館時間はウェブページによってまちまちだったから,最も更新が新しい情報を信じて,5月26日,スタツィオーネ・レオポルダ(レオパルダ・ポルタ・アル・プラート)8時36分発のバスで,サン・ドンニーノを目指して出発した.


サンタンドレーア教会
 生活バスに乗ると,様々な地理的,社会的情報が目と耳から入って来るが,それはまた別の機会に感想を述べる.

 9時7分に目的のバス停に着いた.降りてすぐに教会が見え,その前の広場では生活用品の市がたっていた.

写真:
サンタンドレーア教会
前に市が立っている.


 まず,宗教芸術博物館に行ったが閉まっていたので,扉の開いていたサンタンドレーア教会を拝観させてもらった.

 ギルランダイオ工房のフレスコ画(上部のリュネット部分が「キリストの洗礼」,下部が「聖母子と聖人たち」)はすぐに見つかり,他にはラファエッリーノ・デル・ガルボによるリュネットのフレスコ画「聖アルベルトと聖シジスモンド」があり,ジョヴァンニ・ディ・フランチェスコの磔刑像が中央祭壇に飾られていた.

 堂内の解説板とウィキメディア・コモンズの写真に拠れば,フランチェスコ・ボッティチーニとその工房によるリュネットのフレスコ画「全能の父なる神と天使たち」と祭壇画「玉座の聖母子と聖人たち」があるはずだったが,前者はあったが,後者は外されていた.博物館に移されたか,修復中か,特別展出張中か,特に情報はなかった.

 午前中の光でも堂内は暗く,そのせいもあって,明り取りの窓が近いところはコントラストがつき過ぎて,写真はうまく写らなかった.ラファエッリーノとボッティチーニ工房のリュネット型フレスコ画は高い位置にあったし,ガラスで保護されたギルランダイオ工房の「聖母子と聖人たち」は,堂内の椅子や反対側の壁面が映って,いくら角度を工夫してもダメだった.

 写真は諦めて,この「聖母子と聖人たち」(聖人はセバスティアヌスとユリアヌス)をゆっくりと鑑賞した.

 作者については,伊語版ウィキペディアはドメニコ・デル・ギルランダイオの作とし,堂内の解説板はドメニコと弟のダヴィデの作品とし,最も冷静な,トスカーナの小さいけれども見ごたえのある博物館を紹介している「ピッコリ・グランディ・ムゼイ」の簡潔な解説は,ドメニコ・デル・ギルランダイオ工房の作品として,作者の帰属としてはダヴィデの名前を挙げている.

写真:
ギルランダイオ工房
「聖母子と聖人たち」
(部分)


 ジョヴァンニ・ディ・フランチェスコと言う画家の作品を初めて意識して観ることができた.フィリッポ・リッピの工房にいて,アンドレア・デル・カスターニョやアレッソ・バルドヴィネッティの影響を受けているということで,1450年前後に活躍した初期ルネサンスの画家の画家ということになる.アレッツォで生まれ,フィレンツェで亡くなったとされている(伊語版ウィキペディア).

 群小画家は言い過ぎにしても,あまり有名でない人の作品の帰属には相当議論があるのだと思うが,この人の作である可能性のある作品は,フィレンツェのカーザ・ブオナッローティ,ミラノのアンブロジアーナ絵画館,リヨン美術館,ルーヴル美術館にもあるようなので,私も見た可能性があるが,撮って来た写真で確認できるのはリヨン美術館の小品「聖ヤコブ」(巡礼の杖を持っているので大ヤコブ)のみだ.

 (この報告を書いている途中(6月3日),カーザ・ブオナッローティに行き,彼の作品とされる絵を見て,写真も撮ってきた.)

 今回,郊外地域の小さな教会とは言え,ギルランダイオ工房の作品も残っている教会の中央祭壇に飾られた堂々たる十字架型彩色板絵の磔刑像を観たので,今後はできる限りフォローしてみたい.

 後期ゴシックの迫力に満ちた磔刑像と違い,繊細さを感じさせる,少なくとも私は今まであまり観たことがないタイプの磔刑像で興味深く思われる.

写真:
ジョヴァンニ・ディ・
 フランチェスコ
「磔刑像」


 サンタンドレーア教会から少し歩いたところに,おそらく地名の由来となったであろうサン・ドンニーノ・ア・カンピ教会がある.すぐ先には,サン・ドンニーノ駅から見える工場があったので,もしかしたら,鉄道駅もそう遠くないのかも知れないと思ったが,確かめていない.

 この教会は,元々古い教会で852年の記録に名前が出ているとのことだが,現在は1938年に最後の改築が行われた新しい姿で,1966年の大洪水の被害も蒙ったらしい(伊語版ウィキペディア).堂内も新しく簡素で,この教会に以前はあった14世紀後半の三翼祭壇画は,今は宗教芸術博物館に展示されている.

 「ピッコリ・グランディ・ムゼイ」では博物館にあると紹介されているマッテーオ・ロッセッリに帰せられる油彩の祭壇画「聖ドンニーノの殉教」と,最近ヴォルテッラで名前を知ったコジモ・ダッディの「嬰児キリストの礼拝」が堂内にあった.


途中で思いついて,サンタ・マリーア教会に行ってみる
 実はサン・ドンニーノは独立したコムーネではなく,カンピ・ディ・ビゼンツィオというコムーネの中の一地域(フラツィオーネ)である.したがって,マリオット・ディ・クリストファノのフレスコ画のあるサンタ・マリーア教会はサン・ドンニーノから遠くない所にあるはずだった.

 しかし,たとえ直線距離が近かったとしても,公共交通機関以外に移動の手段がない以上,鉄道やバスのルートが重要だ.

 カンピ・ビゼンツィオの中心地域がどこかも未だに把握できていないが,フィレンツェからカンピ・ビゼンツィオに属する地域に行く手段として,ATAFのバス路線があり,30番のバスで行けることが分かった.しかも,30番のフィレンツェ側の始発ターミナルも,スタツィオーネ・レオパルダだった.

 ウェブページの情報(主としてATFの路線,バス停,時刻表のページ)によると,30番には「サンタ・マリーア」というバス停があり,名前からして,ここで降りれば,そう遠くないところにサンタ・マリーア教会があると推測された.

 サン・ドンニーノでは宗教芸術博物館を見られなかったので,フィレンツェに戻る35番のバスに乗った時,正午までだいぶ時間があった.座席に腰を落ち着けるとすぐに,これらの情報を反芻した.35番と30番のバスはフィレンツェから途中のバス停(※)までは一緒で,そこから2つに分かれる.このバス停で降りて,30番に乗り換えて,サンタ・マリーア教会に今日行ってみるのはどうだろう.

 (※時刻表で確認すると共通している最後のバス停はミラージュと言うフランス語名のホテルにちなんでいるようだが,画像検索で出てくる写真が違うので,今はペンディング.)

 決心すると,分かれ道のバス停で降り,反対方向に行くバス停に向かった.30番には30Aと30Bがあり,ウェブ情報ではサンタ・マリーアまで行くのは30Bのバスだった.幾つかのバスを見送り,やって来た30Bに乗り換えた.

 生活路線らしく延々と住宅地が続き,車窓から見る限り,古い教会がありそうな地域はなかったので不安に思ったが,11時過ぎにはサンタ・マリーアのバス停に着いた.

 通りの名もサンタ・マリーア通りだったが,付近に教会の姿はなかった.ビゼンツィオ川の岸辺まで歩き,辺りを見渡すと,来た方向の川沿いに鐘楼が見えた.あそこだと思い,サンタ・マリーア通りに引き返すと,少しだけ進んで,もう一度川の方に曲がった.その先に写真で見たファサードにポルティコのあるサンタ・マリーア教会があった.

写真:
サンタ・マリーア教会


 しかし,教会は閉まっていて,外壁を工事している人たちがいただけだった.扉の前に行くと,ミサの予定があった.多くは「def.」と言う表記(※)と人名が添えてあったので,葬儀のミサであると思われた.(※ 「レクイエム」として知られる死者を弔う宗教曲は多くの場合missa pro defunctis (defuncto)である場合が多く,def.が「故人」,「物故者」を意味するラテン語のデーフンクトゥスと同語源のイタリア語デフントの省略であることは明らかだ.)

 次の日曜(5月28日)は,7時半と11時の2回,ミサがあり,前者はdef.と記されていたが,11時からのミサにはpro populoと言う「(一般の)人々のために」と言うラテン語が付されていたので,このミサの前なら,非キリスト教徒の私も拝観が叶い,写真はだめでも,もしかしたら礼拝堂の拝観くらいは許してもらえるかも知れないという希望的観測を抱いた.

 28日にもう一度来ることにして,帰りのバス停を探した.サンタ・マリーア通りは一方通行なので,フィレンツェに戻るバス停が別の通りにある筈だが,見つけられず,結局,一つ前のグラムシ広場のバス停まで戻った.(今,「グラムシ」がカタカナに一発変換しなかったので,この有名な社会主義思想家が日本では忘れられてしまったようだが,イタリアには随所にグラムシ広場,グラムシ通りがある.)

 やがて来たフィレンツェ,スタツィオーネ・レオポルダ行きのバスは,30Bではなく30Aだったし,フィレンツェに帰るバスも結局,フィレンツェにから来たバスと同じく,一方通行のサンタ・マリーア通りを通った.

 色々分からないことは残ったが,次に向けて下準備ができたということにして,気持ちを切り替え,午後になったばかりの頃,寓居の近くのターミナルに着き,スーパーで買い物をして帰宅,残りの時間は部屋で仕事をして過ごした.

 翌日の27日はポッジボンシに行って,3つの教会を拝観できたが,この報告は近々する.


再びトライ
 日曜はバスの本数が相当減るが,それでも30番は郊外の住宅地とフィレンツェを結ぶ生活路線なので,ある程度の本数は休日でも確保されている.5月28日,A,Bの区別のない8時36分発の30番のバスに乗り,グラムシ広場に9時12分に到着した.

 7時半からの葬儀がまだ終わっていない可能性もあるので,少し近辺を散策することにした.この広場の近くには,ロッカ・ストロッツィと言う要塞があって,グラムシと無関係なのは明らかだが,他に何もないこの場所では目を引く(一番下の写真).

 この要塞の外観を見学しながら,ビゼンツィオ川にかかる橋を渡ると,別の広場があり,工事中の歴史的建造物と教会があった.

写真:
パラッツォ・スパルタコ・
コンティ(右)と
サント・ステファーノ教会


 工事中の建物はパラッツォ・スパルタコ・コンティといい,かつては市庁舎だったこともあり,公共図書館だったこともあるようだが,現在,市庁舎はパラッツォ・ベニーニにあって,パラッツォ・スパルタコ・コンティにはこの基礎自治体の幾つかの部局が入っているとのことだ.

 隣の教会はサント・ステーファノ教区教会で,外観は新しいが,創建は10世紀に遡る由緒ある教会だ.扉が開いていたので拝観させてもらった.

 堂内では,パオロ・スキアーヴォ作かも知れないフレスコ画の「受胎告知」,フランチェスコ・ボッティチーニ作の可能性のある金地板絵の祭壇画「玉座の聖母子と聖人たち」,フランチェスコ・クッラーディ工房の「受胎告知」,伝マッテーオ・ロッセッリの「栄光の聖母子と聖人たち」(聖人はステパノとドメニコ),レオナルド・マスカーニの「キリスト磔刑と聖人たち」(聖人はドメニコとフランチェスコ),ヴァザーリ風に描かれた「聖体拝領を司式する教皇クレメンス11世」,ジョヴァンニ・デッラ・ロッビア工房の彩釉テラコッタの「洗礼者ヨハネ」などを見ることができた.

 伊語版ウィキペディアに紹介されている14世紀の木彫磔刑像は見られなかったし,幾つか作者名などがわからない祭壇画もあったが,由緒ある教会で,小さな集落の教会としては立派な宗教芸術を目にすることができた.

写真:
ジョヴァンニ・デッラ・
  ロッビア工房
彩釉テラコッタ
  「洗礼者ヨハネ」


 教区教会の拝観を終え,対岸のグラムシ広場に戻り,そこからサンタ・マリーア教会に向かった.10時ちょっと過ぎだったが,扉はもう開いていた.11時からのミサの準備中かと思ったが,堂内では修復工事の作業が行われていて,隣接するオラトリオでは,日本でいう日曜学校のようなものがあるらしく,両親に連れられた子供たちが集っていた.

 工事関係者に許可を得て入堂し,真っ直ぐにサン・ヤーコポ礼拝堂がある左奥に向った.

 工事の関係だろう,中央礼拝堂は布で,その他の祭壇画や木彫磔刑像は半透明のビニール・シートで覆われていて,肝心のサン・ヤーコポ礼拝堂も,上部外壁部分(そこにもフレスコ画がある)に半透明シートが掛けられていた.

 もしかしたら,サン・ヤーコポ礼拝堂もシートで覆われる直前のタイミングだったかも知れない.明り取りの窓も外からシートで覆われていて,そのお陰で,差し込む光がかえって写真写りを悪くするといったことがなかった.

 一種の興奮状態で,写真を撮り,鑑賞していたが,しばらくして工事関係者の方が明かりをつけて下さり,「どうだ,よく見えるだろう」とおっしゃった.もともとついていた明かりもあったのだが,後で撮って来た写真を確認すると,まずまずに写っているのは,新たに明かりをつけていただいた後のものばかりで,これは非常に有り難かった.

 ウィキメディア・コモンズにも大方の場面の写真があり,もともとそれを見て行きたいと思ったわけだが,それらの写真以上のクォリティの写真も何枚かは撮ることができ,大体何が描かれているかはほぼ把握できた.





 上の写真で説明すると,右壁面の壁龕になっているところに「玉座の聖母子と聖人たち」(聖人は大ヤコブと福音史家ヨハネ),その左側に「三王礼拝」,この壁面の上部リュネットに「嬰児キリスト礼拝」,正面下部は「ヘルモゲネスに洗礼を施す大ヤコブ」(左)と「大ヤコブの殉教」(右),その上の「受胎告知」が描かれている.
 
 写真にない左壁面下部には「ヘルモゲネスに取り憑いた悪魔を追払うヤコブ」(左),「ヘルモゲネスの回心」(右)と,その上部リュネットの「人々に教えを説くヤコブ」があり,交差リブ・ヴォールトには「4人の福音史家とその象徴物」が描かれている.

 狭い礼拝堂の壁面に,大ヤコブをめぐる物語と,イエスの誕生に関係する諸場面が混在しているし,ヘルモゲネスと言う魔術師が,悪魔に唆されて大ヤコブの布教を妨害しようとするが,ヘルモゲネスの弟子も,ヘルモゲネス自身も回心して,キリスト教徒になると言う伝説を知っていなれば場面全部を理解するのは難しいかもしれない.

 もちろん,魔術師ヘルモゲネスの話は聖書には典拠のない伝説で,作者が依っているのは『黄金伝説』であろうと思われるが,今,手元に『黄金伝説』がなくて参照できないので,あくまでも私の推測である.



 兎にも角にも,ようやく,サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノ出身で,マザッチョとも関係(※)があるマリオット・ディ・クリストファノと彼が率いる工房が担当したであろうフレスコ画を見ることができた.

 (※異父妹と結婚したので,年長だがマザッチョの義弟にあたると思っていたが,彼の結婚相手は,マザッチョ,スケッジャ兄弟の母の再婚相手の連れ子と言うことで,そうであれば厳密には「義弟」とは言えない.)

 2007年7月22日に,「ヴァルダルノのルネサンス」という企画の特典のバス・ツァーに申し込み,レッジェッロのカッシャ地区にあるサン・ピエトロ・ア・カッシャ教区教会に行き,彼のフレスコ画「受胎告知」を観ているが,それ以外はテンペラ板絵の祭壇画しか観たことがない.

 サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノの参事会教会附属宗教芸術博物館にあるマリオットの祭壇画は,可愛らしい顔の人物を描いた綺麗な絵だが,頭部と身体部分のバランスが悪く,写実性を備えたルネサンス絵画には見えない.

 しかし,今回観ることができたフレスコ画は,決して上手な絵ではないにせよ,身体のバランスも良く,写実性も感じさせ,マリオットの絵に対する私の先入観を一掃するものであったように思う.

写真:
マリオット・ディ・クリストファノ
「聖母の物語」
アカデミア美術館


 今日,見学したフィレンツェのアカデミア美術館には,マリオット・ディ・クリストファノの作とされる板絵が1点だけある.三翼祭壇画の形にまとめられた「聖母の物語」で,聖母の生涯が6分割されたコマ割りで描かれていて,一見してサン・マルコ旧修道院博物館にあるフラ・アンジェリコの「銀器戸棚の扉」を思わせる.

 実際に影響を受けたと考えられているようで,マリオット・ディ・クリストファノとフラ・アンジェリコという今まで考えても見なかった人物たちの影響関係に思いが至る.

 古臭い絵を,ぎこちなく描いたが,何となく好感が持てると思っていたマリオット・ディ・クリストファノが,実は1457年まで生き,フラ・アンジェリコの影響も受けたルネサンスの画家だったことに今更ながら気づいたように思う.そう思わせてくれたのは,カンピ・ビゼンツィオのサンタ・マリーア教会の礼拝堂のフレスコ画と,アカデミア美術館の祭壇画だ.

 カンピ・ビゼンツィオの諸教会を訪ねることができて,ささやかだが達成感が得られた.この達成感が,古典学徒としての自分の人生に意味があるかどうかは,今後の課題だ.ともかくカンピ・ビゼンツィオに行くことができて良かった.

 次回は,サン・ジミニャーノの報告を予定していたが,6月2日にカンピ・ビゼンツィオの隣町セスト・フィオレンティーノに行き,見たいと思っていたものを見ることができたので,そちらの報告を先にする.






川の両側に町が広がるカンピ・ビゼンツィオ
東にセスト・フィオレンティーノ
西にポッジョ・ア・カイアーノ