フィレンツェだより第2章
2017年6月5日



 




クィント・アルトからフィレンツェを望む
背にした山の向こうはボルゴ・サン・ロレンツォ



§セスト・フィオレンティーノ

カンピ・ビゼンツィオという基礎自治体は,フィレンツェ都市圏地域のほぼ西端に位置し,西隣はプラート県の基礎自治体で,メディチ家の別荘があることで有名なポッジョ・ア・カイアーノ,東隣は一部フィレンツェ市(便宜的にコムーネを市とする)に接しているが,最も長い境界線を共有するのはセスト・フィオレンティーノである.


 セスト・フィオレンティーノもフィレンツェ都市圏地域に属しており,伊語版ウィキペディアに拠れば,2015年の1月1日の人口は4万8千946人(2017年6月4日参照),この都市圏地域で1位のフィレンツェ市(38万人強)とはだいぶ差があるが,スカンディッチ(5万557人)に次ぐ第3位の人口を擁している.

 第4位はカンピ・ビゼンツィオで,いずれの場合も,フィレンツェ市に距離的に近いことが,人口が多い主要な理由であろう.

 10年前,帰国を目前にして,こちらで購入した本をサッコ・エンメ(sacco M / m-bags)で日本に送ろうと,中央郵便局に相談に行ったことがあった.サッコ・エンメ(Mバッグ)という書籍限定の安い便があることは人づてに聞いて知っていた(今も日本から海外のアマゾンに書籍を注文すると,しばしばMバッグで届く).

 担当の男性局員にどうすれば良いか尋ねると,「サッコ・エンメは送れない.それはセスト・フィオレンティーノ」と言われた.セスト・フィオレンティーノが地名であることを知らなかったので,フィレンツェの6番目とは何だろうと,訳が分からないまま,取り扱ってないことだけを理解して引き下がるしかなかった.

 後日,ピサ方面に向かう電車の主要駅であるフィレンツェ・リフレーディの先の駅名がセスト・フィオレンティーノだったので,町の名前と分かったが,そこまで重い荷物を持って行く手段もないので,サッコ・エンメで送ることは諦めた.この一件で,「セスト・フィオレンティーノ」(以下,セスト)という固有名詞は深く記憶の中に刻まれた.


セスト・フィオレンティーノ行きを模索
 しばらく前に,日本でインターネット書店ウニリブロから,『セスト・フィオレンティーノのサン・マルティーノ教区教会のアーニョロ・ガッディの十字架』という本を買ったが,ちゃんと読まないまま,茅屋の書架に眠らせている.

 それでも何度か眺めた記憶はあって,「確か,セスト・フィオレンティーノにタッデーオ・ガッディの磔刑像があったはずだ」と思い出し,近いし,電車で行けるし,その教会が駅から遠くない線路沿いにあることは,ピストイアからの帰りの車窓から確認済みなので,セストに行って見ようかという気になった.

 伊語版ウィキペディア等を調べて,まず「タッデーオ・ガッディ」は「アーニョロ・ガッディ」の記憶違いであることに気付いたが,タッデーオとアーニョロの親子に関してはどちらの作品も好きなので,それで行く気を削がれることは全くなかった.

 他にも観るべきものないかと,伊語版ウィキペディアでセストの教会を調べていると,サンタ・マリーア・ア・クィント教会にスピネッロ・アレティーノの三翼祭壇画があるという情報を見つけた.スピネッロの名前が出てきた以上,これはもう行くしかなかった.

 2つの教会はいずれも,基礎自治体としてはセストに属しているが,鉄道駅から近いサン・マルティーノ教区教会はともかく,サンタ・マリーア・ア・クィント教会の方は,駅から遠く,山に登る坂道をかなり進んだところにある.

 フィレンツェ・リフレーディ駅とセスト・フィオレンティーノ駅の間には,カステッロとザンブラという2つの駅がある.まず,ザンブラ駅まで電車で行き,線路沿いにあるサン・マルティーノ教区教会を見て,そこからサンタ・マリーア・ア・クィント教会に歩いて向かうことにして,グーグル・マップを見ながらルートを検討した.

 ザンブラ駅からグラムシ通りまで出て,左折してストロッツィ通りに入り,カステッロ通りと交わるところで左折して坂道をしばらく登ると,サンタ・マリーア・ア・クィント教会が見えるはずだ.




 このルートを検討していて,カステッロ駅からのルートはどうだろうかと思い始めた.カステッロ駅で降りた場合は,まず北進してグラムシ通りに出て,グラムシ通りをちょっと西に行くと,右手に山の方に向かう小さなタッデーオ・ガッディ通りがある.それを右折して直進するとカステッロ通り出て,後はそれをまっすぐ登れば良い.

 こちらの方が良いと思い直し,カステッロ駅で降りるコースを第一候補とし,うまくサンタ・マリーア・ア・クィント教会が拝観できたら,次はザンブラ駅まで下り,ザンブラ駅とセスト駅の間にあるサン・マルティーノ教区教会に向かうことにした.


セスト・フィオレンティーノ行きを決行
 6月2日金曜日,8時過ぎに寓居を出発し,サンタ・マリーア・ノヴェッラ駅に向かった.いつもはビュンビュンと車が走る一方通行のポンテ・アッレ・モッセ通りは閑散としていて,バス停にも人影がない.この様子に,もしかしたら休日ではないかという考えが頭をよぎった.

 駅まで行くと,さすがに人が溢れていたが,乗車券を買おうと自動券売機で行き先を入力すると,案の定,電車の選択肢が少ない.カステッロ駅に止まる電車は平日でも少ないようだが,この日は,次は午後1時過ぎだった.これは論外なので,ザンブラ駅を選択すると,これは9時ちょっと過ぎの電車が提示された.片道1.5ユーロだ.

 それでも30分くらい待つので,念のため,バスはどうかと,駅近くのバス停を探した.

 伊語版ウィキペディアのセストのページに,フィレンツェからはATAFの2番,28番,57番が通っているとあったので,バスの場合も検討し,グーグル・マップで,グラムシ通りにある幾つかのバス停のうち,クィント・バッソというバス停が最寄りであると見極めていた.

 2番のバス停を見つけて,時刻表を確認していると,年配の女性が,今日はこっちよ,と下段の休日用時刻表を指さして下さった.この日は「共和国記念日」という,敗戦後の1946年国民投票で王制の廃止が決まり,「イタリア共和国」が誕生した祝日だった.

 確かに本数は少なかったが,電車の時間よりも20分近く早く出て,少なくとも駅からグラムシ通りまでの距離は節約できるので,結局,バスを選択した.

 カルタ・アジーレを読み取り機にかざし(緑の専用機だけでなく,黄色の打刻用の機械もカルタ・アジーレを読み取るようだ),空いていた席に座って,車窓から街の風景を眺めながら,セスト方面に向かった.

 2007年当時,ポンテ・アッレ・モッセの今と同じ寓居に引っ越す前に,ヴェンティ・セッテ・アプリーレ通りのアパートに4か月ほど住んでいた.その時の買い物は,遠くのレオポルド広場にあるCoopまで歩いて通っていた.2番のバスはレオポルド広場まで,私たちがまさに買い物に通った道を通ったので,記憶が鮮明に甦り,懐かしかった.



 工事中のルート変更で少し渋滞していたところもあったが,バスは順調に進み,電光掲示も音声案内もあったので,「グラムシ通りクィント・バッソ」で無事降りた.

 ところが,ここで失敗した.バス停はタッデーオ・ガッディ通りを過ぎたところにあり,少し戻って,予定通りタッデーオ・ガッディ通りを行けば良かったのに,先に進んでも山の方に向かう道があるだろうと勝手に思い込んで,セスト方面に歩き出したら,ストロッツィ通りまで山の方に向かう道はなかった.

 仕方がないので,ここからはザンブラ駅コースでサンタ・マリーア・ア・クィント教会を目指した.「~通り」といっても,都市部と違って人家も少なければ,道も入り組んでいない.どこで曲がるか,どちらに進むかを前以て確認していれば,教会に辿り着くのは難しいことではない.

 歩いている途中,鐘の音が聞こえてきていたので,方向は間違っていないという確信はあったが,平地なら見えるであろう鐘楼の姿が最後まで目に入らなかった.鐘楼は教会の正面に立って,初めて確認できた.

写真:
サンタ・マリーア・
 ア・クィント教会


 着いたのは9時40分くらいだったが,教会の扉は開いていなかった.ミサの予定を書いた張り紙がないか探したが,張り紙は地域の方のお掃除当番の一覧表だった.

 扉の横の壁に上部を切り取った箱が取り付けられており,薄い冊子が入っていた.手に取ると,神父様が教義の説明をしたパンフレットで,最後の4ページ目に5月6日から6月4日までの予定表が付されており,6月2日(金)は11時からミサがあるとされていた(messa con lodiと言うのは「アヴェ・マリア」など神や聖母への賛辞を一緒に唱えると言うことだと推測した).

 カンピ・ビゼンツィオのサンタ・マリーア教会の扉の予定表で見たdef.の略語と故人名の記されたミサは別の日にあり,「(一般の)人々のために」と考えられるpro populoと記されたミサは日曜の11時からであった.この日の11時からのmessa con lodiが,どのような性質のものか分からなかったが,ダメもとで,ミサの時間を待ってみることにした.

 それまでの時間,さらに山の方に歩いて行き,眺望の開けたところではそれを愉しみ,鳥の声に耳を傾け,花の美しさに心打たれながら,小道の散策を楽しんだ.

 その先に「エトルリアの墳墓」とか「サンタ・ルチーア・アッラ・カステッリーナ修道院と教会」などがあることを示す心惹かれる標識もあったが,教会が開いたらすぐに入って,ミサが始まるまでは,どうにか拝観させてもらうつもりだったので,10時を告げる鐘の音を聞いて,教会の前に戻った.


サンタ・マリーア・ア・クィント教会
 10時の鐘は鳴ったが,教会はまだ開いていなかった.それでも,教会の扉の前で待っている人たちもいたので,低い縁石の日影になったところに腰掛けながら,パンフレットの神父様の文章を読み始めた.

 『創世記』1章26節と27節で,神が自分の姿に「かたどり」,「似せて」人間を創造したと言っている箇所から神の「似姿」という考えを論じたもので,ギリシア哲学の思想,ギリシア語の用語,ギリシア語とラテン語で著述した古代教父たちの著作を援用しながら,真剣に論じている姿勢に,イタリア語が不自由なので思い込みもあるかも知れないが,感銘を受けずにはいられなかった.

 日本の地元密着型の寺院で,住職が漢訳仏典の意味やサンスクリットの用語を並べながら法話に活かし,その考えを述べたパンフレットを配布してまで熱心に仏教の教義を説くと言うことがあるのだろうか.勿論,あるかも知れないし,あるいは,地元の善男善女にとって分かりやすいことを第一に考えて,学識があることをひけらかすような法話はしないのかも知れない.

 扉は10時45分に開き,神父様が出てきた.待っていた熱心な信者と私が思っていた人たちは,何かの仕事の報酬だろうか,神父様からお金を受け取り,そのまま帰って行った.

 一人になった神父様に,「フィレンツェからスピネッロ・アレティーノの祭壇画を見せていただきに来たのですが,ご許可いただけますか」と思い切って話しかけた.

 その際,余計なことかとは思ったが,パンフレットを示し,「神父様はこの文章を書かれたカルロ・ナルディ師ですか」とお聞きすると,「そうです」とお答えになったので,「イタリア語が不自由なので,うまく言えませんし,不十分な理解しかできていませんが,私もギリシア語を学んで,日本の大学で教えてもいます.現在は,フィレンツェ大学に招聘してもらって,一年間の勉強の機会をいただいています.スピネッロ・アレティーノの祭壇画があると知って,ここまで来たのですが,この文の中のギリシア思想への言及に驚き,熟読せずにはいられませんでした」と申し上げた.

 神父様は静かに,「自分も大学でギリシア哲学とギリシア語を学びました」とおっしゃった.

 なにがしか共感を持たれたのか,あるいは心の広い方で,ギリシア語の話とは無関係に遠来の異教徒の希望を叶えて下さろうと思ったのかは分からないが,中央祭壇前の右壁面に飾られたスピネッロ・アレティーノの三翼祭壇画「玉座の聖母子と聖人たち」を示し,その向かい側の壁にある「受胎告知」を指して,「マドンナ・ストラウスの親方」の作品であることをご教示下さり,中央祭壇の磔刑像は20世紀のジノーリ製の陶器であることなどを丁寧にご説明下さった.

 「写真を撮っても良いですか」と聞くと,「どうぞ撮ってください」とおっしゃって,一旦,聖具室に戻り,ひとしきり書類や本のある場所を探した後,スピネッロの祭壇画が修復された際に専門家がまとめた立派な解説冊子(ナルディ師への謝辞も記されている)を2冊持って来て,「これはあなたに差し上げるので,もう1冊は,日本の誰か関心のある友人にあげてください」と言って,お渡し下さった.

 解説冊子を手にしているのを見て,「ああ,あれを下さらないかな」と思った自分の浅ましさはさておいて,この短いやりとりに感動した.

 神父様は,なおも私に語りたがっておられるように見えたが,本気で語り始めたら,イタリア語,ギリシア思想,キリスト教神学の全ての点で,私には理解できないことは容易に想像されたし,何よりも,ミサのために地元の皆さんが参集し始めておられたので,お礼を述べ,喜捨箱に貧者の一灯を投じて,辞去した.地元の年配男性が私に笑顔で手をふって下さった.

写真:
神父様にいただいた
パンフレット


 この教会にあったスピネッロの三翼祭壇画(聖人は向かって左からペテロ,ピリポ,ラウレンティウス,大ヤコブ)には,ラテン数字で1393年と言う記銘(数字以外はイタリア語)があり,1410年に亡くなったスピネッロの晩年ではないが,後期の作品と言えよう.

 サン・ミニアート・アル・モンテ聖堂の聖具室のフレスコ画「聖ベネディクトの物語」が1388年であれば,この祭壇画を描いた時は既に巨匠としての名声を確立している.フレスコ画ではないので現場まで足を運ばなくて良いとしても,大都市から離れた集落の小さな教会のために,この祭壇画を描いたかどうか疑問に思う.

 ヴァザーリの「スピネッロ伝」に,彼がフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂のマキアヴェッリ礼拝堂のために描いた祭壇画にピリポとヤコブが登場するとあることから,以前はマキアヴェッリ礼拝堂の祭壇画に同定されていたが,解説冊子の説明では現在はそうではないと考えられている.

 別の出自は示されていないが,カステッロ通りを挟んでサンタ・マリーア・ア・クィント教会の横にあるサン・ポティートもしくはミゼリコルディア同信会の1848年の所蔵品記録にこの祭壇画が載っており,この時点にはクィント地区にあったことになる.

 20世紀になって,教会の堂内に移され,3度場所が変わったが,1927年から現在の場所にあるということのようだ.

 サンタ・クローチェ聖堂から移されたものではないとしても,多分,当時は有力だった教会のために描かれ,ゴシック絵画の評価が最低だった時期に,この祭壇画を引き取ったのが,この地区と同信会と教会だったということだろうか.

 ルッカのグィニージ絵画館,ピサのサン・マッテーオ絵画館,フィレンツェのアカデミア美術館で,彼の祭壇画を観ており,エルミタージュ美術館では三翼祭壇画の一部を観ているが,教会で彼の祭壇画を観るのは初めてのことではないだろうか.この教会の祭壇画はスピネッロの最良の絵ではないかも知れないが,教会に飾られてこそ,本来の美しさが輝く作品に思われた.

 撮影しにくい高い場所にあったので,満足のいく写真は1枚も撮れなかったが,それでも大いなる満足感とともにサンタ・マリーア・ア・クィント教会を辞去した.





地名に残る名残
 教会の名前に最後に付されるクィントは「5番目の」という意味で,このあたりの地区をクィント・フィオレンティーノと言うようだ.教会のある小高い地域がクィント・アルト(高地クィント),バス停のあたりがクィント・バッソ(低地クィント)だ.セスト・フィオレンティーノという自治体を構成する地域(フラツィオーネ)ではなく,地区(クァルティエーレ:英語のquarter)の名称のようである.

 セスト・フィオレンティーノという地名のセストは「6番目の」という意味で,最初は,中世にフィレンツェ共和国の支配を受け入れた6番目の地域といった意味かと思ったが,どうも違うらしい.

 地名の起源は古代に遡り,ラテン語のセクストゥス・アブ・ウルベ・ラピスという名称が語源で,直訳すると「町から6番目の石」となる.「石」は里程標を意味しているのであろう.

 「町」を意味するラテン語のウルプス(辞書登録形の主格形で,前置詞アブの被支配格である奪格形がウルベ)は,通常はローマを意味しているが,この地方はローマから遠いので,「町から6番目の石」の「町」は,エトルリア時代からの由緒ある町ファエスラエ(フィエーゾレ)か,ユリウス・カエサルが退役軍人のために建設した植民都市フローレンティア(フィレンツェ)を意味しているかも知れない.

 里程標の名残の地名はセストやクィントだけではなく,テルツォッレ(「3番目」はラテン語でテルティウス,イタリア語ではテルツォで,そこから派生),クァルト(「4番目の」と言うイタリア語で,ラテン語ではクァルトゥス),セッティメッロ(「7番目の」を意味するラテン語のセプティームス,イタリア語のセッティモから派生)などに反映している(伊語版ウィキペディア).

 コムーネのセスト・フィオレンティーノ,地区名のクィント・フィオレンティーノに,フィオレンティーノ「フィレンツェの」という形容詞が付されるのは,「フィレンツェのある平原」(ピアーナ・フィオレンティーナ)にあるからか,やはりある時期から「フィレンツェ共和国」(レプッブリカ・フィオレンティーナ)の支配領域に入ったからかは,今のところペンディングである.


サン・マルティーノ教区教会
 サンタ・マリーア・ア・クィント教区教会から,今度はタッデーオ・ガッディ通りを下って,グラムシ通りに出た.平日のようにバスの本数があれば,もう一度バスに乗って,ザンブラ駅近くまで行くという選択肢もあったが,ともかくザンブラ駅までは歩くことにした.

 行き過ぎて戻ったりしたので多少時間はロスしたが,鉄道沿線に出て,ガリレオ・ガリレイ通りをセスト駅に向かって歩き,サン・マルティーノ教区教会に着いた.正午をかなり過ぎていたので,拝観はほぼ諦めていたが,扉は開いていた.

写真:
サン・マルティーノ教区教会


 ここでは何よりも,アーニョロ・ガッディの彩色板絵の十字架型磔刑像をじっくり観た.

 この磔刑像の存在感は圧倒的だが,新しい外観にもかかわらず,堂内に残るロマネスクの基本構造は,一部とはいえ,ゴシック末期磔刑像よりも古い時代の名残を見せている.

 ロレンツォ・ギベルティの影響を受けた無名の彫刻家による木彫の「聖母子」はまずまずの作品に思えた.堂内の柱には聖人のフレスコ画が残っているが,時代はまちまちで,比較的新しいフレスコ画の聖人像から離れたファサード近くの柱には,ギルランダイオ工房の聖人像のフレスコ画があった.

 2013年の倒産が大きな話題になったが,再出発を模索している高級磁器で世界的に有名なリチャード=ジノーリの本拠はセストであり,工場も記念博物館もある.

 サンタ・マリーア・ア・クィント教会の中央祭壇の磔刑像は,神父様のご説明に拠れば,ジノーリ製とのことであったが,サン・マルティーノ教会にも,ロッビア風に造られたジノーリ製の「受胎告知」,「聖母子」,祭壇画風の「十字架を担うキリストと聖人たち」(聖人は洗礼者と福音史家の両ヨハネ)などが見られた.

写真:
アーニョロ・ガッディ
「磔刑像」


 昼なお暗い堂内で,アーニョロ・ガッディの磔刑像を長い間見つめながら,この日の幸運を反芻した.

 私は今までの人生で「神父様」と言う用語を使ったことが無いが,深い学識と立派な人格を備えながら,むしろそうであればこそ,大司教や枢機卿といった栄達とは無縁に,齢70にして教区司祭としての務めを誠実に果たしておられるカルロ・ナルディ師は,「神父様」としか言いようのない風格のある方だった.

 ローマ・カトリックだけでなく,宗教と言うものが持つ,様々な面について考えさせられた.

 やはり休日ダイヤのせいで,少し待つことになったが,セスト・フィオレンティーノ駅から13時半過ぎのヴィアレッジョ発フィレンツェ・サンタ・マリーア・ノヴェッラ行きのローカル線で帰った.この電車もザンブラとカステッロには停まらなかった.

 次回こそ,サン・ジミニャーノの報告をし,その後,シエナ2回,コッレ・ディ・ヴァル・デルサとポッジボンシを1回ずつの予定である.






通りの先にジノリの工場
セスト・フィオレンティーノという町