フィレンツェだより第2章
2017年5月30日



 




ジュリオ・ロマーノ「聖会話」
サンタ・マリーア・デッラニマ教会



§ローマ行 (その3) 教会篇 後篇

駅のすぐ近くにあるにも拘らず,あるいは駅のすぐ近くにあるからなのか,宿の朝食は8時という遅い時間だった.オスティアに行く5月4日,朝食前の時間を利用して,7時から開いている近くのサンタ・マリーア・マッジョーレ聖堂を拝観した.


 教皇がミサを司式する格の高い聖堂なので,テロの標的になる恐れがあるのだろう,機関銃を携えた大男のイタリア人兵士たちが警備にあたっており,荷物検査を経た上で入堂が許された.


サンタ・マリーア・マッジョーレ聖堂
 最も見たかったのは,古代末期(5世紀)に遡るとされるモザイク群だが,巨大な堂内の高いところにあって,肉眼でもよく見えない.コンデジでピントの合った写真がとれる距離ではないが,それでもカメラを向けないではいられなかった.

 後陣の半穹窿天井の前方の上部壁面がアーチ型(「凱旋門」と同じイタリア語,英語で,日本語では定訳かどうかわからないが,「勝利門」と訳されるようだ)になっていて,その壁面に聖書を題材にした話がモザイクで描かれており,左側には「受胎告知」とされる場面がある.

 この「受胎告知」は,玉座の聖母に天使がお告げをしており,私たちがよく知っている図像とかなり違うように思われる.オートでズームして撮ったにしては,朝の光が良かったのか,思ったより良く写ったので紹介する.

写真:
「受胎告知」のモザイク
(上段)


 この聖堂のモザイク作品としては時代がだいぶ下るが,13世紀のフィレンツェの芸術家ガッド・ガッディ作かもしれない「玉座で祝福するキリストと天使たち」(伊語版ウィキペディア「フィリッポ・ルズーティ」ではフィリッポの作品)がファサード上部の開廊(ロッジャ)にある.

 後陣の半穹窿天井には,ヤコポ・トッリーティの「聖母戴冠」があり,その周辺に同じ作者のモザイク「受胎告知」,「イエスの誕生」,「聖母永眠」,「三王礼拝」,「イエスの神殿奉献」がある.このうち「受胎告知」の写真を紹介する.

写真:
ヤコポ・トッリーティ
「受胎告知」


 トッリーティのモザイクは,1296年に完成したと考えられており,この時代のモザイクの「受胎告知」は,サンタ・マリーア・イン・トラステヴェレ聖堂でピエトロ・カヴァッリーニ作とされる作品を観ているが,トッリーティの作品が僅かに先行していると考えられている(伊語版ウィキペディア).

 もちろん勝利門の方に残る「受胎告知」とされるモザイクは,本当に5世紀の作品であれば,トッリーティやカヴァッリーニの「受胎告知」に先行すること800年,大変貴重な作例であることがわかる.

 身廊上部側壁を飾る,旧約聖書を出典としたアブラハム,ヤコブ,イサク,モーセ,ヨシュアの物語のモザイクの全てをコンデジ,オート,ズームで撮った.明り取りの窓が近い箇所で,日の射し込み具合によって,良く写ったもの,かえって良く写らなかったものなど様々だった.

 絵柄に関しては,正直なところ勉強が足らず,理解できていないので,今後の課題とする.

 教会の基本構造は古代末期のバジリカ式だが,大きな修復,改築を経ており,外観も堂内もバロック以降の建築のような印象を受ける.古いモザイクが残っているとは言え,殆どが17世紀以降の画家,彫刻家,建築家の作品である.

 ファサードの設計は18世紀のフェルディナンド・フーガで,彼は家系的にはヴェネツィアのムラーノ島に出自を持つが,本人はフィレンツェに生まれ,フィレンツェで修行した建築家だ.ローマでは,他にサンタ・チェチーリア・イン・トラステヴェレ聖堂のファサードを設計している.

 フーガの作品は,美しい均整を実現した見事なものであるが,ローマに古代,中世の遺産を期待する者にとっては,少し期待を裏切られたような気持を起こさせる.建築の専門的知識の無い私たちがそこに鑽仰の念を抱くには,もう少し時代を経る必要があるようにも思う.

 しかし,この教会の床に残るコズマーティ装飾は素晴らしい.隠れていない部分の床を殆ど写真に収めたが,あまりにも大規模で,全体を把握できない.様々な模様の部分,部分を観ているうちに,ローマ芸術の長い歴史の中でも,コズマーティ装飾は最高傑作ではないかと思えてくる.



 あっという間に8時近くになった.ともかく朝食を食べてオスティアに行かなければならないので,宿に戻りつつ,近くのサンタ・プラッセーデ聖堂が7時半から開くと言う情報を信じて行ってみたら,開いていた.

 この教会は2007年10月にフィレンツェからローマに行った際に拝観したので2度目になる.最初の拝観の報告を比較的詳しく書いていて,今回はそれに付け加える新しい知見はないので,報告は控える.

 悔やまれる点は前回も,今回も地下教会に残る古代石棺の確認を怠ったことだろう.この教会もコズマーティ装飾の床が見事で,ほれぼれする.


サン・サルヴァトーレ・イン・ラウロ教会
 ローマに到着した初日(5月2日),サンティッシマ・トリニタ・デイ・ペッレグリーニ教会を拝観した後,教会の昼休みの時間をうまく使おうと思い,シスト橋を渡って,テヴェレ川を越え,コルシーニ宮殿に向かった.

 前回報告したように,「今日はもう閉めるが,明日はこの時間も開いているので,明日来い」と言われ,仕方なく,マッツィーニ橋を渡って,幾つか教会のあるジュリア通りを北進し,大きなヴィットリオ・エマヌエーレ2世通りを超えて,コロナーリ通りを東進したが,夕方にはまだ間があって,どの教会も開いていなかった.

 サン・サルヴァトーレ・イン・ラウロ広場にたどり着いた時,同名の教会(以下,ラウロ教会)の扉が開いていた.この教会に関しては全く予備知識が無かったが,暑い中,途方に暮れていたので,中に入ることにした.

 ローマに良くあるバロック教会かと思ったが,大きなファサードに豪華な感じが無く,非常にすっきりとした幾何学的な装飾との印象を受けた.

 もともとの設計は,オッタヴィアーノ・マスケリーノとされる.1536年にボローニャで生まれ,1606年に亡くなったので,バロックの建築家としては初期の人だと思うが,最初に造られたバロック様式の教会がジャーコモ・デッラ・ポルタ設計のジェズ教会で,その完成が1580年であれば,一応,バロックの建築家と言えよう.デッラ・ポルタの方が3歳年長である.

写真:
サン・サルヴァトーレ・
イン・ラウロ教会


 ファサードはカミッロ・グリエルメッティという19世紀の建築家によるもので,この建築家については今のところ情報が得られないが,新古典主義建築が流行した時代の人と考えられる.であれば,ファサードが妙にスッキリしているのも納得が行く.

 しかし,堂内は,やはり過多な程の装飾が施されたバロック教会であった.

 堂内に解説板が無かったので,係の年配女性から喜捨で頂いた絵はがきを参照し,絵画作品を確認すると,有名画家としてはピエトロ・ダ・コルトーナの「イエスの誕生」,既知の画家の作品としては,ヴェローナで出会った画家アレッサンドロ・トゥルキの「カルロ・ボッロメーオと栄光の聖母子」,シエナ出身のアンティヴェドゥート・グランマティカの「天使に拠る聖ペテロの牢獄からの救済」があった.

 その他の画家は全て初めて聞く名前だ.ジョヴァンニ・ペルッツィーニピエール・レオーネ・ゲッツィという名前は一応,記憶しておきたい.

 伊語版ウィキペディアには彫刻家の名前が挙げられているが,残念ながら彫刻に関しては写真も撮っていないし,見た記憶がない.


特別展「クリヴェッリからルーベンスまで」

 拝観を終えて外に出て,改めてファサードを眺めながら,ふと,下がっていたバナーに目をやった.市内のあちこちで見かける「カラヴァッジョからベルニーニまで」という特別展のバナーと思っていたら,「クリヴェッリからルーベンスまで」という別の特別展のバナーだった.

 何で,教会が特別展の宣伝をしているのだろうと不思議に思ったが,どうやら,教会の隣の旧修道院が会場になっているようだ.折角なので,思い切って入ってみた.

 2016年,2017年の大地震で,イタリア中部は大きな被害を受けたが,その一都市にマルケ州のフェルモがある.この特別展は,フェルモとその周辺地域の教会と博物館から,少数ではあるが厳選された作品を持ってきて,入場無料にすることで,できるだけ多くの人に見てもらい,被災地への関心を喚起し,いくらかの募金を集める意図で開かれたものであった.

 すばらしい特別展であったが,それとは別に,勿論,貧者の一灯を募金箱に投じさせていただいた.

 最初の部屋には,ルーベンスとピエトロ・ダ・コルトーナの「牧人礼拝」,バチッチャの「イエスの誕生」と,バロックの大物画家たちのほぼ同主題の作品3点があった.ルーベンスはフェルモの市立絵画館,バチッチャは同地のサンタ・マリーア・デル・カルミネ教会にある作品である.

 不思議だったのは,ピエトロ・ダ・コルトーナの作品だ.もともとラウロ教会の所蔵で,特別展の前に堂内でこの絵を観て,写真にも収めていた.特別展に出ている以上,教会の堂内にある絵はコピーと言うことになるが,隣の建物に本物があるのに,わざわざコピーを作るだろうか.

 しかし,両方本物と言うことが考えにくい以上,堂内で観た作品はコピーだったと思うしかない.

 階段を下りた先の展示室には,カルロ・クリヴェッリの「玉座の聖母子と聖人たち」(マッサ・フェルマーナ,サンティ・ロレンツォ・シルヴェストロ・エ・ルフィーノ教会),「サン・ベルナルディーノ」(アスコリ・ピチェーノ,市立絵画館)の他,カルロの弟ヴィットーレの複数の作品や,オッタヴィアーノ・ドルチ,ジュリアーノ・プレズッティ,ピエトロ・アレマンノの祭壇画が1点ずつ展示されていた.

 5月23日にウフィッツィ美術館に行き,同趣旨の特別展を観たが,そこでもクリヴェッリ兄弟の作品が展示されていた.兄と弟では実力に相当な差があると感じる作品が多かったが,ラウロ教会旧修道院の特別展で観たヴィットーレの作品は,偉大な兄には及ばないまでも,見事な出来のものばかりだった.

 この特別展を観られたのは僥倖だった.バロック絵画に関しては,諸方で似たような水準の作品に出会えるが,マルケ州の小都市の教会にあるカルロ・クリヴェッリの祭壇画は,余程の幸運に恵まれない限り見る機会はないだろう.

 もちろん有名画家なので,画集でその写真を見ることはできるだろうが,実物を間近に見られるのは貴重な体験だ.生涯ただ一度の巡り合わせと思い,ゆっくりと鑑賞した.

写真:
「玉座の聖母子と聖人たち」
カルロ・クリヴェッリ



サンタゴスティーノ教会
 サンタゴスティーノ・イン・カンポ・マルツィオ聖堂,サン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会で,それぞれカラヴァッジョの作品に再会し,堂内で見られる全作品を確認し,丁寧に鑑賞した.

 今回の成果は,サンタゴスティーノ教会に複数あるランフランコの作品を確認できたことだ.

 まず,右翼廊のサンタゴスティーノ礼拝堂には,グエルチーノの「洗礼者ヨハネと隠修士パウロの間の聖アウグスティヌス」の左右に,「巡礼者の姿のイエスを迎え入れる聖アウグスティヌス」と「異端を撲滅する聖アウグスティヌス」がある.

 左翼廊のサンティ・アゴスティーノ・エ・グリエルモ礼拝堂は全て彼の作品で,「聖母戴冠と聖アウグスティヌス,聖グリエルムス」,「聖母に見舞われる聖グリエルムス」,「三位一体を観想する聖アウグスティヌス」,ヴォールト天井のフレスコ画は「聖母被昇天」である.

 この礼拝堂のヴォールト天井の右下のリュネットにもランフランコのフレスコ画「聖母の空(から)の棺の周りの使徒たち」があるのだが,撮って来た写真を見ながら記憶をたどると,ここは鉄柵に閉ざされていたので,見逃したかも知れない.ヴォールト天井を撮った写真を見ると,右下にリュネットの最上部が見えるので,多分見える角度だったと思うが,彼の作品とは思わず,きちんと見なかった可能性もある.

 アゴスティーノ会の修道服が黒衣であることも大きな理由の一つだろうが,この教会に飾られた作品の絵柄は全体的に黒っぽく,光を反射してよく写らないケースが多くて残念だ.次回は写真にこだわらず,位置を確認できたグエルチーノ,ランフランコの作品を,時間をかけてじっくり鑑賞したい.

 カラヴァッジョの「ロレートの聖母子」,ラファエロのフレスコ画「預言者イザヤ」,アンドレーア・サンソヴィーノの彫刻「聖母子と聖アンナ」は見やすい位置にあるので,いつ行ってもしっかり観ることができる.サンタゴスティーノ・イン・カンポ・マルツィオ聖堂はやはり必見の教会であろう.


サンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会
 カンポ・マルツィオからナヴォーナ広場周辺の教会では,サンタ・マリーア・デッラニマ教会(以下,アニマ教会),サンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会(以下,アゴーネ教会),ノストラ・シニョーラ・デル・サクロ・クオーレ教会(以下,クオーレ教会)の3つを初めて拝観することができた.

 アゴーネ教会は,ジローラモ・ライナルディが手掛け,最終的には息子のカルロ・ライナルディが完成させたが,途中,フランチェスコ・ボッロミーニが関わったことで有名で,場所柄,観光客に溢れていた.

 堂内は思ったよりも狭く,バロックの彫刻を丁寧に鑑賞しながら一回りしても,15分くらいであらかた見てしまうことができる.伊語版ウィキペディアに挙げられている彫刻家たちは,現在では有名とは言えないかもしれないが,間違いなくバロックのローマ芸術を支えた人たちであろう.

 堂内の装飾は,一見,彫刻に徹しているように見え,それゆえに豪華でありながらシンプルで爽快な印象も受けるのだが,よく見ると絵画も所々にある.クーポラに描かれたフレスコ画「天国の栄光へと導かれる聖アグネス」は,チーロ・フェッリとセバスティアーノ・コルベッリーニという画家たちの絵で,四隅のペンデンティヴの「四つの美徳」と言う寓意画はバチッチャの作品とのことだ.

写真:
「天国の栄光へと
導かれる聖アグネス」


 ローマの教会を回っていると,あれもバロック,これもバロックと少々うんざりしてくる.それでも,一つ一つを丁寧に鑑賞すると,関わった人たちの精神が伝わって来るようで,バロックが苦手でも,得られるものはある.

 アゴーネ教会は何度も前を通りながら,今回初めて拝観したが,案内書を売ってくれた年配の男性が感じの良い人だったこともあり,さわやかな満足感とともに辞去することができた.


ノストラ・シニョーラ・デル・サクロ・クオーレ教会
 広場を挟んでアニェーゼ教会の向かいにあるクオーレ教会は,その簡素な外観に以前から好感を持っており,いつか拝観したいと思っていた.堂内も,とても簡素だった.

 19世紀にフランスで誕生した修道会が管理主体なので,それにちなんで現在の名称で呼ばれているが,元々はサン・ジャーコモ・デイ・スパニョーリ教会と呼ばれていたスペイン人教会で,ジャーコモは勿論,サンティアゴ巡礼の聖人である大ヤコブである.

 現存するサン・ジャーコモ礼拝堂(セッラ礼拝堂)にも作者の情報はない(堂内の解説プレートの写真を撮ったがピンボケで読めない)が,多分「クラビホの戦い」を描いたフレスコ画がある.

 ファサードを設計したベルナルド・ロッセリーノはフィレンツェ近郊セッティニャーノの出身,サン・ジャーコモ礼拝堂を設計したアントニオ・ダ・サン・ガッロ・イル・ジョーヴァネはフィレンツェの出身である.

 創建は,進展するレコンキスタを背景に勢力を伸張して行ったカスティーリャ王国のフェルディナンド3世の皇太子エンリコによるものとされ,14世紀に遡る.次々と成果を挙げて1492年に完成するレコンキスタと新大陸発見の余勢をかって大国となっていくスペインが出資者であるこの教会が,フィレンツェ出身の芸術家を採用したことに注目したい.

 当時は「スペイン」と言う国家は存在せず,カスティーリャ,アラゴンなど諸王国の同君連合であった.王権の相続関係で一時は神聖ローマ皇帝でもある,事実上の「スペイン王」が君臨していた時代もある.

 レコンキスタ完成と新大陸発見の1492年に,フィレンツェではロレンツォ・イル・マニフィコが亡くなっている.政治家としては有能だったかも知れないが,経済人としてはメディチ銀行の破綻を招くなどし,彼の時代に最盛期を迎えたルネサンスのフィレンツェは,彼の死とともに衰退期に入る.

 フィレンツェの影響下にある地域で仕事をしていた芸術家たちが,ローマや国外に仕事を求める時代になり,それでも最先端を走っていたので,フィレンツェの芸術家たちには多くの仕事が委嘱されたが,後期ルネサンス,マニエリスムの時代を経て,フィレンツェは芸術の中心ではなくなって行く.

 さらに時代が進むと,イタリアもスペインも中央集権が進み,市民階級が成長する西欧諸国の後塵を拝するようになる.

 外観も堂内も簡素なクオーレ教会は,そうしたことを思い起こさせる.イタリアで見られる諸教会に比して,あまりにも地味なこの教会を拝観することはもう無いかも知れないが,今回拝観できて良かった.

写真:
ノストラ・シニョーラ・デル・
サクロ・クオーレ教会


 この教会の外観が目を引いたのは,古代遺跡の上に実現したバロックの饗宴とも言うべきナヴォーナ広場に面していながら,長方形の簡素なファサードの上に,三角破風の一部が顔をのぞかせるという,周辺にはあまり見ない姿をしているからだと思う.

 三角破風は見えないが,サンタ・マリーア・ソプラ・ミネルヴァ聖堂のファサードが良く似ているように思われる.


サンタ・マリーア・デッラニマ教会
 サンタゴスティーノ聖堂からナヴォーナ広場に向う途中,サンタ・マリーア・デッラニマ教会を拝観した.この教会もまず長方形のファサードが目につく.ただし,この教会の場合,クオーレ教会と違って狭い通りに面しているため,正面から全体を見られず,角度がついた斜めから見るせいか,縦長の長方形に見える.

 ファサードはアンドレーア・サンソヴィーノが手掛け,ジュリアーノ・ダ・サン・ガッロが完成させたとされるので,やはりフィレンツェの芸術家たちの作品である.教会の活動開始は1542年なので,1527年のローマ劫略で失われたローマのルネサンス芸術の後に造られた,最後のルネサンス芸術と言えよう.

 中央祭壇の祭壇画はラファエロ工房のエース,ジュリオ・ロマーノによる「聖会話」(聖母子と聖マルコ,大ヤコブ)なので,ルネサンスからマニエリスムに移行する時代の芸術と言えよう(トップの写真).

 フランチェスコ・サルヴィエーティのフレスコ画の「ピエタ」,カルロ・サラチェーニの「聖ランベルトゥスの殉教」と「マイセンの聖ベンノの奇跡」など,マニエリスムからバロックのイタリア芸術は注目に値する.

 その中で目を引くのが,バルダッサーレ・ペルッツィが制作したとされる「教皇ハドリアヌス6世の墓碑」である.彼はシエナのフランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニの工房にいたし,当時の建築家は彫刻家を兼ねていることが多かったので,一応,彼の作品と信じることにする.

 しかし,ここではその芸術性よりも,ハドリアヌス6世と言う人物に注目したい.

 先代はレオ10世,後継者はクレメンス7世という,いずれもフィレンツェのメディチ家の出身の教皇に挟まれて,短期間在位したユトレヒト出身のオランダ人だが,注目すべきは,前者の時代にルターの宗教改革,後者の時代にはローマ劫略が起こり,ドイツ周辺との関係が緊迫していた時代に教皇になったということだ.

 現在のフランチェスコ1世はイタリア系だがアルゼンチン人,先代のベネディクト16世はドイツ人,先々代のヨハネ=パウロ2世はポーランド人と,直近の3代の教皇を見る限り,様々な国から教皇が選出されているように見えるが,ヨハネ=パウロ2世より前の非イタリア人教皇は,このハドリアヌス6世まで遡るそうである.

 そう考えると,ヴェネツィア人であるカルロ・サラチェーニの2点の絵の題材に俄然興味が湧く.

 聖ランベルトゥスは7世紀の人物で,現在はオランダ領であるマーストリヒトに生まれ,その地の司教となったが,権力者の圧力で追放され,復職した後,リエージュの司教となり,同地のキリスト教化を促進したがゆえに暗殺されたので,殉教聖人と見なされている.

 聖ベンノは1010年頃,ザクセンのヒルデスハイムに生まれ,同地の修道院で教育を受け,神聖ローマ皇帝ハインリッヒ4世の指名でマイセンの司教となる.政治的事情(皇帝よりも教皇を支持した)で皇帝は彼を追放したが,翌年復職させた.追放される際に教会の鍵を川に投げ捨てたたが,復職の際に魚の腹からその鍵が出てきたと言うのが,彼をめぐる「奇跡」のようである.

 他愛もない話に思える一方,高校の世界史で学んだ「聖職叙任権闘争」が思い浮かぶ.関連する出来事の中で最も有名な「カノッサの屈辱」は1076年,「屈辱」を噛みしめながら,教皇ボニファティウス8世に一応の恭順を示した皇帝が,まさにハインリッヒ4世だ.ベンノが聖人に列せられた理由もおぼろげながら見えてくるように思う.

 まして,宗教改革は16世紀にドイツで起こり,ローマ劫略の責任者であるスペイン王カルロス1世は,同時にカール5世という神聖ローマ皇帝で,自らはカトリックだったが,プロテスタントのドイツ人兵士にローマを劫略させた.

写真:
左奥が中央祭壇


 こうした歴史的背景を考える契機となったのは,堂内のブックショップでの会話だった.小冊子の案内書を購入しようとしたら,ドイツ語版しかなく,伊語版か英語版は無いか尋ねたら,係の若い女性が「だって,ここはドイツ人教会だから」と答えた.

 厳密には教皇の墓や聖人の絵に反映しているように,ドイツ人だけではなく,オランダ人,フランドル人(今風に言えばオランダ系ベルギー人)のカトリック信者でローマ在住者のための教会と言うことのようだ.

 うろおぼえのドイツ語を駆使(?)して,大丈夫,随分前だが学生時代に少しだけ勉強したので読めるからと言って,お札を出すと,おつりが無いと言われて,小銭を探しているうちに,彼女は,代金はいらないと言いだした.何とか必要な金額のコインを集めて面目を保ったが,辞去するとき,アウフヴィーダーゼーエンと言ったのに,彼女はチャーオとにこやかに応じた.

 この教会はまた行きたい.さまざまな勉強になったし,何と言っても外観も堂内も美しい.

 見られるかどうかわからないが,伊語版ウィキペディアの情報に拠れば中庭には,古代石棺が一つだけあるようだ.


サンティ・ドーディチ・アポストリ聖堂
 最終日の朝,その日の正午ちょっと過ぎまでバス券が使えるので,チェックアウトの後,バスでヴェネツィア広場まで行き,サン・マルコ・エヴァンジェリスタ・アル・カンピドーリオ聖堂を拝観しようとしたが,鉄柵が閉まっていたので,長い階段を登ってサンタ・マリーア・アラチェリ聖堂を拝観した.

 ピントリッキオのフレスコ画,古代石棺を再利用した墓碑を始め,堂内のほぼすべての絵画,彫刻を確認できたが,ここでもやはり一番立派なのは,コズマーティ装飾でないかとの感想を抱いた.教会が大きい割には.床一面がコズマーティと言うほどには残っていないが,それでも十分に美しい.

 最後に拝観したのは,今回は是非ともここに行きたいと思っていたサンティ・ドーディチ・アポストリ聖堂だった

 1453年にビザンティン帝国はオスマン・トルコに滅ぼされるが,その前から,古代ギリシア古典の写本とともにイタリアに渡って来た学者たちがおり,これがイタリア・ルネサンスの古代ギリシア研究を促進した.

 その大きな成果として代表的なのが,マルシリオ・フィチーノによるプラトン全集のラテン語訳である.

 そうした学者たちの一人がベッサリオンで,彼は,現在はトルコ共和国の領内だが,黒海に面したギリシア人都市だったトレビゾンドで生まれ,コンスタンティノープルで学問を収め,当時,プラトン研究で有名だったゲミストス・プレトンの影響を受けた.

 まもなく滅びようとしているビザンティン帝国(東ローマ帝国)の皇帝ヨハネス8世によって高位の聖職者に任ぜられ,正教とカトリックの融和を図った「フェッラーラ=フィレンツェ公会議」に参加すべく,皇帝とともにイタリアに渡った.彼はローマ・カトリックの教義に理解を示し,教皇エウゲニウス4世に好感を持って迎えられ,枢機卿に任命された.

 公会議の期間中,一度はギリシアに戻ったが,枢機卿任命以後はイタリアに定住した.没年が1472年なので,当然,コンスタンティノープル陥落と祖国の滅亡をローマで知った.

 ベッサリオンはギリシアから亡命して来た学者たちを保護し,ローマで西欧人たちに古代ギリシア研究の教育を施した.西欧各国への外交使節にも選ばれ,各国の君主たちにギリシアからの亡命者たちの保護を訴えた.親しかった人文主義者のエネーア・シルヴィオ・ピッコローミニが教皇ピウス2世となり,コンスタンティノープルのラテン教会総主教に,もちろん名目上のものだが,任命された.

 ベッサリオンがローマで古代ギリシア研究を推進した屋敷が残っており,そこにも行きたいと思い続けているが,これはまだ果たせていない.

 教会の創建は古いが,バロックの改築を施されたうえ,ファサードはジュゼッペ・ヴァラディエールに拠る新古典主義の時代のもので,バロック以前の雰囲気はどこにもないように見える.しかし,ルネサンス期の壁面が残っており,そこにアントニアッツォ・ロマーノが描いた,ベッサリオン枢機卿の肖像を含むフレスコ画がある.それを知って以来,ずっとこの教会に来たいと思っていた.

 堂内の一角に受付の机を置き,そこで3ユーロの見学料を取って(教会は無料),工事用のような階段で壁面を見せてくれる.




 本来はベッサリオン礼拝堂であったが,洪水とローマ劫略で破壊され,18世紀にオベスカルキ礼拝堂が新設された時に壁に塗り込められ,1959年に再発見されたとのことである.

 作者については,伊語版ウィキペディアはメロッツォ・ダ・フォルリとアントニアッツォ・ロマーノおよび彼らの工房に帰せられるとしているだけで,アントニアッツォの作品と決まっているわけではなさそうだ.

 残っているのは3場面で,天使たちの一団,大天使ミカエルの2つの聖地であるモン・サン・ミッシェルとアドリア海沿岸の都市シポントの様子が描かれている.モン・サン・ミッシェルの場面の中に司教姿のベッサリオンが描かれているが,光輪が付されているようなので,モン・サン・ミッシェルの伝説に関わる聖人に擬えたということなのかも知れない(上の写真:部分).

 この人物をベッサリオンとする根拠も,上記の場面の内容も,全く調べていない.分かるのであれば,少しずつ勉強して行くが,今は,ベッサリオンを描いた作品であると信じておくことにする.

 この教会も丁寧に拝観して,いろいろなものを見ることができたが,フェッラーラ出身の作曲家ジローラモ・フレスコバルディの墓があるとは全く知らなかった.最近,彼のオルガン曲を教会で聞く機会があったので,とりわけ残念な気がするが,アポストリ教会にはまた行こうと思っている.

 次回は,今回見ることができたもう一つの特別展と美術館に関する報告をまとめて,ローマ行のまとめとする.






ベルニーニの四大河の噴水と
サンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会