フィレンツェだより第2章
2017年5月26日



 




カピトリウム神殿の遺構
オスティア・アンティカ



§ローマ行 (その1) オスティア・アンティカ篇

一応,古代研究を志す者として,イタリアの諸都市を巡りながら,ポンペイとオスティアは行ったことがないというのは,心に重くのしかかる事実だった.


 ポンペイに関しては,この滞在中にどうしても一回はナポリに行かなければならないので,その時についでに足を伸ばすつもりでいる.出来れば,同じ噴火で埋もれたエルコラーノ(ヘルクラネウム)も一緒に見たいと思う.

 今回のローマ行は,居住先の事情で,急遽3日ほど寓居を空ける必要が生じ,元々の計画を前倒しして実行したものだ.オリジナルの計画では,2日目にオスティア・アンティカに行く予定であったが,他の見学場所との関連と,予想以上に暑かった天候のせいで,3日目の5月4日になった.



 テルミニ駅を朝8時台の地下鉄でピラミデ駅まで行き,ここで構内にある近郊鉄道ローマ=リド線のポルタ・サン・パオロ駅始発のリド行き電車に乗り換えた.

 近郊鉄道はローマの地下鉄と市内バスを運営するATACの乗車券がそのまま使える.前もって3日券を18ユーロで買っていたので,新たな乗車券を買わずに乗り換えることができた.

 ポルタ・サン・パウロ駅から40分ほどで,オスティア・アンティカ駅に着く.駅から古代遺跡の入り口までは徒歩で10分弱の距離だ.

 所属するコムーネ(基礎自治体…日本で言う「市町村」,ローマの場合は東京23区にあたるだろうか)はローマ・カピターレ(首都ローマ)で,県(プロヴィンチャ)ではなく,2014年から国内に14存在する「都市圏地域」(チッタ・メトロポリターナ)の中の「ローマ都市圏地域」に属し,州は以前と同じくラツィオ州である.

 コムーネとしてのローマは,従来,13の行政区(スブディヴィズィオーネ)に分かれていたが,それが2013年から10の行政区(ムニチピオ)に整理され,オスティア・アンティカのあるリド・ディ・オスティアという地域(フラツィオーネ)は第10行政区に属している.

 要するに,ここは現代のイタリア共和国の首都で,日本風に言うと「ローマ市」の一部であるが,電車も自動車もない古代には,ローマから北東に約30キロ離れたオスティアは首都ローマとは別の町であった.


古代都市オスティア
 オスティウム(ostium)というラテン語の普通名詞がある.その複数形はオスティアで,例えばウェルギリウス『アエネイス』1巻14行の,古代都市カルタゴは「イタリアとティベリス川の河口から遥かに遠く対している」という箇所の,仮に「河口」と訳した語がオスティアである.

 主人公のアエネアスは,この時すでに,現在のプーリア州あたりの入江で一旦イタリアに上陸しているが,後に子孫とされるロムルスがローマを建国する,ティベリス川(現在のテーヴェレ川)流域のラティウム(現在のラツィオ)地方にはまだ到達していない.

 従って,このオスティアは都市の名としての固有名詞のオスティアではなく,普通名詞のオスティアということになる.また,都市の名のオスティアは女性名詞の単数形だが,『アエネイス』第1巻14行のオスティアは上述のように中性名詞の複数形である.

 しかし,作者のウェルギリウスが活躍した前1世紀後半に都市オスティアは既に存在していたわけだから,厳密には別の名詞だが,当然,古代都市オスティアを意識した用語と考えて良いだろう.

写真:
ローマ劇場

日陰もない中,元気に
駆ける子どもたち


 ローマ建国からの歴史を書いた大歴史家リウィウスは,古代都市オスティアに女性名詞も使ったが,中性・複数のオスティアも少なくとも3回使っている.女性名詞としてはリウィウス『歴史』第1巻33章に「ティベリス川の河口に都市オスティアが建設された」とある.

 ただし,彼以前にキケロが『国家論』で都市オスティアに言及し,文学作品の初出(今,碑文に関しては手元に史料が無い)は「ローマ文学の父」エンニウスの叙事詩『年代記』である.

 これらの情報は私が記憶していたわけではない.

 アメリカのタフツ大学が公開しているウェブページ「ペルセウス」では多くのギリシア,ローマ古典を原文で読むことができ,そこに掲載されたテクストの一語一語が,版権の切れた旧版の『オックスフォード希英大辞典』,ルイス&ショートの『ラテン語辞典』にリンクされていて,それらの辞書から古典の引用例を,もちろん主たるものだけだが,見ることができる.

 前回は本2箱,衣料品1箱を日本から別送したが,今回は服も少量,本に至っては翻訳の仕事にどうしても必要な数冊だけをスーツケースに入れて,別送なしでやって来た.

 10年前に比べて「ペルセウス」の使い勝手が格段にあがり,この3月まで新宿の朝日カルチャーセンターで担当していた古典ギリシア語講読(※)の資料作成に大いに役立った経験から,確かに十全ではないが,思った以上に有用であると知っていたからである.(※聖書の「ルカ伝」とソポクレス『オイディプス王』は読了し,『コロノスのオイディプス王』は一部飛ばしたが,一応,最後まで読んだ.)

写真:
ネプトゥヌスの浴場の
モザイク

4頭の海馬が引く馬車には
三叉の鉾を持つ
海神ネプトゥヌス


 ペルセウスからリンクされているルイス&ショート『ラテン語辞典』の都市「オスティア」に,パウリとヴィッソーヴァに拠る浩瀚な『古典古代学百科事典』からのラテン語の引用があり,「海へと流れるティベリス川の河口にアンクス・マルキウス王が都市オスティアを建設したと言われている」とある.

 アンクス・マルキウスはローマの伝説上の7人の王の4代目で,本当にいたとすれば前7世紀の人物であるので,都市オスティアの建設は前7世紀に遡ることになる.

 しかし,考古学上の発掘資料に拠って遡れるのは,今のところ前4世紀までで,本格的な建設はポエニ戦争が始まる前3世紀,海外勢力に対抗するための軍事拠点として築かれたと思われる.

 3次にわたるポエニ戦争は前146年にローマの勝利で終わり,オスティアは軍港から貿易港にその性格を変える.

写真:
デクマヌス・マクシムス


 ローマの植民都市や陣営の作り方は,東西の軸となる大通りデクマヌス・マクシムスと,南北の大通りカルド・マクシムスがあり,その両端にそれぞれ城門があって,両者の交わる所に広場(フォルム)があると言うのが基本形で,オスティアの現存する遺跡は,ほぼこの形になっている.

 ただし,ティベリス川に面した北側には城壁も城門も無かった.現在は河道が変わっており,オスティア・アンティカの遺跡は川には面していない.

 基本は共和政末期の内乱時代に作られたが,戦禍や海賊の被害により破壊され,現在の遺跡は概ね帝政期以降のものである.

 オスティアの広場は小さいものだが,その北側に,ローマと同じく,ユピテル,ユノー,ミネルウァを祀ったカピトリウム神殿の遺構が残っている(トップの写真).

写真:
プロティルスの邸宅


 現存する建造物の遺構は,大体,神殿(テンプルム),公会堂(バシリカ),邸宅(ドムス),個人住宅(カサ),集合住宅(インスラ),浴場(テルマエ),劇場(テアトルム),倉庫(ホッレウム)などに分類されるが,国際都市だったオスティアの歴史的事情を反映して,ミトラ教礼拝所,キリスト教教会やユダヤ人教会の遺跡も見られる.

 大規模な倉庫の遺構が複数見られるのは,貿易港として栄えたオスティアならではだ.今回,特に集合住宅の遺構を見たいと思い,幾つかは見たが,重要なものを見逃した.ともかく暑かったし,予習が不十分だったし,余力を残してローマに戻りたかった.

 次に,オスティアにいつ行けるかは未定だが,やはり,これだけは目で見て確認した方が良いと思うものが出てくれば,もう少し涼しい時期に,十分に予習をした上で行きたい.

 5月初旬にしては暑かったし,イタリア,フランスの小,中,高校生の修学旅行や学習見学の時期らしく,喧騒と混雑の中での見学であった.それでも,少しはずれの方(例えば,アッティスの祠堂と大地母神キュベレの神域)に行くと,静寂の中に涼しい風が吹き,ここにずっといたいという気持ちになった.

写真:
アッティスの祠堂と
大地母神キュベレの神域


 SPAZIOと言うウェブ上の文化広報誌に美術史家の小川熙氏の「消えたローマの海港都市オスティア」と言う文章が掲載されている.リンクはフリーだそうだが,検索してもらえばすぐにたどり着くと思うので,リンクは控える.

 小川氏もオスティアの自然と調和した美しさを強調しておられる.この文にはロムルスの王政開始を紀元前775年とし(通説は753年),カルド(第3変化・男性名詞)・マクシムスを「カルドゥス(第2変化もしくは第4変化,もしくは第3変化の中性名詞ならあり得る形)・マクシムス」とするなど瑕瑾も見られる(2017年5月26日参照)が,日本語で読めるオスティアの紹介文として優れており,大変参考になる.


博物館
 緑の中を吹く風が余りにも心地よく,博物館に辿り着くのが遅れてしまったが,博物館がやはり素晴らしかった.

 ギリシア語(「人生は短い」で始まる)碑文付きのヒポクラテス胸像,おそらくここにしか残っていないテミストクレスの胸像,「哲学者の邸宅」で見つかったプロティノスの胸像は,歴史的資料として貴重だし,天下分け目のミルヴィオ(ミルウィウス)橋の戦いでコンスタンティヌスに敗れたマクセンティウスの全身像もあった.

写真:
マクセンティウス


 石棺は,ネクロポリス地域などの遺跡の中や博物館の周辺に,野晒しになっているものが沢山あるので,おそらく博物館に展示されているものは,厳選された一部であろう.いずれも立派である.

 その中で,蓋部分の横に「ヘクトルの遺体を引きずるアキレウス」,本体に「パトロクロスの死を悼むアキレウス」の浮彫のある,『イリアス』の挿話を題材にした石棺には目を見張った(下の写真).




 他もプリュギア帽を被っていない「牛を殺すミトラ」像,「アモルとプシュケの邸宅」から出てきた「抱き合うアモルとプシュケ」などが印象に残る.

 アプレイウスの『変身物語』の主人公たちは,少年期から青年期に成長していく男女だと思われるが,それにしてはこのアモルとプシュケは幼い.カピトリーニ博物館でも幼児の「アモルとプシュケ」を見ているので,多分,流行した造形だと思う.



 古代,中世の多くの海港都市に共通の運命だが,土砂の堆積により,港としての機能を失い,他の適地に新しい港が建設される.オスティアもその運命を辿ったが,それでもしばらく,都市は維持された.

 古代末期にはマラリアや戦乱によって多くの人がこの町を去り,9世紀にイスラム教徒の来襲を受けて,完全に放棄された.

 この町が発掘されるのは,20世紀を待たなければならない.

 立派な石畳の大通りが走る広大な廃墟の中を日に照らされながら歩き回り,余力を残して,なるべく早くローマに戻るつもりが,帰り着いたのは午後4時で,完全にヘトヘトだった.見逃した遺構も多かったが,自分にとっては実り多いオスティア見学であった.






いとけない恋人たち
アモルとプシュケ