フィレンツェだより第2章
2017年5月22日



 




楽園追放が描かれた「受胎告知」
フラ・アンジェリコ



§サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノ

サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノに初めて行ったのは2007年7月11日,情報の少ない中で手探りで行ったことに対して,ご褒美が与えられたのか,素晴らしい出会いがあった.チェルタルドに行った翌12日,この思い出の町にまた行ってみることにした.


 4度目の訪問となる今回は,その3つ手前の駅,リニャーノ・スッラルノを訪ねることを第一の目的としていた.

 この町のサン・レオリーノ教区教会に,もしかしたらチェンニ・ディ・フランチェスコの作品かも知れないフレスコ画「聖母戴冠」と,そのシノピア(下絵)があるらしい.この情報を得て,矢継ぎ早にチェンニ作品を観ている今の文脈から,次に訪れるべきはこの町と考えた.

 たとえ期待通りにいかなくても,サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノの宗教芸術博物館の昼休みは13時からだから,すぐに移動したら十分間に合う.

 インターネットの時刻表で出発時間を調べながら,移動の電車の時刻も調べ,8時15分にフィレンツェ・サンタ・マリーア・ノヴェッラ駅を出るアレッツォ行のローカル線に乗り,8時50分にリニャーノ・スッラルノ=レッジェッロの駅に着いた.


リニャーノ・スッラルノ=レッジェッロ
 駅から近いところにある大きな教会は,新市街の住民のお祈りのための新しい教会だった.この教会の名を確認しようと,「rignano centro chiesa」で検索して,グーグルマップを参照すると,サンタ・マリーア・インマコラータ(無原罪の聖母マリア)教会というようだ.伊語版ウィキペディアには立項されていない(2017年5月21日参照).

 なかなか,サン・レオリーノ教会に行く道を見つけられなかったが,とにかく,電車の中から見えたロマネスクの鐘楼の方向に向かって歩き,何とか辿り着いた.しかし,残念ながら開いていなかった.いつミサをやるとの情報も無かった.

 ファサードは新しく改築されているので,裏に回ってロマネスク様式の後陣外壁と鐘楼の写真を撮って,後ろ髪を引かれながら駅に向かって歩き出した.

写真:
サン・レオリーノ教会
後陣と鐘楼


 教会は一にも二にもファサードと思っていたが,ロマネスクの小さな教会に関しては,後陣外壁が大変魅力的であることを,2010年に初めてスペインに旅行し,セゴビアでアルカサルを見上げる場所にあるサン・マルコス教会を偶然見ることができ,初めて知った.それ以来,可能なら(裏に回れない場合も少なくない)後陣外壁も確認するようにしている.

 リニャーノと同じコムーネに属している諸地域にも幾つかのロマネスク教会があるし,ヴァルデルサ,ヴァル・ディ・ペーザ,ヴァルダルノ地方には多くのロマネスク教会があるのは知っているが,残念ながら,駅やバス停のない山中にあることが多く,今のところ拝観の手だてはない.

 しかし,見られるものから見ているうちに,気が付いたら見られないと思っていたものまで見ることができた経験を何度かしているので,心の片隅に置きつつ,できるところからコツコツと経験を積み重ねて行く.

 今回がイタリア長期滞在の最後の機会と思うが,本来は見られない可能性が高いものも相当見たし,あくまでも古代研究が主眼であるので,見られるものは喜んで見て,見られないものは素直に諦めようと思う.

写真:
アルノ川に架かる橋
の風景


 その名にスッラルノと付くように,リニャーノはアルノ川のほとりにある.川に架かる橋から川面と一体となった風景を撮って,橋を渡ったら,向こう岸は別のコムーネだった.レッジェッロというコムーネのサン・クレメンテと言う地区である.

 サン・クレメンテ(聖クレメンス)と言う地名であるからには,その名を冠した教会があるのではないかと推測し,鐘楼かクーポラでも目に入らないかと辺りを見渡したが,見つけられなかった.後で調べたら,その名の教会は実際にあるようだ.

 適当なところで見切りをつけ,9時59分発の電車でサン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノに向かった.

 リニャーノの次の駅は,ペトラルカの父祖の地で,自身も短期間だが幼少期を過ごしたインチーザ,その次はルネサンス・プラトニズムの誕生を実現した大思想家マルシリオ・フィチーノが生まれたフィリーネ・ヴァルダルノ,3つ目がルネサンス絵画を誕生させたマザッチョの故郷,サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノである.

 インチーザとフィリーネは合併して,コムーネとしては2014年からフィリーネ・エ・インチーザ・ヴァルダルノとなっていた.

 一駅ごとに関係する歴史上の人物の名が挙げられる地域にあって,リニャーノには隣接諸地域のような著名な人物はいないのか探してみたところ,15世紀に活躍した人文主義者ヴェスパジアーノ・ダ・ビスティッチがこの町の出身だった.人文主義とルネサンスの揺籃とも言えるヴァルダルノ地方にふさわしいと思う.

 何と言っても,現代ではフィレンツェ市長(2009年から2014年)からイタリアの首相(2014年から2016年)となったマッテオ・レンツィがこの町の出身とのことだ.


サンタ・マリーア・デッレ・グラーツィエ聖堂附属博物館
 サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノに着くと,足掛け10年になる4度目の見学を最優先し,サンタ・マリーア・デッレ・グラーツィエ聖堂※の附属博物館に向かった.

(※以前の報告ではマリーア・サンティッシマ・デッレ・グラーツィエと表記していたが,現在の伊語版ウィキペディアの表記に合わせて,今回はこうする.以前の表記は,最初にこの町を訪れた時に博物館で買った案内書,

 Timothy Verdon et al., Museo della Basilica di Santa Maria delle Grazie: Guida alla Lettura delle Opere, San Giovanni Valdarno: Ente Basilica SS.ma delle Gratizie, 2005(以下,ヴァードン)

で「サンタ・マリーア・デッレ・グラーツィエ」,出版社情報と,テクストで「マリーア・サンティッシマ・デッレ・グラーツィエ」が使われていたことに拠る.宝物のように思って実家の書棚に置いていたところ,津波で流され,その後,インターネットで入手を試みたが手に入らず,今回,博物館でやっと再入手した.)

 博物館の入口は初めての人には少し分かりにくいが,4度目なので確信を持って入り,2階(イタリア式には1階)の受付に行き,3,5ユーロの入館料を払い,小さい博物館だが,ウフィッツィ美術館のようにほぼ時代順に並んでいる展示を,後期ゴシックの作品から鑑賞して行った.

 時代順といっても,年代の重なる作品のどちらが古いかを決めるのは,そう簡単ではない.年長ということも加味して,一応,最古の作品と考えられるのは,ジョヴァンニ・デル・ビオンドの祭壇画断片だ.聖人が描かれたパネルの尖頭状の2つの頂上部分=クスピデには「墓のキリスト」と「祝福する神」が描かれ,キリストと神は同じ顔をしている.

 ジョヴァンニ・デル・ビオンドはオルカーニャの工房にいたと考えられ,1356年から98年頃まで活動記録があるようだ.ヴァードンでは,この祭壇画断片は1375年の記録があるとされているが,典拠は示されていない.

 マリオット・ディ・ナルド作とされる三翼祭壇画「聖母とマグダラのマリアの間の聖三位一体と聖人たち」は,ヴァードン(この作品の解説はミケーラ・マルティーニと言う人だが,この図録掲載の解説に関しては全て編者のヴァードンで代表させる)では1400年から1405年の作品としている.

写真:
「聖母とマグダラの
マリアの間の聖三位
一体と聖人たち」


 2012年にツァーでフィレンツェを再訪した時,秘かにテーマとしていたのが,ナンニ・ディ・バンコとマリオット・ディ・ナルドだった.

 ナンニに関しては,見られなかった作品も多く,結論めいたものは出なかったが,昨年の研究出張と今年の滞在で,それらを全て見ることができ,ナンニの卓越性は十分に認識できたと思っている.

 それに対して,マリオットに関しては,比較的多くの彼の帰属作品を観ているのに,そもそも伊語版ウィキペディアにあったオルカーニャの兄弟,ナルド・ディ・チョーネの息子と言う説明にひっかかって,未だに多くのことがペンディングである.

 現存する作品数が多いと言うことは,存命中に評価が高かったと考えて良いだろうが,現代の目からすると優れた芸術家なのかどうか私には分からない.ああ,彼の作品かと心の中で呟いて,そのまま前を通過したとしても,きっと誰も何も言わないと思う.

 それでも,これだけ諸方で彼の作とされる絵に出会い,それなりの完成度と個性があるのを見ると,やはり気になってくる.

 2012年に彼について少し考えた時,彼の活動期間と推定される1394年から1424年(英語版ウィキペディアとヴァードン)を生没年と誤解して,マリオットがオルカーニャの兄弟のナルド・ディ・チョーネの息子であると言う伊語版ウィキペディアの説を簡単に否定してしまった.

 伊語版ウィキペディアは彼の生年を1360年から1365年の間,英語版ウィキペディアは1365年以前としており,であれば,生年月日を根拠に1366年頃に亡くなったとされるナルド・ディ・チョーネの息子では有り得ない,と結論付けることはできないことになる.

 英語版ウィキペディアはマリオットをオルカーニャの孫としているが,これはイタリア語のnipoteに孫と甥の両方の意味があるのを訳し間違えたものと思われる.また,シエナとヴォルテッラで石工をしていた,以前はチョーネ一族とは無関係とされていたナルドという人物について言及があり,興味深いが,関連性が良く分からない部分がある(2017年5月22日参照).

 博物館の解説プレートには「石工の息子」とあり,ナルドの息子とは書いてなかったし,ヴァードンもマリオットの出自には言及していない.ヴァードンにマルティーニが書いた詳しい作品解説に拠れば,マリオット・ディ・ナルドへの帰属も一朝一夕に合意されたわけではないようだが,現在はともかく多くの人がマリオットの作品と考えている.

 裾絵(プレデッラ)がないので,祭壇画として完全な形ではないと思うが,この作品は目を惹く.元は聖堂前の広場の中心にあるパラッツォ・アルノルフォ(改築を経てその面影はないが,元々はアルノルフォ・ディ・カンビオ設計のゴシック建築だった)を挟んで反対側にあるサン・ジョヴァンニ・バッティスタ教区教会の祭壇を飾っていたようだ.

 個人的には三位一体の磔刑のキリストの部分は立派だと思うが,その他の部分に関しては不満もある.

 しかし,祭壇画は美術として鑑賞するために描かれたのではない.電気の無い時代,昼でも暗い堂内で,金地板絵の祭壇画は信者たちの信仰の助けとして十分に役目を果たしたであろう.窓から差し込む光と蝋燭の揺らぐ光の計算も画家にはあったと思う.博物館や美術館で鑑賞することの多い現代とは条件が異なるので,技量や作品の完成度だけを云々すべきではないだろう.

 先日,フィレンツェの伝統あるサンタ・マリーア・ノヴェッラ薬局で,マリオットのフレスコ画で装飾された部屋を偶然目にした.これも巧いか下手かで言ったら,決して巧いとばかりは言えないものだったが,大規模なフレスコ画はやはり魅力的だ.写真も撮らせてもらえたので,機会があれば,それを見て記憶を甦せつつ,彼について考えてみたい.

 博物館の隣のサン・ロレンツォ教会には,初めて観た時からずっと立派な作品だと思っているジョヴァンニ・デル・ビオンドの多翼祭壇画がある.壁面には複数の画家の手による剥落の進んだフレスコ画が残っており,その中に,マリオットが描いたかも知れない「ピエタ」もある.

 フィレンツェの画家たちがサン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノで仕事をし,反対に,この地からマゾリーノ,マザッチョが輩出し,フィレンツェをその芸術活動の出発点として大きく羽ばたいていったことには何か関連性があるのか,それについても考えてみたい.



 サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノにマゾリーノとマザッチョの作品は残っていない(※)が,マザッチョの弟スケッジャと,マザッチョよりも年長だが,彼の異父妹と結婚して義弟となったマリオット・ディ・クリストファノの作品は複数観ることができる.(※サン・ロレンツォ教会の堂内にマザッチョが手掛けたかも知れない剥落の進んだフレスコ画断片があることはある.)

 マリオット・ディ・クリストファノは1395年頃にサン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノで生まれたので,同郷のマゾリーノよりは10歳くらい年下,マザッチョより約6歳,スケッジャより約11歳年長と言うことになる.

 彼の作品は,サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノの博物館の他に,レッジェッロの一集落カッシャのサン・ピエトロ・ア・カッシャ教区教会で「受胎告知」を,昨年はサンタ・フェリチタ教会の聖具室で「三王礼拝」を観ている(両者ともウィキメディア・コモンズに写真が掲載されている).

 マリオット・ディ・クリストファノもフィレンツェで修行し,そこで仕事を受注し,フィレンツェで亡くなった画家である.フィレンツェ都市圏地域に属しているカンピ・ビゼンツィオのサンタ・マリーア教会のサン・ヤーコポ礼拝堂に描かれたフレスコ画は彼に帰属する可能性があり,写真はウィキメディア・コモンズで相当数見られる

 大規模なフレスコ画が彼の名前で伝わっていると言うことは,当時,名のあった親方の工房(ビッチ・ディ・ロレンツォの可能性が指摘されている)で修行し,自身も工房を率いる親方として一定の成功を収めた職人的芸術家であったということだ.

 このフレスコ画が本当にマリオット・ディ・クリストファノの作品かどうかは私には判断できないが,フィレンツェ近郊の町にあるので,近々見に行きたいと思っている.



 マゾリーノは後に独自路線に回帰するとは言え,敏感に16歳も年下のマザッチョの革新を評価し,自分の作品に取り入れたとされる.

 それに比べて,後に義兄弟になり,指導的立場ではないとしても,マザッチョと個人的接触をかなり親密に持っていたと想像されるマリオット・ディ・クリストファノの作品の中に,マザッチョ的革新性を見出すのは難しい.

 それ以上に,義兄弟どころか,同じ両親から生まれた実の弟で,年齢も僅か5歳しか違わず,兄が亡くなった時,既に画家の修業をしていたであろうスケッジャの作品にマザッチョ的革新性が読み取れないのは不思議なことだとずっと思っていた.

 ところが,この博物館にある祭壇画パネル「聖母子」には,カッシャの宗教芸術博物館で観たマザッチョの三翼祭壇画「聖母子と聖人たち」(通称「サン・ジョヴェナーレ三連祭壇画」)と共通する何かがあって,この絵を観ると,両者は確かに同じ根から生じたのだと納得することができる.

 マリオット・ディ・クリストファノのように,注文主の要求に応えながら,自分の能力の限界の中で誠実に仕事をした職人的芸術家(と私が勝手に想像しているだけだが)と違い,スケッジャの絵には強烈な個性と,ある種の天才性を感じる.

 その個性を評価して,彼に作品を発注した人たちがいたルネサンスと言う時代の不思議さを感じる.

写真:
ロ・スケッジャ
「聖母子」(部分)


 スケッジャに関する英語版ウィキペディア伊語版ウィキペディアがほぼ全く同じ内容と構成で,用語も同じであることに驚いた(2017年5月22日参照).ただし,参考文献はそれぞれ,英語文献とイタリア語文献を挙げている.どちらかが翻訳であると思われ,日本語ウィキペディアが英語版の翻訳であることはままあるように思われるが,英語版と伊語版の場合は初めてのような気がする.

 同じ内容なので,当然だが,どちらにも兄の死後,弟は遺産の受け取りを拒否したとある.兄の死の2年前の1426年に弟はピサで兄の保証人(guarantor / mallevadore)になっているともある.この2つの出来事の関連性が見えないが,今のところ他の資料をあたる余裕がないので,ペンディングとする.

 2人の作風の違いは,元々の資質と修業時代に培った絵画観の違いに由来するように思われる.スケッジャはビッチ・ディ・ロレンツォ(英語版はロレンツォ・ビッチとしているが,リンク先はビッチ・ディ・ロレンツォになっている)の工房で助手を務めていたと考えられている.

 ビッチの息子ネーリはスケッジャより12歳から14歳年下で,スケッジャが兄の死の翌年の1428年に工房を構えて独立した時,ネーリは8歳から10歳の間の少年なので,スケッジャにはネーリの影響があろうはずはない.

 しかし,ビッチは1452年まで生き,当然,ネーリも父の工房で修行したであろうから,もしかしたら,スケッジャとネーリ・ディ・ビッチは画家として共通の土壌で育ったと言えるかも知れない.

 この時代には画家は,芸術家と言うよりは職人であり,有名な画家であっても,仕事に恵まれなくなった晩年,貧窮に陥るケースが少なくないことに驚く.もちろん,本人の放蕩や財産管理の失敗もあるとは思うが,職人は仕事が受注できなければ収入が途絶えると言う単純な事実の反映ではないかと思う.

 現代の私たちから見ると,「貢の銭」に見られるマザッチョの近代性に比べると,スケッジャやネーリ・ディ・ビッチの絵は美しくもなく,むしろエクセントリックに思われる.しかし,彼らは多くの注文をこなし,長命だった人生を生き抜く職人としての資質と人生観を持っていたのではないか.

 注文主がたくさんいたのも不思議に思うが,それだけ,彼らは誠実に注文主の要求に応えたということであろう.スケッジャやネーリの作品は,基層部分は職人気質が支えていると言うルネサンスの一側面を語ってくれているのでないかと思う.

 上手だとは思わないし,芸術的だとも思わないが,スケッジャやネーリの絵が好きだ.断片的な知識や情報で彼らの人生を推測することはできないが,多くの天才や能才が輩出したルネサンスのトスカーナで彼らは自分の個性を殺すことなく,職人としての人生を全うした.

 ネーリの何度見ても下手としか思えない絵に比べると,スケッジャの作品は,天衣無縫に見え,もしかしたら,この画家は個性に満ちた天才なのではないかと思うこともある.



 27歳で早逝したマザッチョと違い,天才でありながら,職人的人生を全うした大芸術家がフラ・アンジェリコだ.

 彼は修道院長として社会的に高い地位を得た人物なので,「職人」と言う言葉は適切ではないかも知れないが,ムジェッロの谷のヴィッキオという小邑に生まれ,元々の名はグィド・ディ・ピエトロなので,父親の名前がピエトロであろうことは推測できるが,どういう職業の人物だったかは分からない.と言うことは,恐らく庶民階級の出身だったと思われる.

 フラ・アンジェリコの絵に見られる上品さ,優雅さは,庶民階級の中に,上品で優雅な芸術を生む素地があったことを示している.繊細な刺繍やレースの施された洋服,洗練されたテーブルウェアといった,身分の高い人々が使用する上等な品々は全て,庶民である職人の手によって産み出されている.

 もちろん,シエナ出身で,シエナ派と国際ゴシックの華やかさを引き継いだロレンツォ・モナコの影響を受けたことを知識として知っているし,ロレンツォの絵にもそうした上品さ,優雅さが備わっている.

 修道院長に出世し,メディチ家にも,教皇にも寵用されたフラ・アンジェリコと違い,人気画家だとは言え,社会的地位としては生涯一修道士だったロレンツォの作品の上品さ,優雅さの背景は,彼の資質とそれを許容する社会にあったと思いたい.

 この日の博物館は,私のいる間,見学者はずっと私一人だった.フラ・アンジェリコの美しい「受胎告知」の前で一時間もボーっとしていられるのは,何という幸せだろう.ジョットも,マザッチョも,レオナルドも,ミケランジェロも私の頭から去り,フラ・アンジェリコこそが,人類史上最高の画家という気持ちに浸った.

 最初にこの博物館に来たときにも確かにそう思った.

 今はその時と違い,コルトーナとマドリッドに同じような「受胎告知」があることを知っているし,実際にそれらを観るためにコルトーナにも,マドリッドにも行き,そこでも同種の幸福感を味わった.そして,つまらない発想だが,あえて順位をつければ,未だにフィレンツェのサン・マルコ旧修道院の「受胎告知」が最高傑作だと思っている.

 それでも,それらの体験を全て超えて,サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノでずっと「受胎告知」を観ていたいという気持ちになる.

 展示の仕方も良い.この絵1点のみが展示された部屋で,静かに向かい合うことができる.たとえ,同じくらい素晴らしい絵でも,プラド美術館のように巨大な美術館で大勢の人の中で観るのとは全く違う体験と言えよう.

 なるべく午後の早い時間に帰りたいので,涙を呑んで,この絵の前を離れた.

 ヤコポ・デル・セッライオの「受胎告知」も,ドメニコ・ディ・ミケリーノの「聖母子と聖人たちも」も,パオロ・スキアーヴォの3点の絵も,ジョヴァンニ・ダ・ピアモンテの「天使ラファエルとトビアス」も相変わらず好きだと思ったし,スケッジャの画家人生の長さを思わせる制作年代の違う3作品も興味深い.

 しかし,何と言ってもフラ・アンジェリコの「受胎告知」だ.フィレンツェからローカル線で往復11ユーロ,入館料3.5ユーロでこの贅沢が味わえる.フィレンツェに来た人は,開館時間の最新情報をしっかり確認のうえ,万難を排してサン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノを訪ねるべきだ.

 受付の女性に向こうから,「フラッシュ無しなら写真を撮っても構いません」と言われたので,「10年前に3回この博物館に来ましが,その時は撮影禁止でした」と言ったら,「では,あなたはここに“帰って”来たのですね」と言われた.

 辞去する時,「また“帰って”来ます」と言ったら,「是非“帰って”来てください」と言われた.

 前は撮影できなかったので,当時受付にいた女性からいただいたカレンダーの写真で「受胎告知」を紹介した.このカレンダーは北本の茅屋にずっと飾っている.今回はピンボケだが自分で撮った写真を紹介する.でも写真ではこの素晴らしさは分からない.是非多くの人にサン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノに行ってほしい.

 この後,サン・ロレンツォ教会とサンタ・マリーア・デッレ・グラーツィエ聖堂を拝観して,2時前にはフィレンツェに戻った.



 5月15日にサン・カシャーノ・イン・ヴァル・ディ・ペーザ,16日にサン・ミニアート,17日にヴィンチとレオナルドの生家が残るアンキアーノ,18日にサン・ジミニャーノ,19日にシエナ,20日はオルガン・コンサート,21日はインプルネータに行ってきた.

 報告することは増える一方だが,焦らず,だが着実にペースを上げていきたい.ローマから戻って,既に2週間以上になるので,次回からは,ローマ行について古代篇,教会篇,特別展・美術館篇と3回に分けて,「来た,見た,感動した」式の簡潔な報告をまとめる.






華やかに,そして慎ましく
フラ・アンジェリコ「受胎告知」