§チェルタルド
ゴッツォリがフレスコ画を描いたタベルナコロを保管している教会があると知って,チェルタルドに行きたいと思っていたが,それとは別に,チェルタルドと言う地名をどこかで聞いたような記憶があった. |
それを思い出せないまま,カステル・フィオレンティーノでゴッツォリの2つのタベルナコロを観たのに続き,残る1つのタベルナコロも観ようと,チェルタルドの位置・経路を確認したところ,意外にも鉄道の駅があり,しかも,わずか数日前に行ったカステル・フィオレンティーノのシエナ寄りの隣駅だった.
ヴォルテッラで充実の一日を過ごした翌11日,その勢いのまま,チェルタルドに行くことにした.鉄道の場合,インターネットの時刻表を見れば簡単に出発時間を決められる.サンタ・マリーア・ノヴェッラ駅ではなく,寓居の近くのポルタ・アル・プラート駅を8時21分に出る電車を選び,寓居を出た.
エンポリに8時52分に着いて,9時8分発のシエナ行きに乗り換えだった.先日,カステル・フィオレンティーノに行った時,シエナ行はバス振替になったので,またそうなるかと思ったが,この日は電車が動いており,エンポリまで乗って来た車両がそのままシエナ行きになった.いつもそうなのかどうかわからないが,とにかく,乗り換えのために一旦降りた車両にまた乗った.
9時34分にチェルタルドに到着.駅を出ると,目の前には新しい感じの町が広がっており,古代に起源があって,中世も栄えた町とは思えなかった.教会の鐘楼が見えたので,とりあえず拝観することにした.
サン・トンマーゾ教会は大きな教会で,外観からは古いか新しいか分からなかったが,堂内に入って新しい教会だと分かった.1840年に建て始められ,教会として機能し始めるのは1885年からである.ネオ・ルネサンス様式の建築とのことだ.堂内は簡素で,新市街の住民のための信仰の場ということだと思う.
サン・トンマーゾ教会のファサードの前には,丘の上に顔を向けた立像のある広場があった.ボッカッチョ広場と言い,像の主も美術に先行する文学のルネサンスの立役者ジョヴァンニ・ボッカッチョである.
なるほど,チェルタルドと言う名前に聴き覚えがあるのは,ボッカッチョが晩年を過ごし,そこで亡くなった町だったからかと思い当たった.ここで生まれたと言う説もあるらしいが,出生地であると言うのはあくまでも可能性があると言うことだが,亡くなったのがこの町であることは間違いない.
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写真:
フニコラーレの中から見た
新市街 |
少し前に新市街と言ったが,実はチェルタルドの旧市街は丘の上にある.ボッカッチョの顔が丘の方を向いていたのはそういう訳だ.
丘の上に古い町があって,麓に敷かれた道路や鉄道の周囲に新市街が広がる光景はイタリアではお馴染みだが,鉄道で行けることが分かった段階で安心して,グーグルマップなどで確認するのを怠っていた.
ツーリスト・インフォメーションを探して,案内板の矢印の方向に進み,行き着いたケーブルカー(フニコラーレ)の乗り場の券売所で,インフォメーションは丘の上にあると言われて,ようやく,旧市街が丘の上にあると気づいた.即座に往復券を買い,ケーブルカーで丘の上に向かった.
サンティ・ヤーコポ・エ・フィリッポ教会
ケーブルカーを降りて,インフォメーションを探して歩く途中,ロマネスク様式の教会が目に入り,扉も開いていたので拝観した.サンティ・ヤーコポ・エ・フィリッポ教会である.
堂内にはボッカッチョの墓があった.人物像の浮彫のある大理石の墓碑は,いかにも中世風に見え,それらしくラテン語の碑銘もあったが,そこには「彫刻家モスキ」という1971年に亡くなった彫刻家の名前が彫られていた.
この墓碑は,今はウフィッツィ美術館の一部になっている旧サン・ピエール・スケラッジョ教会にある,アンドレーア・デル・カスターニョの剥離フレスコ画の「ボッカッチョ」を参考にした新しいものとのことだ.
その墓碑の頭の先の床に,小さな四角い大理石の石板があり,そこにもラテン語で「ボッカッチョの墓」(セプルクルム・ボッカッキー)と刻まれていた(トップの写真).彼の埋葬場所を示すプレートのようで,このプレートがいつ作られたのかは分からないが,大作家の遺体はその下にあるらしい.
後陣に向って左壁面には,ルネサンスの彫刻家ジョヴァン(ジョヴァンニ)・フランチェスコ・ルスティーチ(ウィキペディア英語版/伊語版)作のボッカッチョの胸像もあった.直下のラテン語プレートに1503年の作品と刻まれているので,28歳の作者が,文豪の死から128年後に作成したことになる.
この作品に肖像性があるかどうかはわからないが,雰囲気は十分伝わってくる.
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写真:
ルスティーチ作 ボッカッチョの胸像 |
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ルスティーチは1475年の生まれで,レオナルドより23歳年下,ミケランジェロとは同年だが,没年は,ミケランジェロが満88歳で亡くなる1564年より10年前の1554年,この年に徳川家康が12歳だから,やはり私たちにとっては昔の芸術家である.
ヴェロッキオの工房で修行し,レオナルドの影響を受けた証拠として,巨匠の下絵しか現存しない「アンギアーリの戦い」に想を得た作品が,バルジェッロ博物館に残っている.
元はフィレンツェのドゥオーモの洗礼堂の北門の上を飾っていたが,今は大聖堂博物館にある「洗礼者ヨハネの説教」のブロンズ像を作成し,ロッソ・フィオレンティーノやプリマティッチョとともにフランス国王フランソワ1世に招かれ,フォンテーヌブローでも仕事をした.
同時代には高い評価を受けたが,フランソワ1世の死後,保護者を失ったせいか,フランスのトゥールで貧窮のうちに亡くなったということだ.
彼の作品はルーヴル美術館にも展示されているので,私たちもこの彫刻家の作品を複数観ているはずだが,今まで意識したことが無い.しかし,来歴を知らなければ見過ごしてしまいそうな地味で小さな胸像にも,興味深い歴史的背景があるのだと言うことに改めて思い至る.
ちなみに,私が好きな彫刻家の一人バッチョ・バンディネッリはルスティーチの弟子であるらしい.これも前にも調べたのかも知れないが,全く記憶にはなく,愕然とする.
この教会には他にもルネサンスの遺産がある.まず,中央祭壇に向かって右側の壁(この教会は単廊式でサイド・チャペルは無い)に,ジョヴァンニ・デッラ・ロッビア工房の彩釉テラコッタ「聖母の雪の奇跡」がある.
この祭壇画型のテラコッタは,サン・マルティーノ・ダ・マイアーノ(現在はコムーネとしてのチェルタルドの一地域)と同名の教会のために制作されたが,サンティ・ヤーコポ・エ・フィリッポ教会に移されたとのことだ.
進入禁止のロープのだいぶ先にある中央祭壇の左右には,アンドレーア・デッラ・ロッビア工房とベネデット・ブリオーニ工房の彩釉テラコッタの聖櫃型タベルナコロがあったが,ズームで撮ったピンボケ写真しか資料がないので良くわからない.
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写真:
メンモ・ディ・フィリップッチョ
「聖母子と聖人たちと寄進者」 |
ゴシック期の遺産もある.伊語版ウィキペディアで作者名を確認して驚いたが,シモーネ・マルティーニの義父で,リッポ・メンミの父であるメンモ・ディ・フィリップッチョ作とされる「聖母子と聖人たちと寄進者」(聖人はペテロと大ヤコブ,寄進者は女性)のフレスコ画が,壁龕型タベルナコロの奥にあった.
決して上手とは思えないし,同時代のドッチョに比べて洗練度も高くはないが,このような先人がいて,シモーネやリッポのような偉大な芸術家が輩出したのだと思わせる絵だ.
この絵に出会えたのは僥倖だった.ドッチョもジョットも既に巨匠になっていた1315年から20年頃の作品とされ,ドゥッチョより若干年長で,その影響を受けたと考えられているこの画家は,もう古拙さが許されない時代の人だったと想像される.
今日までに,ピサのサン・マッテーオ絵画館,サン・ジミニャーノの参事会教会,同地の市立博物館,シエナの国立絵画館でメンモの祭壇画とフレスコ画を観ているが,まだまだそのイメージは掴み切れていない.
写真で見た未見の作品の内には,確かにドゥッチョの影響を受けたのだと思わせるものもあるが,まだ自分の目では観ていない.巨匠の年長の同時代人として,ドゥッチョとは別の路線も堅持した画家なのだと想像する.
この画家に関しても,少しずつ追いかけてみたい.私が好きなリッポ・メンミの父で師匠だったわけだから.
サンティ・トンマーゾ・エ・プロスペロ教会
ゴッツォリのタベルナコロを観るという第一の目的を果たす前に,サンティ・ヤーコポ・エ・フィリッポ教会で様々なものに出会う幸運に予想外に時間を奪われ,旧市街の唯一の大通り,その名もボッカッチョ通りの緩い登り坂をサンティ・トンマーゾ・エ・プロスペロ教会へと急いだ.
それらしい建物のファサードの前に着いたが,扉は開いていなかった.開くような気配も全く感じられなかった.深い失望感に包まれたが,気を取り直して,現在は博物館になっている,隣接するプレトリオ宮殿へと向かった.
教会と反対側の端の階段の上にある券売所に行くと,そこがツーリスト・インフォメーションも兼ねていることが分かったので,地図をもらい,入場券を買った.その際に,ゴッツォリのタベルナコロは見られないのかと聞いたら,博物館の順路を進むと,やがて教会の外壁で閉ざされた横庭に出て,その庭から教会に入れるということだった.
これまでも,旧教会・修道院が博物館の一部に取り込まれていて(というか,旧教会・修道院の建物,敷地を活かして博物館が造られていて),展示室を進むと,やがて堂内に至るタイプの博物館を幾つか見学してきたが,ここもそうだった.
いっぺんに気持ちが明るくなり,順路に従ってエトルリアの骨灰棺の浮彫などの考古学資料や,中世以降の陶器の破片などを割合に丁寧に観ながら進んで行くと,やがて現代アートが展示された庭に出た.それらは堂内にも続いており,旧教会が博物館の一部になっていることがはっきりと感じられた.
サンティ・トンマーゾ・エ・プロスペロ教会に関する伊語版ウィキペディアには,教会としての機能が終了している(スコンサクラート)とは書かれていないが,チェルタルドに関する伊語版ウィキペディアの中で,この教会は「旧教会」(エクス・キエーザ)として紹介されている(2017年5月20日参照).
堂内にはギルランダイオ派の「受胎告知」,ピエール・フランチェスコ・フィオレンティーノに帰属する可能性のある「カーテンを支える天使たち」があった.
ギルランダイオ派の作品は剥離フレスコ画で,元々はプレトリオ宮殿のために描かれたものらしいが,壁面に遺る,中世からルネサンスの無名の画家たちのフレスコ画,もしくはその断片は,元々この教会のために描かれたものであろう.
しかし,堂内のフォーカスは,現代アートとゴッツォリの「ジュスティツィアーティのタベルナコロ」,そして,そのフレスコ画の下絵(シノピア)にあった.
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写真:
「ジュスティツィアーティの
タベルナコロ」 |
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「ジュスティツィアーティのタベルナコロ」は,カステル・フィオレンティーノのタベルナコロと同様,復元したタベルナコロにオリジナルから剥離したフレスコ画を貼ったものだ.
死刑判決を受けた者たちが最後のお祈りをするために造られたタベルナコロで,「ジュスティツィアーティ」は「被処刑者」を意味する語の複数形で,固有名詞ではない.フィレンツェ共和国からヴァルデルサ(エルサ川渓谷周辺地域),ヴァル・ディ・ペーザ(ペーザ川渓谷周辺地域)の裁判権を委任されたチェルタルドの代官によって,1415年に設置されたようだ.
ゴッツォリとその工房がフレスコ画を描いたのは,彼がサン・ジミニャーノのサンタゴスティーノ教会に「聖アウグスティヌスの物語」の連作フレスコ画を作成していたのと同じ頃と考えられており,であれば,1460年代の前半で,1415年の設置からは,かなり時間が経っているが,それ以前はどういう風に装飾されていたのか分からない.
正面の深く刳りぬかれた部分は「キリスト降架」,正面に向って左側の壁に浅く刳られた部分には「セバスティアヌスの殉教」,右側の壁の,やはり浅く刳られた部分には「キリスト磔刑」が描かれており,いずれも「処刑」に関わる絵であることから,この絵が描かれた時点でも,やはり,当初と同じ機能を果たしていたものと思われる.
裏側は壁全面に「キリストの復活」が描かれている.被処刑者たちがタベルナコロの裏まで見ることができたかどうか分からないが,キリストの復活と言う教義の根本部分を信じて,死して後の最後の審判を待つことで,自身の心の慰藉とすると言うことだろうか.
正面のアーチになった天井の裏側は,頂点に「聖霊の鳩を送り出す全能の神」,その両側には福音書記者が2人ずつ,さらに下には聖人が2人ずつ描かれている.
この聖人がロンギヌス(槍がアトリビュート),洗礼者ヨハネ,大ヤコブ(巡礼の杖を持っている),大修道院長アントニウス(T字型の杖を持って修道服を着ている)であるところまでは絵を読み解くことができる(伊語版ウィキペディアにも整理されている)が,下部は,やはり全くと言って良いほど消えてしまっている.
フランチージェナ街道沿いの,アリエーナ川の側にあったと言うことなので,やはり風雨だけではなく,洪水の影響があったのかもしれない.
オリジナルのタベルナコロの写真が伊語版ウィキペディアにあって,それを見ると,屋根がかかっていて,それで上部が三角になっていたのかと納得がいった.屋根を付けて雨を防ごうとしたのは,鞘堂ができる前の「マドンナ・デル・トッセのタベルナコロ」も「ご訪問のタベルナコロ」もおそらく同様であったと想像される.
伊語版ウィキペディアに拠ると,ゴッツォリの手が入っているのは,「キリスト降架」と,正面の刳られていない部分の上部にある「受胎告知」のみで,他は工房の作品のようだ.
工房の助手の中に,ピエール・フランチェスコ・フィオレンティーノとジュスト・ダンドレーアという,それぞれ自分の名前でも作品の残っている画家たちがいた可能性が示唆されている.後者は,フィリーネ・ヴァルダルノの宗教芸術博物館,フィレンツェのアカデミア美術館,フィエーゾレのバンディーニ博物館でその作品を観たアンドレーア・ディ・ジュスト(・マンツィーニ)の息子とのことだ.
今は色々な断片的な知識が溜まるばかりだが,いずれ,どこかで何かが繋がって来て,もっと大きな像が見えてくるだろう(と期待している).
このタベルナコロのフレスコ画は,ゴッツォリの作品として上質の水準にあるとは言い難いように思える.しかし,観たいと願ったものを観ることができ,それについては,ほぼ最高の満足感が得られた.
この後,プレトリオ宮殿の内部を見学し,セット券になっている,「ボッカッチョの家」も見学した.
柏熊達生による日本語訳を含む各国語訳の『デカメロン』などの近代の刊本多数を展示した図書室など,それなりに面白かったが,第二次世界大戦の爆撃で破壊されたため,建物は再建だし,ボッカッチョの遺品も無い.
それでも,屋上に出て眺めるヴァルデルサの風景は,見る者を陶然とさせる美しさだった.少し遠方の丘の上の,塔の並ぶ町がサン・ジミニャーノであるのは明らかだった.
カステル・フィオレンティーノやチェルタルドなど,フィレンツェの影響,支配を受け,現在もフィレンツェ県改め,「フィレンツェ都市圏地域」に属しているコムーネ(基礎自治体)と違い,今はシエナ県に属しているサン・ジミニャーノは古くからシエナの影響が強い.それでいて,やはり同じエルサ川渓谷地方の町であることを,この目で確認することができた.
この光景を見て,サン・ジミニャーノにまた行きたいという気持ちが湧き,18日に10年ぶりに再訪した.そこでもゴッツォリのフレスコ画とテンペラ板絵の祭壇画を観たが,これはまた後日の報告とする.
宗教芸術博物館
最後に,購入したセット券(3ユーロ)に含まれていなかったので,新たに入場料(2ユーロ)を払って,宗教芸術博物館を見学した.
サンティ・ヤーコポ・エ・フィリッポ教会を支えたアゴスティーノ会(聖アウグスティヌス修道会)の旧修道院を利用した建物の中に入ると,現代アートらしき作品と共に,剥離フレスコ画や祭壇画などの宗教芸術が展示されていた.
サンティ・トンマーゾ・エ・プロスペロ教会でも,タベルナコロや剥離フレスコ画と一緒に現代アートが展示されていたので,何らかのコンセプトはあるのだと思うが,個人的には,こういう展示はどうかなあと思わないでもない.
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写真: チェンニ・ディ・フランチェスコ
「授乳の聖母子」 |
ここでは,チェンニ・ディ・フランチェスコの剥離フレスコ画「授乳の聖母子」,「聖マルティヌスとアレクサンドリアの聖カタリナ」,テンペラの祭壇画「キリスト磔刑と聖人たち」を観ることができた.
剥離フレスコ画は,サンティ・ヤーコポ・エ・フィリッポ教会の堂内にあったジョヴァンニ・デッラ・ロッビア工房の「聖母の雪の奇跡」と同様,元はサン・マルティーノ・ア・マイアーノ教会にあったものとのことだ.
他に,ビガッロの親方の「聖母子と聖人たち」,メリオーレ・ディ・ヤーコポの「玉座の聖母子と聖人たち」といったジョット以前の祭壇画も見られ,この博物館もルネサンス以降の作品よりは,ゴシック期の作品の方が見応えがあった.
見るべきものは大体見て,ケーブルカー,電車を乗り継いで,午後2時前にはフィレンツェに戻ることができた.
次回はサン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノ再訪の報告をする.
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向こうの丘もヴァルデルサの町 サン・ジミニャーノ
「ボッカッチョの家」博物館の屋上から
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