§フィレンツェ周辺で見られる古代遺産
古代の遺産に関しては,イタリアではローマ以上の場所は考えられない. |
急遽出かけたローマでは,諸博物館,諸教会で古代石棺を中心に,ついでに中世,ルネサンス,バロックの遺産も鑑賞したが,何と言っても半日以上を費やしてオスティア・アンティカで遺跡と博物館を見学できたのは大きな収穫だった.
すぐにも報告したいところだが,今回は予定通り,メディチ・リッカルディ宮殿の大理石彫刻博物館,フィエーゾレとアレッツォの考古学博物館と前者のローマ劇場,後者の円形闘技場,パラティーナ美術館で観た古代彫刻に関して報告をまとめる.
その前に,近況をざっと記しておく.
4月18日から5月7日までの活動
4月18日にピサ,19日にプラート,20日にルッカに電車で行った.21日は大学に行くついでに同じバス券が使えるので再びフィエーゾレに行き,22日には電車でピストイアに行った.
23日はペルゴラ劇場でエウリピデスの「メデイア」を観劇し,25日はバスでシエナ,26日はエンポリ,29日はモンテヴァルキに電車で行ってきた.
30日はピストイアのマンゾーニ劇場でモーツァルトのオペラ「イドメネオ」を鑑賞,ピストイアへの往復はフィレンツェ歌劇場が用意していたバスを利用した.
ローマから帰還した翌5月6日は,関西大学の高橋教授が手配してくださった鑑賞券で,ピストイアの3つの教会を移動しながら,ロマン主義,バロック,19世紀イタリアのオルガン曲を4つのオルガンで聴くという少し変わったコンサートを楽しんだ.ピストイアへは午前中に出かけて,夕方のコンサートの時間まで,未拝観の幾つかの教会を拝観した.
7日の午後はペルゴラ劇場でサミュエル・ベケット作「ゴドーを待ちながら」をイタリア語版で観劇した.ぺルコラ劇場へ出かけるまでの時間は大人しく家にいて,ローマでの活動と費用の整理と翻訳の仕事に充てるつもりだったが,思い立って,エンポリとシエナの間にあるカステル・フィオレンティーノに電車に行き,ベノッツォ・ゴッツォリ博物館等を見学した.
それぞれの報告は,まとめられるものから順次して行く.
大体,朝早く出かけて,開いている教会と博物館を見学し,午後から夜にかけて,寓居か研究室で仕事するパターンだ.トスカーナの中心部フィレンツェにいて,交通手段に恵まれているからこそできることだろう.
このペースであちこち出かけるのは,季節の良い今だけと思っている.こちらの夏は湿気こそ少ないものの強烈に暑い.もう少ししたら,寓居と図書館での仕事が中心の生活になるだろう.
古代大理石胸像博物館
昨年8月にウフィッツィ美術館で観た古代胸像についてまとめる際に,リヒターの研究書を参考にしたが,そこに何度かリッカルディ宮殿のコレクションの名前が出てきた.
現在はメディチ・リッカルディ宮殿という名前で,フィレンツェ県の県庁としても使用されているこの宮殿は,同時に博物館として一般公開されており,メディチ家が住んでいた時に作られた個人礼拝堂に描かれたベノッツォ・ゴッツォリの「三王礼拝」の華やかなフレスコ画で知られる.
ゴッツォリの絵は何度も見たが,大理石胸像のコレクションがあるとは知らなかった.少なくとも,私の持っていたガイドブックに,そういう情報はなかった.ネット検索して,この宮殿のどこかにムゼオ・デイ・マルミという名の博物館があり,そこにリヒターの研究書に言及のある胸像コレクションが展示されていることを知った.
今回はまず券売所で場所を尋ねて,教えられた通り,中庭(というか建物で四方を囲まれている訳ではないので,「裏庭」と言った方が正確かもしれないが,語として「中庭」の方が「裏庭」より美しく,少なくとも三方は建物に囲まれているので,一応「中庭」と言っておく)に向かうと,地下に降りる階段があり,ムゼオ・デイ・マルミと言うバナーもあった(トップの写真).
4度目の見学にして漸く,「古代大理石胸像博物館」(ムゼオ・デイ・マルミ)を見学することができた.昨年8月にここを訪ねた際には,この博物館のことは全く知らず,これに関しては全く以て汗顔の至りである.
写真:アナクレオン像(左) カルネアデス像(右) ムゼオ・デイ・マルミ |
コレクションそのものは,立派なコレクションが少なくないイタリアの博物館にしては平凡と言って良いものだと思うが,アナクレオンとカルネアデスの胸像に関しては,ウフィッツィの所蔵作品よりも,これらの詩人,哲学者である可能性が格段に高い胸像が展示されており,作品としてもコレクションの中で群を抜いて優れたものに思われた.
アナクレオンとカルネアデスの胸像のことは,昨年の出張報告の回で語ったので,ここでは撮って来た写真を紹介するにとどめるが,この2つの胸像に出会えた時は,感動を抑えきれなかった.何人かの見学者と係員がそばを通り過ぎたが,この小さなアジア人は何をそんなに感動して,写真を撮りまくっているのか,怪訝な顔をしていた.まあ,無理もないことであろう.
話は少し飛ぶが,ウフィッツィにあるヒポクラテス像は,アナクレオンやカルネアデスの場合と違い,本人の胸像である可能性が高いが,その根拠となる碑銘の付いた,多分同じオリジナルからのコピーである胸像をオスティア・アンティカの博物館で観て,ギリシア語の碑銘も確認した.
こちらでも写真を撮りまくったが,この時は周囲にいたアメリカ人やドイツ人の老若男女の古代彫刻オタクが,私のコンデジとは全く格の違う一眼レフの立派なカメラで堂に入った撮影をしていたので,カメラの違いは別にして,写真を撮ることに関しては特にばつの悪い思いはしなかった.
古代の遺跡そのものであるオスティアとルネサンスの町フィレンツェの違いではあろうが,ルネサンスの理念を支えたのは古典古代への憧憬であったことを忘れるべきではないであろう.文化の価値は相対的なものだから,古典古代が懸絶して優れていると言うつもりはないが,ギリシア,ローマの卓越性はやはりしっかりと評価されるべきだと思う.
こうしているとまた話が長くなってしまうので,この後は,フィエーゾレとアレッツォの考古学博物館で観た古代遺産の中で,今回特に注目した作品について報告する.前者に行ったのは4月5日,後者は4月14日に行くことができた.
フィエーゾレの古代遺産
フィエーゾレの考古学博物館は2007年5月30日以来2度目である.写真撮影可なのは当時もだったが,10年ぶりに同じ展示を見て,当時との視点の違いを実感することとなった.
エトルリア人の都市がフィエーゾレの起源であるくらいの知識は当時もあったが,相当数あるギリシア陶器がなぜそこにあるか特に考えなかったし,今なら注目する黒光りのするブッケロ陶器に興味を持つこともなかった.主としてギリシア陶器の絵柄と,ローマ時代の,大して出来が良いわけでもない胸像くらいしか興味を覚えなかった.
今回,ブッケロ陶器の他にも様々なエトルリアの遺産が展示されており,ギリシア陶器があるのは,エトルリア人の「ギリシア愛好」(フィルヘレニズム)を反映していることや,ローマ彫刻があるのは,共和政末期にローマの植民都市として支配領域に組み込まれたからであることを改めて認識した.
さらに,古代末期から中世初期にランゴバルド人がやって来て,没落した古代都市の周辺に集落を形成していた証拠が展示されていることも認識した.
フィエーゾレの考古学博物館は,伊語版ウィキペディアにも今のところ(2017年5月8日参照)独立した立項は無く,考古学地域の項目で簡単に言及されているだけで,あまり注目されているとは言いがたい.
ブックショップで案内書を売っていたが,あいにく他の言語は売り切れで,仏訳版しかなかった.「大丈夫,随分前だが,学生時代にフランス語勉強したので読めるから」とか言って買ってきた.
Marco de Marco, tr., Rose-Marie Olivier, Petit Guide du Musée Civique Archéologique de Fiesole, Firenze: Editrice Giusti di Becocci Saverio, 2004(以下,デ・マルコ)
であるが,2004年の出版であれば,前に行った時も既にあったはずだが,初めて見た.
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写真: ステーレ・フィエゾラーナ 前5世紀初頭
フィエーゾレ考古学博物館 |
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この本の解説ページの最初に挙げられている写真は,「ステーレ・フィエゾラーナ」(フィエーゾレ型石碑)と言われるものだ.ギリシア語ではアンテミオン(anthemionと言う綴りで英語の辞書にも登録されている),イタリア語ではパルメッタと呼ばれる植物装飾が最上部にあり,その下に小さなライオンが互いに反対側を向いて休んでおり,三面の四角パネルの浮彫は上から「饗宴」,「舞踏」,「狩り」のようである.
これが墓碑であれば,宴席に身を横たえている男女が墓の主であろうが,デ・マルコに拠れば,墓の中に貴族が自分の権力や富を誇示するために置いたものとされている.
デ・マルコは前6世紀,博物館の解説プレートは前5世紀初頭のものとしており,素材はイタリア語でピエトラ・セレーナと称される砂岩の一種で,デ・マルコに拠ればフィエーゾレ地域,解説プレートに拠れば,フィレンツェ近郊のポンタッシエーヴェのトラヴィニョーリ地区出土とのことである.
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写真:
ヒュドリア フィエーゾレ考古学博物館 |
全体的に黒光りしているブッケロ陶器,黒絵式,赤絵式のアッティカ陶器といった大雑把な分類には属さないものも含め,陶器のコレクションは数も多い.今後,その分類も少しずつ勉強していくとして,とりあえず,まずまず絵柄がわかる程度に写ったヒュドリアと呼ばれるタイプの陶器の写真を紹介しておく.
ヒュドリアは,平たい円形の口の下に窄まった首があり,その首に縦に取っ手がついていて,下に窄まっていく太い胴体に水平の持ち手が2つあり,細い一本足に丸い皿型の台座のある一種の甕で,水を運ぶのに使われた.何度か紹介しているが現在のプーリア州あたりで多く生産された華やかな絵柄のタイプのものである.
胴体の上部には有翼の女性が4頭立ての馬車(クァドリーガ)を駆っている.勝利の女神ニケであろう.周辺には赤絵式の神々(ヘカテ,アポロ,アテナ,ヘルメス,アルテミス)の姿が描かれている.
ラテン語でアエディクラと言われる小さな建造物の中にいる女性が死者であれば,この陶器も実用と言うよりは葬送用のものと言うことになる.この建造物の周辺には死者と思われる女性に贈り物を運ぶ女性たちが描かれており,当該人物の死を「勝利」として美化し,死後の豊かな生活を祈願しているものと想像されるが,ハズレかも知れない.
この博物館はギリシア陶器のコレクションはなかなか立派だと思う.より技術が進んだ赤絵式もあるが,黒絵式の方が多いように思え,そして,どちらかと言えば黒絵式に優れたものが多いような印象を受けた.
美しい白地レキュトスもある.エトルリアの都市としては辺境に属するこの町(ラテン語ではファエスラエ,エトルリア語では正確な発音は私にはわからないが仮にウィプスルもしくはウィスルとしておく)にも,フィルヘレニズムは浸透していたと思われる.
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写真:
テルマエ(浴場)
フィエーゾレ考古学地域 |
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博物館の外には,広々とした考古学地域が続く.主たる遺構としてはローマ劇場,テルマエ(浴場),神殿が挙げられ,このうち前二者はローマ時代のもので,神殿も基本的にローマ時代のものだが,一部にエトルリア時代の遺構も見られる.
フィレンツェから見える,お金持ちの別荘が立ち並んでいるエリアは反対側で,この考古学地域は,歩いているだけで古代の風に吹かれているように思え,十九世紀の発掘によるものとは言え,よく残ってくれたものだと思う.
アレッツォの古代遺産
なだらかな坂道があって丘を思わせるとは言え,アレッツォは,丘の上の小さな町フィエーゾレに比べれば,基本的に平地にある.現代都市としても殷賑な都市空間が広がっているが,中世にもトスカーナの有力な都市国家であっただけに,古代遺跡がそのまま残るのは難しかったと思う.
それでも,駅から徒歩ですぐのところにある古代ローマの円形闘技場の跡は,周囲が公園になっていることもあり,すぐそばに賑やかな通りがあるにもかかわらず,静かで,ここで残忍な見世物が行われたことを想えば,心境は複雑であるが,それを忘れれば,まずまずの心地良い空間と言えよう.
この円形闘技場跡に隣接して,アレッツォの考古学博物館がある(一番下の写真).
フィエーゾレの考古学博物館同様,「相撃ちに果てるポリュネイケスとエテオクレス」に代表されるギリシア神話の浮彫のある古代石棺(火葬したお骨用なので,相変わらず「骨灰棺」と言っておく)も,ブッケロ陶器,ギリシア陶器もあったが,「アレッツォのキマイラ」だけでなく,同地のサン・ロレンツォ教会近くの井戸で発見された通称「アレッツォのミネルヴァ」も,フィレンツェの考古学博物館に持って行かれてしまっている.
アレッツォの考古学博物館で,最も目を引いたのは,赤地に神話などの浮彫のある陶器だった.
思わず「万古焼のウェッジウッド」と言ってしまいそうな独特の雰囲気を持っていた.多くは破片もしくはそれを繋ぎ合わせてもので,完璧な形で残っているものは私が見た限りないが,それでも今まで見たことがなかったので,随分魅力的なものに思えた.
今回,心の準備ができていなかったこともあり,まともな写真が撮れていないが,比較的良く写ったもの中から「葡萄を摘むサテュロス」を紹介する.
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写真:
「葡萄を摘むサテュロス」の
浮彫がある チェラーミカ・シジッラータ |
「ケンタウロスと戦うヘラクレス」もあったが,サテュロスやマイナデスなどディオニュソス(バッカス)関連のものが多いように思えたのは酒器に多く使われたからだろうか.いずれにしても,勉強はこれからで,知っている人にとっては当たり前のものだろうが,私は不勉強で知らなかったので,少しずつ学んでいきたい.
イタリア語ではチェラーミカ・シジッラータと言うようで,その語で検索すると伊語版ウィキペディアに独立項目として立項されている.アレッツォの陶器の写真もあるが,必ずしもアレッツォだけのものではないようだ.
ギリシア陶器に関しては,私の印象ではフィエーゾレの方が立派な作品が多かったように思うが,この赤い地肌に浮彫のある陶器はフィエーゾレでは見られなかった.今度は予習もし,心の準備をした上でもう一度来て,赤地浮彫陶器をじっくり鑑賞したい.
パラティーナ美術館の「オウィディウス」
古代彫刻や石棺が見られるのは考古学博物館に限ってのことではない.メディチ・リッカルディ宮殿のムゼオ・デイ・マルミもそうであるように,各都市の有力者のコレクションは多くの古代彫刻や石棺を含んでおり,今回のローマ行でもコルシーニ宮殿,バルベリーニ宮殿,ドーリア・パンフィーリ宮殿で見事な古代石棺と彫刻を鑑賞することができた.
それらに関しては別途報告するとして,4月12日に行ったピッティ宮殿のパラティーナ美術館(メディチ家のコレクションを元にしている)でも,なかなか立派な古代彫刻のコレクションを観ることができたが,その中に,何度も行っているパラティーナで今更と思わずにいられなかったが,解説プレートに「オウィディウス」とある古代胸像を見つけ,目を見張った.
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写真:
解説プレートに
「オウィディウス」とある
古代胸像
パラティーナ美術館 |
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自分の専門に近い詩人の胸像とされる古代彫刻に今まで全く気付かなかったのは迂闊な話だが,負け惜しみも込めて言うと,この胸像はオウィディウスの繊細なイメージから程遠い,中年の男性像で,美男でもないし,才気も感じさせない.
「Ovid sculpture」でグーグルの図像検索をすると,そこで見られるのは,ほとんどが彼の生まれ故郷スルモーの後進都市スルモーナの広場に立つ彼の立像である.これは1877年に制作された新しいものなので,何らかの古代肖像のモデルがなければ詩人の肖像性は全くない.
パラティーナの胸像に関しては,今のところ他に言及があるのを見つけることができていない.美術館の解説プレート(ただし「解説」は全くない)にもイタリア語でも英語でも「そのように呼ばれている」(so
called)と言う句が付されているので,昔,誰かが「これはオウィディウスの胸像だ」と言ったかもしれないが,誰もその根拠を見いだせていないのだと思う.
おそらくオウィディウスではないと思うが,初めてこれに気が付き,ギリシアの哲学者,政治家,ローマ皇帝には肖像性のある胸像が多くあるのに,古代の詩人たちの肖像彫刻(悲劇詩人,喜劇詩人はかなりある)はどうなのだろうと改めて思った.
上で紹介したアナクレオンの胸像については,古代から文学作品その他に証言はあるものの,そもそもアナクレオンの時代にはまだ肖像性のある彫刻が造られてはいなかったように思えるし,たくさん胸像が残るホメロスに関しては,実在の人物かどうかもわからない.
ウェルギリウスの最古の肖像は,チュニジアに残る床モザイクで,これなどは稚拙な感じで,本人の姿を本当に反映しているのかどうか疑問に思われる.
一応,留保付きでも美術館のプレートに「オウィディウス」とあった古代胸像(あり得ないように思われるが,今後,少しずつ勉強していく契機とする)を紹介して,今回は終わりとする.
次回は,フィエーゾレの教会とバンディーニ博物館について報告する.
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樹々の向こうに円形闘技場
そのまた向こうに考古学博物館
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