§オルサンミケーレ教会
4月10日にバディア・フィオレンティーナ教会に行ったことは既に報告しているが,今回は,バディアに行きがてら寄ったオルサンミケーレ教会について,簡単に報告する. |
オルサンミケーレ教会の外壁には,正面とその反対側の2つの短側面にそれぞれ3つずつ,2つの長側面にそれぞれ4つずつ,計14の壁龕があり,そこに中世フィレンツェ共和国の政治経済を支えた職業別組合(アルテ)が寄進したそれぞれの守護聖人の像が置かれている.
街路(正面から向って左回りにアルテ・デッラ・ラーナ通り,オルサンミケーレ通り,カルツァイウォーリ通り,ランベルティ通り)に面してある,美しいゴシック装飾の14の壁龕と,そこに収められた大きな彫刻は一見以上の価値がある.
しかし,実はこれらは全てコピーで,本物はどこにあるかというと,ドナテッロの「聖ゲオルギウス」を除いて,教会の博物館にあって,「聖ゲオルギウス」のオリジナルだけは壁龕と下部の浮彫も含め,バルジェッロ博物館にある.
オルサンミケーレ教会の博物館は,教会と同じ建物の上階にあって,そこへは,アルテ・デッラ・ラーナ(羊毛組合)通りを挟んで教会の入り口の真向いにある,その名もアルテ・デッラ・ラーナ宮殿という小さな建物(ここには「イタリア・ダンテ協会」の本部がある)から,そこの2階と教会の2階を結ぶ渡り廊下を通って行くことができる.
ところが,もっと簡単に教会の中から直接行ける階段があることが,博物館を見学後に教会を拝観して分かった.係の女性が,この上に博物館があるからこの階段を昇って行ってみたらと勧めてくれたのだ.もう見た後なので辞退したが,また何度か来るだろうから(博物館も教会も無料),中の階段を使う機会はあるだろう.
記憶がすぐ曖昧になるが,教会の建物(もともと教会として建てられたものではない)は,おそらく三層からなっており,一層目は教会,二層目が壁龕彫刻のオリジナルを展示した博物館,さらに三層目は広間になっていて,磨滅した彫刻や古いフレスコ画が飾られている.
最上階の三層目は見るものはあまり無いが,明るい空間で眺めが良い.近代的ビルの屋上ではないので,フィレンツェ全体が見渡せるという程ではないが,都市の生活感を身近に感じながら,ほどほどの絶景が味わえる.三層目に行く階段から二層目の彫刻展示を見下ろすこともできるので,階段を昇る体力と気力が残っていれば,行った方が良い.
博物館で見られる作品
外壁の壁龕の彫刻はコピーで,オリジナルは博物館にあると知った時から,これを観なければと思い続けていたが,今回ようやく観ることができた.
伊語版ウィキペディアに壁龕の彫刻の便利な一覧があって,これに拠ると,概ね1410年代,マザッチョの「貢の銭」以前の本当の初期ルネサンスの時代に制作されたものが多いようだ.
最も古い作品は,ランベルティ通りに面した長側面の右から2つめのピエロ・ディ・ジョヴァンニ・テデスコ作の「バラの聖母子」が1399年頃とされ,とすれば,多くの概説書等でフィレンツェの視覚芸術のルネサンスの始まりとされる,洗礼堂の扉のブロンズ・パネルの作者を選定するためのコンクールが開かれた1401年よりも少し前の作品ということになる.
16世紀の作品もある.「バラの聖母子」の右隣にあるバッチョ・ダ・モンテルーポ作「福音史家ヨハネ」(絹織物商組合,1515年),カルツァイウォーリ通りに面した右端壁龕のジャンボローニャ作「福音史家ルカ」(裁判官・公証人組合,1597年から1602年)だ.
「福音史家ルカ」の完成が1602年であれば17世紀の作品ということになり,14世紀の終わりから17世紀初めまでの長い時代にわたる芸術作品によって壁龕が装飾されていることが分かる.
像はブロンズもあり,大理石のものもあるのを不思議に思っていたが,制作年代にこれだけ幅があり,寄進者もそれぞれ異なることを考えると,分かるような気がしてきた.
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写真:
ヴェロッキオ作
「聖トマスの不信」 |
もっとも,前述のように殆どの作品は1410年代までの初期ルネサンスの時代の制作で,ヴェロッキオ作「聖トマスの不信」(商業裁判所,1467年から1483年)だけが初期ルネサンスから盛期ルネサンスに移行していく時代の作品ということになる.
この作品も以前はそれとは知らずにコピーの写真を紹介したが,今回はオリジナルの写真を紹介する.
ヴェロッキオもイタリア・ルネサンスの大芸術家だが,1410年前後に制作された彫刻群の作者として挙げられているのも,ギベルティ,ブルネレスキ,ドナテッロと綺羅,星の如くである.
しかし,それらの巨匠たちの作品以上にここで私が見たかったのは,ナンニ・ディ・バンコの作品だ.
ナンニ・ディ・バンコ
2012年にフィレンツェを再訪した時,心密かに思っていたテーマの一つがナンニ・ディ・バンコと言う彫刻家の数少ない現存作品を観ることだった.
それまでに見られたナンニの作品は大聖堂博物館(大聖堂壁面にはコピー)の「預言者イザヤ」,「福音史家ルカ」だけで,実物を見たと思っていたオルサンミケーレ教会の外壁壁龕の諸彫刻はコピーだとわかったし,大聖堂北壁の「マンドルラの門」にある「聖母被昇天」の浮彫は2007年も修復中であったが,2012年になってもまだ足場が組まれ,覆いがかけられていて,見ることはできなかった.
2016年の研究出張の時,この「聖母被昇天」の浮彫をついに観ることができ,大聖堂の傍を通る度に仰ぎ見て,この浮彫の直下にあるダヴィデ・ギルランダイオ作とされる「受胎告知」のモザイクとともに写真にも収めた.
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写真: ナンニ・ディ・バンコ作
「腰帯の聖母」型の
「聖母被昇天」
大聖堂北壁 |
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腰帯を垂らす聖母を囲むマンドルラは,4人の天使によって支えられ,上部には奏楽の天使たちがいる.「腰帯の聖母」型の「聖母被昇天」なので当然,(向かって)左下に聖トマスがいる.
目を引くのは右下の木に抱き着つくように後ろ足で立っている熊だ.何か宗教的な象徴なのだろうか.
伊語版ウィキペディアの用語「熊と木」(オルソ・エ・ウン・アルベロ)で検索すると,マドリッドにある像の説明がヒットする.マドリッドの紋章にもなっていて,13世紀に遡るキリスト教とも関係のある伝説が挙げられているが,「聖母被昇天」に関係するとは思えない.
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写真:
ナンニ・ディ・バンコ作
「聖エリギウス」
(手前の大理石の像)
オルサンミケーレ博物館 |
オルサンミケーレの壁龕におけるナンニの作品は3点,「聖エリギウス」(鍛冶屋組合,1417年から1421年),「聖ピリポ」(製靴業組合,1410年から1412年),「四人の殉教聖人」(石工・木工業者組合,1409年から1417年)である.
制作年代はもちろん自分で調べたわけではなく,上述の伊語版ウィキペディアに全面的に依拠しているが,ここまではっきり書くのは文献的根拠があるのだろう.博物館の解説プレートと説明書きには同じ年代で「~頃(ca.)」が付されている.
3作のうち「聖エリギウスの制作」が一番遅く,その分一層,写実的で時代が進んだような印象も受ける.
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写真: ナンニ・ディ・バンコ作
「四人の殉教聖人」
博物館のオリジナル |
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「四人の殉教聖人」については早くから注目していたようで,2007年4月のフィレンツェ雑感というタイトルの報告で,「コピーかも知れない」と断ったうえで,由緒は調べていないとしながらも一応写真を紹介している.
その由緒に関しては,今も特に詳しく知っているわけではないが,伊語版ウィキペディア等によって,現在のハンガリー,オーストリア,クロアチア等の数か国ににまたがる地域である古代ローマ時代のパンノニア地方のシルミウム(現在はセルビア共和国に属しているスレムスカ・ミトロビツァ…日本語表記はグーグル・マップを参照した)に実在したとされる彫刻家(石工)たちのようだ.
ディオクレティアヌス帝に古代医術の神であるアスクレピオスの像を造るように命じられたが,キリスト教徒だったので,信仰上の理由でそれを断り,殉教した人たちとされ,名前もセンプロニウス(もしくはシンフォリアヌス),クラウディウス,ニコストラトス,カストリウス(もしくはカソリウス)と伝わっている.
ディオクレティアヌスは紀元後284年に皇帝となり,305年に引退するが,ミラノ勅令が出される313年まで存命だったので,まもなくキリスト教が公認される時代の殉教聖人だったことになる.
今回,博物館で,
Antonio Godoli, ed., I Quattro Santi Coronati: Il Restauro del Tabernacolo di Nanni di Banco,Firenze: Edizioni Polistampa, 2015
を購入(定価8ユーロのところ,特別価格5ユーロ)したので,時間をみて勉強するが,今後の課題だ.いずれにしても注目される作品であることが分かる.
オルサンミケーレ教会の堂内の芸術作品
堂内ではいつものように,オルカーニャ作の大理石の小神殿型礼拝祭壇(イタリア語ではタベルナコロと言う多義的な語で説明されている)(1349年から59年)が言語を絶する見事さだった.
祭壇の中に納められているベルナルド・ダッディ作の「聖母子」(1347年)のテンペラ板絵の祭壇画との親和性に関しては,観る人によって意見が違うと思うが,ともかく立派な作品だ.
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写真:
ベルナルド・ダッディの
祭壇画が納められた
小神殿型礼拝祭壇
オルカーニャ作 |
オルカーニャはジョットの弟子ではないが,ジョッテスキ全盛の時代に,一線を画しながらも,その影響を受け,自らも同時代の人々に影響を与えながら,彫刻も絵画も遺した大芸術家である.
その左隣には,フランチェスコ・ダ・サンガッロ作の「聖アンナと聖母子」(1526年頃)の祭壇彫刻があり,これも立派だ.
以前,オルサンミケーレで写真が撮れないのが残念だった大きな理由は,天井や柱に相当数残っているフレスコ画について,何らかの情報を得ようとした時,どの作品がどこにあったかを確認するのに,自分が撮った写真があると良いと思ったからだ.
今は,フラッシュを焚いている人がいるとここぞとばかり大声で注意する管理者はいるが,写真撮影そのものは大っぴらにできるようになって,既にこの教会に二度足を運んで,写真を撮っているが,やはりコンデジ,オートの限界か,殆どの写真は撮った自分もわからないほどピンボケである.
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写真:
天井のフレスコ画
旧約聖書の4人の男性
描いたのはスピネッロ・
アレティーノと
アンブロージョ・バルデーゼ |
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この教会の平面図が伊語版ウィキペディアにあり,参考になるが,長方形の堂内の天井には6面の交差ヴォールトがあり,それぞれ4面の三角面(スピッキオ)に聖人のフレスコ画がある.
このうち2つのヴォールトには,一つはロレンツォ・ディ・ビッチの手による旧約聖書の女性登場人物たち(イヴ,ラケル,レベッカ,サラ)が,もう一つにはスピネッロ・アレティーノとアンブロージョ・バルデーゼによる旧約聖書の男性登場人物たち(モーセ,ヨシュア,ダヴィデ,マカベアのユダ)が描かれており(伊語版ウィキペディア),モーセとヨシュアがスピネッロの作品とされている.
その真偽はともかく,ヴォールト天井のフレスコ画がとても興味深く思われたので,写真は撮って来ている(上の写真).先日(4月26日)にエンポリに行き,参事会教会附属博物館でジョヴァンニ・バルデーゼのテンペラ祭壇画「聖母子」も観てきたので,この画家についてもわかる限り調べてみたい.
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写真:
ニッコロ・ディ・ピエトロ・
ジェリーニのフレスコ画
とされる「聖三位一体」
下に写っている拝観者の
大きさを見たら,かなり天井が
高いことが分かるだろう |
構造的に重要な役割を果たしていると思われる四角柱の壁面にも,下に関連の物語が描かれた聖人像がある.
見入っていたオルカーニャのタベルナコロから視線を外し,ふと左を見た時,サンタ・クローチェ聖堂の聖具室で見られる「キリストの復活」のフレスコ画のキリストの顔に似た顔の神が中心になっている「聖三位一体」があるのに気づいた.
伊語版ウィキペディアの便利な一覧はニッコロ・ディ・ピエトロ・ジェリーニの作品としており,これが本当なら,タッデーオ・ガッディ,スピネッロ・アレティーノの作品と組み合わされている,サンタ・クローチェの聖具室壁面のフレスコ画の作者と同じことになる.
独立した四角柱ではなく,オルカーニャのタベルナコロの右後方の壁面に付随している柱に描かれた「マグダラのマリア」が美しいが,これも伊語版ウィキペディアに拠れば,ニッコロの作品とのことだ.
柱のフレスコ画の作者としては,他にもタッデーオ・ガッディ,ロレンツォ・ディ・ビッチ,チェンニ・ディ・フランチェスコ,マリオット・ディ・ナルドの名前が挙げられている.なるほど,これらのフレスコ画が優れて見える訳だと納得する.
祭壇に向かって左壁面に付された柱には,ヤコポ・デル・セッライオ,ロレンツォ・ディ・クレーディ,ジョヴァンニ・アントニオ・ソリアーニ,ポッピなど,盛期ルネサンスからマニエリスムの時代の画家たちの作品も見られた.
特にロレンツォ・ディ・クレーディに関しては,これまでフレスコ画を観たことがなかったので驚いたが,これらは残念ながらフレスコ画ではなく板に油彩で描かれたものがそこに嵌め込まれているようだ.
今回,少し時間的余裕のある拝観をしたので,ステンドグラスにも目が行って,それらも非常に魅力的に思えた.
これも伊語版ウィキペディアの便利な一覧表を参照すると下絵を担当した画家として,(本業は彫刻家だが)ギベルティ,ジョヴァンニ・デル・ビオンド,ロレンツォ・モナコの名が,帰属の可能性がある画家としてアーニョロ・ガッディ,ニッコロ・ディ・ピエトロ・ジェリーニの名前が挙げられている.
ここに名前が挙った画家たちは,美術史の大きな流れからすると,イタリア限定としても,さらにフィレンツェ・ローカルとしか思われていない人が少なくないだろう.
しかし,フィレンツェにいて何が幸せと言って,これらの画家たちの描いた作品が,多くの場合,描かれた本来の場所で観られ,そして確かにその場では心に迫る傑作としか思えないほどの感動を味わえることだ.
実際のところ,教会や修道院が廃絶し,時代遅れとなった後期ゴシック,初期ルネサンスの宗教画は二束三文で売買された時代もあり,諸方の美術館,博物館に分散して残っているものはまだ良い方で,全く失われてしまった作品も少なくない.
その意味では,博物館や美術館で見られるのも幸せな事だと思うので,仕事の合間に時間を作っては,朝早い電車やバスに乗り,フィレンツェ周辺の諸都市の博物館,教会を回っている.
諸般の事情で急遽,5月2日から3泊4日の予定でローマに行くことになったが,手配のついた宿のネット上の評判が最悪で,おまけに危険度の高いエリアにある.
フィレンツェも決して良いことばかりではないが,フィレンツェにいて,市内と周辺のトスカーナの諸都市で,考古学博物館,宗教芸術博物館,教会を回っている時が最も充実感を味わえるようになっている今,ローマにはなかなか気持ちが向かない.
とはいえ,研究上の必要性はローマが最も高く,それと,どうしてもナポリには一回は足を運ばなければならないので,まずは眦を決して,身構えながらローマに行ってくる.
次回の報告はローマから戻った後になるが,メディチ・リッカルディ宮殿にある古代大理石彫刻博物館(ムゼオ・デイ・マルミ)で観た2つの古代胸像,パラティーナ美術館で観たオウィディウスとされる古代胸像,フィエーゾレとアレッツォの考古学博物館で観たエトルリア時代の遺産について,なるべく簡単にまとめる.
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もうすっかり心に染みついた
赤い丸屋根のある風景
オルサンミケーレの窓から
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