フィレンツェだより第2章
2017年4月27日



 




花飾りを載せた可愛い4頭の白牛
山車を曳く役を待っている
出発前ののどかなひと時


§フィレンツェ3度目の復活祭

滞在記の報告内容が,関心の集中する古代彫刻と石棺,中世・ルネサンスの芸術作品の見聞に偏ってしまうのはやむを得ないとしても,せっかくフィレンツェにいるのだから,見ることのできた行事についてぐらいは観光的な報告も試みる.


 4月16日は「復活祭」(パスクァ)だった.「春分の日の後の最初の満月の日の次の日曜日」(日本語ウィキペディア「復活祭」)という移動祭日であるため,毎年違う日になる.

 2007年は4月8日,翌2008年が3月23日だったので,前回の滞在(2007.3.26から1年間)では幸運にも二度,復活祭を経験することができた.したがって,今回はイタリアで直接体験する三度目の復活祭であった.

 復活とは,キリストの復活のことで,既にパウロが新約聖書に収録された書簡で言っているように,キリスト教の根本教義の一つであり,復活祭(英語のイースターの語源は民俗的背景を反映している)はそれを祝う祭りだ.

 もともとは古代の春分を祝う民俗的な行事であっただろうが,やはり元は冬至をめぐる民俗的行事であったであろうクリスマス(降誕祭)とともに,キリスト教にとっては最も重要な祝祭である.

 フィレンツェの復活祭には有名な行事がある.「山車の爆発」とでも訳せば良いのか,イタリア語ではスコッピオ・デル・カッロと言う.一応,伊語版ウィキペディアにリンクをはって置くが,日本語のウェブページでも「スコッピオ・デル・カッロ」で検索すると現地在住の日本人ガイドさんの紹介ページがヒットする.

 この方は2012年にツァーでフィレンツェに来たとき,一日だけご担当いただき,有益な情報をいただいたので,大変有能なガイドさんであることは拝察しているし,「フィレンツェガイド日記」と言うブログも勉強になるが,個人的には存じ上げず,リンクの許可を得ていないので,それぞれが検索していただきたい.

 そこにも立派な写真(ただし2011年の記事)があるし,こちらでお世話になっている柳川さんが今年は大聖堂の堂内でこの行事をご覧になったということで,フェイスブックでその写真が見られるようである.

 私の方は,良い位置から撮った決定的瞬間の写真は紹介できないが,一応,自分の目で見たということで,写真とともに報告する.

写真:
時代装束をまとった
太鼓隊の行進
太鼓にもフィレンツェの紋章


 2007年の時は,一連の行事が終わった後に大聖堂広場に行き,その年の務めを果たした山車と大勢の見物人を見ただけだったが,それでも行事に関しては知見が得られたし,そもそも復活祭が移動祭日であることも知らなかったくらいキリスト教に無知だったので,この体験だけでも自分には貴重だったと思う.

 その時の報告には「山車を二頭の牛が牽いていく」のを見たと書いてあるが,今回,牛は四頭であることが確認できた.「実際は動力車が牽引」とあるのも,終わった後だからだろう.行事の前はちゃんと牛が牽いているのも確認した.

 2008年の時は,ちょうど山車が火を噴く時間にその場にはいたが,自分よりずっと背の高い男女に埋もれて,火を噴くところは見ておらず,花火のように上がる発煙筒の炎ばかりを見ていたように記憶していたが,その時の報告に掲載された写真を見ると,ちゃんと山車が火を噴く場面が写っている.

 それにもかかわらず,「空に向かって上がる花火と,爆竹の轟音だけが,私たちのフィレンツェの復活祭体験だ」と書いてあるのは,多分,人に埋もれて見えなかった光景が,両腕を上に伸ばして撮ったデジカメには写っていたということだったのだろう.

 写真に関しては,今回もその時と同じようなものしか撮れていないが,まがりなりにも火を噴いている場面に関しては,遠景ではあったが,確かにこの目で見た.それだけではなく,居住地区の地の利を活かして,今回は出発準備の段階からしっかりと見た.



 寓居から3分ほど歩いたところにあるプラート門をくぐると,かつては城壁内だった旧市街に入る.門から伸びるプラート通りを少しだけ進むと,現在は銀行が入っている旧修道院の建物と,ヴィラ・メディチと言うホテルがあって,その間に,上下2段に分かれて開くようになっている巨大な木の扉を持つ細長い倉庫がある.スコッピオ・デル・カッロの山車はここに格納されている.

 復活祭の朝,山車の出発予定が8時頃なので,寝坊しなければ,倉庫から山車が出され,出発準備をするのに立ち会える.

 前回も同じ寓居にいたわけだが,帰国準備で疲労が蓄積し,朝からそれを見に行く気力はとても残っていなかった.しかし,今回は来たばっかりで,まだ時差の影響が解消しておらず,毎朝早起く目が覚めてしまう状態だったので,出発前にその倉庫の前にいることができた.見物の人も予想したよりは多くはなかった.

 丁度山車が倉庫から出される時にその場に着き,時代装束の人たちと観光客が和気藹々と記念写真を撮ったり,馬で先導する男女の警察官が馬上からスマホで撮影をしたり,驢馬や牛が連れて来られたところを見ることができた.

写真:
山車が倉庫から出てきた
時代装束の人も待機中


 出発にも立ち会った.それまで雑然としていた時代装束の人たちが,服装別に整列し,合図のラッパが吹かれ,号令がかけられ,太鼓が叩かれて,行進が始まった.華麗な行列もさることながら,何よりも牛が大きいことにびっくりした.

 そのまま行列について行っても良かったが,急いで家を出てきたので戸締りと火の元が少し心配になり,一旦寓居に戻り,大丈夫なのを確認して,少し休んでから,再び外出した.

 行列の経路は予めウェブページで確認済みだったので,ボルゴ・オンニサンティからゴルドーニ広場,ヴィーニャ・ヌオーヴァ通りを通ってストロッツィ宮殿の前からレプッブリカ広場へと向かう(前回はこの経路に関しても少し誤解していたようだ)行列に,近道をしてストロッツィ宮殿の前で追いついた.

 大聖堂の前は大勢の人が集まっていることが予想されたので,先を急いだが,着いたら既にすごい人だかりになっていた.かろうじて洗礼堂の横だったら,三列目くらいの場所が確保できそうだったので,少し遠いけれども十分に火を噴く場面が見られると思い,そこに移動した.

 運が良かったのは,前は小さい子供で,奇跡的に私の方が背が高かったので,不十分ではあったが,行事の大部分をこの目で見ることができ,火を噴く前の一連の儀式にも立ち会い,人々の前を練り歩く大司教の祝福も受けた.

写真:
大聖堂の前で
火に包まれた山車

観客の前にいるオレンジの
服の人の背には,
マルタ騎士団の文字と
団章が見える.


 火が使われるので消防署員はもちろん,警察官,救急隊員その他の公務員の皆さんも大勢出て,にぎやかな中に緊張感を孕んだ雰囲気の中,行事は進み,11時に大聖堂の中から飛んできた鳩の模型が山車に火を点けて堂内に戻り,山車は火を噴き,爆竹が轟音を発し,花火が上がって,約10分強で一連の行事は終わった.

 模型の鳩がその役目を果たさないときは凶事が起こるとされ,本当かどうかは確認していないが,鳩がこの使命を全うできなかった1966年には,フィレンツェはアルノ川の氾濫による有名な大洪水に見舞われた(伊語版ウィキペディア)とのことである.

 この行事の起源は,パッツィ事件で有名なパッツィ家の祖先が第1回十字軍で勇猛な働きをし,司令官から聖遺物である石棺の破片をもらい,それが火打石の役割を果たして,聖地解放の「祝福の火」を点したことにあるとされている.「スコッピオ・デル・カッロ」で日本語検索すると,幾つかの有益なページがあるので,そちらを参照されたい.


サン・バルナバ教会
 行事が終わっても大混雑の大聖堂前の広場から「脱出」するのは大変だったが,巨体で前をかき分けて進むアメリカ人やドイツ人の後について,何とか通りに出た.

 少し遠回りになるが,今日は重要な祝祭日だから,こんな日こそと思い,以前たった一度だけ瞬間的に堂内を見ることができたサン・バルナバ教会に向かった.案の定,普段はその前の庭を閉ざしている鉄柵も,教会の扉も開いていた.

 断片的な情報をつなぎあわせると,サン・バルナバ教会はフィリピンから来た人たちのための礼拝の場となっていると聞いていたが,それらしい男性が鍵を管理し,堂内では本当にフィリピンから来たかどうかは確認を怠ったが,それらしい人たちがギターに合わせて,私が知っているキリスト教の宗教音楽とは違うように思える歌を歌っていた.

 堂内でも携帯電話で大声で話をしているので,気楽になって写真を撮らせて貰っていると,向こうからもフレンドリーに英語で話しかけてきた.

 壁面に残るフレスコ画,カンヴァス油彩画の絵柄や作者を解説プレート(これがあると言うことは観光客も想定しているはずだ)で確認しながら,内部の全ての絵画,彫刻作品をチェックし,ピンボケであるが写真にも収めた.

 2007年に,この近くのヴェンティセッテ・アプリーレ通りに5カ月ほど住んでいたが,メルカート・チェントラーレ(中央市場)からヴェンティセッテ・アプリーレ通りに向かって,グェルファ通りと交わるところでパニカーレ通りがサン・ザノービ通りと名称が変わる一角にあるこの教会を,メルカート・チェントラーレや市街中心部(チェントロ)への行き帰りに,ファサードに残るジョヴァンニ・デッラ・ロッビア作かも知れない彩釉テラコッタの聖母子像を眺めながら,いつの日かじっくり拝観したいと思い続けて10年,ようやく望みがかなった.

 中にいることは許してくれたが,やはり招かれざる客だったかも知れず,私が拝観している間に鍵の管理者の男性が,もう人が入ってこないように通りに面した鉄柵を閉めていて,私が外に出た後に教会の扉を閉め,もう一度鉄柵を開けて,通りに出して下さった.直後にまた鉄柵も閉ざされた.しかし,拝観して,写真を撮りやすい状況を作って下さった皆さんには心から感謝したい.

 たった一度垣間見た時に,立派なフレスコ画だと思い,スピネッロ・アレティーノ作という説もあって,ずっと気になっていたフレスコ画断片は,堂内の解説プレートにはチェンニ・ディ・フランチェスコとロレンツォ・ディ・ビッチに拠る「聖クレメンスと大天使ミカエル」とされていた.

 この中心部分に関しては,私の印象では,やはり堂内の解説プレートや伊語版ウィキペディアが言う通り,少なくともロレンツォ・ディ・ビッチは関わっているように思われた.

 チェンニ・ディ・フランチェスコに関しては,ここ数日で,彼の名を冠する複数のテンペラ画を観ることができたが,まだイメージがつかめていない.近いうちにヴォルテッラに行き,その地のサン・フランチェスコ教会に彼が描いたとされる「真の十字架の物語」のフレスコ画を観たいと思っている.

 なお,未練がましいようではあるが,このフレスコ画断片の左下方に残る,使徒の誰かが若者に洗礼を施している断片(聖クレメンス像の下部にあるので,ペテロがクレメンスに洗礼を施している場面と想像される)が非常に立派で,この部分に関しては,本当にスピネッロの作品と思いたい.サンタ・トリニタ教会に残るフレスコ画断片「アレクサンドリアの聖カタリナの神秘の結婚と聖人たち」によく似ているように見える.

写真:
使徒が聖人に洗礼を
施しているフレスコ画


 10年間思い続けたフレスコ画をじっくり鑑賞できたのは,スコッピオ・デル・カッロとコロンビーナ(鳩の模型)の御利益かも知れないという考えは非キリスト教的で,いかにも日本人的な発想に思えるが,非キリスト教徒の日本人だから仕方がない.三度目のフィレンツェの復活祭に感謝,感謝である.

 堂内の祭壇には,「ベルナルド・ロッセリーノ様式」とされる受胎告知の浮彫のある小さな聖櫃(タベルナコロ)もあり,これも見事なもので,なぜ「様式」がつくのかわからないが,観られて良かった.

 サン・バルナバ教会からグェルファ通り,ナツィオナーレ通りを通り,中央駅を過ぎて帰宅する途中,プラート通りで山車を倉庫に格納する場面に遭遇した.途中の省略はあったが,スコッピオ・デル・カッロで始まり,スコッピオ・デル・カッロで終わった一日だった,と言いたいところだが,まだ午後になってそれほど時間が経っていなかったので,寓居に帰って仕事をした.

 やはりフィレンツェは良いなあとしみじみ思った.






山車を曳く白牛は飾り立てても
牛を牽く人はごく普通の恰好
そこがまた良い