フィレンツェだより第2章
2017年4月3日



 




ミケランジェロ作 ダヴィデ像
アカデミア美術館



§2017 あれから10年

くろがねの つばさをかりて まひきたる はなさくまちに めざめけるかも
おほやねの あかきいらかに あさひさす はなさくまちに めざめけるかも
あをきそらに はるよぶかぜの わたりくる はなさくまちに かへりけるかも


 3月31日の夕方,北本の茅屋を立ち,スーツケースを転がしながら羽田空港の近くのホテルに向かった.荷物を持ってホテルまで一緒に来た家族は,夕食をともにした後,茶トラの太郎と三毛の百合の待つ茅屋に帰り,翌4月1日,羽田からルフトハンザで出国,ミュンヘンで同社提携のエア・ドロミティの小型機でフィレンツェに到着した.


フィレンツェの玄関口
 国外から来て,フィレンツェ,アメリゴ・ヴェスプッチ空港に降り立つのは,これで4度目だが,最初のフィレンツェ訪問はアメリゴ・ヴェスプッチ空港ではなく,ローマからユーロスターに乗ってサンタ・マリーア・ノヴェッラ駅に着いたところから始まった.

 1年間の特別研究期間が認められ,フィレンツェに滞在して在外研究するための下調べとしてローマに5泊6日の旅をしたのは2006年9月のことだった.なぜローマかと言うと,実はイタリアに1度も行ったことがなく,滞在場所はフィレンツェと決めていたが,とりあえずローマをこの目で見てみたかった.

 その間の一日,日帰りで足を延ばし,初めてフィレンツェを見たが,その印象は,ローマに比べて小さな建物が並ぶ狭い通りに観光客が溢れかえっていて,ルネサンスの香りを残す美しい小都市というイメージは妄想に過ぎなかったと,身勝手な話だが失望を禁じ得なかった.

 ただ,好感を抱いたローマには手づるが見いだせなかったのに対し,フィレンツェは,現代イタリアもフィールドの一つとしている優秀な同僚の若手社会学者が,招聘状を下さる受け入れ先の大学の先生を紹介してくださり,宿の問題については,後に同僚になる大学同期の気鋭の江戸時代研究者が古くからの知り合いである現地居住者の方を紹介してくださるという幸運があった.

 能天気なうえに,色々なことを先延ばしにする癖があるので,紆余曲折はあったが,何とか家族ともどもヴィザを取得し,居住先確保,滞在許可が得られる見込みが立ち,2007年3月,成田発のアリタリア航空便でミラノのマルペンサ空港に着き,乗り換えて,アメリゴ・ヴェスプッチ空港に降り立った.

 1年間のフィレンツェ滞在の最後にあたり,国内線でシチリアに旅行した際も,出発と帰着のいずれもやはりフィレンツェ空港を利用した.その後,2012年にツァーでフィレンツェに来たときも,昨年8月の科研費による研究出張で,今回と同じくルフトハンザドイツ航空で,ミュンヘン経由で来たときも,フィレンツェ空港着であった.

 5度のフィレンツェ来訪のうち4度はこの空港に降り立ち,その帰国もやはりこの空港からであったので,ある意味なじみのある空港とも言えるが,言ってみれば通過点で,残念ながらあまり印象に残らない.印象に残るとすれば,アメリゴ・ヴェスプッチ空港という名称のみだろう.


前回の結論をなぞるところから
 前回の滞在は,前のめりな気持ちが一旦引いたところからスタートしたが,それから体験した様々な出来事は,予想の範囲を遥かに超えて,自分の人生に大きな意味を持つことになった.そして再び,ヴィザと滞在許可を貰っての1年間のフィレンツェ長期滞在が始まる.

 前回は随分早い頃から,再びイタリアを訪れて,もう一度見たいものとして,

1位 サンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂のジョット「キリスト磔刑像」
2位 サン・マルコ旧修道院博物館のフラ・アンジェリコ「受胎告知」
3位 アカデミア美術館のミケランジェロ「ダヴィデ」

と言い,その結論は,帰国した翌年4月になっても変わらなかった.

 その後,イタリア以外でも多くの芸術作品,文化遺産を見て,考えが変わっている可能性もあるし,今は感銘度に順位をつけるという観方をしていないが,敢えて,基本的には今も同じ考えだと言うことにしておく.

 上記の3つの作品は,2012年のツァーでも見ることができたが,この時点は,これらが所蔵されているサンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂,サン・マルコ旧修道院博物館,アカデミア美術館は,写真撮影禁止であった.

 2015年くらいから,イタリアの博物館関係者の考えが変わり,多くの美術館,博物館,教会で,ツーリストに対して,館内,堂内での写真撮影が認められるようになったと聞いた.実際,2008年2月にヴェネツィアに行った時は写真撮影厳禁であった総督宮殿,サン・マルコ大聖堂,アカデミア美術館,コッレル博物館が,2015年にツァーで訪れた時には,全て写真撮影が許された.

 ヴェネツィアでは逆に,以前撮影可だった教会が撮影禁止になっていたり,2016年の「ラツィオ・ウンブリアの旅」でもペルージャの国立絵画館は以前同様撮影禁止であったので,「どこでも」と言うわけではないようだが,2016年の研究出張でフィレンツェを訪れた際に,サンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂の本堂(博物館と回廊は以前も撮影可だった),サン・マルコ旧修道院博物館,アカデミア美術館は全て撮影可となっていた.

 前回までの報告(昨年夏の出張報告)で,ウフィッツィ美術館の古代彫刻を写真つきで紹介できたのも,その一環であるのは言うまでもない.

 到着(4月1日)の翌日,最初にどこに行くか考えたが,少し無理な日程で来たこともあり,諸般の事情で2,3日は外出が難しいので,上記の3作品に関して,昨年8月に撮ることができた写真を紹介して,2度目のフィレンツェ滞在初の報告とする.

写真:
ジョット作 磔刑像
サンタ・マリーア・
 ノヴェッラ聖堂


 3作品の制作年代についてはジョットの磔刑像が最も古い.伊語版ウィキペディアに拠れば,1312年の記録にこの磔刑像の前で灯明を灯し続ける費用に関する言及があるのが最古で,次は15世紀前半のギベルティの『回顧録』,そして16世紀前半のヴァザーリの『芸術家列伝』と,百年ごとの3つの証言が,この磔刑像がジョットの作品とされる根拠のようだ.

 しかし,そもそも最古の証言に,制作者としてジョットの名が挙げられているのかどうかは伊語版ウィキペディアだけではわからない.そう考えると,随分薄弱な根拠に思えるが,ジョットと言う偉大な画家が実在し,複数の作品が残っていて,この磔刑像もその名に恥じない作品である以上,私たちがこの作品をジョットのものではないと否定する根拠もないだろう.

 これも推定に過ぎないが,1290年代の若い頃(1267年頃とされる生年もあくまでも古人の証言を根拠とする推定に過ぎない)の作品と考えられているようだ.

 ジョットの名を冠した磔刑像はリミニ,パドヴァにもあり,特にパドヴァの場合はスクロヴェーニ礼拝堂のフレスコ画と関係づけられるので,ジョットの作品である可能性が最も高いだろう.それと比べても,私にとって感銘度は,サンタ・マリーア・ノヴェッラの磔刑像が最高に思える.この考えは今も変わらない.

 2001年に終わった修復の結果,それまで有力な非ジョット説があったが,それらを覆すほど,見事に制作技術が解明されたとのことだが,これに関しては,私がどうこう言う問題ではないだろう.

写真:
磔刑像
オンニサンティ教会


 昨年8月の出張で,研究主題(古代研究)からは離れるが,宿と旧市街の途中にあって,以前の滞在時にもなじみ深かったオンニサンティ教会(オンニッサンティと言うカタカナ名称が主流で,なるほどとも思うが,この10年間オンニサンティで通して来たのでこの表記を用いる)に立ち寄り,「ジョットの磔刑図」と称される,金ぴかに修復された磔刑像を初めて観た.

 なるほど見事な磔刑像で,これがジョッテスキの誰かの作品と言うのであれば,讚仰の念とともに凝視するのだが,ジョットの作品と言われると,もう少し冷静な判断を待ちたいように思う.そこまで修復してしまうとオリジナリティの点からどうなのだろうと思わずにはいられないし,ジョットの作品かどうか以前に,本当にゴシック期の磔刑像なのかと思ってしまう.

 とは言え,久しぶりのオンニサンティで,2012年に訪ねた時にも,この磔刑像はまだ飾られていなかった.今回驚いて目が釘付けになったのは事実だ.

 あまりにも金ぴか過ぎて,現代的な視点からは有難みが薄れるが,もともとは,暗い教会で,信者たちの注目を引き,信仰心を強固にする効果を期待されたものなので,ある意味で,本当の姿はこうだったのかも知れないという気にもなる.とすれば,ライトアップして見せるのはどうなのかなと疑問にも思う.

 研究書などは全く読んでいないが,伊語版ウィキペディアに拠れば,従来ジョット周辺の画家の作品と考える人が多かったけれども,サンタ・マリーア・ノヴェッラの磔刑像の場合と同じフィレンツェの輝石製作所での修復により,1315年頃のジョット自身の作品と考えられるようになったとのことだ.

 オンニサンティ教会は,ウフィッツィ美術館にあるジョットの傑作「荘厳の聖母子」(マエスタ)が飾られていた教会であり,死せるキリストの姿は,パドヴァ,リミニ,フィレンツェのサン・フェリーチェ・イン・ピアッツァ教会の磔刑像に似ており,ジョット本人かその周辺の優れた画家の作品ではあろうが,まだまだ私には,サンタ・マリーア・ノヴェッラの磔刑像が,ジョットの最高傑作に思える.

写真:
「受胎告知」
フラ・アンジェリコ

サン・マルコ
旧修道院博物館


 フラ・アンジェリコはジョットの約100年後に,ジョットと同じムジェッロ地方の,ジョットとは別の小邑で生まれた.

 彼はメディチ家,ローマ教皇に寵用された芸術家であり,フィエーゾレのサン・ドメニコ修道院の院長にも選任された人物であるから,どういう人生を辿ったのか,ジョットより遥かに良く知られている.したがって,と言い切って良いか,多少の躊躇は感じるが,フラ・アンジェリコの名前で伝わった複数の「受胎告知」の真作性を疑う人はまずいないであろう.

 今までに,サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノ,コルトーナ,マドリッドで,板にテンペラで描かれた祭壇画の華やかな「受胎告知」を観ている.この3作は1430年代前半の作品で,コルトーナ,サン・ジョヴァンニ,マドリッドの順に制作されたと考えられている.

 今回もサン・マルコ旧修道院博物館で,複数の彼の「受胎告知」を観た.列挙すると,

 写本挿絵の「受胎告知」(1424-30年頃)(残念ながらファクシミリの展示だった.他の写本は実物も展示され,そこにはフラ・アンジェリコ作とされる挿絵もあった)
 サンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂のためにジョヴァンニ・マージ修道士の依頼で描かれた小さな,「三王礼拝」(下段)と「受胎告知」(上段)の二場面からなる小さな祭壇画(1434年)(厳密には祭壇画的絵画装飾が施された4つの聖遺物箱の1つ)
 「キリストの生涯」を計3枚のパネルで,31の場面にコマ分けして描いた「銀器戸棚の扉」(1451-53年)の最初の1枚の9つの場面のうちの一つである「受胎告知」
 修道士居室の一つに描かれたフレスコ画の「受胎告知」(1438-40年頃)(「修道士第3居室の受胎告知」)

 しかし,何と言っても,やはりサン・マルコ旧修道院博物館の地階から1階(日本式には2階)に上がる階段を昇りきった正面の壁に見える「受胎告知」(「修道士居室階北廊の受胎告知」)が最も素晴らしい.

 はっきりとした制作年代はわからないが,1440年から50年の間の制作と考えられており,であれば,同じくフレスコ画で近くにある「修道士第3居室の受胎告知」より後の作品であり,もちろん,華やかな3つの祭壇画の受胎告知,聖遺物箱の受胎告知よりだいぶ後の作品である.

 私が観たフラ・アンジェリコの受胎告知の中では銀器戸棚の扉の受胎告知だけが,この作品の後に描かれたということになるだろう.フラ・アンジェリコの死は1455年で確定しており,であれば,サン・マルコの修道士居室北廊の受胎告知は最晩年の作品ではないが,円熟期から晩年の傑作と言うことになるだろうか.

写真:
ミケランジェロ作
ダヴィデ像
アカデミア美術館


 ミケランジェロのダヴィデに関しても,今までに何度も感想を述べてきた.それらは手放しの称賛で,そこには新知見も語るべき卓見もあったわけではないし,その後,特にこれについて勉強したわけではないので,やはり,今回も素晴らしいと思い,その場を離れがたかったとだけ言っておこう.

 写真もヴィデオも可となったし,おそらく,この時代の美術作品としては世界的に最も有名な彫刻で,実物を観ると多くの人がその大きさに圧倒されるであろうから,家族で記念撮影をする人,写真家のように立派なカメラで様々な角度から撮影する人,ダヴィデ像の周辺に静寂が帰るのは,開館前,閉館後,休館日のみかと思われる.

 私もそうした観光客の一人として,何度もその周辺を巡り,我ながらこれでもかと言うほど下手な写真を撮りまくった.人の流れが奇跡的に絶える瞬間もあり,その時は,ひたすら仰視した.

 ダヴィデの前は離れがたかったが,ウェブ上にも,公刊された書物にも立派な写真が相当数あるし,アカデミア美術館で写真を撮らせてもらえるせっかくの機会なので,ダヴィデ前を辞去して,ゴシック,ジョッテスキ,国際ゴシックの作品群のあるコーナーに向った.

 それらの作品に関しても別途報告する機会があるだろうし,ミケランジェロに関しては,バルジェッロ博物館でも,メディチ家礼拝堂でもその作品を写真に収めながら,じっくり鑑賞することができたので,機会があれば,それらの作品とともに考えてみたい.

 今回の滞在でも,上記3作品に関しては,おそらく複数回,鑑賞の機会を持つであろうし,また代わりばえのしない感想をしつこく書き連ねるかもしれないが,それほど私がこの3作品に心を奪われていることとしてご寛恕いただきたい.

 諸般の事情で,居住予定のアパートにたどりついていないが,間違いなく間もなく,以前8か月暮らした寓居を拠点に,1年間のイタリア滞在が始まる.






多くの人がここで立ち止まる
私もいつもそう
フラ・アンジェリコ作 「受胎告知」