フィレンツェだより番外篇
2017年3月28日



 




ボッティチェリの眠る場所
オンニサンティ教会



§2016 フィレンツェ研究出張余禄 - その4 ウフィッツィ美術館の古代彫像2

アナクレオンは古代ギリシアで流行した抒情詩の詩人としては比較的若い世代に属するが,それでも前6世紀前半の生まれなので,悲劇詩人たちやソクラテスなど,私たちになじみの古代ギリシア人たちよりは,相当に上の世代の人物だ.


 親本リヒター等には,カピトリーニ,ルーヴル,カールスバーグのアナクレオン像が報告されているが,アナクレオン(アナクレオーン)は,本人に似せて胸像を作る習慣がまだ無い時代の人物と思われるので,胸像に残された姿はおそらく,後世の彫刻家たちの想像の産物だろう.

 カピトリーニの作品は彫像下部に「抒情詩人アナクレオン」と言う刻銘があるが,見た記憶がないし,ルーヴルの胸像も見ていない.かなりの枚数撮ってきた写真にも写っていない.カールスバーグの大理石像は全身像で,腕は失われているが,おそらく竪琴を持っていたと想像される.

 今回撮影したウフィッツィのアナクレオン像は,親本リヒターにもリヒター&スミスにも言及はないし,ヘアバンドや髭の形など,共通する要素はあるものの,何とものっぺりとした感じで,カピトリーニ,カールスバーグの作品とはだいぶ印象が異なる.強いて言えば,ルーヴルの作品が少し似ているかもしれない.

写真:
アナクレオン
ウフィッツィ美術館


 アナクレオンの彫像が存在した証拠は同時代にはないが,アテネのアクロポリスの,ペリクレスの父クサンティッポスの彫像の近くに,サッポー以後の恋愛詩人であるテオスのアナクレオンの像があったとパウサニアスが報告しているし,テオクリトスなどの文学作品にも彼の彫像への言及があるので,少なくともヘレニズム時代にはアナクレオン像が存在したと考えられる.

 現存するものが古代に存在したアナクレオン像と同じである保証はないが,少なくともカピトリーニのアナクレオン像には刻銘があり,カールスバーグの全身像の頭部も似ていることから,これに似た作品はアナクレオン像と考えられている.

 カピトリーニの像は1887年にトラステヴェレで発見されたとのことで,カールスバーグの全身像の発見は少し前の1835年とのことだ.カピトリーニより前に発見されていた像は,それを以てアナクレオンと同定されたのか,あるいは,それまでもアナクレオンと言い伝えられていた幾つかの彫像が,19世紀の刻銘入り像の発見後,確信されるようになったのかは,親本リヒターを読んでもよくわからない.

 親本リヒターには,フィレンツェのリッカルディ宮殿にもアナクレオン胸像があるとされ,写真も掲載されている.メディチ・リッカルディ宮殿には3回行っているが,見た記憶はない.インターネットの情報によると,宮殿の中のムゼオ・デイ・マルミという博物館に置かれているようだ.



 ヒッポクラテス(ヒッポクラテース)は前460年頃の生まれだとすれば,前399年に69歳か70歳で刑死したソクラテスよりも若く,亡くなったのも前370年頃だ.

 ソクラテスより年長の3大悲劇詩人たちや政治家ペリクレスは,本人に似せたと思われる彫像(ローマン・コピー)が相当数残っているので,それより若いヒッポクラテスの現存する胸像が,本人の姿を反映していても不思議はない.

 さすがにヒッポクラテスに関しては,親本を参照しなくてもリヒター&スミスからもかなりの情報が得られ,ウフィッツィにある胸像の写真も掲載されている.このタイプの胸像を「オスティア型」と言うらしい.

写真:
ヒッポクラテス
ウフィッツィ美術館


 ローマの外港として古代から栄えたオスティアという都市がある.その近郊のイゾラ・サクラ(聖なる島)と言う地名の場所のネクロポリスで,1940年にこの胸像は発見された.その際,側で2本の柱状の石片も見つかり,その一方に有名な「人生は短く,技術は長い」と言う刻銘があったことから,ヒッポクラテスに同定され,これに似た胸像は「オスティア型」と命名されるに至った.

 このタイプの胸像は5体が現存しているが,その中で最も完璧なのが,ウフィッツィにあるものとされている.オスティア近郊で発見された像は,確かに右上部に大きな破損があるが,ウフィッツィの作品と酷似している.

 本当にヒッポクラテスの実像を反映しているかどうかは,これでも確証はないわけだが,少なくとも偉大な医者の像とローマ時代には思われたからこそ,複数の模刻が現存している.

 ヒッポクラテスが生きた時代は,肖像性の高い彫刻が造られていたし,彼は生前全ギリシア的有名人だったわけだから,ウフィッツィの胸像(台座は後世のものとのことだ)には偉大な医者の肖像性がある可能性は否定できない.私がヒッポクラテスに持っていたイメージとは全く違うが.



 クセノクラテス(396 / 5 - 314 / 3 B.C.)はプラトンの直弟子で,プラトンの甥スペウシッポスの跡を継ぎ,アカデメイアの第3代学頭になった.

 ディオゲネス・ラエルティオス(後3世紀)の『ギリシア哲学者列伝』(以下,哲学者列伝)には,スペウシッポスの伝記(岩波文庫の邦訳,上巻 pp. 329 - 334)も,クセノクラテスの伝記(同,pp.335-345)もある.

 読み比べると,伝記作者が(と言っても本人たちより500年以上後の人と考えられるが)スペウシッポスよりもクセノクラテスを高く評価していたことは明らかに思われる.アカデメイアはプラトン個人の財産であるため,姉妹の子であるスペウシッポスに譲られたが,哲学者としてはクセノクラテスが上だった,と言う印象が同時代の人々に残されたのかも知れない.

 哲学者列伝を信じる限り,プラトンもクセノクラテスを人間として信頼していたことは,彼が最初のシチリア行にクセノクラテスを伴ったとされることでもわかるが,一方,これは有名なエピソードだが,プラトンがクセノクラテスをアリストテレスと比較して,前者には拍車が必要だが,後者には手綱が必要だとして,後者を馬,前者を驢馬に例えたとしている.

 このエピソードを聞くと,万能の学者として後世知られるアリストテレスに比して,クセノクラテスは愚鈍な人物だったような印象を受けるし,哲学者列伝も「生まれつき鈍かった」と言っている.

 しかし,哲学者列伝の「クセノクラテス伝」を読むと,そこには相当量に及ぶ著作目録があり,カルケドンと言う小アジアの都市の出身でありながら,アテネの公務も託され,情勢の変化で在留外国人として迫害されたときには,ライヴァルとも言うべきアリストテレスの孫弟子のパレーロンのデメトリオスが彼に助けの手を差し伸べている.

 何よりも,師匠の親族として学園を相続したスペウシッポスが,自分の後継者にと,使者をたててクセノクラテスを招いたのだ.さらにスペウシッポスの名誉のために言えば,批判的な伝記を書いたディオゲネス・ラエルティスも,彼の膨大と言って良い著作目録を掲載しており,学者としての仕事は立派にしていた.
 
 哲学者列伝は私たちよりは時代が近いとは言え,書かれた本人たちよりも500年以上も後の誰とも分からぬ人物によって書かれたもので,貴重な資料であるのは間違いないが,私たちほどではないにしても,やはり蓄積された先入観を免れてはいないだろう.

 これほどの人物を「愚鈍」と思い込んでしまうとすれば,それは,様々な手段で多くの周辺的情報を得ることのできる後世の者たちの思い上がりに過ぎない.私たち自身も,自分はプラトンでもアリストテレスでもないことをしっかり念頭に置かなければいけない.

 クセノクラテスはプラトンに人間として信頼され,ネガティヴではあってもアリストテレスと比較される対象になり,アテネ市民の信頼と尊敬を得,多くの著作を遺し,その著作は全て失われてしまったけれど,少なくとも彼に関しての伝記もあり,歴史に名を遺した.

写真:
クセノクラテス(?)
ウフィッツィ美術館


 リヒター&スミスにクセノクラテスに関する言及は無いが,さすがに親本リヒターには写真と説明があった.

 それによれば,彼の胸像である可能性があり,「クセノクラテス,カルケドンの人」というギリシア語の刻銘(ただし,リヒターは古代のものではないとしている)が台座にある作品がミュンヘンの彫刻博物館にある.「xenocrates」で画像検索すると,その写真を掲載したウェブページが見つかる.

 ウェブ検索でウフィッツィの胸像の写真も見られるが,ミュンヘンの胸像が禿頭であるのに比して,前頭部に豊かにウェーブした髪が相当残っており,顔も似ていないように思える.確かにコーカソイドの彫りの深い,気難し気な老人の顔で,眉や目の辺りが似ていると感じる人もいるかも知れないが,私には別人の像に思える.親本リヒターはウフィッツィの胸像には全く言及していない.

 ウフィッツィの説明板には「クセノクラテスとして知られていた/以前は言われていた」(known as Xenocrates / Cosidetto Senocrate)とあり,髯の形や髪型などがエピクロスに似ているが,鼻の形が違っているので,自身の肖像をエピクロスに似せて作らせたローマ時代の(現在は)無名の思想家の像ではないかと推測している.

 残念だがクセノクラテスではないだろう.



 カルネアデスもアカデメイア出身の哲学者であるが,時代的には少し後の人である.

 紀元前214年か213年に北アフリカのキュレネで生まれ,アテネに移住し,そこでストア派の哲学を学び,後にアカデメイアに転じ,アルケシラオス懐疑主義的哲学を学び,その何代か後の後継者としてアカデメイアの学頭にもなった.

 カルネアデス自身は著作を残さなかったが,「カルネアデスの(舟)板」というたとえ話が有名だ.哲学者列伝の短い「カルネアデス伝」にはこの話は紹介されていないが,類似の話はキケロの『義務論』第3巻89節の中にもあり,そこにはカルネアデスへの言及はなく,ヘカトーンという別の思想家の義務に関する著作が出典とされている(泉井久之助訳『義務について』岩波文庫,pp.190-191).

 日本のギリシア哲学研究者,近藤智彦の論文によれば,もともとはキケロの『国家論』の失われた部分にあったであろうこの議論が,コンスタンティヌス大帝の同時代人で,彼に影響を与えたキリスト教思想家ラクタンティウスの『神的教理』(ウェブページに英訳)第5巻で紹介されることによって現代に遺されたとのことである.

 近藤の論文の冒頭に,松本清張の『カルネアデスの舟板』の文章が引用されている.

 「カルネアデスの板」というのがある。カルネアデスは西暦紀元前二世紀頃のギリシャ哲学者である。大海で船が遭難した場合に、一枚の板にしがみついている一人の人間を押しのけて溺死させ、自分を救うのは正しいかという問題を提出し、身を殺して他人を助けるのは正しいかも知れないが、自分の命を放置して他人の命にかかずらうのは愚であるとした。

 近藤は新潮文庫の短編集から引用しているが,この作品を表題にした古い角川文庫をアマゾンで入手して読んだ.昭和20年代から30年代にかけて,師弟だった大学教授同士の葛藤から女性が殺され,師弟双方が地位を失ってしまうと言う,いかにも清張好みのストーリーだ(日本語版ウィキペディア「カルネアデスの舟板(松本清張)」にまとめられている).

 21世紀の大学に奉職する人間としては全く共感しないし,殺人には推理が働く余地はないので,推理小説ではないが,さすがに大作家の短編で,一気に読むことできる.

 被告人の書架に唯一あった,専門(日本史)とは無関係な本の中の「カルネアデスの舟板」の話に線が引いてあったことから,検察官が,偶発事件ではなく,計画性があると推理するところなど,推理小説的な要素も全くないとは言えない.

 大学教授が学問とは別に,高校教科書の執筆によって相当の収入(結果,参考書の執筆も依頼されるから)を得ており,文部省(当時)の教科書検定が通る執筆者として依頼を受け続けたいがために,自身の思想的立場を変更しようとすると言う「社会派」(?)的な視点も見られる.

 つまるところ,欲と金と嫉妬と言う,誰に置き換えてもおかしくない話を,大学教授を登場人物にすえて,カルネアデスの名前と例え話をまずまず巧みに活かした作品と言えよう.好きか嫌いかで言うと,嫌いなタイプの小説だ.

写真:
伝カルネアデス
ウフィッツィ美術館


 カルネアデスに関しても,リヒター&スミスには言及が無いが,親本リヒターには説明がある.それに拠ると,哲学者列伝の中に,議論に忙しく「髪も爪ものび放題にしていた」(岩波文庫,上,p. 386),「夜になると目がかすんで見えなくなった」(同,p. 390)とある以外に,彼の身体的特徴に関する証言は無く,彼の彫刻が古代に存在した証言としては,キケロが『善悪の境界について』5巻4章の中で,彼がアテネに行った時,カルネアデスの肖像を見たと言っているのが最古のものとしている.

 また,かつてファルネーゼ家のコレクションにカルネアデスと言う刻銘のある彫像があり,それ自体は失われてしまったが,そのコピーが現在コペンハーゲンとラヴェンナにあって,それと類似の作品が現在,カルネアデスとされている作品群であると言うことのようである.

 親本リヒターには,かつて存在したか現存している,写しではない古代図像のカルネアデスの肖像が10例(浮彫やヘルマ柱を含める)挙げられており,バーゼル,アランフェスにある胸像,コピーとは別のラヴェンナの胸像(写真)の写真が掲載されている.それらと,ラヴェンナとコペンハーゲンのコピーの写真を見比べると,確かに有髯,前頭が禿げ,温顔に見えるといった共通の特徴を持っていて,よく似ているように思われる.

 それらと共通の特徴を持つ古代彫刻として,フィレンツェの(メディチ・)リッカルディ宮殿の胸像をあげており,ウィキメディア・コモンズにある写真を見ると,確かにこれも似ているように思う.また,親本リヒターは挙げていないが,英語版ウィキペディアに写真が掲載されているミュンヘン彫刻博物館にある古代胸像もまずまず似ているように思われる.

 親本リヒターは他に,世界各地の有名博物館,美術館に存在するカルネアデスとされている肖像をリストアップしているが,その中にウフィッツィの胸像はない.

 ウフィッツィの伝カルネアデス像は,有髯,禿頭であることはその他と共通していても,温顔ではなく,何かしら狭量で癇癖のある人物に思えてしまう.誉め言葉を使うなら,峻厳とか謹厳に見えると言っても良いが,それよりはネガティヴな印象を受ける.

 親本リヒターがカルネアデスと認める像が,この哲学者の肖像であれば,残念だがウフィッツィの伝カルネアデス像は違う人物であろう(「ウフィッツィ美術館友の会」と言うアメリカのウェブサイトがあり,そこに写真と簡単な解説がある).



 以上,2回に分けて,ギリシア人の胸像について報告したが,もちろん,全身像でも豊穣の女神ポモナ,狩りをするアルテミス,吊るされたマルシュアス,眠るアリアドネ,ヘルマプロディトス,それに「ニオベの部屋」の彫刻群など,見応えがある作品がウフィッツィにはたくさんある.

写真:
「眠るアリアドネ」
紀元前2世紀の原作の
後2世紀の模刻
ウフィッツィ美術館


 同じタイプの彫刻がヴァティカン博物館にあると言うことだが,ヴァティカンでそれを見たことがない.前2世紀のペルガモンで造られた作品が原作で,現存するのはハドリアヌス帝治下のローマで作成された模刻と考えられている(英語版ウィキペディア「眠るアリアドネ」).

 ヴァティカンの作品も,ウフィッツィの彫刻も19世紀まではクレオパトラと考えられていた(蛇に乳房を噛ませて自殺した後の姿だろうか)とのことだが,アリアドネに同定された根拠については詳しい情報を得ていない.

 アリアドネの彫刻はミケランジェロの「聖家族と幼児の洗礼者ヨハネ」(通称トンド・ドーニ)の置かれている部屋にあって,若干の混雑感がある.それでも,ウフィッツィ美術館の看板作品であるボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」と「春」のある部屋ほどではない.以前はボッティチェリ作品は比較的広い部屋に置かれていたが,現在はそれほど広くない部屋に置かれていて,写真もヴィデオもOKになったのと相俟ってすごい混雑である.

 アリアドネのある部屋には,アンドレア・デル・サルト,フランチャビージョ,フラ・バルトロメオ,マリオット・アルベルティネッリ.ブジャルディーニなど,ルネサンスからマニエリスムに向かおうとする時代のフィレンツェ絵画の傑作が展示されているが,人々の関心はミケランジェロのトンド・ドーニに集中している.まして,「眠るアリアドネ」に注目する人は「ほとんど」と言っては言い過ぎだろうが,あまりいないと言って過言ではないだろう.

 彫刻の良し悪しが明確にわかるほど勉強していないので,自信はないが,類似作品が他所にあるヘレニズム期の彫刻のローマン・コピーだとしても,私にとっては魅力ある作品に思える.サンダルを履いた足や,衣の襞など,彫刻として見るべき点もあるように思われるし,ヴァティカンの作品の写真と比べてみて,同じ作品の模刻と言うには,作者の個性がそれぞれあるように思われるので,模刻した職人の技量と独創性も評価すべきなのではないか,と,少なくとも私には思える.

 元ネタはもちろんギリシア神話だが,ローマ共和政期の詩人カトッルスが『詩集』の作品64番で取り上げ,オウィディウスも扱ったテーマである.少なくとも,ギリシア神話とローマ文学に関心がある者なら凝視を余儀なくされる作品であろう.女王の寝台ではなく,ごつごつした岩の上に横たわって見える以外に,アリアドネに同定された根拠があるのかどうか知りたいと思うが,今回は残念ながら,ここまでとする.

 考古学博物館にも,見るべき古代彫刻は複数ある.本当は,もしエトルリア芸術,工芸に関して深い知識があれば,小さな青銅作品にも目が行くべきであろうが,そこは俄か勉強の素人の悲しさで,アレッツォのキマイラ演説者,「ペーザロのイドリーノ」と称される若者像など比較的大きな作品ばかりに目が行ってしまう.

 今回は,古代作品が主目的なので,考古学博物館も比較的丁寧に見て,しっかりと鑑賞したし,ヴェンケルマンと古代美術,考古学をテーマとする特別展も開催されていたので,語りたいと思うことは少なくないが時間切れだ.



 2月,3月は授業こそないものの多忙な時期で,20本のゼミ論を読み,口頭試問をして,さらに3500人近い科目登録者に関して締め切り通りに成績を報告し,守秘義務のある仕事もし,個人的には,両親の七回忌で岩手に帰り,施主として法事と親族の食事会もした.お世話になっている先生が主催する国際シンポジウムがあったり,翻訳の仕事や,留学する人の推薦状を書いたりする合間を縫っての渡欧準備であった.

 校務その他に個人の事情が全く配慮されないのは,いつもの通りだが,私も,支えてくれている家族もいささか疲れ,夏の出張報告は最後まで行きつくことができなかった.残念だが,残りの報告は,4月からのフィレンツェ滞在報告に含めて書くことにする.

 2月から3月にかけて,来客が続き,卒業する学生さんも複数回,自宅に遊びに来てくれた.長く続けてきたカルチャースクールの受講生の皆さんや,同僚の方が慰労会や歓送会を開いてくださったのも嬉しいことだった.海外生活の経験豊富な皆さんには,iPhone,PC,カメラのアドヴァイスを頂いた.ありがとうございました.

 いよいよ3月31日に自宅に別れを告げ,4月1日に出国,時差の関係で同日フィレンツェに到着する.フィレンツェだよりが,いつ再開できるか分からないが,滞在許可申請,インターネット環境の問題などがクリアする4月上旬予定としておく.






卒業式の日に
ゼミ生の皆さんから贈られた花束
イタリアの国旗をイメージして