§アパート入居完了
予定より3日遅れでアパートに入居した.それまで外出もままならなかったし,4日も引っ越しで一日が終わったので,今回は簡単な近況報告と,昨年8月の研究出張の報告の続きを載せる. |
4日と5日の活動
4日は引っ越しの後,10年ぶりにガリアーノ通りのエッセルンガに買い出しに行き,日用品や食料品の買い込みをした.基本的に自炊生活なので,食料品の買い出しは定期的に行く必要がある.
5日はフィレンツェ大学の鷺山郁子先生,関西大学の高橋美帆先生と10時にサン・マルコ広場で待ち合わせて,フィレンツェ大学に行くことになっていたので,少し早めにアパートを出た.アパートはプラート門を出たところにあり,門を通り,町の中心(チェントロ)に向かう途中,様々な教会の前を通ることができる.サン・マルコ広場に向かいながら,馴染みの教会に寄ろうと考えていた.
オンニサンティ教会,サン・パオリーノ教会は,朝であるにもかかわらず開いていなかった(後者は,夕方は開いていることを後で確認した).朝の光で観るオンニサンティ教会も素晴らしいので残念だった.
サン・ジョヴァンニーノ・デリ・スコローピ教会(以下,スコローピ教会)は開いていたので,アレッサンドロ・アッローリの「キリストとカナの女」,フランチェスコ・クッラーディの「フランシスコ・ザビエルの説教」だけ急いで見た.
アッローリの絵の前に彫刻家バルトロメオ・アンマンナーティの墓(床に墓碑があるだけ)がある.墓碑は見られたが,アンマンナーティが設計(彼は建築家でもあった)したファサードと天井は大掛かりな修復中で,覆いがかけられていた.
アッローリ,クッラーディ以外の画家たちの作品もあって,これらには以前から興味をひかれていた.今後,何回か足を運んで,一作ずつ確認して行きたい.スコローピ教会は今後も拝観の機会は少なからずあると思う.というのは,教会の入り口前にいつも店を出している露店の古本屋に寄りたいからだ.
10年前の滞在でも,近くに来たときはいつもこの店をのぞき,何度か掘り出し物をした.2012年のツァーの際も,昨年8月の出張の際にも立ち寄った.昨年は,10年前にこの店で購入し,実家に置いていて津波で失われたエンポリの博物館の古い案内書を再び入手するという成果があった.
フィレンツェ大学のオフィスでは,今回の招聘にご尽力下さった職員のテレーザさんに会い,招聘状と滞在許可申請の書類をいただいた.滞在許可申請の書類は通常,郵便局で受け取るもので,前回は自分たちでもらいに行ったが,親切にご用意いただいていて恐縮した.
やはり,招聘にご尽力下さった,W.B.イェイツがご専門の英語文学研究者であるフィオレンツォ・ファンタッチーニ先生ともお会いできた.私はご挨拶した後にすぐに辞去したが,その後,昼食をともにされた高橋先生を通じて,割り当てられた研究用スペースの鍵をいただいた.
フィレンツェ大学を辞去すると,サン・マルコ広場に向かった.待ち合わせの時間に遅れないために,開いているサン・マルコ聖堂を横目にしながら大学へ急いだので,用事の終わった今ゆっくりとサン・マルコを観ても良かったのだが,少し遠出をしてフィエーゾレの丘に行くことにした.
4日も前にフィレンツェに着いているのにまだ何も見ていない,早く何かを見なければという思いに駆られていた.1年間の滞在なので焦る必要はないのだが,それでも毎日,ここでしか出会えないものに触れたいという気持ちで一杯だった.
フィエーゾレに行く7番のバスは,以前はサンタ・マリーア・ノヴェッラ駅が始発だったが,今はサン・マルコ広場とフィエーゾレのミーノ・ダ・フィエーゾレ広場の往復になっている.
朝来る途中に何軒かのタバッキに寄ってバス券を買おうとしたが,売り切れとか売っていないとか言われて,まだ手に入れてなかったので,広場に1台しかない自動販売機で2回券を買った.本当は30ユーロのカルタ・アジーレ(プリペイド・カード)を買うと得なので,それを買おうと思っていたが無かった.
プリペイド・カードのような割引はないのに2回券を購入したのは,フィエーゾレで帰りのバス券を入手するのは難しいと予想したからだ.フィエーゾレでは,何度も聞かれるからかも知れないが「バス券は売っていない」とわざわざ書いてある店もあった.恐らくどこかでは入手できるのであろうが,知っていなければどうにもならない.
バス券購入に少し手間取って1本乗り損ねたが,無事7番のバスに乗れた.バスの行先は「フィエーゾレ」ではなく「サン・マルコ」になっているので,少し迷うところだ.
フィエーゾレでは充実した観光(考古学博物館と考古学地域の場合は,研究,調査も含まれる)ができたが,これについては別途,日を改めて報告する.
この日は19時に鷺山先生,高橋先生と再びサン・マルコ広場で待ち合わせて,夕食を共にする約束があったが,フィエーゾレからサン・マルコ広場に戻ったとき,まだ時間が早かったし,バス券の打刻から90分経っていなかったので,バスを乗り換えてアパートまで一旦戻り,撮ってきた写真と買ってきた本の整理をしてから,再びサン・マルコ広場に向かった.
朝に行ったタバッキにもう一度寄ってみたが,やはりバス券は「売り切れ」だったので,歩いて行った.
その前に少し面倒なことが起きて,例によってパニックになり,考えていた教会拝観はできなくなったが,途中,やはり10年前からお馴染みのストロッツィ宮殿脇の露店の古本屋に立ち寄り(健在なのが分かり嬉しかった),1冊だけ購入して,先を急いだ.
会食場所はアッカーディという名のトラットリーアで,生まれて初めてフィレンツェの名物料理ビステッカ・フィオレンティーナを食べた.3人でシェアして,なおかつ残ったが,美味であった.最後のグラッパが効いて,千鳥足で何とかアパートまで辿り着いた.酒は弱いのだから,異国の街に住んでいることでもあるし,外で飲む時は抑制しなければ,と反省した.
§サンタ・クローチェ聖堂(2016年の出張報告)
フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂には2007年以来,何度か足を運んでいる.丁寧に見ようと思えば半日,あるいはもっとかかるかもしれないほど,多くの作品に満ちた大きな教会である. |
しかし,2006年の初のイタリア旅行の時は,そもそも教会を拝観するという発想が無く,ターゲットはひたすら美術館だった.一日遠足でフィレンツェに来ても,中央駅の目の前のサンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂すら拝観せず,駅から遠いサンタ・クローチェはその存在すら知らなかったと思う.
教会にある芸術作品に目覚めてからは,サンタ・クローチェ聖堂には随分足を運び,修復中の礼拝堂を除き,ほぼ全体を把握したつもりだったが,確認してみると驚いたことに,昨年8月までに拝観したのは,2007年4月6日,同6月30日,2008年1月5日,2012年のツァーの,生涯でたった4度だけだった.思い込みは恐ろしい.
そういう訳で,昨年8月の拝観は5目だったが,5度目にして初めて観る芸術作品があった.中央礼拝堂のフレスコ画,アーニョロ・ガッディの「真の十字架の物語」(聖十字架伝説)だ.この礼拝堂は2007年の滞在時には修復中で,足場が組まれ,絵画はシートに覆われていた.
修復された「真の十字架の物語」
「真の十字架の物語」の修復作業は,日本の美術を愛好する篤志家の寄付によって,金沢大学の教授でフレスコ画の研究者,宮下孝晴氏(現在,名誉教授)と金沢大学,サンタ・クローチェ聖堂と国立フィレンツェ修復研究所の国際共同プロジェクトとして行われ,2005年から2011年まで6年の歳月をかけて完了した.
2012年のフィレンツェ行の時は完成していたようだが(2011年6月にヴェッキオ宮殿で記念式典が行われている),実際にはまだ足場も覆いもあって,見ることはできなかった.
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写真:
「真の十字架の物語」
アーニョロ・ガッディ作
サンタ・クローチェ聖堂
大礼拝堂 |
2015年に前年に続き授業に出てくれていた他学部の学生さんが,夏休みを利用してシエナで語学研修プログラムに参加した際にフィレンツェも訪れて,秋学期の発表で紹介してくれた写真にはサンタ・クローチェ聖堂中央礼拝堂のフレスコ画があった.修復完了後のフレスコ画を鑑賞できたことに羨望の念を覚えたが,翌年,私も漸く観ることができた.
修復前にどのような状態だったか,僅かな写真を見ただけなので,何とも言えないが,美しいフレスコ画が再現されて,立派な修復だったのだと思う.何よりも,元の作品が見事なものでなければ,立派な修復もあり得ない.やはり,アーニョロと言う画家の才能に感嘆すべきだろう.
今回,「真の十字架の物語」を観ることができ,今までに観た複数のテンペラ板絵を比べると,フレスコ画に実力を発揮する画家との印象を深くした.
サンタ・クローチェ聖堂では,他にカステッラーニ礼拝堂で,彼の大掛かりなフレスコ画を観ることができる.描かれている主題は,大修道院長アントニウス,洗礼者ヨハネ,福音史家ヨハネ,バーリの聖ニコラの物語である.
また,プラート大聖堂の聖なる腰帯の礼拝堂のフレスコ画もアーニョロの代表作であろう.聖なる腰帯の礼拝堂のフレスコ画を私たちは2007年7月2日に観ているが,その時は修復なったばかりのフィリッポ・リッピのフレスコ画「洗礼者ヨハネと聖ステパノの物語」に焦点があって,立派な作品だという印象は持ったが,絵柄までは覚えていない.
当時の報告では,この礼拝堂に描かれた「聖なる腰帯の物語」と「聖母の物語」に関して,「下から見上げながら,ただただ息を呑むばかりだった」とまで言っている.何にでも素朴に感動したんだなあと思うが,これは結構大事なことのように思える.
聖なる腰帯の礼拝堂のフレスコ画は1998年から2000年にかけて修復されたので,私たちが見たのは色鮮やかな美しい絵だった.
最後のジョッテスキの一人
「真の十字架の物語」は『黄金伝説』に典拠がある.15世紀にはピエロ・デッラ・フランチェスカが,アレッツォのサン・フランチェスコ教会の中央礼拝堂であるバッチ礼拝堂に,美術史上に燦然と輝く名作とされる同主題のフレスコ画を描いた.
しかし,その評価は,20世紀の本格的な再評価を俟ってのことで,しばらくはピエロ・デッラ・フランチェスカは忘れられた画家だった.
アーニョロは1385年から1390年に,ピエロは1452年から1466年(中断を含む)に同主題のフレスコ画を制作したとされており,約60年前後の時代差がある.この間の1425年頃に,絵画のルネサンスの幕開けとなったとされるサンタ・マリーア・カルミネ教会ブランカッチ礼拝堂のマザッチョのフレスコ画の制作が始まる.
ピエロのフレスコ画は間違いなくルネサンスの芸術だが,マザッチョの「貢の銭」の新しさに比べると古風な要素も多く見られるように思う.
アーニョロは勃興しつつある国際ゴシックの影響を受けたが,最後のジョッテスキの1人であり,ピエロはルネサンスの画家なので,私たち素人にもわかる技法的な違いとしては遠近法活用の有無があるだろう.
遠近法と言う点ではまだまだ未熟な段階,もしくは「遠近法以前」の絵だとしても,人物造形と言う点では,彫像的なピエロの作品よりもアーニョロの作品の方に,むしろリアルさを感じる.アーニョロの描く人物にはジョッテスキ的な顔の峻厳さも見られるが,アーニョロ自身の自画像とされる人物も含め,柔和な顔も見られて,ジョッテスキ全盛の時代の後を受けた新しさも感じさせる.
サンタ・クローチェのフレスコ画に国際ゴシックの影響があるのかどうかは素人には判断ができないが,ジョッテスキに華やか色彩を加味したように感じられ,国際ゴシックの影響はあるように思われる.
アーニョロの祭壇画(板絵)だけを見ていては,彼の実力に思い至らず,今回,大規模なフレスコ画である「真の十字架の物語」を見たことによって,少し後進にあたると思われるスピネッロ・アレティーノとの関係を考えてみたい誘惑に駆られた.
彼らがどのような関係にあったかは私にはわからないし,情報も錯綜しているように思われるが,間違いなく同じ時代に,同じ土壌から育っていった画匠たちに思われる.
物語の場面
アーニョロの「真の十字架の物語」は巨大な作品ではあるが,その構成は概ねわかりやすく,中央礼拝堂奥(東)に向かって,左右(それぞれ北壁と南壁)にある4面ずつ計8面が主たる画面である.各画面について,ピエロの作品と比べながら,少しだけ考察を試みる.
ピエロに関しては,伊語版ウィキペディアのピエロのページと関連づけられている「真の十字架の物語」のフレスコ画のページに,各場面ごとの簡単な解説のついた紹介があり,アーニョロの作品に関しては,現在(2017年4月12日)のところ,伊語版ウィキペディアに独立した項目はなく,サンタ・クローチェ聖堂のHPの中に,このフレスコ画に特化したページがあり,場面ごとの説明もある.
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写真:
アダムの死と
セトによる埋葬 |
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南壁最上部のリュネット型場面には,アダムの死と息子セトによる埋葬が描かれている.埋葬に際して天使の慫慂によってセトが植えた木が,後にキリストの磔刑に用いられる十字架,「真の十字架」(聖十字架)になる物語の出発点である.
ピエロもほぼ対応する箇所(向かって右壁面最上部)にアダムの死とセトによる埋葬が描かれている.
アーニョロは,リュネット壁面を上下に分け,下部がアダムの埋葬になっているが,上部では堂々たる美丈夫のセトが大天使ミカエルからエデンの園の木(アダムとイヴが食べた禁断の果実が成った木)を渡される場面が描かれている.
それに対しピエロは左右に主たる2場面があり,(向かって)右はアダムの死,左はアダムの埋葬で,良く見ると,その間に小さな2人の人物がおぼろげに描かれており,1人は有翼なので,ミカエルとセトであろうと思われる.
60年くらいの時代差があるとは言え,同じ主題を扱い,典拠も同一と思われるのに,画家によって,あるいは画家への助言者の考えもあって,出来上がった絵に大きな違いがある所が面白い.この場面に関しては,アーニョロの絵が特に優れているとは思えないが,上部で木を受け取っていると思われるセトは非常に立派な姿で描かれている.
アダムの死と埋葬を第一画面とすると,第二画面はそのすぐ下にあり,画面の(向かって)左側で川にかかる製材された木を礼拝する高貴な女性が描かれていて,2つの作品はよく似ている.
ソロモンが神殿を建築する際に,偶然この木を切り倒して使うことになったが,長すぎたり,短すぎたりして,どうしても使えないので,大工たちが材木のまま池にかけ,橋にした.そこに,ソロモン王の名声を聞いて,シバの女王がやってきて,後にキリストの十字架となるその木の不吉な運命を察知して渡ることを拒んだ.その際に彼女はその木を礼拝する.
アーニョロの絵は左右2場面に分かれ,左側が木を礼拝するシバの女王,右側はシバの女王の忠告を受けて,不吉な木として城外で地中に埋められる場面が描かれている.ピエロも左右2場面で,左側はシバの女王の礼拝だが,右側は彼女がソロモンに臣従の礼を行なう様子が描かれている.ピエロが描くシバの女王の礼拝は有名で,多くの書物の表紙などに使われているが,アーニョロのシバの女王も気品と威厳のある人物に描かれて,佳品と言えよう.
ピエロの作品で十字架を地中に埋める場面は,第二画面の隣の壁面(礼拝堂正面の壁)の大きなガラス窓を挟んだ右側に描かれている.ピエロの作品は正面のガラス窓の両側にも描かれているのでアーニョロよりも1壁多い3壁10画面で構成されている.参考にしている教会のページではタイトルが「女王ヘレナの礼拝」となっている(2017年4月11日)が,説明文と読み比べても,単純な勘違いだろう.
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写真:
第三画面
木が水に浮かび上がり(左)
それで十字架を作る(右) |
アーニョロの第三画面は,時が経過して,この木が発見され(左側),それがイエスを磔刑にする十字架に加工される(右側)で,これに対応する場面はピエロにはない.
ピエロで次に来るのは「コンスタンティヌスの夢」の場面で,十字架の埋伏の場面の直下に描かれている.ソロモンが紀元前11世紀から10世紀の人物で,コンスタンティヌスがミラノ勅令を出すのが紀元後313年なので,1300年近い時代が過ぎたことになる.最もキリストの磔刑もソロモンの約1000年後のことなので,物語そのものが壮大な時間進行で展開していることがわかる.
注目すべきは,「コンスタンティヌスの夢」のガラス窓を挟んだ反対側に「受胎告知」が描かれていることだ.時間的にはもちろん「受胎告知」が先行する.この「受胎告知」にキリストの誕生と生涯,死と磔刑が集約され,一連の物語の主人公である「真の十字架」がキリストの磔刑に使われたことが含意されているであろう.
コンスタンティヌスの物語は,コンスタンティヌスが,ライヴァルのマクセンティウスとの戦いを控え,幕屋で眠っている時に,夢で天使に十字架を示され,「この印で勝て」とのお告げがあって,彼はキリスト教に改宗し,神の加護を得てライヴァルを倒すことになる.
この有名なミルヴィオ(ミルウィウス)橋の戦いを描いたフレスコ画がヴァティカン宮殿のコンスタンティヌスの間にもある.ラファエロ工房が師匠の死後に完成させたこのフレスコ画では,夢ではなく幻視であり,「この印で勝て」もギリシア語が使用されている.
いずれにしても,コンスタンティヌスの改宗と勝利に関してアーニョロは描いていないのに対し,ピエロはこの戦いを力をこめて大画面(右壁面の最下部)で描いた.
その場面で,コンスタンティヌスは十字架を敗走するマクセンティウスに対して示している.「キリスト教の勝利」が寓意されているのであろうが,その十字架は小さく,これ自体が「真の十字架」ではあり得ない.多分,コンスタンティヌスの母ヘレナによる「真の十字架」の再発見とエルサレムへの奉納は,時間的にはこの後に来るのであろう.
ピエロは,正面壁の十字架の埋伏に対応する左側の場所に地中に降りて行かされる男を描いている.キリストを裏切ったイスカリオテのユダと同じユダという名の300年後の男で,「真の十字架」の埋伏されている場所を知っていると言うことなので,ヘレナの命令によってそれを取り出すように命じられている.場所はエルサレムの城外のはずだ.その隣の左側壁面で,右側にヘレナによる複数の十字架の発見と,左側に彼女による「真の十字架」のエルサレムの教会への奉納が描かれている.
アーニョロの作品では,右壁面最下部(上から四段目)の第四画面で,右側に3本の十字架の発見,左側に「真の十字架」の奇跡が描かれている.十字架が3本あるのは,キリストも含め同時に3人が磔刑になったからで,その中に1本だけある「真の十字架」を探すために,死者に翳してところ,最後の1本によって蘇生の奇跡が起こり,「真の十字架」であることが明らかになった.
ヘレナはコンスタンティヌスの父で,キリスト教を迫害したディオクレティアヌス帝の時代に副帝だったコンスタンティウスの未亡人だ.ピエロの作品では黒装束に白い被り物をした地味な女性に描かれているが,アーニョロは赤い装束に王冠を被った美しい中年女性として描いている.
ヘレナは公認以前からのキリスト教徒で,息子のキリスト教公認に大きな影響を与えたとされるので,カトリックや正教では聖人であり,黄金の後輪も描かれている,
アーニョロの作品では,この後左壁面(北壁)に移り,最上部のリュネットはヘレナによる「真の十字架」のエルサレムへの入城になる.
一方,ピエロが左壁面の最上部のリュネットに描いたのは,東ローマ皇帝ヘラクレイオスによる「真の十字架」のエルサレム入城である.
上述のヘレナによる発見と奉納の場面が描かれた左壁面のすぐ下には大画面の「ニネヴェの戦い」(627年))が描かれている.ササン朝ペルシアの王ホスロー2世が614年にエルサレムに侵攻して「真の十字架」を奪っていたが,この戦いでヘラクレイオスが勝利を収め,「真の十字架」を奪還する.
つまり,ピエロの作品では,最下段の画面は,その上の「ヘレナによる発見と奉納」の画面を飛ばした最上段リュネットの「ヘラクレイオスによる十字架のエルサレム入城」につながり,そこで全体の物語が終わる.順番を把握するのが必ずしも容易ではないが,それでも右壁面最上段のリュネットに始まり,左壁面最上段のリュネットに終わる.
最下段が左右ともに戦闘場面であるように,ピエロは10の画面において,左右の壁面の画面構成(構図)の対称を守る工夫をしており,それが一見,時間の流れ通りに画面が並んでいない理由とも考えられる.
一方,アーニョロのフレスコ画では,右壁面最上段のリュネットに始まり,その下に時系列の物語が三段(ピエロではリュネットの下は二段)続き,その後,左壁面最上段のリュネットに続き,そのまま時系列で下方向に三段の物語が展開し,最後の場面は左壁面(北壁)最下段になる.
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写真:
左第三画面
神殿の中のホスロー(左)
お告げを受け,敵を倒す
ヘラクレイオス(右) |
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アーニョロの左壁面のリュネットの下は,ペルシア王ホスローが,エルサレムを略奪して「真の十字架」を持ち去る画面,その下の画面は,2場面に分かれ,左側は神のように神殿で崇拝されるホスロー,右側はさらに2つの部分に分かれ,幕屋で眠るヘラクレイオスに天使がお告げをする場面と,槍を構えて白馬で突進するヘラクレイオスが川にかかる橋上で敵将を倒す場面である.後者が夢の中で天使が告げた予言と考えれば右側も一場面と考えられる.
不思議なのは,コンスタンティヌスとヘラクレイオスの違いがあるとはいえ,天使が幕屋で眠る皇帝に勝利を予言し,少なくとも絵画の上では,ともに橋の周辺で勝利を収めると言う対応が見られることだ.
コンスタンティヌスがマクセンティウスに勝利を収めたのがミルヴィオ橋の付近であったのは史実とされるので,ピエロの作品が先であれば,その影響を受けたのであろうと思うのだが,アーニョロの方が60年くらい先行しているので,不思議な感じがする.
ただアッシリアの古都で,当時は廃墟だったと思われるニネヴェはティグリス川東岸にあり,川と橋(ティグリス川にかかる橋があったかどうかわからないが)が出てきても特に問題はないだろう.自宅にいれば,『黄金伝説』の邦訳もすぐに確かめることができるが,現在フィレンツェにおり,Latin
Library等ウェブページに『黄金伝説』中の幾つかの聖人伝説はラテン語テクストが掲載されているが,「真の十字架の物語」のテクストは見当たらない.
2012年にアレッツォとサン・セポルクロを訪れ,ピエロの絵について少し考察した際,『黄金伝説』の中の「真の十字架の物語」の要約を書いたが,そのページにもあるように,『黄金伝説』の編著者はドメニコ会の修道士で,実際に「真の十字架の物語」のフレスコ画が描かれたのは,フランチェスコ会の教会(フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂,アレッツォのサン・フランチェスコ教会,ヴォルテッラのサン・フランチェスコ教会<作者はチェンニ・ディ・フランチェスコ>)で,そこに理由があるのか,細部には幾つかの違いがあるように思われる.
ピエロはサン・セポルクロの出身で,フィレンツェで活躍した初期ルネサンスの画家ドメニコ・ヴェネツィアーノの影響を受け,作品は現存しないがフイレンツェのサンテジーディオ教会で彼と共に仕事をしている.サンタ・クローチェ聖堂に描かれたアーニョロのフレスコ画を観たかも知れない.
時代の流行は変わっていたとしても,アーニョロの「真の十字架の物語」は他の画家に影響を与えても不思議はない傑作と当時も受け取られていただろうと想像される.
現代的視点からは荒唐無稽なほど壮大な物語に思われるが,それだけに神の力を感じさせると思われたのだろう.ソロモン,コンスタンティヌス,マクセンティウス,ヘラクレイオス,ホスローは歴史上の人物であるから,史実を伝説によって繋ぎ合わせ,そこに神の力が織りなす神秘と奇跡を見ようとしたのかも知れない.
いずれにせよ,「ヘラクレイオスによる真の十字架のエルサレム入城」で2つの「真の十字架の物語」は終わる.
ただし,史実には反する捕らわれのホスローの斬首は,ピエロでは「ニネヴェの戦い」(『黄金伝説』ではドナウ河畔)の右端に小さく描かれ,斬首は執行されていない.一方,アーニョロの作品では,最後の第8画面の左下でホスローは斬首された死体で登場する.
アーニョロの作品では斬首の上方に,十字架とともに騎馬で華やかにエルサレムに入城しようとしたヘラクレイオスが閉ざされた城門の前で天使に忠告を受けている姿,全体の右半分には,下馬し,甲冑を脱いだ下着姿で恭しく十字架を掲げた裸足のヘラクレイオスの前に城門が開いた様子が描かれている.
同じ画面に3つの時間差のあるエピソードが語られているが,2つには緊密な連続性がある.キリストがエルサレムに入城した時は質素な身なりで驢馬に乗って入城したのに,人の身で壮麗な入城は許されないと言う神の意志が示され,ヘラクレイオスがそれに応じたのが右半分の描写になった.
16世紀の画家だが,フィレンツェのサン・マルコ聖堂に,チーゴリが描いた「十字架を担うヘラクイレオス」と言う祭壇画があり,そこではヘラクレイオスは帝冠も脱いでいる(傍らの従者が捧げ持っている)ので,禿頭を露出した,下着姿のみすぼらしい老人の姿で十字架を担い,上方には天使がそれを指示しているように描かれている.アーニョロの描くヘラクレイオスは帝冠は被っているが,それでも左隣に描かれた凱旋将軍のような姿に比べれば,虚飾を捨てた謙譲が示されている.
この場面の右端下方に,城壁の傍らで皇帝による十字架の入城を見つめる赤い衣服に赤い頭巾の人物が描かれている.アーニョロの自画像とされる.
アレッツォのサン・フランチェスコ教会のバッチ礼拝堂は,予約が取れて入場料を払えば,一定時間その礼拝堂に入れて(今まで三回サン・フランチェスコ教会に行き,そのうち二回この礼拝堂に入れたが,いずれも写真撮影は禁止だった),前以て準備があれば細かい場面まで鑑賞することができる.
しかし,サンタ・クローチェ聖堂の中央礼拝堂は写真撮影は可だが,礼拝堂自体に入ることはできないので,巨大なステンドグラスから差し込む光と,ニッコロ・ディ・ピエトロ・ジェリーニとジョヴァンニ・デル・ビオンドの共作になる大きな多翼祭壇画,フィリーネの親方による磔刑像との位置関係もあって,全ての場面を完全に把握するには,やはり書物やウェブページの写真の助けが必要だろう.
アーニョロの自画像とされる人物は撮った写真にもかろうじて写っていたが,じっくり観たという感じは全くない.残念だが,教会は信仰が第一なので,異邦人の異教徒として拝観が許されるだけでも可としなければならないだろう.
バルディ・ディ・ヴェルニオ礼拝堂に描かれたマーゾ・ディ・バンコのフレスコ画に関しても,あれから十年近く経ち,もしかしたら体制が変わっていることに期待したが,相変わらず信者だけに解放された区画にあり,今回(昨年8月)も観られなかった.
「真の十字架の物語」は前回の滞在時に観られなかった一番大きな芸術作品で,昨年8月に観て,不本意な角度ではあるが写真に収めることもできたので,関連書籍も茅屋に置いたまま,ウェブページを頼りにするしかない状況ではあるが,とりあえずまとめてみたいと思って,だいぶ時間を費やしてしまった.
他にも,大聖堂北側外壁のナンニ・ディ・バンコ作の浮彫「聖母被昇天」も,滞在中も2012年もずっと修復中で観られなかったが,昨年8月に観ることができた.
ナンニ・ディ・バンコの作品については,滞在中も2012年も昨年も見られなかった,もしくは見ていないオルサンミケーレ教会の付属博物館に4月10日に行き,オリジナルを観ることができたので,そちらは今後の日々の活動報告の中に入れて行くことにする.
既に居住先のアパートでの生活も落ち着いてきたので,今後は初心に帰り,前回の滞在記のように,どこに行った,何を観た,素晴らしかった,と言う単純な報告をして行くように努めたい.
そうできるかどうか,あまり自信はないが.
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オルサンミケーレの最上階から
ドゥオーモ
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