フィレンツェだより番外篇
2017年3月23日



 




ヴィーナスは相変わらずトリブーナに
ウフィッツィ美術館



§2016 フィレンツェ研究出張余禄 - その3 ウフィッツィ美術館の古代彫像

もちろん,そのほとんどがローマ時代の模刻ではあろうが,6回目のウフィッツィで,初めて意識してギリシア人の胸像を観た.詩人アナクレオン,医師ヒポクラテス,梟雄アルキビアデス,哲学者クセノクラテスとされる胸像があった.


 これまでこれらの胸像に注目したことは無かったし,宗教芸術への熱(まだ止んでいるわけではない)が少し落ち着きをみせ,石棺や古代彫刻に深い関心を寄せるようになってから行った他の博物館,美術館でも,多分見たことはないと思う.

 最初にウフィッツィに行った時の報告を読み返すと,まだ中世・ルネサンスの芸術に目覚めていなかったせいか,「ニオベの部屋」をはじめとして古代彫刻に比較的関心を寄せており,「カルネアデスと言う古代の哲学者の像が印象に残った」と言っている.

 伝カルネアデスの胸像は今回も確認した.しかし,2007年4月の報告に「キケロや伝セネカの胸像もあり」と書いたうち,伝セネカは見逃さなかったけれども,キケロ像はあったかどうかはわからない.少なくとも撮ってきた写真には写っていなかった.

 各地の美術館,博物館で多く見られるローマ皇帝たちの胸像についても,ウフィッツィのコレクションはまずまず以上の水準だと思うが,今回は,ギリシア人の胸像を中心に2回に分けて報告する.


アルキビアデス
 美しい容姿と立派な家柄に恵まれたアルキビアデスは,プラトンの『饗宴』において,ソクラテスを賛美する登場人物としても知られる.

 ペロポネソス戦争におけるアテネの敗因の一つは,シチリア遠征の失敗にあり,その責任の一端はアルキビアデスにあった.彼は遠征を推進しながら,スパルタに寝返り,アテネの情報をスパルタに流した.

 その後,スパルタでもトラブルを起こし,ペルシア領小アジアに亡命したが,許されてアテネに戻り,再び功績もあげたけれども,重要な敗戦の責任を問われてプリュギアに亡命し,そこで暗殺された.没年の前404年は,ペロポネソス戦争にアテネが敗れた年と同じであるが,アテネ陥落の方が先のようである.

 スパルタの将軍リュサンドロスに支援された30人寡頭政権の領袖クリティアスが,アルキビアデスの危険性をリュサンドロスに説き,リュサンドロスがプリュギアのペルシア人総督ファルナバゾスに示唆して,アルキビアデスが遊女とともにいるところを襲い,家に火をつけて,アルキビアデスが外に出たところを「槍と矢の雨」(プルタルコス「アルキビアデス伝」39章,ちくま文庫の『プルタルコス英雄伝』(上),p.393)を浴びせて殺させた.

 アルキビアデスの死に関して,プルタルコスが別の所伝を語っているが,女性関係が派手だったことに起因するとしている.

 399年にソクラテスが死刑判決を受ける背景には,ペロポネソス戦争の敗因に責任があるアルキビアデスと,戦後政権で暴政を行ったクリティアスの両者がソクラテスの周辺にいたからとの推測が可能だが,アルキビアデス暗殺の元凶が,プルタルコスの所説が正しければ,クリティアスであったというのは,意外な感じがする.



 さて,これだけの有名人でありながら,アルキビアデスの像とされるものは少ない.

 英語版と日本語版のウィキペディアでは,カピトリーニ博物館所蔵の胸像をアルキビアデス像として掲載している.髯の無い長髪の若者である.アルキビアデスには確かに美しい若者と言うイメージがついてまわるが,亡くなった時は46歳くらいで,政治家,将軍として名声,もしくは悪名を得ていた時には有髯であったろうと思われる.

 カピトリーニには2回行ったが,この胸像は見ていない.ギリシア文字の碑銘のある彫刻を見逃すとは思えないが,残念ながら記憶に無いし,撮ってきた写真の中にも写っていない.

 この胸像の肖像性については,カピトリーニの胸像は前4世紀の作ということなので,広義には死後であっても同時代とも言えるし,プラトンには『饗宴』の他に『アルキビアデス』と言う作品が2篇あり,この2篇は偽作説も根強いが,それならそれで,その名を冠した偽作が後世に残るほど「超」のつく有名人だったということで,その容姿を記憶する,あるいは先人の記憶を伝える人に事欠かなかったであろうから,死亡時より20年以上も前の若者の姿で作られた胸像であっても,肖像性はあるかもしれない.

 カピトリーニの胸像の下には台座のようなものがあり,そこには「アルキビアデス,クレイニアスの子,アテネ人」と言う碑銘が刻まれている.首と台座の間に大きな亀裂もしくは継ぎ目が見えるので,もし根拠なくつなぎ合わされたものであれば,この若者の像はアルキビアデスではないことになる.ウィキメディア・コモンズのこの写真の説明は,台座の記銘は近代の付加としている.

写真:
アルキビアデスだと思って
撮影した胸像
カピトリーニ博物館
2007年撮影


 見たことのない上記の胸像とは別に,実はカピトリーニで,これはアルキビアデス,と思って見た胸像が1点あった.「哲学者たちの間」(スタンツァ・デイ・フィロゾーフィ)と通称される,胸像がズラリと並ぶ部屋に,「哲学者」ではないからか,見上げなくては分かりにくい上の棚に置かれている胸像だ.

 2014年にツァーでカピトリーニに行った時の写真には写っていないが,2007年にフィレンツェからローマに個人旅行した際に撮影している(上の写真).

 同じタイプの胸像がヴァティカンのキアラモンティ博物館にもある.2006年に初めてヴァティカンに行った時はデジカメが壊れ,已む無く24枚撮りのインスタント・カメラを使ったので撮っていないが,2014年のツァーでヴァティカンを再訪した際の写真には辛うじて写っている.

 この胸像もローマン・コピーかも知れないが,複数あること,ローマ時代にも模刻が造られたと言うことからして,有名人の像であることは間違いないだろう.

 長らくこのタイプの胸像をアルキビアデスだと思い続けていたのは,若い頃に,このタイプをアルキビアデスとしてを紹介している本を読んだからだと思う.思いつく限り,探してみた.中々見つからなかったが,

 秀村欣二/伊藤貞夫『世界の歴史2 ギリシアとヘレニズム』講談社,1976

に,下記で言及しているコペンハーゲンにある鼻の欠けた彫刻と思われる写真が掲載されているのを見つけた(p. 249).

 学生時代に赤鉛筆で傍線を引きながら読んだ本なので,この本の可能性が高いが,自分の記憶では高校時代に親に全巻予約注文で買ってもらった岩波のプラトン全集だと思っていた.その全集は,盛岡,陸前高田(予備校時代の1年間は実家に置いていた),東京(高円寺と堀切),京都(修学院と岩倉),三田(さんだ),大宮,北本(朝日と中央)と場所は変わったが,ずっと書架にある全集なので,一応確かめたが,『饗宴』の巻にも,『アルキビアデス』I / IIを収録した巻にもこの写真はなかった.

 上記の本は,日本を代表する西洋古代史研究者の名を冠しているので,1970年代には,アルキビアデスの肖像彫刻として認識されていたと考えて良いだろうが,下記で引用しているリヒターの研究書の出版は60年代なので,肖像彫刻の研究者の間では既にアルキビアデスとするには根拠薄弱と判断されていたということであろう.



 これがアルキビアデスとお墨付きの像は,どれかということで,例によって

 G.M.A.Richter, abridged and revised by R.R.R.Smith, The Portraits of the Greeks, Ithaka, New York: Cornell University Press, 1984(以下,リヒター&スミス)

を参照すると,驚くべきことに,アルキビアデスとして紹介されている写真は胸像ではなく,現代のスパルタの考古学博物館に収蔵されているモザイク画だった.「確かにアルキビアデスである,現存する唯一の古代肖像」とコメントされており,スパルタから発掘されたローマ時代のモザイクとのことだ.

 そこで言われている「ローマ時代」がいつなのか説明されていないが,本人の肖像として信憑性があるとは思えない.「ローマ時代」を元首政が始まる前1世紀末とすると,アルキビアデスの死は前5世紀末で,時代差は400年あるからだ.

 もちろん,スパルタはアルキビアデスが亡命していた因縁深い町でもあり,信憑性のある肖像が伝わっていた可能性も絶対に無いとは言えない.

 インターネットで「alcibiades mosaic」で画像検索すると,商業サイトなどが複数ヒットするが,説明が不十分なものが多く,伊語版ウィキペディア「アルキビアデス」に写真が掲載されているのを見つけたので,こちらにリンクしておく.

 モザイクと言う表現手段上の限界もあるだろうが,現代劇画を下手にしたような絵で,あまり古代図像のように見えない.髯の無い長髪の若者で,自信に溢れたように,笑みを浮かべた表情は,ある意味でアルキビアデスのイメージに近く,カピトリーニの髯無しの伝アルキビアデス像と共通するものがある.

 このモザイクにはギリシア語で名前も記されているが,古典ギリシア語のアッティカ方言であれば,「アルケイベイアデース」と読める.このように書いて,アルキビアデースと読む時代,もしくは地域があったのだとすれば,それはそれで貴重な史料だが,この図像が真のアルキビアデスである,と言いきる説得力には欠ける.

 リヒター&スミスは,アルキビアデスの彫像に関する古代の証言として,パウサニアス(紀元後2世紀)の『ギリシア旅行記』をあげている.その6巻3章15節に,アルキビアデスがアテネ海軍の艦隊指揮官だった時に,サモス島のヘラ神殿に住民がアルキビアデスの青銅像の制作を依頼したという報告があり,前410年から407年のことと考えられるので,生前に制作された像があったと一応考えられる.もちろん,作品は現存していない.



 リヒター&スミスは,モザイク画の他に8体の彫像(ヘルマ柱)が存在することを述べた上で,それらに関してはアルキビアデスと同定する根拠に乏しく,詳細はこの簡略本の親本を参照せよとしている.

 その「親本」というのが,

 Gisela.M.A.Richter, The Portraits of the Greeks, London: Phaidon Press, 1965(以下,親本リヒター)

という3巻本の大著である.アマゾンなどでは古書の入手も難しかったが,神田の一誠堂に出ているのを見つけ,すぐには買う決断がつかないほど古書価も高かったけれども,たまたまバーゲンをしていたのと,科研費が使えたので,購入した.強い味方であるが,古い本だし,学問的な著作は常に慎重な姿勢を崩さないので,こちらが期待するような答えが得られない場合が多いように思える.

 この親本リヒターで,アルキビアデスのページを参照すると,リヒター&スミスで言及している8体に関しての情報が得られる.

 1体はヴァティカンにあって,ヘルマ柱台座にアルキビアデスの名前と思われる文字が5文字まで記されており,台座はおそらく彼のものであったろうが,上に乗っている胸像は明らかにローマ人のものとのことだ.

 2体目は「アルキビアデス,クレイニアスの子,アテネ人」と台座に記されているが,親本リヒターの調査時点では行方不明とのことである.

 残りは,全て同じタイプのヘルマ柱で,アルキビアデスとされているが,確証がない.これが7体あるので,全部で9体のはずだが,リヒター&スミスが8体と言っていると言うことは,やはり上述の2体目は改訂簡略版が出た時点でも行方不明だったと言うことであろうか.

 親本リヒターには豊富に写真が載っていて,ホメロスやソクラテスなどは相当数の写真があり,私たちが伝セネカとして知っている彫像も「伝ヘシオドス」の可能性があるとして多数掲載されているが,アルキビアデスに関してはヴァティカンの台座写真と,上述のコペンハーゲンのカールスバーグ彫刻博物館所蔵の鼻がかけた胸像のみが見られるだけである.

 コペンハーゲンと同じタイプの7体については,カピトリーニ所蔵のもの(「哲学者の間」にあるとしているので,若者タイプではない)とキアラモンティ所蔵のものも含まれており,現在(親本リヒター執筆時)は所在不明とされているものもある.ということは,リヒター&スミスの言う8体で排除されているのは,行方不明のヘルマ柱胸像ではなく,ヴァティカンの台座のみのものかも知れない.

 いずれにしても,これらの情報を総合すると,その後,新発見が無いのであれば,はっきりアルキビアデスとされる古代図像は,随分後の時代に造られた,芸術性とは無縁のモザイクしか無く,多くの人がアルキビアデスと思っていたヘルマ柱胸像をアルキビアデスとする根拠は無いと考えられている,と言うことがわかる.

 カピトリーニの若者姿の「伝アルキビアデス」に関しては,親本リヒターにもリヒター&スミスにも言及はない.残念ながら,ウフィッツィの胸像にも全く言及は無い.ウフィッツィの胸像はコペンハーゲンその他の胸像にも,カピトリーニの若者タイプのものとも似ていない.

写真:
かつてアルキビアデスとして
知られていた胸像

今は競技者(アスリート)
の像とされている
ウフィッツィ美術館


 ウフィッツィの説明板にも「競技者(アルキビアデスとして知られていた)」とあり,やはりアルキビアデスとする根拠はないのだと思われる.

 どうしてもコペンハーゲン・タイプの胸像が頭にあるので,ウフィッツィでこの像を見ても,「え,まさか」と思うだけだったが,それでも,古代彫刻を収集した人のギリシアへの憧憬とか,トゥキュディデス,プラトンの作品にも登場し,ネポスもプルタルコスも伝記を書いた人物に仮託したいという人の願望には思いを致したい.

 ウフィッツィの説明板に拠れば,近年ではやはりコペンハーゲンにある前4世紀のリュシッポス制作による前5世紀の競技者ポリュダマスのローマ模刻との類似が指摘されているとのことだ.

 アルキビアデスだけで長くなってしまったので,残りの胸像については次回報告とする.






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