フィレンツェだより番外篇
2016年4月23日



 




ラファエロ作「ガラテアの勝利」(部分)
ファルネジーナ荘



§2016 ラツィオ・ウンブリアの旅 - その2 ローマ (その1)

この3月で就任4年目に入ったフランチェスコ教皇が,昨年の12月8日から今年の11月20日までを「特別聖年」と定めたことで,2016年は,カトリック教会では様々な宗教行事の行われる年となった.


 「聖年」は通常25年ごとで,前回は2000年だったから,今年は「特別聖年」というらしい.普段は内側から塗り固められている「聖なる扉」を通るためにヴァティカンを訪れる人もいるだろう.「聖なる扉」は,ヴァティカンだけでなく,ローマの4大聖堂にあり,「特別聖年」が終わると,再び塗り固められるそうだ.

 2013年の3月13日,ツァーで滞在していたローマの宿で,コンクラーベの結果,新しい教皇が選出されるのをテレビで見た.あれから3年たったとは,時の流れるのは早い.

 「聖年」であることが,特定の勢力の標的になりやすいこともあり,特に宗教施設の警戒がいつもより厳重な場合もあったが,逆に普段なら開いていない時間帯に開いていた教会も少なくなく,思った以上に未訪の教会を拝観することができた.

 ただ,この「特別聖年」の宗教行事との調整のために,ツァー募集当初,最終日に予定されていたシスティーナ礼拝堂の貸し切り見学が初日に移り,その結果,観光初日の大部分が自由行動と言う変則的なツァー開始となった.


サン・ピエトロ・イン・モントーリオ教会
 ローマの未訪の教会のうち,しばらく前から優先順位のトップにあったのが,セバスティアーノ・デル・ピオンボの「キリスト笞刑」と,ブラマンテの「小神殿」(テンピエット)があることで知られるサン・ピエトロ・イン・モントーリオ教会(英語版伊語版ウィキペディア)だった.

  この教会はトラステヴェレ地区のジャニコロの丘の中腹にあり,コーラ・ディ・リエンツォ通り近くにある今回の宿からはだいぶ遠い.初日ではあるし,夜にはヴァティカン見学もあるので,徒歩で行って疲労困憊になるのは避けたかった.どうやって行こうか,渡航前からさまざま思案し,ジャニコロの丘を周回するミニ・バスがあると分かって,一旦はそれで行くことに決めた.

 しかし,ATAF(ローマの公営交通機関)のウェブサイト情報で,時間,経路を確認したが,所要時間,経路,停留所が今一つはっきりしない.結局,テヴェレ川にかかるシスト橋の近くまで路線バスで行き,サンタ・マリーア・イン・トラステヴェレ聖堂の裏側から,所々で階段の近道を使いながら丘を上ることにした.

 途中まで順調に最短コースを進んでいたが,最後の重要な近道を見過ごしてしまい,教会の少し下にある道をぐるっと半周してしまったが,ともかくたどりつき,本堂の拝観をすべく扉を開けると,すぐ右側の最初の礼拝堂にピオンボの絵はあった.

 写真で見るよりも,臨場感に溢れ,感動的な出会いだった.探す必要もなく,目当ての絵にたどり着き,我を忘れた.

写真:
ピオンボのフレスコ画は
凹面に描かれていた


 ピオンボの「キリスト笞刑」は,『地球の歩き方』を始めとする多くの案内書に言及され,写真も掲載されているので,絵柄は知っていたつもりだったが,フレスコ画で,礼拝堂の凹面に描かれているとは思いも寄らなかった.

 「キリスト笞刑」という題材で描かれた絵は,マルケ州立絵画館でピエロ・デッラ・フランチェスカの作品(1455年頃)を,ブレラ美術館でルーカ・シニョレッリの作品(1470年代後半)と,同じくルーカの「キリスト哀悼」祭壇画の裾絵(コルトーナ司教区博物館,1502年)を観ている.

 他に見ていた可能性があるのは,ドゥッチョの「荘厳の聖母」祭壇画(シエナの大聖堂博物館,1310年頃)のパネルとグエルチーノの油彩祭壇画(バルベリーニ宮殿古典絵画館,1640年代),もう1点のルーカ・シニョレッリの作品(ヴェネツィア,フランケッティ美術館,1505年頃)だが,これらははっきり記憶にとどまってはいない.

 ピオンボの「キリスト笞刑」は,1510年代後半から20年代前半の作品と考えられており,私が今まで見たこの題材の他の絵は全て先行作品だったことになる.さらに時代は下って,カラヴァッジョには,未見だが「キリスト笞刑」が2点(ルーアン美術館,1607年頃/ナポリ,カポディモンテ国立博物館,1607年頃)ある.

ルーカ,ピオンボ,カラヴァッジョに共通していることは,筋肉質の男たちの群像が激しい動きを伴って描かれていることだ.


 筋肉質の肉体表現と言えば,ミケランジェロがルーカの影響を受けたことはよく知られている.そして,ピオンボは,ミケランジェロから素描の提供を受けていたらしいし,ローマでその才能を開花させたカラヴァッジョがピオンボの絵を観た可能性は高い.であれば,確証がある訳ではないが,3人の「キリスト笞刑」は影響の連鎖で結ばれていても不思議はない.

 「キリスト笞刑」のある礼拝堂の上部の半穹窿天井には,やはりピオンボの手になる「キリスト変容」が描かれている.同じピオンボ作品でも,こちらはあまり注目されることがないのは,あるいは工房作品と考えられているのであろうか.



 向かって左隣の礼拝堂には,2人いる通称ポマランチョの1人,ニッコロ・チルチニャーニ作とされる「聖母子」のフレスコ画が額に収められて飾られ,半穹窿天井にはラファエロ工房の協力者で建築家としても知られるバルダッサーレ・ペルッツィとピントリッキオの影響を受けた画家のフレスコ画があるようだが,堂内が暗いので,どれがどれという確認はできていない.

 その次の礼拝堂には,名前のわからない18世紀の画家の作品で,礼拝堂の名称(「神殿奉献」の礼拝堂)の由来にもなっている「イエスの神殿奉献」の油彩祭壇画があり,教会の説明板に拠れば,両側にミケーレ・カッルーチと言う画家の「無原罪の御宿り」と「受胎告知」の絵(見た感じはフレスコ画)があるとされるが,カッルーチの情報は今のところ得られていない.

 その次の礼拝堂の半穹窿天井にはキリスト磔刑のフレスコ画があるが,ジョルジョ・ヴァザーリの作とされ,伝承に拠ればベアトリーチェ・チェンチが,この礼拝堂か中央礼拝堂に埋葬されているとのことだ.

写真:
ヴァザーリ作
「パウロの回心」(部分)


 その次の礼拝堂にもヴァザーリの祭壇画があり,周辺の装飾はジュリオ・マッツォーニ(英語版伊語版ウィキペディア)とされる.この礼拝堂(デル・モンテ礼拝堂)には,フィレンツェの彫刻家バルトロメオ・アンマンナーティ制作の墓碑がある.

 この祭壇画「パウロの回心」は,いかにもヴァザーリ風の絵だ.主題については,落馬していないのに,どうして「パウロの回心」なのだろうと不思議に思い,『新約聖書』の「使徒言行録」にあたってみたが,馬の話はまったく出てこない.

 瞼を閉ざし,抱えられるようにして立っている兵士の姿の人物に対して,向かって右側の老人が手をかざしている.この人物はアナニアス(日本語聖書ではアナニア)という弟子らしい.

 「使徒言行録」によると,アナニアスは幻の中の「主」に指示されて,目が見えなくなっているパウロ(その時点ではサウロ)のもとに行き,彼の上に手を置いて目を見えるようにする.目から「うろこのようなもの」が落ち,視力を回復したパウロはキリスト教徒となったとされる(9章10-19説).ヴァザーリが描いたのは,まさにその場面であろう.

 ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートで見ると,16世紀の「パウロの回心」はパルミジャニーノもルドヴィーコ・カッラッチもティントレットも落馬シーンであり,私たちがこの主題で最も良く知っているカラヴァッジョの作品も,突然の天からの光によって,地に倒れた瞬間を描いたと思われる絵柄で,馬が傍らにいる.

 15世紀前半のフラ・アンジェリコの写本挿絵に至って,ようやく馬が描き込まれていない絵にたどりつく.しかし,それよりも古い時祈書の挿絵にも馬が出てくるし,フラ・アンジェリコの絵も落馬シーンと言われても違和感はないが,ともかくフラ・アンジェリコの挿絵には馬は描かれていない.14世紀のロレンツォ・ヴェネツィアーノの祭壇画には落馬シーンが描かれている.

 英語版ウィキペディア「アナニアス」には,ヴァザーリと同じ場面を描いたピエトロ・ダ・コルトーナの絵が紹介されている.



 中央祭壇には,17世紀まではラファエロの「キリストの変容」(現在はヴァティカンの絵画館)があったそうだが,現在はグイド・レーニの「ペテロの磔刑」のヴィンチェンツォ・カムッチーニ(英語版伊語版ウィキペディア)に拠るコピー(原作はやはりヴァティカン絵画館)が飾られているとのことだが,暗くてよく見えなかった.

 デル・モンテ礼拝堂の反対側の礼拝堂は,ダニエーレ・ダ・ヴォルテッラが礼拝堂全体の設計にもかかわり,祭壇画「キリストの洗礼」も描いたとされる.両脇のペテロとパウロの彫刻はレオナルド・ソルマーニ(ウィキペディアには立項がないが,あるウェブページに小伝が,別のウェブページに作品リストがある.2016年4月17日参照),漆喰装飾はジュリオ・マッツォーニが担当と堂内の説明板にはあった.

 ピオンボは深い親交を持ち,ヴァザーリは深く敬愛し,ダニエーレは弟子筋にあたり,アンマンナーティはその作風を模倣しようとした人がいた.ミケランジェロだ.1500年に献堂されたこの教会に,ミケランジェロが直接手掛けたものは何もないけれども,16世紀という,ミケランジェロがローマでその存在感をいかんなく発揮した時代が生み出したものと言えよう.

写真:
ベルニーニ設計の礼拝堂
祭壇彫刻
フランチェスコ・バッラッタ
「聖フランチェスコの法悦」


 ミケランジェロ以後のバロックの作品もある.中央祭壇に向かって2つ目の礼拝堂であるライモンディ礼拝堂の設計したのは,バロックの巨匠ジャン=ロレンツォ・ベルニーニであり,そこに見られる浮彫の祭壇彫刻「聖フランチェスコの法悦」は,年長者ではあるがベルニーニのもとで仕事をしたフランチェスコ・バッラッタとされる.

写真:
伝アントニアッツォ・ロマーノ
「聖母子と聖アンナ」
(サンタンナ・メッテルツァ)


 この絵がアントニアッツォ・ロマーノ(英語版伊語版ウィキペディア)の作品かどうかはわからないが,佳品に思える.1430年頃の生まれなので,ミケランジェロより40歳以上年長だが,もちろんルネサンスの画家だ.しかし,彼の作品には,中世を思わせる古雅な味わいがあるように思え,時代は進んではいるのだが,国際ゴシックのような華やかさを感じさせる.

 サンタ・マリーア・ソプラ・ミネルヴァ聖堂で彼の「受胎告知」を観ている.その完成度には遠く及ばないとしても,上の写真の「聖母子と聖アンナ」も人間的やさしさを感じさせ,惹きつけられる.

 この作品に関して,英語版ウィキペディアははっきり「弟子の作品」としているが,そうだとしても力のある弟子が工房にいたのであろう.巨匠の名前の前に「伝」とか,後に「帰属」とかが付く時のガッカリ感がこの絵にはないように思える.堂内にあった説明板はアントニアッツォの作品としていた.

 聖母子の後ろに中央三番目の存在(メッテルツァ)としてアンナがいる図像は,私たちは,ウフィッツィのマザッチョとマゾリーノ共作の祭壇画でよく知っているつもりだが,めずらしい図像(ラーラ・イコノグラフィーア)だと堂内の説明板は言っている.マザッチョとマゾリーノの絵ではアンナは老女に見えるけれども,劣化のせいもあるかも知れないが,こちらのアンナは若く美しく見える.

写真:
ブラマンテの
テンピエット(小神殿)


 建築に関心のある人にとっては重要な建築物が中庭にある.通称テンピエット(小神殿)と呼ばれる,クーポラを頂く建築で,建築家として,芸術家としてミケランジェロの30歳くらい年長のライヴァルだったドナート・ブラマンテ(英語版伊語版ウィキペディア)の代表作とされる.

 写真に写っている入り口から中に入れるが,この裏側のクリプタに降りる入り口には柵があって,中は見えるが入ることはできない.

 ミラノのサンタ・マリーア・デッレ・グラーツィエ聖堂の建築にどれほどブラマンテが関わったかは議論があるようだが,同聖堂を二度目に訪れた2009年9月のとき,私たちは内陣天井をブラマンテの作品として,感動しながら観た.

 ウルビーノ近郊で生まれ,おそらくラファエロの血縁であったとされるが,ミラノでスフォルツァ家に仕え,その際,レオナルドと交流があり,ミラノがフランスに占領されて,ローマに活躍の場を移した.

 後に教皇ユリウス2世となるジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿の依頼で,このテンピエットを設計し,これが,ローマでの彼の出世作となった.テンピエットが完成した1510年には,デッラ・ローヴェレ枢機卿は教皇就位後7年目となっていた.


ファルネジーナ荘
 ジャニコロの丘を降りて次に行ったのは,丘の麓にあるファルネジーナ荘(ヴィッラ・ファルネジーナ)(英語版伊語版ウィキペディア)だ.

 ラファエロの世俗主題のフレスコ画で有名なこのヴィッラを常々見学したいと思っていた.2013年の春のローマのツァーで,道路をはさんで向かい側のコルシーニ宮殿の絵画館を訪ねた際,ファルネジーナ荘の外観だけ少し見ることができ,次は必ずここを観ようと思った.

 参考書としては,以前から,伊英対訳の

 Gianfranco Malfarina, ed., LaVilla Farnesina a Roma / The Villa Farnesina in Rome, Modena: Franco Cosimo Panini, 2003(以下,マルファリーナ)

が書架にあるし,写真撮影可だったので,特に案内書や絵葉書は買って来なかった.

 ファルネジーナ荘の注文者はシエナ出身の銀行家アゴスティーノ・キージで,後に教皇を出したファルネーゼ家の所有となったので,ファルネジーナ(小ファルネーセ)荘と呼ばれるようになった.

 建築家はバルダッサーレ・ペルッツィ(英語版伊語版ウィキペディア)で,建設は1506年に始まり,1510年に完成した.ペルッツィは1481年生まれなので,1483年生まれのラファエロより年長だが,ラファエロの強い影響を受け,彼の工房とともに仕事をした.

 シエナ近郊のソヴィチッレ(英語版伊語版ウィキペディア)で生まれ,修業の地もシエナで,ピントリッキオやフランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニのもとで,画家,建築家のキャリアをスタートさせた.建築家としての大成にはラファエロの縁者とされるブランマンテの影響が大きかった.

 建築を担当しただけでなく,1階(地上階)の通称「ガラテアの広間」(ロッジャ・ディ・ガラテーア)では絵も含めた天井の装飾を担当し,同階の「帯状装飾(フリーズ)の部屋」(スタンツァ・デル・フレージオ)でも,2階(イタリア式には1階)の「遠近法の間」(サーラ・デッレ・プロスペッティーヴェ)でも,画家としての実力を発揮した.

 特に,「遠近法の間」における列柱と風景による「騙し絵」(トロンプ・ルーユ)と装飾画はペルッツィの画業の中でも代表作と言えるだろう(一番下の写真).

 ペルッツィはラファエロの死後,ラファエロがブラマンテから引き継いでいたサン・ピエトロ聖堂主任建築家の地位に就いたが,1527年の「ローマ劫略」の後,故郷に近いシエナで仕事をした.再びローマに戻ってからも,多くの仕事を成し遂げ,1536年に同地で亡くなり,パンテオンにあるラファエロの墓の近くに葬られたとされる.

 巨匠たちほどの名声は,現在では望むべくもないが,同時代としては間違いなく,イタリア・ルネサンスが生んだ「万能人」(ウォーモ・ウニヴェルサーレ)の一人と言えよう.


写真:左のポリュペモスはピオンボ作,残り2枚はラファエロの「ガラテアの勝利」(部分)


 帰国後,参考書やウェブページから細かい情報を得たことで,ペルッツィにも魅力を感じるようになったが,何といってもここで最も魅力的なのは「ガラテアの勝利」と称されるフレスコ画だ.

 既にヴァティカンの「署名の間」のフレスコ画(1509-10年)を仕上げ,若き巨匠であったラファエロに,アゴスティーノ・キージは,サンタ・マリーア・デッラ・パーチェ教会のフレスコ画(1511-13年),サンタ・マリーア・デル・ポポロ聖堂のキージ礼拝堂の設計に続き,現在ヴィッラ・ファルネジーナと呼ばれている建物の通称「ガラテアの広間」の壁面を飾るフレスコ画を依頼した.

 親方の下絵に基づく工房の作品は,この建物の中に複数見られるが,ラファエロ自身が実作の中心になったのは,この「ガラテアの勝利」1点のみだろう.

 驚くべきことにその隣には,ラファエロにとってはライヴァルの1人となるセバスティアーノ・デル・ピオンボのフレスコ画がある.ピオンボをヴェネツィアからローマに連れてきたのもアゴスティーノ・キージとのことだ(石鍋真澄『誰も知らないラファエッロ』新潮社,2013,p.97).

 「ガラテアの勝利」として知られるこの絵は,海のニンフ,ガラテア(ガラテイア)が,自分に恋する一つ目巨人ポリュペモスの求愛を拒絶する,古代から良く知られた物語を題材にしている.ヘレニズム時代の牧歌詩人テオクリトスは「(失恋を治癒する)恋の薬は歌のみ」を主題に,ポリュペモスがガラテイアに切々たる思いを告げ,最後は断念に至る作品を作った.修士論文で扱ったので,私もよく知っている題材だ.

 テオクリトスの牧歌11番はローマの大詩人ウェルギリウス(修士論文の時の中心主題はこちらだった),オウィディウスにも影響を与え,オウィディウスの『変身物語』で創作された三角関係をもとに,18世紀にバロックの巨匠ヘンデルが小ぶりな歌劇「アキスとガラテア」を作曲し,それを後にモーツァルトが編曲したヴァージョンもあるし,ギュスターヴ・モローや,オディロン・ルドンが描いたポリュペモスとガラテアの絵もある.

 「勝利」が何に対する勝利なのか疑問が残るが,どうも激しい求愛をものともせずに軽やかに海を渡るガラテアの姿に「勝利」が読み取れるようだ.これは古代の文学作品では「勝利」とは言われていなかったように思うので,ルネサンス的発想と言えるかも知れない.

 上の写真の(向かって)右端がガラテアで,左端は,海で女王のように振る舞うガラテアを陸地から見つめるポリュペモスだ.牧羊の杖と葦笛(パン・フルート)がアトリビュートとなるこのポリュペモスの絵を描いたのはピオンボである.

 ピオンボらしさがどこにあるか俄かにはわからないが,文献的な裏付けがあるのであれば,今は,同じ空間でラファエロとピオンボが関連する題材で一種の「共作」をしたということに興味をひかれるべきであろう.

写真:
ラファエロのフレスコ画
「ガラテアの勝利」(左端)
天井の装飾はペルッツィ

高校生の団体に囲まれて


 この2点のフレスコ画にずっと憧れ続けていたので,大挙してやってきているフランス人の高校生の団体の喧噪をものともせず,幸福感に浸った.

 日本の中高生が修学旅行で東大寺三月堂に行き,多くの場合,言葉は悪いが「豚に真珠」を絵に描いたような状況で終わることになっても,やはり人生の中で,本物の芸術に触れることには意味があると思う.

 私の場合,小学校の修学旅行は仙台で,芸術的なものは青葉城の石垣と松島の瑞巌寺くらい,中学校の修学旅行は東京で,芸術の香りが微かにでもするものといえば,皇居前広場の高村光雲作「楠木正成像」くらいしかみておらず,高校に至っては,大正何年だかに事故があって以来,修学旅行がないのが伝統の学校だったので,東大寺三月堂やヴィッラ・ファルネジーナを少年期に訪ねることができた人たちは羨ましく思える.

写真:
天井のフレスコ画
左:クピドとプシュケの婚礼
右:オリュンポスに集う神々


 「ガラテアの広間」から同階の「クピドとプシュケの広間」(ラ・ロッジャ・ディ・アモーレ・エ・プシケ)では,石鍋真澄の用語を借りれば「ラファエロ&カンパニー」の実力がいかんなく発揮された装飾画を観ることができる.

 石鍋に拠れば,ラファエロに下絵に基づいて,ジュリオ・ロマーノを中心とする工房メンバーがここで仕事をし,それぞれの絵の枠を作っている花綱模様は,やはり工房のエースだったジョヴァンニ・ダ・ウーディネとのことである.

巨匠が下絵しか担当していないということで,この部屋を素通りしてしまう人は,永遠にイタリア・ルネサンスとは無縁であろう.


 紀元後2世紀のローマ時代の作家で思想家のアプレイウスの散文物語『変身物語』(通称『黄金の驢馬』)に語られた恋の神(ギリシア語ではエロス,ラテン語ではアモルもしくはクピド)と「魂」(プシュケ)と言う名の少女の愛と試練と結婚の物語は,後世の諸芸術に影響を与えた題材であり,彼らの婚礼と,オリュンポスに集う神々を描いた天井フレスコ画は,華やかで,ルネサンス的祝祭感に満ちている.

 上の写真では切れてしまったが,右端にいる槍を持って兜をかぶった軍神アレスのさらに右に,二叉の鉾を持ったハデスと三叉の鉾を持ったポセイドンが描かれている.三叉の鉾のポセイドンは古代以来の約束事を反映しているが,冥界の王ハデスの二叉の鉾は,古代の文献や図像には典拠が見られず,おそらくこのラファエロ工房のフレスコ画が,現存最古の作例と思われる.

 その後「二叉の鉾を持つハデス」の図像が普及,定着したかどうかは不明にして知らないが,少なくとも,ローマの,現在はカジーノ・ルドヴィージと称される建物の天井画に一つの作例が見られる.デル・モンテ枢機卿の依頼でバロックの巨匠カラヴァッジョが描いた,ゼウス(ユピテル),ポセイドン(ネプトゥヌス),ハデス(ディス)の三神のいる油彩画で,ハデスに二叉の鉾を持たせていることには注目して良いであろう.

写真:
ソドマ
アレクサンドロス大王と
 ロクサネの結婚(部分)


 この建物にはもう一点,ビッグネームのルネサンス芸術家による作品がある.ロンバルディア出身で,レオナルデスキとして画家のキャリアを始めながら,シエナを中心に活躍して,独自の画風を確立したジョヴァンニ・アントーニオ・バッツィことイル・ソドマ(英語版伊語版ウィキペディア)である.

 どういう経緯かはまだ調べていないが,彼はラファエロの友人だった.ヴァティカンの「署名の間」のラファエロのフレスコ画「アテネの学堂」で,古代絵画の巨匠アペレスの姿で描いた自画像の前の人物のモデルはソドマとされている.

 私はウフィッツィ美術館やシエナのパラッツォ・プッブリコで彼の作品を観て以来,間違いなくルネサンスの巨匠の一人と思い続けているが,今回,写真では何度も見ていた「アレクサンドロスとロクサネの結婚」を観ることができて,満足できた.

 このフレスコ画は,「アレクサンドロス大王とロクサネの結婚の部屋」(スタンツァ・デッレ・ノッツェ・ディ・アレッサンドロ・マーニョ・エ・ロッサーネ」と称される2階の部屋に描かれている.残りの3面にもフレスコ画があり,マルファリーナではどれもソドマの作品とされているが,部屋ごとに置かれていた解説板では別の画家の作品になっていたような気がする.正直なところ,優れているのは,上の写真の「アレクサンドロスとロクサネの結婚」だけのように思われた.

 題材はプルタルコスの「アレクサンドロス伝」にも取り上げられている,古典に典拠を持つ物語である.他の3面に描かれた「駿馬ブケパラスを馴らす少年アレクサンドロス」,「アレクサンドロスに嘆願するペルシア王ダレイオスの母」,「戦闘場面」の内,少なくとも2面は古典の典拠が明確な作品である.

 今回,ヴィッラ・ファルネジーナで,ラファエロ,ピオンボ,ソドマと言う巨匠たちの有名なフレスコ画をじっくり鑑賞できたのは,確かに大きな成果だったが,

 盛期ルネサンスの高貴な逸楽とでも呼ぶべき雰囲気をここほど堪能できるところはない.(中略)訪れる者が,今もなおルネサンスの人々と同じ喜びを享受できる,数少ない場所の一つだ(石鍋,上掲書,p.98)

という文章が,まさにその通りと思わせられるほど,ラファエロ工房とその協力者であるペルッツィの実力に思いが至った.


バッラッコ博物館
 ファルネジーナ荘から,テヴェレ川を越えて,帰りのバス停を確認し,幾つかの教会を拝観した後,カンポ・ディ・フィオーリのトラットリーアで食事をした.ランチ・メニューになっていたプンタレッレのサラダ(インサラータ・ディ・プンタレッレ・アッラ・ロマーナ)を初めて食べた.予備知識がなかったので,このサラダはこの季節だけのものとは知らなかった.

 プンタレッレという野菜に関しては英語版が同名で,伊語版が別名で立項し,料理の仕方にも少し言及している.後で確認すると『地球の歩き方 '12~'13』にも,写真付きで,「プンタレッレのサラダ」に関して,

 チコリの1種でやや苦みのある野菜.白い茎の部分を裂き,水に離してクルクルとした形もおもしろい.アンチョビーと酢,オリーヴ油のドレッシングであえたもの.旬は春(p.387)

と説明されている.

 このサラダは最終日の夕食でも食べることができ,こちらも美味だったが,カンポ・ディ・フィオーリの喧噪に混じって,少し離れたテーブルのイギリス人の高校生のグループとウェイターの気風の良いお兄さんの片言のコミュニケーションが聞こえてくる中で食べた味が忘れられない.ツーリズムを主産業の一つとする現代のローマをより実感されるようで,より美味に感じられた.

写真:
オデュッセウスと
ラエルテスの再会
紀元後3世紀の石棺浮彫断片


 その後,地図を見ながら,バッラッコ博物館(英語版伊語版ウィキペディア)を目指した.近くまで来たところで少し道に迷ったが,おかげで思いも寄らなかったサン・ロレンツォ・イン・ダマーソ聖堂を拝観できた.

 この博物館は,正式にはジョヴァンニ・バッラッコ古代彫刻博物館(イル・ムゼーオ・ディ・スクルトゥーラ・アンティーカ・ジョヴァンニ・バッラッコ)と言うようだ.19世紀から20世紀にかけてのジョヴァンニ・バッラッコと言う個人が収集したコレクションを基に1954年に設立された.

 チケットを買おうとしたら,今日は料金がかからない日だと言われ,無料で入館できた.これまでも何度か,ローマ,フィレンツェで無料で美術館・博物館に入る機会に恵まれ,後に,春の「文化週間」,秋の「ヨーロッパ文化遺産の日」には,国立の美術館・博物館は無料になることを知ったが,今回はその時期でもないし,そもそも国立ではないので,なぜ無料だったのか分からない.

 エジプト,メソポタミア,ギリシア,エトルリア,古代ローマ,古代末期から初期中世の発掘品を見ることができるが,確かに断片的なものが多く,古代に興味が無い人には少し退屈かも知れない.しかし,古代に関心のある人であれば,小さな博物館にもかかわらず,その多様性と水準の高さに驚くだろう.

 不明にして私は知らなかった,古代神ベスの像が複数あり,とても興味深かった.布袋様のようなめでたい造形に見える.

 それほど多くはない部屋を回る中で,上の写真の「父ラエルテスと再会して抱き合うオデュッセウス」の彫刻に出会うことができた.円錐帽ピロスを被っているので,誰もがオデュッセウスと認識できる.これは,紀元後3世紀のローマ時代の石棺パネルの浮彫断片のようだが,いわゆるローマン・コピーではなく,ローマ時代のオリジナル作品と言うことになる.

 M.I.フィンリー,下田立行(訳)『オデュッセウスの世界』(岩波文庫)岩波書店,1994

を,ある授業の参考書として,亡くなった先輩の見事な訳文を味わいながら,熟読させてもらっているが,この本に明らかに上の写真の浮彫と同じと思われる写真が掲載されてるのに,帰国後に気づいた.写真では何度か見ていたはずなのに,現場では全く初めて,とてもめずらしい彫刻に出会えた気がした.単にこれまでは注意が向いていなかったということであろう.今後は,この浮彫が記憶から消えることはないと思う.

 Maresita Nota Santi / Maria Gabriella Cimino, tr., Maria Celeste Nota, Barracco Museum Rome, Roma: Libreria dello Stato, 1993

と言う英訳案内書をイタリア・アマゾンで前以て入手していたが,この本には上の写真の彫刻はフォーカスされていない.

写真:
牡羊を担ぐヘルメス
紀元前5世紀カラミス原作
からのローマ時代の模刻


 「牡羊を担ぐヘルメス」(ヘルメス・クリオフォロス)の彫刻は,多くの作例があり,おそらく後にキリストを現す「善き羊飼い」に影響したものと思われるが,私の乏しい記憶では実例をこの目で観たのは初めてだと思う.

 この作品は上記案内書にも写真付きで取り上げられており,紀元前5世紀の作品であれば,古典期の彫刻で,大変貴重な作例ということになる.カラミスと言う作者の名も挙げられているが.カラミス作のオリジナルではなく,ローマ時代の模刻であるらしい.それでも私には高水準の立派な作品に思われる.ローマ近郊で発掘されたとのことだ.

写真:
キウージ出土の墓碑石柱の
浅浮彫「婚礼の男女」
紀元前5世紀のエトルリア芸術


 キウージ出土の浅浮彫が施された石柱パネルは,フィレンツェの大聖堂博物館,パレルモの州立考古学博物館で見ており,どの作品も立派だった.これらはもちろんオリジナル作品である.

 自分が撮ってきたあまりピントのあっていない残念な写真群を眺めても,この博物館での感動が甦ってくる.閃緑岩によるエジプト彫刻,アッシリアの戦士の浮彫,キプロスで出土したとされる,母子と思われる二人の人物を乗せた四頭立ての馬車の彩色石灰岩彫刻,エピメニデス型のホメロスやデモステネスの胸像,騎馬像の浮彫を施した見事なアッティカ墓碑(紀元前6世紀のオリジナル),など枚挙に暇がないほどの傑作群に満ちている.

 この博物館は,古代に興味を持つ人も,そうでもない人も是非,訪れてほしい.もちろん,もともとあった場所で鑑賞できないのは,それはそれで残念なことではあるが,私財を投じ,情熱をかたむけて収集した人がいるからこそ,こうして残っているという側面もある.博物館には,やはり博物館が持つ固有の意味がある.バッラッコ博物館,行くべし,である.

 ともかく,今回の旅行は初日が自由時間だったので,いきなり飛ばしすぎた感があるが,この時点ではもう帰国しても恨みはないほど,多くの芸術や,古代の遺産に出会うことができた.しかし,驚きと感動は,この後,さらにたくさん待っていた.






騙し絵のところに「ローマの劫略」の時の落書き
ファルネジーナ荘