§2016 ラツィオ・ウンブリアの旅 - その3 ローマ (その2) 市内の教会 ‐ その1
ツァーの入出国はローマだったので,旅の最初と最後にローマで自由時間があった.この時間を利用して訪れた教会について,前回のサン・ピエトロ・イン・モントーリオ教会(以下,モントーリオ教会)に続いて報告する. |
ただし,一度に全部を紹介するのは難しいので,2回に分けて,今回は観光初日に見た教会,今篇の最終回で,ローマに戻ってから見た教会について報告する.
モントーリオ教会以外の教会は,徒歩で移動する道すがら,扉が開いていれば入ったという状況なので,予習がしてあった訳ではないし,全ての教会に注目すべき芸術作品があったわけでもない.予備知識なしの素朴な感想になってしまうが,例によって,後から学習した知識を含めて,記憶の許す限り紹介する.
サンタ・マリーア・デッラ・スカーラ教会
それ以前にトラステヴェレを訪ねた時に,前を通ったことがあったかも知れない.しかし,これが,カラヴァッジョが注文を受けて作品を描いたにもかかわらず,受け取りを拒否された,あのサンタ・マリーア・デッラ・スカーラ教会(英語版/伊語版ウィキペディア)(以下,スカーラ教会)だと思いながらファサードを眺めたのは2013年3月のことだった.
カジノ・ルドヴィージに残るカラヴァッジョ唯一の壁画鑑賞が目玉のツァーに参加し,同行の皆さんとともにサンタ・マリーア・イン・トラステヴェレ聖堂から,昼食を取るトラットリーアに向かっていた時だった.スカーラ教会の扉が開いているのを見て,一瞬,堂内を垣間見るだけでもと思ったが,団体行動なので断念し,昼食後にその前を通った時はもう扉は閉まっていた.
カラヴァッジョが描いて拒否された「聖母の死」の代わりに,カルロ・サラチェーニ(英語版/伊語版ウィキペディア)の絵が祭壇に飾られていることは知っていた.
サラチェーニについては,1999年の白金の庭園美術館で見た「カラヴァッジョ展」に,バルベリーニ宮殿古典絵画館から彼の「聖カエキリアと天使」が出展されていて,2006年の旅行で同絵画館で再びそれを見ているので,カラヴァッジェスキの一人であることは知っていたが,ヴェネツィア出身であることは知らなかった.
それを知ったのは,翌2014年の3月の北東イタリアのツァーの時だ.ヴェネツィアのアカデミア美術館で偶然,サラチェーニの特別展を見ることができて,彼がヴェネツィア生まれで,活躍の場は主としてローマであったが,ヴェネツィアで亡くなった画家であることを知った.スカーラ教会のために描いた「聖母永眠」も,この特別展で観ることができた.
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写真:
カラヴァッジョの「聖母の死」の
代わりに描かれた祭壇画
カルロ・サラチェーニ作
「聖母永眠」 |
同年8月にもローマに行ったが,この時の自由時間は,ヴィッラ・ジュリア・エトルリア美術館をメインにしたため,トラステヴェレ地区まで足を伸ばす余裕はなかった.スカーラ教会の拝観は叶わなかったが,移動中に,たまたま拝観できたサンタ・マリーア・イン・アクィーロ教会(英語版/伊語版ウィキペディア)で,彼の複数の作品に出会えた.
今回もスカーラ教会が拝観できるかどうか全くわからなかったが,モントーリオ教会の拝観を終えて,ジャニコロの丘を降り,次の目的地のファルネジーナ荘に向かう途中,スカーラ教会の前を通ると,果たして扉は開いていた.
欣喜雀躍して堂内に入り,サラチェーニの「聖母永眠」と再会した.今回は本来あるべき場所で観ることができたので,格別に思えた.
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写真:
カラヴァッジェスキの一人
ホントホルスト
「洗礼者ヨハネの斬首」 |
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さらに,サラチェーニを実力で上回ると思われた画家の作品に目を見張った.イタリア名ゲラルド・デッラ・ノッテ(デッレ・ノッティ)(夜のゲラルド)ことヘラルト(ヘリット)・ファン・ホントホルスト(英語版/伊語版ウィキペディア)の「洗礼者ヨハネの斬首」だ.
「夜の」とあだ名されたことがよくわかる,明暗対照画法を多用した作風で知られる,オランダ出身のカラヴァッジェスキを代表する画家である.修業と活躍の場をイタリアに求めたが,ユトレヒトに生まれユトレヒトで亡くなったオランダの画家と言って良いだろう.
以前も作品は見ていたのかも知れないが,NHKでダブリンのナショナル・ギャラリーに展示されているカラヴァッジョ「キリスト捕縛」の特集番組が放映されたとき,この絵が長くホントホルストの作品として伝えられていたことを知り,その名が記憶に刻まれた.
彼の作品は,ウフィッツィ美術館,ボルゲーゼ美術館,ルーヴル美術館でも見ているが,エルミタージュ美術館で観た「大工ヨセフと少年イエス」と並んで,自分の目で観た彼の作品の中ではこの「洗礼者ヨハネの斬首」は傑作だと思う.
この教会の中央祭壇にはカヴァリエール・ダルピーノの「聖母子」(天の女王)があったらしいが,後陣に置かれた小神殿の影で見えなかった.その上にある半穹窿天井のフレスコ画「玉座の救世主と聖母と聖人たち」はしっかり観て,写真にも収めたが,作者の情報は得られていない.綺麗な絵だが,多分新しい作品だと思う.
ホントホルストの絵が飾られたジョヴァンニ・バッティスタ(洗礼者ヨハネ)礼拝堂に続く礼拝堂(サン・ジアチント礼拝堂)には「聖母子と聖ヒュアキントゥス(ジアチント),シエナの聖カタリナ」を描いた祭壇画がある.立派な絵だと思う.作者はアンティヴェドゥート・グラマティカ(グランマティカ)(英語版/伊語版ウィキペディア)だ.
1571年にシエナで生まれ,1626年にローマで亡くなった.トスカーナがもう芸術の中心ではなくなった時代に活躍の場をローマに求めた画家たちの一人であろう.父は間違いなくシエナの人だが,本人は家族のローマ移住に伴いローマで生まれた可能性もあるようだ(伊語版ウィキペディアはシエナ生まれ,英語版はシエナもしくはローマの生まれ).
それまでグラマティカという画家を知らなかったと思うが,この後,上野の国立西洋美術館で観た「カラヴァッジョ展」に彼の自画像がウフィッツィ美術館から来ていて,ウフィッツィでは見た記憶のない作品と思ったが,いずれにせよ,2作品目を観ることができたことになる.
(ただし,西洋美術館の「カラヴァッジョ展」の図録で確認すると,随分立派な絵で,現在所蔵先のウフィッツィ美術館の見解でもグラマティカ作となっているが,これは1975年の研究者の提唱を根拠としており,現在はスパダリーノと言う別の画家の自画像とする説もあるとのことだ.このカラヴァッジョ展には下記のバリオーネの自画像も来ていた.)
カラヴァッジョのライヴァルで,裁判では敵対者であったジョヴァンニ・バリオーネ(英語版/伊語版ウィキペディア)の『画家,彫刻家,建築家,彫金家たちの伝記』(伊語版ウィキペディアに引用原文があり,内容には英語版も言及)の中に,父がシエナからローマへの道中,息子が生まれることが予見できたので「予見された」(アンティヴェドゥート)と言う名になったと記されている.内容はさておいて,カラヴァッジョの人生を知るにも基本資料である本に,この画家も取り上げられていたということには注目して良いであろう.
描かれている聖人の聖ヒュアキントゥスは,同名の2世紀の殉教聖人もいるが,ポーランド生まれの13世紀(生まれは12世紀)の人物(英語版/伊語版ウィキペディア)のようだ.
サン・ジュゼッペ礼拝堂の3点の絵,ジョヴァンニ・グレッツィ「聖家族」,ロドヴィーコ・アントーニオ・ダヴィド「聖母の婚約」,ジョヴァンニ・オダッツィ(英語版/伊語版ウィキペディア)「聖ヨセフの夢」は,全て写真にも撮り,まずまずの鑑賞もできた.このうちオダッツィに関しては,記憶に間違いがなければ,2008年にディオクレティアヌス浴場考古学博物館の通路部分に彼の絵があって見たのがこの画家との出会いだったと思う.おそらく「聖母子」と思われるフレスコ画だ.既に部分的にしか残っていなかった.このフレスコ画とは2013年3月に再会している.
同じ日にチェリオの丘のサンタ・プリスカ教会では,聖具室にあると言う彼の「受胎告知」は見損なているが,テルミニ駅前のサンタ・マリーア・デリ・アンジェリ教会では,「三王礼拝」,「エジプト退避」,「ダヴィデ王」の絵を観ているはずだ.ただし,これは記憶に残っていない.
ダヴィドは伊語版ウィキペディアではまだ立項されていない(2016年4月26日参照)が,英語版に立項されており,それに拠れば,今はスイスに属しているルガーノで1648年に生まれ,ミラノとヴィネツィアを活躍の場とした画家のようだ.
師匠筋として,私たちがミラノで出会った,フランチェスコ・カイロ,エルコレ・プロカッチーニの名が挙げられているので,基本的に北イタリアの画家と言って良いだろう.エルコレの伯父(叔父)カミッロ・プロカッチーニの影響を受けているということなので,やはり北イタリアに根のある画家と言えよう.
残念ながらジョヴァンニ・グレッツィに関しては,今のところ情報が得られていない.オダッツィや,ダヴィドを両脇に,この礼拝堂の中央にグレッツィの絵があるので,当時はひとかどの画家だったはずだ.是非,どこかで彼の作品に会い,情報を得たい.
この教会は,再訪,三訪の価値がある教会と言えよう.サラチェーニの祭壇画と本来の場所で再会できただけでも幸福だったが,さらにホントホルストの傑作にも出会うことができ,今まで知らなかった画家の作品も観ることできた.
跣足カルメル会(英語版/伊語版ウィキペディア)の教会なので,アビラの聖テレサを描いた絵や,「十字架上の聖ヨハネ」(サン・フアン・デ・ラ・クルス)の彫刻もあった.まじめな修道会なので,カラヴァッジョの絵を拒否したのだろう.ならば,注文しなければ良かったのにと思う一方で,注文がなければ,今はルーヴルにあるあの絵も描かれなかったわけだから,やはり「よくぞ注文してくれた」と言うべきだろう.
フランチェスコ・マンチーニ(英語版/伊語版ウィキペディア)の「聖テレサの法悦」,トレヴィの泉の彫刻にも関わったフィリッポ・デッラ・ヴァッレ(英語版/伊語版ウィキペディア)による彫刻の同主題作品もある.また,マリーア・サンティッシマ・デル・カルミネ礼拝堂には,2人のポマランチョの1人クリストファノ・ロンカッリ(英語版/伊語版ウィキペディア)の祭壇画がある.
「十字架上の聖ヨハネ」を主題とした彫刻「磔刑のキリストの足元にいる聖人「十字架上の聖ヨハネ」」の作成者は,ピエトロ・パパレーオと言う人物で,1726年にこの聖人が列聖された時に作成された彫刻のようだが,この彫刻家に関しては今のところ,情報が得られていない.
サンティ・シルヴェストロ・エ・ドロテーア教会
サンティ・シルヴェストロ・エ・ドロテーア教会(以下,ドロテーア教会)でも,グラマティカという名の画家の絵を観たように記憶していたが,グラマティカではなく,ロレンツォ・グラミッチャ(英語版/伊語版ウィキペディア)と言う画家の「パドヴァの聖アントニウス」と言う絵を観て写真に収めたのだった.
この教会は祭壇画の作者名と画題を五か国語で印刷した紙を近くの壁に貼り付けている.それに拠れば,グラミッチャはローマで生まれ,ローマで亡くなった画家だ.英語版ウィキペディアもローマで生まれ,ローマで亡くなったとしているが,伊語版はラツィオ州カーヴェで生まれ,ヴェネツィアで亡くなったとしている.
英語版も伊語版も,ヴェネツィアのサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂(ザニポロ聖堂)に絵を描いたとして,伊語版ウィキペディアはその「ロザリオの聖母」の写真を載せている.自分が撮ってきた写真を確認すると,この作品を確かにザニポロ聖堂で見ている.伊語版ウィキペディア掲載の写真で見ると,聖母の顔の緩さに驚いてしまうが,現場では暗かったこともあり,そこそこの絵に見えたように思う.
ドロテーア教会の「パドヴァの聖アントニウス」も自分が撮ってきた写真を確認すると,そこそこの絵に見える.あるいはヴェネツィアで仕事をした時は,気力に衰えの見える時代だったか.
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写真:
サンティ・シルヴェストロ・
エ・ドロテーア教会堂内 |
ラテン十字型の堂内後陣の(上の写真)の上部フレスコ画はガエターノ・ボッケッティ「聖ドロテアとフランチェスコ会の聖人たち」である.この画家に関してはウィキペディアには立項されていないが,あるウェブページを参考にすると1888年にナポリで生まれ,同地の美術アカデミーで学んだ20世紀の宗教画家のようである.
このウェブページは,マルケ州アンコーナ県オージモ(英語版/伊語版ウィキペディア)にあるサン・ジュゼッペ・ダ・コペルティーノ聖人記念堂(サントゥアリオ)のフレスコ画を紹介したものだが,このサイトが,ドロテーア教会のヴィンチェンツォ・メウッチ(英語版/伊語版ウィキペディア)と言うフィレンツェ出身の画家が描いた「サン・ジュゼッペ・ダ・コペルティーノ」という作品の画題を知る手がかりをくれた.
というのも,作品の説明のところの「コペルティーノ」(もしくはクペルティーノ)という文字が良く写っておらず,「サン・ジュゼッペ」と言うと,聖母マリアと結婚した大工のヨセフのことかと思うが,絵柄を見ても,一体ヨセフの何に関して描かれた絵なのか見当もつかないでいたからだ.
この「サン・ジュゼッペ」は,聖母の夫のヨセフではなく,17世紀に南イタリアのレッチェ近郊のコペルティーノ(英語版/伊語版ウィキペディア)で1603年に生まれた聖人のようだ.撮ってきた写真で見る限り,なかなかの絵だと思う.向かって右下の4人の男女につい目が行ってしまうが,彼らの頭上で両手を広げて十字架に向かって飛翔している修道服姿の人物がコペルティーノの聖ヨセフである.
幼少時から病を得て,勉学もままならなかったのに,聖母への崇敬のおかげで病が癒え,聖職者となり,空中浮遊という神秘体験をしたというのが,後に列福(1753年),列聖(1767年)された主たる理由のようだ.ドロテーア教会の祭壇画の右下の男女は,その奇跡の目撃者として描かれたのであろう.
ただし,生存中は神秘体験の評判によって,異端や魔法の疑いをかけられ,故郷のプーリア地方からは遠隔地にあたる諸方の修道院で監視下の生活を余儀なくされた.身を慎んで,禁欲的生活に徹し,晩年オージモの修道院で通常の修道生活を送ることを許され,1663年同地で亡くなった.
現在は旅行者,操縦士,宇宙飛行士,精神に疾患を負う人々,貧しい学生などの守護聖人とのことだ.教会からも修道会からも嫌疑の目を向けられ,事実上の長い監禁生活を送った彼の人生を考えると,不思議な感じがする.しかし,ドロテーア教会のメウッチの絵は穏やかな美しい絵だ.
一口にフランチェスコ会と言っても,外圧,内部対立,離合集散の歴史があり,とても把握しきれない(日本語版ウィキペディア「フランシスコ会」が詳細で参考になる)が,聖人たちの絵を観ていると,この教会がフランチェスコ会の教会であり,その中でもコンヴェントゥアーリ(英語版/伊語版ウィキペディア)と言う大きな会派の教会であろうということは予測がつく.
リボーリオ・マルモレッリの「聖フランチェスコの法悦」もまずまずの絵だった.芸術性に関しては私には判断がつかないが,暗い堂内であれば十分以上に祭壇画の務めは果たしていると思う.他には情報が得られていないが,堂内の作者・画題紹介に拠れば,生年不詳だが,18世紀前半にフィレンツェで生まれ,1794年にローマで亡くなった画家とのことだ.
あと1点作者を確認できたのが,ジョアッキーノ・マルトラーナ(英語版/伊語版ウィキペディア)の「少年のコペルティーノの聖ヨセフの前に現れた聖ガエタノ・ティエーネ」だ.今回学んだプーリア出身の聖人の少年期の幻視体験を描いたものであろう.
聖ガエタノ(英語版/伊語版ウィキペディア)は,1480年にヴィチェンツァで貴族の子として生まれ,パドヴァ大学で学び,市民法と教会法の両法博士となり,ローマで教皇ユリウス2世のもと外交官として活躍したが,ユリウスの死後,教皇庁からは身をひき,慈善活動,宗教活動に献身した.
聖ガエタノは対抗宗教改革(カトリック改革)の大きなうねりの中で,後に教皇パウルス4世となるジャン=ピエトロ・カラーファ(英語版/伊語版ウィキペディア)らとともに,聖職者修道会テアティーニ会(英語版/伊語版ウィキペディア)を,カラーファが司教を務めていたアブルッツォ地方キエーティ(英語版/伊語版ウィキペディア)で創設した.
この修道会が建てた教会として,ローマではサンタンドレーア・デッラ・ヴァッレ聖堂(英語版/伊語版ウィキペディア),フィレンツェではサンティ・ミケーレ・エ・ガエターノ教会(サン・ガエターノ教会)(英語版/伊語版ウィキペディア)がある.どちらも,私たちには思い出深い教会である.
今まで,テアティーニ修道会のことは全く知らなかった.本来の宗教的趣旨に関しては理解すべくもないが,ローマとフィレンツェを代表するバロックの教会を建設した修道会であり,少しずつは勉強していきたい.その契機を与えてくれたのはドロテーア教会のメウッチの絵だ.
マルトラーナの作品に話を戻すと,コペルティーノのジュゼッペの少年期には,とうに故人であった(年齢差123歳)ガエタノを幻視したことで信仰に目覚めた,というのが実際の話かどうかは別として,南イタリアの庶民の子に生まれた修道士が幼い頃,北イタリアの貴族出身で,教会の枢要な地位も望める能力もありながら,慈善と信仰に生きた聖人の幻視に影響されて,自らも信仰に生きたというのは,物語としては感動的な要素を持つであろう.
マルトラーナは,1735年にパレルモで画家を父として生まれた.彼に影響を与えた画家がセバスティアーノ・コンカとポンペーオ・バトーニと言うことであれば,時代はロココから新古典主義に向かう時代で,端整な美しい絵が好まれた時代であろう.
聖ガエタノの名は,パドヴァ大学教授だった叔父(伯父)の名にちなんでおり,叔父(伯父)はラツィオ地方南端のガエータ(英語版/伊語版ウィキペディア)の生まれだったとのことだ(伊語版ウィキペディア).コンカは,そのガエータの生まれで,師匠はナポリ派のフランチェスコ・ソリメーナであった.ソリメーナはやはり「聖ガエタノ」の絵を描いている.
私たちの生活圏の中で,カトリックの聖人,聖ガエタノはほとんど無縁の存在だが,ソリメーナ,コンカ,マルトラーナの師弟3代が何らかの形でこの聖人に関係があるのは奇縁と言うよりは,当時カトリック教会が置かれていた状況と何らかの関係があるのだろう.
16世紀前半の宗教改革によって大きな危機感に揺さぶられたカトリック世界が,対抗宗教改革(カトリック改革)によって曲がりなりにもそれを乗り切ったあとに迎えた長い昼下がりを感じさせる.これ以後,イタリアは,ナポレオン戦争,統一イタリアへと激動の時代が待っているのだが,聖人への崇敬で信者の心を引き留められた「古き良き時代」に思えてしまう.
ドロテーア教会は起源を遡れば,中世まで視野に入るが,現存の教会は1750年に建設が開始され,1756年に完成しており,堂内で見られる絵画の作者たちもメウッチがかろうじて17世紀末の生まれである以外は,18世紀以降の画家たちである.
イタリアの教会を訪ねて回る私たちにとっては,16世紀すら新しく感じられるが,その思い込み以上に新しい時代の教会であっても,ローマと言う都市が経験した歴史を感じさせる何かがある.教会の名となっているシルヴェストロは教皇シルウェステル1世,ドロテーアは3世紀の殉教聖人カエサレアの聖ドロテアで,教会は新しくても,そこで追慕されているのは古代キリスト教の聖人たちだ.新しい教会を訪ねる意味は様々なところに見つけられると思う.
サン・ジョヴァンニ・デッラ・マルヴァ・イントラステヴェレ教会 サン・ジョヴァンニ・デッラ・マルヴァ・イン・トラステヴェレ教会に関しては,今のところ,伊語版ウィキペディアしか資料はない.
それによれば,12世紀の教皇カッリクストゥス2世(英語版/伊語版ウィキペディア)の教書にセプティミアヌス門(ポルタ・セッティミアーナ)(英語版/伊語版ウィキペディア)の近くにあった「聖ヨハネの教会」への言及があるそうだ.
14世紀にはジャニコロの丘の麓の聖ヨハネ教会として知られ,マルヴァの由来は,中世にジャニコロミにカ・アウレア(黄金の砂地)と言うラテン語名があって,これが訛ってマルヴァになったという説と,その地域にゼニアオイ(malva)が生えていたことによるという説があるようだ
現在の教会は1851年に再建されたもので,堂内がギリシア十字型になっている新しい建物で,ドロテーア教会よりもさらに遅い創建である.ファサードも新しい.
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写真:
サン・ジョヴァンニ・デッラ・マルヴァ・
イン・トラステヴェレ教会 |
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絵画も何点かあるが全て新しい作品である.中央祭壇の絵は,上部に聖家族,下部に洗礼者ヨハネと福音史家ヨハネが描かれていて,端正でまあまあ美しい絵(暗くて見えにくいが,上の写真の左端)だ.
コリント式柱頭の柱を両脇に持つ新古典主義の祭壇とマッチしている.作者の名前は伊語版ウィキペディアにも言及がない.
前回のモントーリオ教会と合わせて,ここまでがトラステヴェレ地区の教会で,この後,テヴェレ川を渡り,カンポ・ディ・フィオーリ周辺で4つの教会を拝観した.
サンティッシマ・トリニタ・デイ・ペッレグリーニ教会
サンティッシマ・トリニタ・デイ・ペッレグリーニ教会(英語版/伊語版ウィキペディア)(以下,ペッレグリーニ教会)は,2007年にスパーダ宮殿を見学に行く途中にファサードを見ている.バロックの大きな教会で,サン・ガエターノ教会を例外として,フィレンツェではほとんど見ないタイプの教会なので印象に残った.
この時は扉は閉まっていたし,何しろスパーダ宮殿所蔵の絵画作品を観ることに集中していたので,拝観していない.あれから9年経って,ようやく堂内に入った.テヴェレ川のシスト橋のたもとからローマ中心部へ向かう途中にあるので,その後も何回かこの教会の前を通りながら,チャンスがあるようでなかった.
残念なことに数多い礼拝堂は,中央祭壇も含め,祭壇画に紫の布がかけられており,絵画作品はほぼ全て見ることができなかった.
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写真:
中央祭壇も礼拝堂も
全て紫の布が架けられていた
(布の向こうにはグイド・レーニ
の傑作) |
ウィキペディアを参照する限り,有名な画家の作品はほとんど無い様だが,それでもサンタゴスティーノ・エ・サン・フランチェスコ・ダッシージ礼拝堂にはカヴァリエール・ダルピーノ(英語版/伊語版ウィキペディア)の「聖アウグスティヌスと聖フランチェスコの間の聖母子」が,カルロ・ボッロメーオ礼拝堂には,ギョーム・クルトワ(英語版/伊語版ウィキペディア)の「聖母子と聖人たち(カルロ・ボッロメーオ,ドメニコ・ディ・グスマン,フィリッポ・ネーリ,フェリーチェ・ダ・カンタリーチェ)」,中央祭壇にはグイド・レーニ作「聖三位一体」があるようなので,見られなくて残念だった.
祭壇画が全て隠されているという寂しい様子ではあったが,それでも最近とみに興味を覚えている,堂内から見たクーポラ(丸屋根)の内側は,バロックの教会らしく大変見事で,四隅のペンデンティヴの福音史家たちのフレスコ画は観ることできた.
クーポラはジョヴァンニ=バッティスタ・コンティーニの設計で,1612年の作品だが,多色大理石での装飾は,19世紀まで生きた建築家ジュゼッペ・ヴァラディエール(英語版/伊語版ウィキペディア)の仕事とのことだ.コンティーニの仕事を見るのは多分初めてだと思うが,ヴァラディエールの仕事はサン・ロッコ・アッラウグステーオ教会のファサードを2013年の春に見ている.
四隅の福音史家のフレスコ画の作者は,ジョヴァンニ=バッティスタ・リッチ(英語版/伊語版ウィキペディア)という北イタリアピエモンテ地方ノヴァーラで1537年に生まれた画家で,主としてローマを活躍の場として,スカーラ・サンタ,サンタ・マリーア・マッジョーレ聖堂,サン・フランチェスコ・アッラ・リーパ教会でフレスコ画を描いているということなので,名前を知ったのは初めてだが,どこかでその作品を観ている可能性はある.フェデリコ・ズッカーリ(英語版/伊語版ウィキペディア)の影響を受けているそうである.
クーポラ内側の写真は撮れているが,光の関係で写っていなくて残念だったのが,最上部のフレスコ画「永遠の父」で,グイド・レーニに帰されている.
この教会は,フィリッポ・ネーリ(英語版/伊語版ウィキペディア)の提案により,1540年に創建が開始されたとのことなので,やはり対抗宗教改革と深い関係があるであろう.ただし1540年時点でネーリはまだ25歳で,聖職者となっておらず,対抗宗教改革も本格的にはなっていないので,疑問も残る.
しかし,18歳だった1533年にはローマに出てきて,貴族の家の家庭教師をしながら,神学の勉強をし,若いころから救貧,慈善活動で人望を集め,1548年には貧しい巡礼者たちを援助するために「巡礼者たち(ペッレグリーニ)と回復期患者たちの至聖三位一体(サンティッシマ・トリニタ)信者会」を組織した人物である.オラトリオ会の創設は1575年だが,一応,創建から完成までのどこかでは関わった,しかも中心的な役割を果たしたであろう,と考えておくことにする.
ネーリに関しては,以下で,キエーザ・ヌォーヴァについて報告するときに,もう少し詳しく言及する.
サン・ロレンツォ・イン・ダマーゾ聖堂
ペッレグリーニ教会拝観の後,カンポ・ディ・フィオーリで昼食を取り,バッラッコ博物館に向かったが,少し道に迷い,迷っている最中にサン・ロレンツォ・イン・ダマーゾ聖堂(英語版/伊語版ウィキペディア)(以下,ダマーゾ聖堂)が開いているのを見つけ,拝観することができた.
この教会の中央祭壇には,フェデリコ・ズッカーリの「聖母戴冠と聖人たち」がある.その下に4世紀の教皇エウテュキアヌスとダマスス1世の聖遺物があるということなので,聖母戴冠の下部にいる2人の聖人はこれらの教皇たちであろうか.
起源は古く,4世紀末の教皇ダマスス1世が自宅に殉教者ラウレンティウスを記念する教会としたのが始まりとされる.しかし,この教会は由緒は古いかも知れないが,見たところ古代から続く教会には見えなかった.さらに言うなら,どうしてこれが教会だと分かったのか忘れてしまったが,そもそも外から見て教会のようには見えなかった.
システィーナ礼拝堂の命名の元となっている15世紀の教皇シクストゥス4世の甥で枢機卿であったラッファエーレ・リアーリオが古い教会を破却して,パラッツォ・カンチェッレリーアと言う宮殿を建造し,その中に由緒ある教会を組み込んだ.
設計した建築家については,フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ,バッチョ・ポンテッリ,ドナート・ブラマンテといった大物の名が挙げられ,伊語版ウィキペディアはブラマンテと断言している.
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写真:
華やかなフレスコ画で
埋め尽くされた堂内 |
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堂内の装飾の依頼者は,後にこの宮殿の住人となった枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼで,16世紀後半のこととされる.フェデリコ・ズッカーリが活躍した時代だ.その他に,堂内のフレスコ画の担当者としてカヴァリエール・ダルピーノの名も挙げられている.入り口裏のリュネットの中の3人の天使たちの絵の下に彼の名が刻まれているのでこれは彼の作品だろう.その他のフレスコ画(上の写真)もなかなか見事だが,今のところ作者に関する確かな情報はない.
幾つかある礼拝堂の祭壇画に関しては,セバスティアーノ・コンカの「聖母子と聖フィリッポ・ネーリと聖二コラ」,コッラード・ジアクィントの「聖二コラ」,ヴィンチェンツォ・ベッレティーニ作とされる「最後の晩餐」は観ることができ,写真に収めることもできた.
ベッレッティーニはピエトロ・ダ・コルトーナの姓なので,兄弟か息子かと思えるが,英語版ウィキペディアは注で「ピエトロ・ダ・コルトーナであろう」と言っており,「ヴィンチェンツォ・ベッレッティーニ」からリンクされているページはピエトロ・ダ・コルトーナのページになっている.ただし,根拠は示されていない.伊語版ウィキペディアにはこの絵の情報はない(2016年4月29日参照).
ニッコロ・チルチニャーニの「歓喜の聖母子」はどこにあったかもわからないし,サンティッシマ・コンチェッツィオーネ礼拝堂の設計とフレスコ画を担当したのはピエトロ・ダ・コルトーナとされている(英語版ウィキペディア)が,これは礼拝堂自体がどこにあったのかもわからない.
宮殿の外壁も修復中で覆われていたし,堂内にも明らかに修復等の理由と想像されるが非公開の部分もあったので,見られなかった作品はそちらにあったものと想像する.ただし,ステファノ・マデルノ作の彫刻フランシスコ・ザビエルとカルロ・ボッロメーオは見ることができたのに注目しなかった可能性はある.
偶然の拝観でこれだけ観ることができたのだから,今回は良しとして,これからも何度かあるだろうローマ再訪の機会に,予習の上でしっかり拝観したい.
ヌオーヴァ教会(サンタ・マリーア・イン・ヴァッリチェッラ教会)
ペッレグリーニ教会でも,ダマーゾ聖堂でも名前が出てきた聖人フィリッポ・ネーリが対抗宗教改革の推進者として創設した信徒会(英語版/伊語版ウィキペディア)が,オラトリオ会(英語版/伊語版ウィキペディア)だ.日本語版ウィキペディア「フィリッポ・ネリ(ママ)」には「オラトリオ会は修道会ではない」と書いてある.
そのオラトリオ会の教会がサンタ・マリーア・イン・ヴァッリチェッラ教会,通称キエーザ・ヌォーヴァ(英語版/伊語版ウィキペディア,以下,ヌォーヴァ教会)である.
イエズス会のイル・ジェズ聖堂,サンティニャツィオ聖堂と並んで,オラトリオ会のヌォーヴァ教会をいつの日か拝観したいと思っていたが,大変便利な『地球の歩き方』にも情報はなく(所持しているのは2012年版),宗教的には重要でも,あるいは観光的にはその他の大教会ほどには興味を引かないのかも知れないと思っていた.
コルソ・ヴィットリオ・エマヌエーレと言うローマ市内でも大きな通りに面しており,何度かその前を通ったが,バロック建築の威容はやはり目を惹いた.しかし,拝観の機会にはなかなか恵まれなかった.教会には長い昼休みがつきもので,記憶が曖昧だが,扉が開いていなかった時が多かったのではないかと思う.
以前にも確認して忘れていただけかも知れないが,ネーリがフィレンツェ生まれであることに驚いた.オルトラルノのサン・ピエール・ガットリーノ教会で洗礼を受け(伊語版ウィキペディア),3歳で母が死亡し,少年期にドメニコ会のサン・マルコ修道院の修道士たちから教育を受けている.
ドメニコ会の中でも改革派に属する修道院の院長だったジローラモ・サヴォナローラが刑死したのが1498年で,その後約二十年,おそらく修道士たちにはまだサヴォナローラの影響が残っていて,この時,すでにカトリック教会改革の必要性がネーリの心に芽生えたかも知れない.いわゆる「宗教改革」の引き金となったルターの抗議が1517年で,この時ネーリは2歳だったが,激動の時代に彼は少年期を過ごしたことになる.
ネーリに関しては,
柳沼千賀子『聖フィリポ・ネリ 喜びの預言者』(ドン・ボスコ新書)ドン・ボスコ社,2010
をアマゾンで入手できた.
ネーリが洗礼を受けたのは上記のサン・ピエール・ガットリーノではなくサン・ジョヴァンニ洗礼堂としている.サヴォナローラの影響と彼への尊敬に関しては,異端として迫害されそうになった時の一つの根拠とされそうになったほどだったことを教えてくれた.またその嫌疑がかかった時,かばってくれたのが,当時の教皇ピウス4世の甥で枢機卿のカルロ・ボッロメーオだったと言うのは貴重な情報だった(pp.81-87).
また,ネーリの列聖はザビエル,ロヨラ,アビラの聖テレサと同じ1622年であると(p.187)言うのも,言われて初めて気が付き,イエズス会,跣足カルメル会ともに,対抗宗教改革(と言うよりはカトリック改革)においてオラトリオ会に期待された意味と時代を感じさせてくれた.
ネーリの人生と,対抗宗教改革におけるオラトリオ会の意義が重要なことはおぼろげながら認識しているが,今のところ,きちんと把握するに至っていないので,今回は保留する.それでも,ネーリの遺体が聖遺物とされているヌォーヴァ教会を拝観できたことは自分にとって大きな意味があったと思う.
慈善と救貧に尽力し,世俗的な権力よりも魂の救済を求め,多くの人望を集めた彼が,宗教の純化を目指して創設した組織の教会は,予想した以上に芸術作品に満ちた大教会であった.複雑な思いを抱かないではないが,そこで観ることができた絵画芸術作品には素直に感動した.
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写真:
楕円に奇跡の絵のコピーが
嵌め込まれた祭壇画
ルーベンス作
「ヴァッリチェッラの聖母子」
(1606-08年) |
上の写真のルーベンスの絵に特に感銘を受けたわけではないが,それでもルーベンスの絵があると言うことは,この教会が資金力に恵まれ,社会に対して影響力を持ったバロックの大教会であることは如実に示しているであろう.
ネーリが亡くなった1595年にルーベンスは18歳,天才だからもちろん絵は描けただろうが,上で紹介した「ヴァッリチェッラの聖母子」と,写真には写っていないが両脇の2点の「聖人たち」(向かって左側に「ドミティッラ,ネレウス,アキレウス」,右側に「大教皇グレゴリウス,マウルス,パピアス」)はネーリの死後,10年以上過ぎた1606年以後の作品とされる.
この作品の注文に大金が投じられたことは,文献上も確認できるようだ(英語版ウィキペディア).
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写真:
ピエトロ・ダ・コルトーナの天井画
「聖母とフィリッポ・ネーリ」
1647-66年 |
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上の写真の天井画を描いたピエトロ・ダ・コルトーナはルーベンスよりもさらに19歳若いので,この天井画が描かれたのも,ネーリの死後50年以上経って描き始められ,しかも19年かけて完成したようだ(伊語版ウィキペディア).
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写真:
フェデリコ・バロッチ作
「エリザベト訪問」
1583-86年 |
ルーベンスやピエトロ・ダ・コルトーナに比べると前の時代の巨匠フェデリコ・バロッチの作品2点「聖母の神殿奉献」(1593-94年),「エリザベト訪問」(上の写真)が描かれたのは,まだネーリの存命中だった.
この絵を教会に飾ることに聖人の意思が働いていたかどうかはわからないが,バロッチの絵は穏やかな宗教性をたたえていて,少なくともルーベンスのように,注文者の資金力や権力を誇示するような雰囲気はない.
私としては,この教会で観られた最高の芸術作品としてバロッチの2枚の絵を挙げたい.
自分が撮ってきた写真で作品と紹介プレートを確認すると,この教会で出会うことができたその他の絵画作品は,次の通り(紹介プレートに制作年があったものはそれを記し,なかったものはそこに描かれていた画家の生没年を記した).
シピオーネ・プルツォーネ「キリスト磔刑」(1586年)
ジローラモ・ムツィアーノ(1532-92)「キリスト昇天」
ジョヴァンニ・マリーア・モランディ(1622-1717)「聖霊降臨」
ジョヴァンニ・ドメニコ・チェッリーニ(1609-81)「聖母被昇天」
ジュゼッペ・チェーザリ(カヴァリエール・ダルピーノ)(1568-1640)「聖母戴冠」/「神殿奉献」
カルロ・マラッタ「聖母子とカルロ・ボッロメーオ,イグナティウス・デ・ロヨラ」(1675年)
ドメニコ・クレスピ(イル・パッシニャーノ)(1559-1638)「受胎告知」
ドゥランテ・アルベルティ(1538-1613)「牧人礼拝」
チェーザレ・ネッビア(1534-1614)「三王礼拝」
これらとバロッチ,ルーベンス,ピエトロ・ダ・コルトーナの作品以外は確認を怠り,あるいは見逃してしまったが,バロッチの「エリザベト訪問」が祭壇画である礼拝堂のフレスコ画はカルロ・サラチェーニが,プルツォーネの「キリスト磔刑」のある礼拝堂のフレスコ画はジョヴァンニ・ランフランコが,アルベルティの「牧人礼拝」があった礼拝堂のフレスコ画はクリストファノ・ロンカッリが担当したとのことだ(英語版ウィキペディア).
他にも見逃した,あるいはそれと認識できなかった芸術家の作品も複数あるようだが,きりがないので,それらには言及しない.堂内には全体の配置図もあり,英語版ウィキペディアが比較的詳しいので,それらを参照されたい.
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写真:
この教会のために
カラヴァッジョが描いた
「キリスト埋葬」の
コピーが掛かけられていた |
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とは言え,是非言及しなければならない芸術作品があと2点ある.そのうちの一つはカラヴァッジョの「キリスト埋葬」(1602年頃)で,この絵はもともとはヌオーヴァ教会の礼拝堂の祭壇画として描かれた.現在はヴァティカンの絵画館に展示されており,今回もそこで観ることができた.もとあった場所には,コピーが飾られている(上の写真).
もう1点は,グイド・レーニの「フィリッポ・ネーリの前に現れた聖母子」(1604年)が,内陣(向かって)左側のその名もサン・フィリッポ・ネーリ礼拝堂に飾られている.この礼拝堂は聖人の墓であり,言ってみればオラトリオ会の心のよりどころと言えるだろう.
豪華な墓に埋葬され,バロックの巨匠の絵が飾られることが聖人の意思に叶っているのかどうか,ふと考えてしまうが,異教徒の私は,レーニの絵をじっくり鑑賞することができてしばしの幸福感に浸った.前年の3月,ヴェネツィアのファーヴァ教会でピアッツェッタの同主題の絵を観ている.
12世紀末から13世紀に托鉢修道会を創始して,キリスト教会の立て直しに貢献したフランチェスコとドメニコが,後継者たちの対立や分裂にもかかわらず,対にして考えられるように,16世紀の対抗宗教改革において,イグナティウス・デ・ロヨラ,カルロ・ボッロメーオ,フィリッポ・ネーリの果たした役割を大きく,これらの聖人はローマのバロック教会において,非常な崇敬を受けている.
ヌオーヴァ教会から私たちが学ぶことは多いが,とりあえず,多くの芸術家の作品に予想を超えて出会うことができた幸運を感謝したい.
カンポ・ディ・フィオーリまであと少しのところで,以前からその独特の外観が気になって拝観したいと思っていたサンタ・バルバラ・デイ・リブラーイ教会(英語版/伊語版ウィキペディア)の前を通りかかったら,扉が開いているようだったので,思い切って入堂してみた.
1306年の創建だが,ファサードはバロックの時代のものだ.堂内も概ね新しく,グイド・レーニに帰せられる祭壇画もあるとされるが,とりたてて心魅かれるような作品はなかった.唯一,下の写真の,レオナルド・ダ・ローマが1453年に描いたと英語版ウィキペディアは言い,もともとは14世紀に描かれたたものだが,最近の修復過程で,完成年(1450)と画家の署名が発見されたと伊語版が言っている「玉座の聖母子と洗礼者ヨハネ,大天使ミカエル」の三翼祭壇画に心惹かれた.
時代的にもそれほど古いものでもなく,芸術として優れた絵とも思えないが,長い間大切にされてきた古格をたたえた絵は魅力的だ.
もし1453年に描かれたというのが本当だとしたら,ルネサンスが最盛期に向かおうとする時代に古臭い祭壇画を描いた画家がいたということで,フィレンツェのネーリ・ディ・ビッチを思い出さずにはいられないが,少なくとも上手下手で言ったら,ネーリの方がはるかに上手で,はるかに新しい感じがする.
しかし,バロックのファサードを持つ教会で,古風な祭壇画が大切にされているのを見ると,心がなごむような気がする.嬉しい出会いだった.
カメラを向けると,管理人の若い男性が明かりをつけてくれた.お礼を述べ,喜捨をしてこの教会を後にした.
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大切にされている祭壇画
サンタ・バルバラ・デイ・リブラーイ教会
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